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音声で聴く スポーツ、ここが知りたい。担当する産経新聞運動部記者の田中光鶴です。
今回は、元メジャーリーガーの上原浩二さんや、現在カブツで活躍をされている鈴木聖弥さんらをマネジメントされている
スポーツバックスの沢井義信社長に、スポーツマネジメントについてお話を伺いたいと思います。
沢井さん、本日はよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
2回に分けて、今回お話を聞いていきたいと思っているんですが、
まず沢井さんは、社会人になられてスポーツマネジメントの世界に入られるんですが、
もともとは高校給仕であったというふうに伺っています。
高校時代は、1998年夏の甲子園で、京都清少高校のキャプテンとして決勝戦まで勝ち上がられましたよね。
はい、懐かしいですね。
あの当時、どんな感じだったのかちょっと教えてもらえますか。
そうですね、記憶には残っていらっしゃる方が多いと思うんですけども、
対戦相手は、松坂大輔、要するに横浜高校と決勝で戦いまして、
なかなかない甲子園決勝戦の人のオランで負けた、当時の京都清少のキャプテンをやっていました。
なるほど、ただ決勝まで行ったというのが、やっぱり春の時から強かったんですか、チームは。
一応選抜にも出たんですけども、もちろん優勝は横浜高校で、
僕たちは1回戦で2対18という記録的な負け方をして、
そのリベンジじゃないんですけどね、それを糧にして夏もう一回甲子園ということで頑張った結果、
あそこまで行けたかなと思います。
キャプテンとしてはチームをそこまで導いていくためにまとめ役というか、
マネジメントされていた原点だったりしますか。
そうですね、当時から僕は監督と選手の間に入って、
どうお互いが納得ができて、練習なり試合なり望めるかって考えながらやってたので、
最近思うことがですね、いい意味での中間監督だったなっていうのはよく思いますね。
今もやっぱりそういうのが生きてる部分っていうのはあるんですか。
あると思いますね。後からその話になっていくと思うんですけど、
スポーツマネジメントの中でもアスリートのマネジメントをメインにやってまして、
アスリートのマネジメントはやるんですけども、仕事相手先がありますので、
スポンサーなり番組とかメディアの取材なりと、
ちょうどその間に入って調整を役にすることが多いので、生きてるのではないかなと思います。
なるほど。蔵さんも夏の甲子園で決勝まで行かれたということで、
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その後、野球との関わりというのはどういうふうに歩んでこられたんでしょうか。
もちろん僕たちも松岡世代と言われてる、たくさんプロ野球選手が生まれた世代なので、
もちろん僕も幼い頃からプロ野球選手という夢がありましたので、
現に戦った選手たちがどんどんプロに行きましたので、
いつか僕もあの世界に行きたいなという思いでずっと野球は続けていました。
大学社会人と勧まれたんですか。
その後はですね、京都の地元で同社大学の方に。
名門ですよね。
ありがとうございます。たくさんのプロも、OBの方もいらっしゃいますし、
今ソフトバンクじゃなくてセーブですね、のコーチをしている、
楽天でも監督を務めた平石洋介、当時のPLのキャプテンですね。
彼と大学でチームメイトになりまして、一緒に一円から一を出させてもらって、
お互い切磋琢磨しながら大学生活も過ごしてきました。
なるほど。
その後はプロになりたかったんですけど、
大学3年次、いい成績を収められたんですが、4年で全然ダメでして、
ドラフトに関わるわけでもなく。
なので運も良かったんですけど、社会人野球の方に進むことができて、
約社会人野球4年間、新日テプ・キミプ、今はカズサマチックという企業チーム。
千葉のチームですね。
そうですね。そちらの方でお世話になって、4年間やって引退をしました。
なるほど。そこから第2の人生にスポーツマネジメントというのを選ばれていくことになったんでしょうか。
そうですね。もともと大学時代も、京都清少自体が新学校だったので、
実はレギュラーも全員受験で受けて入って、
しかもレギュラーも全員南式野球出身で、そういうチームだったので、
大学も野球で入ったって思われるのは、ちょっと尺だったので、
結構勉強も頑張って、一般の生徒にも負けないつもりで授業も取り組んでたので、
その時からですね、当時プロ無理だったら違う人生もあるわけなので、
ちょっと勉強もしとかななとか思ったりもしつつ。
で、高校生の時に見た映画、もともと僕メジャーリーグが好きだったんですけど、
ちょっと話が長くなるんですけど、大学4年の時にも僕メジャーが好きすぎて、
トライアウト向けてるんですよ。
そうなんですか。
これでダメだったら、また次の夢や目標を持っていくと思いつつ。
もちろん日本で行われたメジャーのトライアウトだったんですけど、
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ダメで、もう一回日本のプロちゃんと目を伝えたくて、
日本の社会人野球に進むんですけど、
それぐらいアメリカが好きで、だからずっと映画もずっと見てたので、
その中でですね、高校生の時に、ザ・エージェントっていう、
トム・クルーズの。
トム・クルーズの映画を見て、
こういう代理人、要は契約アフリート、トップアフリートのエージェントっていう仕事があるんだっていうのをその時に知りまして、
もしプロになれなければ、こういう世界に行きたいって、
心の中でちょっと思ってたんですね。
それを有言実行に移されて、
このスポーツマネジメントの世界に入ってこられたということなんですかね。
そうですね。
もちろん会社に残るとか、いろんな選択肢はあったんですけど、
いろいろ考えていくうちに、やっぱりこういう仕事をしたいなっていう思いがあったので、
引退と同時に会社を辞めるということで。
なるほど。
佐藤さんの経歴なんかを調べさせてもらうと、
スポーツマネジメントの会社で就職をされて、
その後2013年に独立されて、今の会社を作られていると思うんですが、
前の会社でマネジメントを担当されていた上原浩二さんも、
2013年から引き続きマネジメントをされていると思うんですが、
この年上原さんはレッドソックスでワールドシリーズの胴上げ投手になられましたよね。
もうマネジメントしている立場からすると、ものすごい仕事がオフに舞い込んできたんじゃないですかね。
そうですね。
いろいろ前の会社で勉強させてもらいながら、
上原さんがメジャーを挑戦する年に、僕が担当マネジャーとして一緒に行かせてもらったりして、
すごく勉強させてもらったんですね。
いろんなきっかけがあって、2013年に独立することになったんですけれども、
当時、上原さんも沢井と一緒にやるから、頑張れよということでご一緒させていただくことになって、
その時にですね、お金なかったんですよ。
独立したとき。
当時僕は大学院にも通ってて、
早稲田の大学院ですね。
お金ないけどなんとか夢を、妻もいたんですけど、
最悪バイトとしても頑張るからということで独立させてもらって。
2013年何月ぐらいだったんですか、独立は。
たまたまなんですよ、会社の設立日が8月9日。
8月9日。
野球の日だったんで。
たまたまなんですよ、これは。
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で、なんとかあるお金と、もう一人萩原智子さんの教えの方もいらっしゃってくださったので、
その方と売り上げとで、なんとかお金を回しながら過ごしてて、
そしたら、上原さんもお金ないんで、ワールドシリーズ行かなきゃ僕もアメリカ行けないなぐらいの感じだったんですけど、
本当に行かれて。
優勝された時からもう電話が鳴りやまず。
それはお仕事のスポンサーとかCMとか。
そうですね、ちょうど時差があるので、
ワールドシリーズ優勝した翌日の朝が日本の夜だったりするので、
たとえば生出演だったりとか。
もう僕プリペイドで携帯持ってたんですけど、すぐにもうお金がまんがくなっちゃって。
そして日本の携帯にかかってきまくって、もうすごくお金が。
着信料が。
そういう覚えがあります。
それでもやっぱり、どうですか、上原さんが一緒にやろうと言ってくださったからこそ開かれた道でもあるわけですよね。
じゃあマネジメントの世界っていうのは。
そうですね、もう本当に上原さんのおかげでいろいろ経験をさせていただきましたし、
なかなかできない経験っていうのを、本当にお金では買えない経験は上原さんのおかげでさせていただいたので。
でもそこからね、僕は上原さんの練習相手もしてたので。
なるほど、高校休日ですから、もともと。
練習相手した後に事務処理して、やっぱりオフはさっき言ったようにもう仕事がすごく舞い込んできたので。
ただ上原さんは練習絶対踏まない人なので、空いてる時間でできるものを調整していくっていう、その調整が大変でしたけど。
じゃあ沢井さんとしてはもういっぱい仕事も入れたいけれども、でもやっぱりマネジメントしてる側としては、
ご本人の意向というか、本人が気持ちよくプレイしながら仕事もできるようにという、そこじゃうまく調整しないと大変だったんですか。
そうですね。何が本質の仕事かっていうと、上原さんやっぱり言うですし、
もちろん僕らの違うテレビとかいろいろ仕事をすると僕たち売り上げが上がりますけど、
それがおろそかにしてしまうと本末転倒ですから、
選手のご意向とやれる範囲でっていうところで、すごく調整してやっていったなっていう思い出がありますね。
やっぱりそこで無理矢理仕事を入れたりしなかったというのが、
上原さんとの信頼関係を後に築いていくような形にもなってきたんですかね。
どうなんですかね。でもご本人のご意向を第一に考えてやってたので、
その辺りはやりやすさを感じてもらえればなと思ってましたけど。
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上原さんはその後メジャーで活躍して、最終的には巨人に戻ってこられて、
日米2戦で100勝100セーブ100ホールドという、誰も成し得たことがないようなことも経験されてましたけども、
やっぱり現役終盤っていうのは上原さんの成績が落ちてきたりとか大変な時期もあったと思うんですけども、
マネジメント会社としてあるいはマネジメントを担当する立場として、
そういう時にはどういうふうに選手に寄り添うっていうことを心がけてるんですか。
そうですね。あんま心がけてるってわけじゃないんですけど、
結局活躍してる時っていうのはたくさんいろんな人がメディアの仕事いっぱい来るように、
いろんなおつながりだったり、いろんなことがあると思うんですけど、
やっぱり辛い時って人も声かけづらいでしょうし、
でもそれだからこそ一緒に寄って言うよりかは、
僕は良かろうが悪かろうが運命共同代と思って仕事してるので、
だから悪いからこそできることを野球できる環境を整えるだったり、
そういったものは心がけてたかなと思いますね。
特に巨人に戻る時も、
実はメジャーのオファーをずっと待ってたんですけど、
決まらなかった時期だったんで、
あの時もずっと3月まで2人で練習したので、
それ日本で?
はい。
あの時が一番ちょっと何も辛かっただろうなっていう。
そういう時は何か声かけるんですか?もう何もかけずに。
そうですね。かけれないというか。
でも一緒に練習を思うようにできるように。
やっぱりちょっと走りに行く時も携帯を持って走ってあったんで、
近くに携帯を置いてオファーがかかってくるかもしれないっていう、
そういう日々でしたね。
そうですか。
そういういろんな辛い時期も一緒にずっといて、
最終的に上原さん、巨人の2シーズン目に引退を決断されるんですが、
現金退の時っていうのは沢井さんも会見には同席されたんですか?
はい、もちろんです。
当時はジャイアンプの選手だったので、
そういう場を整えたりとかいろんなことをされたジャイアンプファンだったんですけど、
まあそうですね、本人。
今年も数年前からね、今年最後は表やったったので、
いつかは覚悟してましたけど、
その時は本人から、
もうちょっと頑張られるかなって僕の中で思ったんですけど、
なるほど、シーズン中でしたからね、序盤で。
ですけど、ちょうどお昼ぐらいですかね、日にちちょっと忘れましたけど、
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電話がかかってきて、会見するという。
僕もまあちょっと覚悟はしてましたけど、びっくりしましたね。
やっぱりちょっとうるっとくるようなものっていうか。
そうですね、聞いた時はやっぱりいよいよかっていう寂しさがあったんですけど、
そうですね、当日の朝ぐらいからですかね、インター会見の。
はい。
ちょっとずっと切ないというか。
グランド行って最後の練習をジャイアンプ球場で見に行ったんですけど、
その時ってもう他の選手みんな知らないんですよ、まだインター会見やる。
なるほど。
はい。
で、まあ最後、うやださんユニフォーム姿見て練習してるとこ見た時にはやっぱり、
いろんな感情がこみ上げてきましたね。
そのマネジメントをする立場の人間っていうのは、
仕事で当然接するわけですけども、
そこまで感情移入をしていくもんなんですか?
それともちょっと最初の特別ですか?
どうなんすかね、ビジネスライクの人もいるかもしれないんですけど、
うちはやっぱりどちらかというとマネジメントって言うんですけども、
ある種僕はパートナーと思ってやってきてるので、
一緒にやる、一緒に作る、そういう思いでやってきましたし、
やっぱり仕事だけじゃない時間も一緒に時間を共有する時間多かったので、
そういったものは心がけてきたので、
感情移入ってより、なんすかね、
僕自身がスポーツやってきた中で、
あそこまでやるっていう選手のリスペクトも大きいので、
やっぱり僕うちやからこそじゃなくて、
華やかな世界に見えますけど、本当は泥臭い世界なので、
それを泥臭くやってきたからこそ、そういう感情になるのかなっていう。
西井さんが今おっしゃられたパートナーであったりとか、泥臭くやる、
多分今おっしゃられてるようにビジネスの場にも行くけども、
食事も一緒にされるし、練習パートナーとして、
メジャーリーグ時代オフキャッチボールしたり、いろんなピッチング受けたりとか、
ちょっともうマネジメントの業務の内か外かわからないところも含めて、
全部やっぱりケアしていくという、そういう姿勢はもう西井さんの中で、
マネジメントをする上では、やっぱり自分の心情として持ってらっしゃるんですか?
そうですね。やっぱりマネジメントって、いろんな意味あると思うんですけど、
アスリート、現役中はもちろんなんですし、引退した後も含めると、
例えば上原さんが若い頃、ジャイアンプ一郎して入って、大学入って、
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ジャイアンプ二重奨して、そういうものを、って時って僕ら何も関わってないんですよね。
でも、そういったものを僕らに預けてくださるというか、
自然的な人生を預けてくださるっていう責任感、実はすごく重くて、
それがあるからこそ、ちゃんとしなきゃいけない、ビジネスライクではなくて、
本当はマネジメントって軽くないんですよね。
ビジネスライクで考える人もいると思うんですけど、それは大きいお金を動かしてね。
マジよね、みたいなやつというような。
そういう人たちもいると思うんですけど、結局その人の人生をかけてきたものを、
僕たちと一緒に共有してもらっているものなので、決して軽くはないっていう。
だからこそ、そこまで思い持ってやるっていうのがあるんかなって思いますね。
なるほど。
澤井さん、そういう姿を見て、新たにスポーツバックスと契約してもいいよと言ってきた選手がいらっしゃいますよね。
それがカブスに移籍された鈴木聖弥さんだと伺っているんですが、
鈴木選手がスポーツバックスと契約してもいいよとおっしゃってきた、
その経緯というのをちょっと簡単に説明していただけますか。
契約したいって言ってくれたというよりか、ちょっと食事を振る機会もあったり、
本人とも繋がり、コミュニケーションを取れるような環境にはなって、
もし今後マネジメントを考えているとか、アメリカメジャー挑戦とか、
うちもいろんなところに来ているので、僕らも土俵に上がりたいと。
その時はちゃんと仕事の話を聞いてほしいということは前から言っていたので、そこからですね。
やっぱり、沢井さんと上原さんの関係地みたいなものも、
鈴木選手が自分を任せたいというところにはあったんですか。
そんな話、耳にされたりというのはありますか。
直接はちゃんと聞いていないですけど、いろいろなところから。
僕が上原さんの引退の時に、メディアの方も僕のことを変えてくださった方々もいらっしゃって、
やっぱり僕が涙した、伊知選手の引退で涙した、事務所の社長が涙した、
という事実を、こうやってホームな事務所はなかなかないんじゃないか、
というのを言ってくれたみたいで。
もしかしたらそのあたりも影響した可能性もあるというようなところなんですかね。
そうですね、自分の言うものなんですけど。
今回このスポーツマネジメントの上原さんとの出会いを中心に伺ってきたんですが、
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次回は鈴木聖弥さんのメジャー1年目のヤッシュとしては、
史上最高額での5年総額100億円を超える大型遺跡に、
こちらにも沢井さんはサポートする立場として携わっていらっしゃったと思うんですが、
そのあたりについてお話を伺いたいと思います。
分かりました。
本日はありがとうございました。
どうもありがとうございました。
ご視聴ありがとうございました。