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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光弘さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光弘です。今週も引き続き、株式会社JTV相談役であり、東京商工会議所副会長、田川博己さんにお話を伺って参ります。
前回は田川さんが学生時代を経て、僕思考だったのが、なぜか観光業界に入られたというところまでお話を伺ったんですけれども、ここからはその観光業界、そして日本交通公社に入られてからのお話をちょっと伺っていきたいなというふうに思います。
先週もお話を伺いましたけれども、その業界的なところもさることながら、交通公社という会社を選ばれたというのはどういうきっかけというか。
もともと交通公社が何をやっている会社かよく分かっていなかったんですよね。
確かに公社というので、僕らまだ当時は小学生からぐらいですから。
公社というとチケットを売っているというような、国鉄の切符とか。
熱い時刻表を作っている会社とかですね。
イメージの方が強くて、旅を案内しているというイメージはあまりなかったんじゃないかなと。
現実に確かにあまりなかったのかもしれないですね、その要素はね。
ただチケットを買いに行く駅ではなくて、市中飛館みたいなイメージだったと思います。
入社をされまして、最初に赴任された場所が、この日本でも有数の温泉地ベップだったということなんですけれども。
これはもう晴天の霹靂ですね。
そうなんですか。
いや、もともとそんなところに行くつもりがなくて、縁も怒りもなかったんですけれども。
結果的に入社の時にどこへ行きたいですかって、一応アンケートを取られるんですけれども。
東京って書いて、その次に福井が本席だから大阪って書いて。
3番目に書くところがないから九州って書いたんですけれども。
そしたら九州に当たってしまったという、そういうことなんですけれども。
たまたまのベップというのは、当時の外国人旅行、当時は外人旅行って今は使っていけない言葉なんですけど。
外国人旅行の結節点というか、長崎のほうがある山並配偶園というのと、関西基線で仙台から渡っていくのと、
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それから三宮や広島を通ってくるのがちょうど交わる三角亭のところなんで、
そこが外国人の人たちの移動するための、九州をね、旅行するための場所だったんで、
そこに必ず配属が、約束の人が必ず何人かが配属するっていう場所だったらしいんです。
そうなんですか。
それを後からは知ったんですけども、いわゆるときは何でっていう話があったんですけども、
結果的にそこに当時同期二人、配属になったという戦なんですね。
そうですか。
実は昨年の秋にですね、東京商工会議所で、今回の渋沢栄一の肖像の新一万円札とともにですね、
新一万円札に北里・シルバー・サブローが描かれる。
そして、前の一万円札の肖像が福沢さんということでですね、福沢栄一、京王の創立者ですけれども、
ということで、この熊本大分を回るツアーっていうのがありまして、私も実は行ってきたんですよ。
そうなんですか。
はい。で、もう別府の町にも行ってきたんですけども、
別府といえば、このまさにツーリズム発祥の地というか、駅の前に、
油屋熊八さんというおじさんの銅像があります。
有名な銅像があります。
ちょっと失礼かもしれないけど、ちょっと高田さんにも風貌が似ておられて。
実は西日本新聞社がですね、社長になった時、取材に行くときに、
油屋熊八にどっか似てませんかって言われたんで、高田さん別府だったですよねって言われて、
いやいや、この方はもう別府の観光の中古だそうでですね、海地獄とかあったの、地獄巡りとかですね、
そういう周遊を作ったすごい方だったんですね。
あとなんか、日本初の女性バスガイドの。
そうですよ、あの亀乗りバスのバスのですね、
最初は新しいことをやって、ロギもを抜かせるのが大好きな方だったらしくて、
そういう噂は向こうで言うときに、まさに商工会議所の皆さんから聞いてことがありました。
あ、そうですか。
高田さんがその赴任された当時の別府、
先ほどその外国人旅行の結節点という話がありましたけれども、
その日本国内の観光客というのは結構いっぱい来てるっていう、そういう時代だったんですか。
当時はですね、ちょうど46年、7年というのはまだいい時代で、
本当に別府に多くの観光客が来て、商店街に夜歩くと肩がぶつかるというぐらいたくさん来てました。
実は僕は別府でちょっと大きな思い出というかですね、
実は外国人旅行の荷物を運ばないしかないと。
外国人の荷物ってすごくたくさん持ってくるんですね。
昔はポーターさん、赤帽さんがいて、みんなこう運ぶんで、
外国人の方は自分で荷物運ぶっていう癖がないんですね。
駅にあっせんに行って、行ったらその時たまたま今年から赤帽がいなくなったと、別府に。
だから田川さんやってくださいよって。
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これ荷物運ぶんですかって。
20何個荷物を引きずって歩いたら、外国人の方に怒られたんですよ。
わわわ、引きずるなって言われたんですよ。
今みたいにタイヤがついてるやつじゃないんですね。
それを抱えて運んで、特急列車が来たら荷物を中に入れていくという作業をするんですけど。
その夜ですね、実はある居酒屋に行って、ある知ってる居酒屋なんですけど、
そう言って来たまえたんですね。
外国人に怒られてさ、こんなことやってわざわざ東京から来て、こんなのやってらんねえなって言ったら、
そこにたまたま私が泊まっている仲井さんがいらっしゃって。
仲井さんにこっぴとか怒られたんですよ。
田川さんもしそういうお気持ちがなったら、この業界からいなくなってくださいって言われて。
なんでですかって言ったら、私たち仲井はお客さんから荷物を、お客さんが到着するとまず荷物を預かります。
丁寧に荷物を持ってフロントに行って、サインしてもらって、お部屋の中で必ず最初に、
荷物どこに置きましょうかって、丁寧に床の間とかそういうところに荷物を置きます。
荷物は実はそのぐらい大事なものなのに、あなた足で蹴っ飛ばした、とか言われてるんですね。
もしそういう気持ちで荷物運びをしてるんだな、はっきり言ってこの業界にいないはいいって言われて。
大ショックでしたよ。
入社してまだ1ヶ月ぐらいのことです。
その時わかったんですね。旅行ってこうやってプロセスで仕事していくから、誰かが失敗すると全部ダメになっちゃう。
ということで大反省をしてですね、荷物を大事にしよう。
もしその仲井さんの言葉がなかったら、今辞めてるかもしれない。
本当にすごい原点ですね。
最初の失敗ですね。旅行サービスの原点を初めてそこで知って、もうその夜眠れなかったですよ。
ずっと聞きながら。やっぱり皆さん入社の時に思い出があると思うんですけど、
多分最初の一発目って意外にその人の人生決めていくのかなって。
だから別府に配属になってよかったなと。
その仲井さんは油屋熊八の使わせた天使かなんかだったのかもしれないですね。
見返ると本当に助かりましたよ。
ああいう話を多分最初に聞いてないと、この旅行サービス業とは何ぞやっていうのを語れなかったかもしれない。
というのがすごい別府の思い出なんですね。
別府温泉その後は主流というか、青板の中でもちょっとゆふ院の方が有名になったりとかしましたけど。
その後温泊という、若者が活性化するというのをやって再生を果たしましたけど、
やっぱりそういう人たちがいるとまた再生できる。
そうですね、やっぱり人ですよね。
あと山の上の方に立命館大学の太平洋大学ができたりとか、
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そういう人たちも街へ出てきていろんなことをやられたりとか。
あそこはもともと杉ヶ原でね、別府の若者が来いよと。
そういう街に立命館のアジア太平洋大学ができたという。
でもすぐ隣り合わせて今インターンコンチレンダーがあってですね。
だからあの箇所がちょっと別府の新しい魅力というか、非常に景色が風景がいいところで。
そういう思い出がね、別府時代にはありました。
そのスタートとして、ある意味では大変良いスタートを切られたんじゃないかなと思うんですけども。
その後数々の養殖を歴任されてということで、アメリカにも行かれたんですね。
川崎の新庁の後、2年ばかりロスに行ってドリジメリカ副社長をやったんですけども。
これも受け地をですね、勉強するにはすごく良くて。
どうしても東京とか大都市でセールスやってると、ピッチャーの初地をやってるんですけども。
旅行って投げる人と蹴る人と両方いないと旅行が成り立たないっていう仕事なので。
旅行を経験する最初のスタートが別府だったというふうに。
その後本社は長くいたんですけども、アメリカロスアンゼルス行って外国人の方が。
一つだけ思いで言うと、ゴールデンウィークとかお正月とかって日本はお休みじゃないですか。
向こう全部仕事してるんですよ。1月元旦しか休みじゃないんで。2日から仕事するんですよ。
そういう意味で日本が休んでるときに仕事してるとですね、受け地のいろいろな出来事がよく見えるんですよね。
そういう意味で非常にアメリカに行ったことは良かったなと思ってますけども。
ちょっと余談になりますけれども、高田さんがどこかでお話しされてる中でもって、
ロッテの佐々木投手が完全試合を得られたって言ったときに、
佐々木さんを褒めると同時に、キャッチャーをやられた松川くん。松川くんのことをすごく褒めておられたんですよね。
昔、子供の頃は小学校の時にリトルゲームでキャッチャーやったんで。
そうですか。僕キャッチャーやったんですよ。
キャッチャーって唯一野球の中で全部のフィールドが見える立場にいてですね。
あとみんなこっち向いてるんですけども、ひと時反対側に向いて旅行も受け地に行ってみると、
だから受け地のことを勉強した方がいいよっていうのが一つ大事なテーマだったんですね。
なるほど。
そういうことで活かされたかどうかはわかりませんけども、そういう勉強するにはいいチャンスでしたね。
そうですか。実はいいんでしょうね、もう一手。
今年の9月に国会と団長で東京諸国会議所の令和の飛べ団ということの企画もあるようでございました。
ありがたいですね。
僕も参加させていただこうと大変楽しみにしていますけども。
本当に渋沢さんが3ヶ月間くらいかけてアメリカもあったドラマの中で見ましたけども、すごいですね。
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やっぱり興味、親身力っていうか深掘りしていくっていう、そういうのがすごいなと思って。
改めて渋沢さんのエネルギーを感じましたね。
そうですね。またそれをもらいに行きたいですよね。
我々も今、さっきの野田さんとの話もありますけども、やっぱり今そういう時代ですから。
たくさんエネルギーを吸収しに行く。ちょっと3年間パンデミックで行けませんでしたからね。
大いに皆さんに行ってもらいたいなと。
そうですね。
渋沢さんの旅を追うだけではなくて、今のアメリカというものも僕ら見てみたいと思うんですけども。
そういう意味では10日間くらい、9日間ですかね、のスケジュールなんですけれども。
本当に当省としても素晴らしい授業をやってもらっているなというふうに思いますね。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
この後、JTVの社長、会長になられるということでございまして、大変大きな企業の中でトップとお勤めになられた。
その中でのご苦労もあったでしょうし、そしてまた喜びもあったと思いますけれども。
そんな話はまた次回、第3話の方でお伺いをしてまいりたいと思います。
渋沢さん、ありがとうございました。
ありがとうございました。