1. 飛鳥山の窓から -TOKYO NORTH MOVEMENT-
  2. #4-1ゲスト:溝口遼太さん 岡..
2024-03-07 13:37

#4-1ゲスト:溝口遼太さん 岡山県倉敷市で過ごした波乱の学生時代

【今月のゲスト】

溝口遼太さん


【今週のテーマ】 

・自給自足の生活をした学生時代 

・野球で日本代表選出されたご経験⚾ 

東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が

王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。

情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。

グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。


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00:06
TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイディアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から
パーソナリティーを務める小篠光洋です。今、私がいる場所は、大寺飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに北区内外の多彩な企業家、経営者をお招きして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
今月のゲストはこの方です。
溝口亮太です。どうぞよろしくお願いいたします。
溝口さんは、北区赤羽日本社を構え、広告代理店を営みながら地域活動も精力的に行う、産経プランニング株式会社代表取締役でいらっしゃいます。
今日は溝口さんのお生まれになった時から、そして幼少期、青春時代、そんなお話を伺っていきたいと思います。
溝口さんはお生まれはどちらになるんでしょうか。
はい、私は岡山県倉敷市の出身となります。
そうすると、大原美術館があったりとかね、そういう街を歩いているだけでも本当に楽しくなるというか、わくわくする歴史のある街並みですね。
そうです。もう本当に倉敷の美館地区からすぐ近く、自転車10分ぐらいのところに自家がございまして、学校行くときなんかいつも通ってた道になります。
その街のここのいいスポットっていう思い出のあるところってありますか。
高校ぐらいの時までしかいなかったんですけど、やはり今思えば美館地区ってすごい素晴らしかったんだなと思います。
よくドラマの撮影とかしてたんですけど、大人になって、あれ水戸コウモンの撮影だったんだみたいな。
7人5兄弟の大家族ということで。
はい、そうなんです。私小学校5年生の時ですかね、両親が離婚してしまいまして、母方にもともとの兄弟3人と連れられたんですけれども、
翌年再婚されまして、そちらでも兄弟3人いたということで6人。再婚して1人子供が生まれたので一気に7人兄弟になったという形になります。
そうすると長男とか次男とかっていうので言うと。
ちょうど私の元々の兄弟が上3つで、新しく家族になった方が下3つという形で、私は上から2番目。
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なるほど、そのチームを束ねる重要なポジションという感じだよね。
そうですね。最後に生まれた子は女の子だったんですけど、私が13歳の時だったので、いわゆるお氏名を書いたりとか、そういったことは私の仕事みたいになってました。
なるほど、そういう中では自ら自分で稼いだりとか、そういうこともされたっていうね。
そうですね。やはりもともとそんなに困窮してた家ではもともとなかったんですけど、兄弟が7人になったということで、新しくお父さんになった方。
もともと電気工事の仕事されてたんですけど、仕事から帰ってきた後に夜また別でビルメンテの仕事を別にされたりだとか。
お金って結構稼ぐの大変だし、これだけ人数いたら生活していくのもすごい大変だなっていうことをすごい感じたっていうのと。
やはりもともと自分があった部屋がなくなったりだとか、そういったお金にまつわることっていうのは子供の頃にすごい考えさせられることがあって。
私、幼少期野球をすごいやっててですね。当時は本当にうまくなりたいし、朝晩ロードワークをしてたんですけど、そのロードワークの時にですね、近くに川が流れてるみたいで。
釣りも休み日趣味でやってたりするんですけど、ちっちゃいエビがよくいるなということで、エビを捕まえていったら川エビだったんで、釣りの餌になるんじゃないかと。
釣り具屋が近所にあったものですから、見せてみると、これは持ってきてくれたら買い取るよというお話を伺ってですね、これ自分の小遣い稼ぎになるんじゃないかと。
ロードワークの時にどうせ通りますんでね。バケツを持って行って、川エビをバケツいっぱいに本当に当時はすぐ捕れて、それを抱えてロードワークの一環、筋トレも兼ねてみたいなの持っていくと、バケツいっぱいで多分500円ぐらいになったと思うんですよ。
それを本当に自分のお小遣いにしてですね、中学生ながらに他の子よりはいい生活してたんじゃないかなっていう風に。
それはね、これからシリーズで伺いますけれども、今の経営のベースにもなってるっていう気がしますね。
本当おっしゃる通りで、考えてみれば幼少期からそういう体験をしてた、どうやったらお金になるんだろうって考えてたものは、多分根幹になってるんじゃないかなと思います。
それとやっぱりどうしたら自立できるかっていうかね、自分が自分の責任において稼いで、それで自分で使えるっていうね、そういう部分っていうのはすごく基本になっておられるような感じがしますね。
野球のお話が出ましたけれども、野球やってましたなっていうレベルじゃなくて、日本代表にも選出された経験があるってことだ。これはいつ頃のお話ですか?
これは中学生のときで、岡山でいわゆる公式野球をやってたんですけれども、そのときに全国大会でタイミングよくというか運よくちょっと活躍できたものですから、日本代表に選出されました。
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どこか海外行って試合したりとか?
ハワイで試合をしたのと、世界大会みたいなものが2回あったんですけども、ハワイ開催と日本開催の1回でハワイに行かせていただきました。
ポジションどちらだったんですか?
中学生のときはほぼピッチャーでした。
エースとして日本代表に選ばれたわけ?
選ばれたのはそうなんですけど、日本代表に出たのはほとんどセンターでしたね。
なるほどなるほど。打順は?
打順は1番か3番でしたね。
そうするとセンターとしても肩が強くて足が速くて、シュワラマッティングするってそういうイメージかな?
そうですね。自信はありましたね。肩も120mくらいを最後投げてましたし。
すごいね。それは素晴らしい。
そして岡山っていうのは本当にプロ野球の選手がたくさん出ている野球競合圏でもあると思うんですけれども、進まれた学校は?
倉敷商業高校です。
僕らの一回り上ぐらいの世代ですと、東昌星野選一さん、それから太陽ホエールズの大エースだった役所当時の平松さん、そしてヤクルトの初優勝の盾役者、191勝の松岡博文さん。
この3人がちょうど年代もギュッと詰まったところでいて、星野さんはご縁があるんですね。
はい。星野選一さんはもう皆さんが想像していらっしゃる通りの方です。
星野さんは倉敷商業の先輩なんですね。
なので、我々も冬の練習なんかはボールを使った練習というよりはどちらかというと体力を鍛える方なんですけど、星野さんが毎日登っていらっしゃった山っていうものに必ず連れて行かれて。
来るわけ?星野さん。
はい。そうです。星野さんがシーズンオフの時に岡山に帰省されて。
みぞぐちさんは高校時代って今から20年くらい前?
そうです。38年まで20年、21年。
じゃあ星野さんが阪神の監督とかそういう時代だね。
はい。の時にシーズンオフの時に、毎年倉敷商業の練習、後輩をちょっとこう元気づけようじゃないですか。
来られた時に、いつもここを走ってたんだって、おびえ山だったかなっていう山があって。
その神社のところに何段だったかな。僕のイメージではもう2、300段あるような階段があったと思うんですけど。
もうそこを毎日走って登るということが、星野さんが来られたらあそこに行くんだ、あそこに行くんだって思いながら戦線競技をとしてた記憶があります。
星野さんは元気づけるつもりで来るかもしれないけど、ちっとも元気づけられないよね。
ええ?みたいな感じで。
ええ?みたいな感じで。
イメージが起こったら怖いっていうイメージを皆さん持たれてると思うんですけど、本当にその通りの方で、僕はもう一切気も手も抜けたかった。
僕ね、大昔ね、六本木の裏通りでね、学生終わって就職してた頃かな、バブルの頃ですよ。
なんかワイワイタムロしてたら、向こうからばったり星野さん現れて、お、星野だ!とか言ったやつがいたら、ものすごい怖い顔で睨まれたっていうね。
そういう思い出がありますけどね。
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まあじゃあそういうイメージ通りの方っていう。
面倒見がいい方で、ただ自分が倉敷商業高校から明治大学に進まれてプロになられたんですけど、だから明治大学へのいわゆる星野ルートって我々呼んでたんですけど、みたいな子も毎年推薦してくれるなど、後進指導にもすごい熱心に当たられた方でしたね。
なるほどね。非常に星野さんってプロ野球選手としても活躍されたし、監督としても立派な成績残されたけれども、それ以上にあるところで評価が高いのは、戦略的にそういうことを目的を達するためにどういう手を打っていくか。
例えば、倉敷商業を応援に来る、そして明治に引っ張る。それは当然要するに自分がそのような立場に立った時に、明治だとかね、倉敷からいい選手をね、それなりに自分のところに置けるっていうのはね、そういうことも考えておられたかもしれませんね。
社会人とかプロ野球、そういったところに進む、もしくは大学でやる、そういう気持ちはなかったんですか?
正直全くお誘いがなかったわけではなくて、それこそはい、いわゆるお金をいただきながら野球やる社会人野球だとか、大学で招待選手として来てくれないかみたいなお話もあったんですけど、私身長がもう170センチぐらいしかなくてですね、やはり全国で一緒にやってる仲間たちを見ると、体の大きさももう全然違いますから、これ限界じゃないかなと思ったところがあったんですよね。
ギリギリまで努力をしていたからこそ、自分のここまでっていうのが感じられたのかもしれないね。
そうですね。
だからそういう意味では高校野球でやり残したことは何もないって感じですか?
ないです。甲子園一回行きたかったですけどね。
なるほど。で、甲子園に行くチャンスっていうのはどのくらい?
1年生の頃から単算すると、マックスで5回チャンスあるんですけど、運よく私1年生から試合に出させていただいて、5回のチャンスはほぼフルフルであったんですけど、3回決勝戦で負ける。
3回負けちゃったの?決勝で?
最後は自分で投げたりとか?
高校3年生の時は2回戦で負けちゃったんですけど、高校2年生の時には先輩方と一緒にこう試合を目指してっていうところの決勝戦で、私最後2年生ながらリリーフで投げたんですけど、さよならホームラン打たれちゃって。
すごいね。でも中学時代の日本代表も含めて素晴らしい技術を持って素晴らしい体験もしてる代わりに、なんかすごいどん底みたいなこともそこで体験した。
そうですね。私の中では別に先ほどの自給自足の話もそうですけど、私は別に普通な感じですけど、大人になって周りの方々と話をして、昔どんなんだったの?って聞かれると、
そういうお話をした時に、それはちょっと普通じゃない体験だよっていうようなお話がされるようになって、そういうものなのかなっていうふうに感じるようになったぐらいですね。
決勝でさよならホームランを打たれたピッチャーっていうのは、決勝戦で4打数4アンダーしたなんていう人よりも多分ずっと少ないはずだし、本当に貴重な経験ですよね。
12:04
そうですね。
これから先、創業に至る話を来週以降伺っていくんですけれども、今みたいな体験が今の自分の仕事に生きてるみたいなことあります?
本当にこれも当時は全然普通だなと思ってたんですけど、お金をどうやって生み出すかだとか、負けた時の反骨心だとか、そういったものは確かに人と違う経験を日本代表で誰かと一緒にやるだとか、
っていうのは生きてるのかなって、今周りの方々に言われて気づくようになったぐらいなんですけど。
なるほどね。そういう意味では子どもの時代から青春時代、いずれもやっぱり独立どっぽね、自分の力を信じて、自分で工夫してやってきた水口さんがどういうふうに創業されて、どういうふうに仕事をされているのか、来週以降伺っていきたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。
はい、どうもありがとうございました。またお願いいたします。
13:37

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