昔からこの番組を聞いてくださっている方は、わたしの背景、
大体の背景はご存知かと思うんですけど、わたし田舎で育っているんですね。
小さい頃は、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしていました。
家事はほぼ全て私の母がやっておりまして、
だからわたしは夕飯までの間、基本的には毎日友達と遊んで、
その後の時間っていうのは、大体ね、いつも祖母と一緒にいたんですね。
おばあちゃんと小さい頃だとかくれんぼしたりとか、
あとおばあちゃん着物を作る人だったので、
家にあった古い昔ながらの足踏みミシン、あれを使わせてもらったりとか、
いらないボタン、いろんな服から取れたようなボタンも全部取ってあってね、
その中から選んで、自分でちょっとしたボタン付きの袋を作る手伝いを
おばあちゃんがしてくれて、一緒に作ったりとか、
あとは布を立つときに印をつけるチャコペンでしたっけ?
めちゃくちゃ平べったくて、楕円形をしている素材はチョーク?
チョークみたいな素材のカラフルなチャコペンがうちにいっぱいあったんですよね。
着物を立つときにそれで線をシュッシュッとつけて、それに合わせて布を切っていくわけですね。
そのチャコペンをチョーク代わりにして、当時あったすごく古い焦げ茶色の木の机に私が文字を書いて、
先生ごっこ?学校ごっこといいますかね。
私が先生になっておばあちゃんに教えるっていう、そんな遊びをしたことも覚えております。
その間、うちの母は夕食を作って、父は仕事をしてたんじゃないかな。
うちの父は自営業だったから、うちにいることも多かったと思うんですけど、祖父は会社勤めをしてましてね。
おじいちゃんは本当に夜ぴったり7時に帰ってくるんですよね。
なので、その時間そこでみんな揃って、食卓を囲んで夕飯を食べたと。
基本的には毎日そういう感じでしたね。
その食卓ね、当時父と母が、長方形の食卓で父と母が長方形の長い方の一辺に2人並んで座って、
その向かいに祖父と祖母が並んで座って、いわゆるお誕生日席、短い辺のところですね。
お誕生日席的なところに私が座りましてね。
私の右斜め前には母、左斜め前には祖父がいて。
母が言うには、近くに座ってた祖父が私にお箸の持ち方、すごく根気強く教えてくれたらしくてね。
もうそれに関しては、母はノータッチだっていうね、そんな話を聞いたことがあります。
こうやって言っておくと、どんどん両親のことからは外れるんですけど。
私の育ってきた家庭で大きな存在だった祖父母なので、ちょっと先に祖父母についてお話をしておきますね。
私が昔会社員だった頃に、出向先の会社の先輩から質問をされたことがあってね。
ピユさんがどのように育って今のピユさんになったのか、それを知りたいっていうことを言われたことがあるんですね。
だからそれで私の背景っていうのをいろいろお話をしてたら、その方が、
ああ、おばあさんと暮らしてたっていうことがね、かなり影響をしてるんですねっていう、そういうようなことを言われたんですよ、私にね。
それが印象に残ってて、私、おばあちゃんと暮らしたことが結構私を形作ってるのかなっていうね。
その方が何かしら納得されたっていうことが、今日お伝えできるかどうかわからないんですけど。
すいません、祖父母の話をしますね。
まずね、2人とも戦争を経験しているんですよ。
祖母は学生時代に戦争となりましてね、学校じゃなくて確か工場に行かされたっていう話をしていたこともあったし、
爆撃機が空を飛んでてね、爆弾が降ってきて、お急ぎで逃げてっていうね、そういう話も何度か聞きましたし。
あとはね、英語の話ですね。
私が何か英語を話したりとかかな、英語の話を祖母とすると、祖母としては学生時代、的確な言葉として学んではいけなかったんですよね。
そんな言葉が戦後、私たちにとっては学ばなくてはいけない言葉になったんですよね。
何かそこに複雑な気持ちを抱いていたっていう、そんな話をしてたのも覚えています。
祖父に関しては、国内の通信基地的なところに配属をされたけど、戦地にはいかないまま終戦を迎えたっていう、そんな話でしたよね。
あんまり詳しいことは聞いてないんですけど、よく覚えているのは、祖父がね、ピューちゃんと話しかけてきて、
究極的に眠い時と、究極にお腹が空いた時、人はどっちの気持ち、どっちを優先すると思うか。
人はというか、人間の体としてどっちが優先されるかみたいな、そういう聞き方だったかもしれないんですけど、
そんなようなことを聞かれたことがあるんですね。
うちのおじいちゃんとしては、確か朝から夜からずっと工場に行かないといけないみたいなことがあって、
線路を歩いてきたみたいな話もどこかで聞いたと思うんだけどな。
ともかく全然寝られない。どんどん食べるものもなくなっていく。
そんな状況で、お腹が空いて寝られないのか、空腹でも睡眠の方が勝つのか、そういう話だったと思うんですけど。
で、祖父の答えはね、そんな究極の状況だと睡眠が勝つということでしたね。
祖父は農家の5人兄弟の下の方だったんですよね。
だから当時でいう尋常小学校は出てるんですけど、ちょっとその後就職するまでのことは詳しくは知らないですね。
その間に、いずれにせよ戦争に関わって通信基地的なところに行ってる期間があるわけですよね。
長男じゃないから家を作っていることもないし、もともと戦争がなかったとしても、もしかしたら高等学校に入るっていうことが望めるような、
そういう経済状況の家ではなかったかもしれない。田舎だしね。
だけどものすごく器用な人で、手先が器用なんですよね。
で、頭は良かったですね。
新しい電子機器がすごく好きで、その年なのにね。
ワープロ、電子辞書、パソコンとかも早くから使ってましてね。
自分で老人会のカラオケ大会の目録みたいなのを、みんなが使えるように打ち込んで冊子にしたりとか、書く字も丁寧で貴重面で。
漢字ですよね。これは多分母が言っていたんですけど。
そういうことで尋常小学校は出てるけどっていう、そういう学歴と言いますか、学んだ経歴なんだけど、おそらく独学でいっぱい漢字を学んだんだと思いますね。
家の中にもいろんなところに祖父が、本当に貴重面だからいろんなものを分類してるんですよね、ちゃんと。
そこにいろんな、ちゃんと漢字を使って、難しい漢字を使って、っていうとあれですけど。
そういう高学心のある祖父でしたよね。
貴王っていうところ、家に祖父の今で言うDIYですね。
そういう工具なんかもいっぱい置いてあって、机があって工具があって、そんなDIYの部屋っていうのがありまして。
そもそもその部屋自体も、自分で家にくっつけて、家をちょっと改造する形で、自分でその部屋を作ってしまったっていう、そういう人でして。
東京の秋葉原みたいな場所が、名古屋で言うと大須っていうそういうところがあるんですけど。
大須に通っては、電気関係のものをいろいろ見て回って買ったりして、私当時全然わかってなかったですけど、いろいろやってましたよね。
これも何もかも独学ですよね。
私自身も大学生になって初めてパソコンが欲しいってなった時は、祖父と一緒に大須に行きましてね。
祖父にパソコンを買ってもらったんですね。
祖父は生き慣れてる様子でして、当時そういう電気店で値段交渉の文化があるっていうことを知らなかったので、私は。
だから祖父が店員さんとそういうやり取りをしているのが新鮮だったんですよね。
だから今でもその様子が目に浮かびます。
祖父はいつも大須に行くたびに大須に大盤焼きのお店があってね。
そこで大盤焼きのセット、10個ぐらい入ってたのかな。10個、12個。
そのセットを買ってきてくれてまして、だからそれがうちにあると、ああ、おじいちゃん大須行ってきたんだなっていう、いい思い出ですよね。
ちょっと普段、なかなかね、おじいちゃん、私のおじいちゃんを振り返るっていう時間もなかなかないので、なんか久しぶりにね、いろいろ思い出しますね。