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スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
なんか自分さ、あの帝国大学って、あの今のあの東京大学だけを指すのかなと思ってたら7つもあるんだね。
スピーカー 2
97帝大って受験の時言われなかった?
スピーカー 1
いやいや、だから俺もそこの位置にいないから。
スピーカー 2
いやいや、もういいよ、だからそういうのはいいんだって。
スピーカー 1
今のでちょっと。
スピーカー 2
うちの学校はすごい言ってたよ。
スピーカー 1
ちょっと今ので大人の方多分長物のレベルが分かったと思うんだけど。
スピーカー 2
いやいや、だから違うから。うちの学校が言ってたんだよ。だから同じ学校にいるんだからそんな言われないはずないでしょ。だから忘れてるだけだよ。
スピーカー 1
言われてない。だから。
スピーカー 2
言われてんだよ。マジで全員に言ってるよあれは。
スピーカー 1
それはあれでしょ。だから何度も言うに位が違かったから、高校でも。
スピーカー 2
いやもういい、もういい、そういうのはいいってもうマジでね、逆だから。
スピーカー 1
いやいや、で東京大学だけかなと思ってて、ちょっとさ先に東京大学の出身者誰か有名な人、今で言うと誰かなって探してたのよ。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まあなんかわかりやすいところで言うと、ドクター仲松とかガッツ石松とかそこらへんでね。
スピーカー 2
え、ガッツ石松って東大なの?
スピーカー 1
失礼だよ。
スピーカー 2
え、そうなの?え、マジで?
スピーカー 1
いや彼はあの中学卒業だよ。
スピーカー 2
え、なに?どういうこと?
スピーカー 1
最終学歴は中学校だよ。
スピーカー 2
おいネタかよ。
ちょっとごめん、あのわかりづらいんだよ。マジでって思っちゃったよ先に。
スピーカー 1
本当に。ドクター仲松は本当。
スピーカー 2
いやそれはなんか聞いたことある気がする。
スピーカー 1
本当に。そうそう。まあそういうわけで、えっとちょっと帝国大学の誕生経緯から遡っていきたいんですが。
スピーカー 2
ちょっと待って、今思ったんだけど、ドクター仲松とかガッツ石、なにかけたの?
スピーカー 1
そうだよ。
かけたの?
松だけのつながりでゴロがいいじゃん。
でもわかりづらいんだよ。かけたのか。
ガッツ石松はガッツ石松でね、経済的な理由でいけなかったから、本当に目指してたらいけてたかもしれないし。
スピーカー 2
まあいいよ、その辺はもういいよ。
スピーカー 1
はい、じゃあということで、あの帝国大学、これはね、あの誕生経緯を遡るとね、江戸時代まで遡るんだよね。
主に2つの流れから合流してるんだけども、1つ目が幕府天文家たっていう江戸幕府によって設立された天体運行とか、歴の研究なんかをしてるとこなんだよね。
で、これ主にまああの西洋の学問から学んでいたから、それがね、えっとその中に1811年になると、晩暑和下御用っていう期間ができたんだよね。
ここはね、あの西洋の書物、主にオランダの書物の翻訳なんかをしたとこなんだよね。
そこからあのどんどんこう明治時代に行って、こう派生していって、学校もいろいろ変わっていって、1874年に東京開成学校になるんだよね。
で、2つ目の流れが江戸時代にこれもあった首都書っていう、1858年に天然痘の予防とか治療を目的に設立された医療機関なんだよね。
これがね、さらに1861年に西洋医学書になって、次第に西洋医学の教育機関の役割をしていくんだよね。
で、これも明治時代に入ってどんどん発生していって、結果1874年に東京医学校になるんだよね。
で、この2つの東京医学校と東京開成学校が合流して、1877年に東京大学ってなるんだよね。
で、この経緯から見ても、西洋の学問を学ぶってところから発生してきているんだよね。
だから、この目的っていうのも西洋の最新の学問を学ぶっていうことが目的にあったんだよね。
で、初めはね、32名の教授のうち23名がもう外国人だったんだよね。
そう、だから授業とか試験論文の多くが日本語じゃなくて、英語とかドイツ語で行われたんだよね。
で、1881年に初めて日本人の教授が外国人教授を上回るようになって、
この頃から呼び名をね、外国人教授は外国教師っていうふうに呼ぶようになって、
教授っていうのは日本人教授だけを指す言葉になったんだよね。
で、この頃から日本語による卒業論文なんかも認められるようになっていくっていう、
日本人が教育者として育っていったっていうところでもあるんだよね。
で、1886年に公布された帝国大学例で、東京大学っていう名前が帝国大学に変わるんだよね。
これは国家のための最高教育機関っていう、国の機関っていうのをすごく推しているような、
帝国っていう名前そのものがまさにそうなんだけども。
で、1897年にこの帝国大学が東京帝国大学、東京がつくんだよね。
スピーカー 1
これちなみになんでだと思う?
スピーカー 2
なんで?東京にあるから何も違和感がないんだけど逆に。
スピーカー 1
本当に?これはこの年に京都に2つ目の帝国大学ができたからなんだよね。
スピーカー 2
それで地名をつけたっていうこと?
スピーカー 1
今までは帝国大学って約20年間くらいずっと一つだけだったから東京にある。
そう、だからあえて東京帝国大学って呼ばずに帝国大学だけだったんだよね。
それが京都に2つ目の帝国大学ができたんで、そこで東京帝国大学と京都帝国大学って2つ呼び名を分けたんだよね。
ちなみに京都帝国大学ってできたときに、やっぱり京都の教授になる人たちって東京帝国大学の卒業者が多かったんだって。
彼らは東京帝国大学で自ら学んで卒業して、さらに欧米に行って学んだ後に帰ってきて教授になるっていうところの中で、
やっぱり東京帝国大学での講義とか試験ばっかりの体制だったんだよね。
そこに欧米の教育とかを見てきた中でも、自由に自分の裁量で学んで研究できるような大学を目指したいなっていうところから、
ちょっと東京大学とは違った挑戦をしていくんだよね。
ただね、これなかなか上手くいかなかったんだ。結果的には。成績もそんなに実際に伸びなくて、この時期は失敗しているんだけれども、
今の京都大学見てもさ、やっぱり東京大学とはちょっと雰囲気違くて、なんか自由なイメージあるよね。
スピーカー 2
ごめん、全然そこの違いは分かんねえな。
スピーカー 1
まあ言ってないから。なんかさ、東京大学ってすごい今でも詰め込んでるような感じが受けるけど。
スピーカー 2
そうなの?逆にね、京大が分かんない。
スピーカー 1
ああ、誰も分かんないなこれ。
スピーカー 2
東大は言ってたことあるから分かるんだけど、言ってたってあれですか、俺が言ってたわけじゃないけどさ、言ったことがあるから分かるんだけど、京大は言ったことすらないから分かんない。
スピーカー 1
いいよ、もう言ってたって言っちゃおうよ。
スピーカー 2
超高生で言ってただけで、別に俺が感じてたわけじゃねえよ。
スピーカー 1
いやいや、もう薄々勘づいてるとは思いますが。
スピーカー 2
だから違うから。違うからね。誰でも超高生になれるから。
スピーカー 1
そういうことにしとこう。で、その後も帝国大学って約10年おきに一つずつ作られていくんだよね。
構想的には日本をいくつかのブロックに分けて、そこに一つの帝国大学を作ろうという構想で、
だから東京にできて、また西側の京都にできて、今度また東側に東北にできて、また西に行って九州、さらにまた戻って北海道とか、また西に行って大阪、次名古屋とかなって、
バランスよく全体的にできてるんだよね。
ただこの7つの帝国大学の中でもやっぱり最初にできた東京帝国大学っていうのは圧倒的に講座数だったり教授の数、あと生徒の数っていうのも多くて、すごく人気も実力もあった大学なんだよね。
大正7年、1918年に大学令が交付されるまで、帝国大学以外の大学っていうのはなかったんだよね。
もちろん専門学校とかそういう学校はあったんだけども、大学って呼ばれるものはこの帝国大学に限ってたんだよね。
この帝国大学に入るには、まず帝国大学の予科って言われる高等学校に入る必要があって、その卒業者が優先的に帝国大学へ入学できるんだよね。
この高等学校への入学がもうすごい、この時から狭きもんで、管理室の高等学校の入試倍率は多い時で7倍以上とかっていう年もあるんだよね。
今ちょっと調べたけど、国立大学の倍率が4倍とか、だからもう倍以上なんだよね。
で、卒業者の数も見ても、当時の帝国大学、例えば明治23年なんかは東京の帝国大学1個しかないから、もう200名しか卒業生がいないんだよね。
さらに10年後は京都ができてきたから、それでも約400名の卒業生しかいないんだよね。
昭和15年になると、帝国大学7校あるんだけども、それでも合計で約5000名の卒業生しかいないっていう状況で、現在東京大学の卒業者の数、毎年約3000人なんだけども、
そこから見てもさ、いかに帝国大学って選ばれた人ですごく狭きもんなんだよね。
本当のエリートっていうかね、だからなんかそれはさ、なんか感じるよね。
スピーカー 1
うん、確かに。
で、帝国大学の卒業者だけが冒頭で言ったように学士っていう称号を得ることができるんだよね。
そう、だから学士様ならお嫁にやろうかっていう言葉が実際にあったりとか、あとは娘やるなら学士様っていう映画まで作られたぐらいなんだよね。
いやもうたまんないよね。
スピーカー 2
ちょっと待って何が?
スピーカー 1
いやすごいね、学士様って言われたいね。
スピーカー 2
小片郎はもう学はあるから別に、てか小片郎も学士様でしょ今思ったけど。
スピーカー 1
今の学士ってみんなすんげーいるじゃん。どんだけいるんだよ。
スピーカー 2
そうなんだけど。
スピーカー 1
そうそうそう。で、帝国大学生のねなんか調査したやつがあって、当時の娯楽趣味っていうのをランキングにしてたとこがあって、大正14年の調査で娯楽の第一位って何だったと思う?
スピーカー 2
え、なんかわかる気すんだけどな。なんかね、たぶん掛け言的なやつな気がするんだけどな。
スピーカー 1
あー、伊勢言ってるかも。
スピーカー 2
ちょっと今出てこない。
スピーカー 1
1位はね、囲碁。
囲碁か。
あ、そうそう。
惜しくねーじゃん。
ま、掛けないか。で、第2位は音楽なんでね。
スピーカー 2
そうなの?じゃあ俺ちげーじゃん。
スピーカー 1
え、あ、掛け言じゃないって。
うん。
そうそう。ま、でもなんかすごい洗練された趣味だなって思うよね。
スピーカー 2
ま、なんかやっぱちょっとこう金がありそうな人の趣味って感じするね。そう考えると。
スピーカー 1
確かに。ちなみにね、今のこれ大学生の趣味、なんかランキングあったんだけど、1位はゲーム。で、2位はね、YouTubeだって。
スピーカー 2
YouTubeって趣味なの?
スピーカー 1
俺も思ったけど。もうYouTubeは趣味なの。
スピーカー 2
ゲームはわかるけどさ、YouTubeが趣味って何なのそれ。
スピーカー 1
もう、だから見ることとかね。暇があったら見てるでしょ、みんな。
スピーカー 2
動画鑑賞ってやつでしょ。だから昔映画鑑賞ですって言ってたのが動画鑑賞になったっていう、そのだけの話でしょ。
スピーカー 1
あー、確かに。でね、あの帝国大学卒業試験にこう無事合格して、さらにね、その中で成績が優秀の人には、あの天皇からその銀時計が贈られてたんだって。
スピーカー 2
あー、これはなんか起動だな。
スピーカー 1
あー、ある。そうそう。ちなみにね、俺ちょっと今調べて、これどっか売ってんのかなと思ったら、ヤフオクでね、過去にね14万円で売られてたね、これ。旧帝国大学。
スピーカー 2
いやー、欲しいかって言われたらいらないけどね。
スピーカー 1
そう、でもすごいなんか立派な綺麗なアンティークものって感じだったけど。
あー。
うん。で、そんな風にまあ、で、卒業者名簿にも卒業試験の成績順位が載るんだって。
うん。
そう、成績順にこう書かれるんだって。
あー。
そう、だからあからさまにこう分かっちゃうというか、そんなこう時代で。
例えばね、それによってなんか結構その後も影響するというか、帝国大学の教授になる人ってほぼ卒業者名簿の上位の人が多かったんだって。
うん。
で、95年って言うとね、高野岩三郎って方が6番で東大教授なんだよね。
うん。
で、濱口御幸がね、その時3番で。
で、この方ね、出生に後になるけど。
うん。
そうそうそう、そういうのもあって。
で、帝国大学さ、入学する年齢って当時高かったんだよね、今より。
うん。
で、東京帝国大学の入学者で言うと、明治時代は平均年24歳から5歳だったんだよね。
うん。
スピーカー 2
今、東大の人でも18か19歳がやっぱり一番多いんだって。
あー、まあ、だろうね。
スピーカー 1
そうそう。で、これなんでこんな高いかって言うと、
まあ、一つには、その、尋常小学校が4年で、高等小学校2年で、中学校が5年、高等学校が3年って言う。
まあ、中学校が5年って言うと、そこがプラス2年長いんだよね。
うん。
でも、それにしても、24、5歳って高いっていう要因は、それまでにこう、学力による厳しい選抜があって、
例えば、中学とか高等学校でも成績が悪かったら、進級できずに落台する人って多かったんだよね。
うん。
そもそも、さらにその高等学校入るのにも浪人するって人もいたし、
で、帝国大学でもさらにその成績によって順調に卒業できないってことも多かったから、
実際にね、卒業したらもう20代後半とか30歳近い人って言うのもいたんだよね。
うん。
で、これが結構問題になって、せっかくこんな優秀な人材が社会に出て活躍できる時間が少ないっていう風になって、
ましてや、今よりも平均寿命も短かった時代だったから、これ結構深刻な問題だったんだよね。
うん。
そこで、一応緩和策っていうので、そもそも試験で点数によって進級卒業を決めるっていうところを緩和していったりとか、
講義中心、知識詰め込みっていうだけじゃなくて、
学生の自発性とか実質性が認められるような大学っていうことに着手し始めたんだよね。
うん。
その中にね、さっき言った大正時代になると、成績順の卒業者名簿っていうのもなくしていったりとか、
天皇や皇族関係者から渡される銀時計っていう風習もなくしていったんだよね。
スピーカー 1
当時、高等学校とか帝国大学は9月入学がほとんどだったんだって。
うん。
それが4月の入学っていう風に切り替えたりとか、もうここの時にやってるんだよね。
この帝国大学の就職先ってどんなのかなっていうと、明治42年の1909年、東京帝国大学で言うと半分ぐらいが官公庁なんだよね。
うん。
これは行政官とか司法官、技術官、あとは官公の医者になる人とか。
さらに次に多いのが学校教員で、これが全体の24%ぐらい。
その学校教員のほとんどが官公率の学校教員で、結果はやっぱり国のために使える仕事の人たちがほとんどなんでね。
うん。
次は初期の帝国大学って、こういう官公庁とか教員になるにも国家試験を受ける必要があったんだけど、それが自動的に免除されたんだよね。
そうそう。これは後にちょっと廃止されていくんだけど、そういう理由もあって多かったっていうのもあるんだよね。
さらに時代が進んでいくと、日本っていうのは戦時体制と進んでいくんだけども、
帝国大学の教員とかにマルクス主義者とか自由主義者っていう人たちも多くて、今の政府の体制に反対する人たちも多くいて、そういった人たちは給食とか辞職にさせられるっていう人もいたんだよね。
1938年以降になっていくと、どんどん戦争へ進む中で、国は帝国大学に対して科学を中心とした研究大学への強化を図ったんだよね。
これは既存の理工計学部とか学科の就業定員を増やしていったりとか、1940年から45年の間に理学部、工学部の入学数を2倍前後にしてるんだよね。
さらに帝国大学の研究所、1938年には合計7つしかなかったんだけども、翌年から1945年にかけて25の研究所を新設してるんだよね。
その研究所のほとんどが軍事関連の研究だったりして、こういうこともしてるんだよね。
日米海戦以降は、理系の学生に関しては特別に卒業まで兵役を延期できるという処置があって、卒業と同時に兵役に就いたりとか、軍事工場で働くって人もいたんだよね。
文系の学生に関しては、大学も在籍中に兵役に就かなきゃいけない、いわゆる学徒出陣っていう人も多くて、
この学徒出陣で、総公会っていうのが大規模に数万人規模とかで開かれたりして、そこに当時の首相だったりとか、あとは女子生徒とかが男子生徒を見送るっていう場でもあったんだよね。
ここで、学徒の代表として当時をしてた東京帝国大学の代表の方の言葉が一つ印象的で、「聖羅、もとより聖官を着せず。」っていうような言葉を言ってるんだよね。
ざっくり言うと、初めから生きて帰るつもりはないっていうような意味で、そういう覚悟というか、中で彼らっていうのは出陣していったんだよね。
学徒出陣は約10万人ぐらいって言われてるんだよね、合計で。
その中には南方の激戦地に動員されたりとか、特攻に配属されて、有能な若い学生が命を落としたっていう現実があるんだよね。
戦後になって、1947年に帝国大学令が廃止をされて、
1886年以来ずっとついてたこの帝国大学の帝国っていう名称が消えるんだよね。
ただ今でも7つの旧帝国大学っていうのは名残で旧帝大なんか言われたりするんだけども、
今でもその日本有数の国立大学としてすごい有能な学生を育ててるっていうお話でした。
ということでいかがでしたでしょうか。