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スピーカー 1
柴五郎は言った。まことに留罪にほかならず、巨藩留罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
始まりました。大人の近代史、よろしくお願いします。
スピーカー 2
よろしくお願いします。なんかちょっと難しい言葉でよくわからなかったな。
スピーカー 1
あ、そう。これ、柴五郎がもうこれは留罪なんだっていうことをね、言ってるんだけども、
どんな場面を言ってるかっていうと、斗南藩でのことを振り返ってこう言ってるんでね。
スピーカー 2
そう、というわけで今日はテーマ、斗南藩です。あれ?なんかさ、リクエスト来てたっけ?これ。
スピーカー 1
リクエスト来てたんです。これから読みますが、ホタルンさんって、この方の2024年と2025年に2回もこのリクエスト、斗南藩をいただいてまして、
ちょっとそれぞれ文章がね、違うんだけど、今回は2024年の、だいぶ前になっちゃうんですけど、そちらのちょっとコメントを読ませていただきます。
毎週楽しく拝聴させていただいております。小片朗さんと永間朗さんの掛け合いが大好きです。
やりとりから本当に仲のいい友達なんだなぁと羨ましく思います。さて、取り上げていただきたい内容ですが、松平片森をはじめ、
共に戦った藍津藩の人々が母親戦争後に藍津を追われ、その後行き着いた青森県の斗南藩での生活、苦労についてです。
今も斗南藩の末裔の方々が青森県で活躍されていると聞いています。
長敵とされ、くしくも藍津を追われた人々のためにもその歴史を紹介していただければ幸いです。
スピーカー 2
いただきました。ありがとうございます。なるほど、それで斗南藩ですね。
スピーカー 1
そうそう、もともとね、自分もね、この斗南藩は興味があって、いつか調べたいなっていうのを思ってたんだけども、
この方ね、すごい熱い思いがなんかあって、むしろ帆太郎さんがやったほうがいいんじゃないかっていうのはちょっとあるんだけど。
代わりにちょっとやってもらうか。いや多分すごい思いが、なんか特別な思いがあるんじゃないかなと思って。
まあということで、斗南藩、なかなか聞き慣れない方も多いとは思うんですけども、
大人の近代史もたまに問い合わせもいただくんですけども、斗南藩っていうのはその田中美奈美さんとは関係ないんですね。
ちょっとごめん、どの辺がかかってんだよ、それ。いやいや、なんか、田中美奈美さん。
あー、これカットだよね。
スピーカー 2
そう、まあ彼女はニューヨーク州の生まれなんで、ちょっと斗南藩とは関係ないということで、先進めさせていただきます。ニューヨーク州なの?
あ、そうそう、それもびっくりだったんだけど。いや、まじか、そうなんだね、知らなかった。
スピーカー 1
そう、で、斗南までのちょっと流れをね、さらっと幕末から遡っていきたいんだけども、
幕末の藍津藩っていうのは薩摩藩、長州藩と並ぶ大きな勢力を築いてた藩なんだよね。
で、そこで幕府対倒幕派との戦い、母親戦争が起こって、藍津は朝廷に敵対する勢力として、
もう倒幕のシンボルのような形で徹底的に狙われるんだよね。
で、藍津藩は倒幕軍に対して、最初はその教授の意向を示したにもかかわらず、それが認められることはなくて、攻撃を受けて藍津戦争に入っていくんだよね。
で、圧倒的な力の差で、藍津藩っていうのは敗れてしまうんだけれども、
で、その後、藍津藩師っていうのは新潟、東京へと、それぞれ謹慎となって、しばらくしてその後に1869年に藍津松平家の最高が許されるんだよね。
で、ここで旧南部藩僚の一部、三万国が与えられて、藍津藩師らの謹慎が解かれるっていうことがあったんだよね。
で、ここの三万国、これが後に都並藩と名前が付けられるところなんだけども、旧南部藩の領地だったってところで、南部藩も母親戦争で新政府より処分を受けて、領地を没収されてるんだよね。
その領地から、北郡、二の兵郡、三の兵郡、この合計三万国が藍津松平家与えられて、これがね、現在の場所では青森県の六市とか三沢市、戸和田市をまたがる飛び地の場所なんだよね。
そうそう、青森県の最北端の北に右アッパーみたいに飛び出てる部分と、中間を飛んで南に岩手県に隣接する部分、ここが都並藩になるんだよね。
この都並藩知事には、松平片森の実の子供、松平片晴が当時ね、満一歳だったんだけども、彼が任命されるんだよね。
そうそう、旧藍津藩主だった松平片森っていうのは、処刑はこの時免れてるんだけども、東京の旧狭山藩知事宅に厳重の監視官の下、遊兵されるっていうような形で、この都並藩の知事になるってことはなかったんだよね。
スピーカー 1
これすごいよね、松平片晴って満一歳で、しかもこれで都並藩行くんだよね。
ごめん、そんだけなんだけど。
スピーカー 2
いや、ちょっと膨らませないんか。
スピーカー 1
いやいや、だからこの後も言うんだけどさ、藩の統率を掛かる人たちはまた別に、もちろん松平片晴ができるわけじゃないから、他にそういった方たちが活躍して指揮を取ったんだよね。
スピーカー 2
まあ、一切じゃ無理だよな、確かに。
スピーカー 1
そうそうそう。で、藍津藩はさ、もともと幕末には28万石以上もあった大きな藩で、それがもう3万石っていう、だいぶ減らされたんだよね。
しかもね、これ都並藩に行く前に旧河楼の原田津島って方が視察に都並に行って、そしたら土地がもう不毛の地で、実習だとわずかもう3万石どころか7千石がいいところなんじゃないかっていうような調査結果を持って帰ってくるんだよね。
その都並っていうその場所は、それまでもね、結構厳しい条件のもとで、風だったり雪が激しい場所で、日照も不足してて、草木が育ちにくい厳しい環境だったんだよね。
米がほとんど育たない場所で、わずかな雑穀を収穫するっていうようなことをそこに住んでる人たちはしてたんだよね。
主食は比叡を主食としていて、米なんかはほんと取れないから、正月とかお盆とかもう限られたときに食べれればいいほうな、そんな感じなんだよね。
で、ここね、教則の歴史っていうのがすごく長くて、餓死者が多く出て、死人をね、食べたりとか、生きてる人間を殺害してその肉を食べたっていう記録が残ってたりするんだよね。
それぐらいあの食糧なんて、餓死者が多く出てたって場所で、この富見藩全体の当時の村の数っていうのは合計70村だったんだよね。
そんな決して豊かな土地ではない場所へ、約1万7千人ぐらいの合図から人が来るっていうことで、これはね、現地の人からしたらもう大変な問題だったんだよね。
しかも明治政府から十分な資金とか食糧が、わずか出たんだけども与えられずに移住しなければならないっていうような、で、移住しないと厳重に処分するっていうことも言い渡されるんだよね。
そう、で、この移住した人たちっていうのは旧藩主が対象なんだよね。中にはね、藩主の地に残るってことで、武士の身分を捨てて農民として残った人たちも実際にいたし、一部の藩主は戦死者の遺体の処理とか、機能した藩主の世話っていう名目で残留した人たちもいたんだよね。
で、それでもまあ、私族の身分を捨てることに抵抗のあった多くの藩主は都並み藩へと移住をしていったんだよね。
で、その中には子供とか高齢者もいたし、あるいは傷病者、合図戦争でさ、怪我をして療養してた藩主っていうのが記録だと119人ぐらいいて、彼らもその長い距離をね、都並みに向かってるんだよね。
で、移住はね、航路と陸路に分かれて、それぞれ進行したんだけども、特にね、秋以降に陸路北上したものっていうのは、もうちょうど冬に差し掛かるからすごい寒さで厳しい旅で、そこで亡くなった人たちも多かったんだよね。
で、約600キロほどある距離を藍津からだと3週間ぐらいかけて行った人たちもいたんだよね。
そこでやっと着いたっていうその場所、都並みっていうのは、そこからがまた大変な苦労で、例えばね、これ柴五郎が都並みで過ごした記録として残ってるんだけども、柴五郎は陸軍大将まで後に上り詰めた方で有名で、
今はどちらかというと、世界的には長丸がその大人の近代史で取り上げたってことで有名なのかもしれないけれども、
スピーカー 2
それはね、俺に対するなんか、来るからさ、やめてほしい。大人の近代史で来るんじゃなくて、俺に来るじゃん、そういうのは。
スピーカー 1
事実だからさ。で、この柴五郎、柴家は幕末ではもともと西六三百五区ぐらいある生活は比較的豊かな家柄だったんだよね。
で、藍津戦争の時に祖母、母、姉妹は自害してしまうんだよね。
そう、これあれまさにその、うちらも藍津行った時にさ、藍津武家屋敷で最後を頼む女性たちが自害したっていう、なんか見たよね。
スピーカー 2
武家屋敷のあれだよね、なんか人形みたいなやつであったよね、再現されてるのが。
スピーカー 1
そうそう、藍津戦争がまさに終盤に悲劇が起こって、まさに柴五郎もそういったことが起こったんだよね。
で、残った父と兄と兄嫁と共に現在の青森県六市にある小さな空き家を借りて住むんだよね。
実際着くと生地はもう枠だけしかなくて、生地の代用として米だわらを縄で縛ったりとかして過ごして、
冬はね、もう氷天下10から20度ぐらいというすごい寒い中、布団もさ、乏しくてもう凍えるような寒さの中過ごして、
食料もさ、わらびの根とか海辺で拾った昆布とかをかき集めて食べたりとか、時にはもう犬の肉を食べて命をつないでたってこともしてたんだよね。
で、柴五郎はね、あまりの寒さで、一時ね、熱病にかかって40日も寝込んで、ついにはね、その栄養失調で髪の毛が抜けたってこともあったんだよね。
で、その後、柴家ってお年の沢っていうところに一軒家の一部を借りて移り住んで、これがね、現在青森県行くとその場所に建て看板があって、
ここに住んでましたっていうのがわかるようになっていて、ちょっと自分も青森県行ったことないからあれなんだけど、
Googleマップで見たら、すごい森の中で、冬はね、雪に埋もれてるような場所なんだって。
ああ、そうなんだ。
そうそうそう。いや、いつか行ってみたいけどね。
スピーカー 2
うーん、なかなか機会がなさそうだね。
スピーカー 1
そうなんだよね。
で、柴五郎にかかわらず、他の人も相当な苦労していて、不衛生な生活の中、体に白身が湧いてきたりとか、
急激な環境の変化と栄養不良で、腹だけが異常に膨れて、痩せをとろえて、息を引き取るっていうのも多かったんだよね。
で、空腹を満たすために、とにかくね、何でも食べたんだけども、山に入って、フキやツタの根から澱粉を取って食べたりとか、
ヤマゴボ、ゼンマイ、ヨモギ、オオバコがその野草を取れるものは取って、浜辺でも海藻を取って、空腹を満たそうとしたんだよね。
で、地元民からはね、これね、アイズのゲダカっていうような言われ方をしたんだけども、ゲダカってね、ケムシっていう意味があるんだって。
食糧不足の地域にこうやって大勢のアイズの移住者の存在っていうのは、やっぱり歓迎できるものではなかったっていうのが、この言葉からもちょっとわかるなと思って。
で、その後もさ、病人とか死者が続出して、胃の中に虫が生じるっていう症例も多く見られたんだよね。
で、もともとね、いた住民にはその症状はなくて、これおそらくね、地元民でも食べないものを必死に食べた影響で、そういう症状が起きたんじゃないかって言われてるんだよね。
これ明治4年の6月からね、半年間の記録だけでも病人の数はね、約2400人に上るっていうぐらい、すごい数なんだよね。
スピーカー 1
そんな中、隣藩、指導者として活躍したのが、第三次山川博と、小三次広沢康と、長岡久重っていう、この3人を中心に運営を行ったんだよね。
で、山川家っていうのは、上級武士の家で、彼はその23歳の若さで、藍津藩過労に抜擢されて、藍津藩軍事総督にもなってるんだよね。
で、富見に移住の時は、まだ26歳っていうすごい若手で、行動力と人望があるっていうことで、評価が高かったんだよね。
で、彼はね、移住後すぐに廃棟令を実施したんだけども、その理由が、武士と農民の溝をなくすことっていうのを掲げて、
幕末の藍津藩ってさ、京都守護職で使った多額の出費とかあって、それを結局負担したのが、寮内の農民たちなんだよね。
で、藍津藩が破れた時も、その農民の不満っていうのが爆発して、村役人の家に放火、その一揆が実際に起こってたりして、
それほど、士族と農民に大きな溝ができていたんだよね。
で、富見では同様の事態を避けようっていうことで、すぐに廃棟令を出したっていう経緯があるんだよね。
他にもね、1870年に富見藩校日清館っていうのを開設して、
ただね、これ、学校に来る子供は本当に少なくて、子供はその山菜取りとか昆布拾いにあげくれて、
もう学校どころじゃなくて、日々の食料とか住まいをどう確保するかっていう、そっちの方が優先だったんだよね。
そこで、恐竜地帯を開拓して、富見が丘って名付けた場所に約110棟の住宅を建設したんだよね。
他にもね、各場所に住宅を建てて、とにかく住まいを確保しようとして、
それでも移住者のうち1割も入居はできない数なんだけれども、少しでも住宅を割り当てようとしたんだよね。
あと、各地で給品所も作られて、これは異色獣の面倒を見て手に食をつけることが目的で、
現在の職業訓練所みたいな役割を果たしていて、旗織りとか紙すき、紙すきなんかね、
柴五郎の父親が実際に習っていたっていう記録もあって、それでも生活はね、依然として厳しいものになっていったんだよね。
そんな中、1871年に廃藩地権によって、
富浪藩って富浪県になって、そこから弘前県と合併をして、後に青森県と名前が解消してるんだよね。
だから、富浪藩自体っていうのは、わずか1年半しか存続しなかったんだよね。
くしくも、廃藩地権によって移住の自由が認められて、今まではそこにいなきゃいけないというか、他に行くことが自由にできなかったんだけども、
廃藩地権によって、藍津だったり東京とか各地へ移住することができるようになったんだよね。
中には、青森県にそのまま残った種族も多くいて、
ただ、残った種族も依然として厳しい環境の中で、
実際に開墾が軌道に乗った富浪種族っていうのは4分の1だけで、
残りは依然として家がなくて、他の家に身を寄せてるっていう人たちも多かったんだよね。
スピーカー 1
そんな中、富浪種族の活躍した人も実際にいて、
例えば、小三寺の広沢康人っていう方は、青森県に残って、明治政府に資金の交渉を行って、牧場建設を行ったんだよね。
これが現在の三沢市に日本初の民間様式牧場、開牧舎っていうのを開いて、これで成功するんだよね。
この時、急速な肉食の普及とか、不国共平に向けた養殖群馬の需要拡大っていうのも重なって成功していったんだよね。
青森県ってこれをきっかけに牧場開設が続いて、今でこそ東北とか北海道って牧畜が盛んなんだけども、実はこの広沢がもたらした影響っていうのは大きいんだよね。
また、教育者としても富士族っていうのは活躍をして、塾とか小学校の教育者として青森県に優秀な人材を輩出するっていうことにも貢献しているんだよね。
そんな感じで今回は富士藩を話したんですが、実際聞いたことがないって人も多かったんじゃないかなと思って、
やっぱり自分もそうなんだけども、学校では明治維新によって新しい時代がもたらされたっていうプラスのイメージを教わることが多いんだけども、
そんな中、合図っていうのは、新政府による本州最北端の移住命令によって、飢餓と苦しんで多くの人が犠牲になったっていうこの事実を忘れてはいけないなっていうふうに思いました。
いかがでしたでしょうか。
スピーカー 2
富士藩っていうのは俺も正直全然知らなくてさ、柴五郎をやった時に柴五郎の老いたちみたいなのを調べてる時に、
多分名前ぐらい出てきてたんだけど、あんまりそこではこう自分の中ではフックしなくて、まあ辛い生活だったんだなあぐらいにしか思わなくて、
で、リクエストをもらって、ああなんかそういえばそんな藩あるんだなあぐらいに思い出したぐらいだからさ、
普通知らないよね、きっと名前すら。
スピーカー 1
いや、そうだね。教科書でも見た記憶がないぐらいだな。
スピーカー 2
そう、やっぱりなんか自分の出身、今そのいる県だったりさ、そういったところのさ、もともとの藩名ぐらいはもしかしたらみんな知ってるかもしれないけどさ、
じゃあ他県はどうかって言ったら多分知らないじゃん。あの有名なところは別だよ。薩摩とかさ、長州っていうのは有名だしさ。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
俺も分かんないもんやっぱ藩の名前って言われると。で、やっぱその中で富士藩って言っても結構知らない人多かったんじゃないかなと思って。
まあやっぱりそういう意味でもさ、今日はすごいニッチな部分を大方郎が扱ってさ、
多分初めて知りましたみたいな人すごい多いと思うんだよね、今日の会聞いて。
出来事も含めてて、その合図の人が富士藩行ってっていうところから全部含めて本当に初めて知りましたっていう人多いと思うんだよね。
だからすごい今回勉強になったなっていう人多いんじゃないかなと思いました。
スピーカー 1
そうだね、やっぱりなんか歴史ってそれこそ常に勝者の歴史なんだなっていうのを感じたね。
スピーカー 2
うん、そうだね。
スピーカー 1
いやこれね、富士藩ね、ずっと前から興味があって、一時期さ、俺がなんだかよく分かんないけど小説を書きたいって言ってたことあったじゃん。
これで一つに富士藩を舞台にしてやりたいなって思ってたの。
そこまでちょっと取ってたんだけど、もう忙しすぎて小説どころじゃないわって思って。
スピーカー 2
小説はちなみにもうトンザしたの?
スピーカー 1
今ね、絶対無理だな。長丸がやったほうが本当はいいんだよ。
スピーカー 2
いや俺はやんないよ。
スピーカー 1
そんなわけで今回は富士藩についてでした。
じゃあもしよかったらリクエストとかでもいいですし、私実はニューヨーク州生まれでしたとかそんなんでもいいので、概要欄のリンクからコメントお待ちしております。
スピーカー 2
小片郎は実はビバリーヒルズ生まれです。
スピーカー 1
無理があるだろ。
スピーカー 2
無理があったか。
スピーカー 1
というわけで最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。