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【敬和キャンパスレポ】この番組は、柴田市富塚にある、
敬和学園大学の大学生が、大学に関わるイベントや人、柴田のことなどをテーマにお届けします。
【敬和キャンパスレポ】は、実践するリベラルアーツ、敬和学園大学の提供でお送りします。
皆さん、こんばんは。この番組は、敬和学園大学から大学のことや柴田、新潟のことを伝える30分番組です。
今日の進行は、英語文化コミュニケーション学科3年の小林和紗と、

国際文化学科4年の神田さとみです。どうぞよろしくお願いします。
今回の収録は、9月入って初めての収録で、いよいよ新学期というタイミングなんですが、小林さん、夏休みはいかがでしたか?

【小林】夏休みは、忙しい夏休みだったなと思います。
3年生なので、インターンシップとかに行ったり、あと、他に後期から学祭があるので、それの準備とかもしたりして、いよいよ忙しい夏でした。
【佐藤】神田さんは?

【神田】私はそうですね、バイト三昧かな。ひたすら夏休みは稼ぎまくっておりました。
番組制作の経緯と報道

さて、今日のテーマですが、番組MCを務めていた卒業生の岸田瑠璃さんほか、3人の卒業生の皆さんの映像作品、「満州柏崎村の軌跡について」です。
実は、2022年4月に一度番組で取り上げています。
制作に参加したメンバーの和田浩樹さんと岸田さんで一度お話ししているのですが、
今回NHK新潟放送局がこの作品を改めて取り上げて、大きく報道したということなんですよね。
神田さん、ご覧になりましたか?

【神田】はい。確か新潟のみの放送で2回、全国放送で1回放送したはずなんですけれども、
まずそのテレビでの放送をコンプリートしてみまして、さらに友達がNHKプラスに、
入っていたので、それでさらにもう1回、全部合わせて4回見ましたね。
【佐藤】すごいですね。ファンの勢いですね。

【神田】もう岸田ファンなので、そこはもう一言一句覚えていきたいなと思っております。

というわけで、先輩たちとは違う角度で、またNHKでの報道内容も含めて、
この番組の制作監督でもある、市野平信也国際文化学科長として、
お話ししていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
【市野】どうぞよろしくお願いします。
撮影したときのことまで振り返ると、結構時間も経っているので、

忘れていることもあるかもしれませんけれども、できるだけ思い出してお話したいと思います。
【佐藤】よろしくお願いします。

まず、この作品についてのNHKの取材についてなのですが、

8月15日、終戦記念日に合わせて、
NHK新潟ニュース610で放送され、
その後、翌日朝のニュース番組、「おはよう日本!」では、
関東甲信熱地域向けの時間帯でも放送されたとのことです。
新潟放送局のウェブページには、満州柏崎村の記憶、
証言動画に込められた思いという記事が掲載されていて、
担当した野次里比奈記者のコメントとともに紹介されています。
神田さん、こちらはどのような印象でしたか?
【神田】そうですね。岸田さんと記者の野次里さん、

どちらにとっても、満州柏崎村の情報は珍しいきっかけがなければ、
知り得ないものだったんだろうなという印象でした。
自分が知らないのなら、同世代や次世代はなおさら知るきっかけがあるので、
どちらも若者目線で、次の世代に戦争の中で苦労してきた方々のことを
語り継いでいかなければいけないという感じで、
取り上げたんだろうなというものが伝わってきましたね。
一ノ瀬先生、こちらの取材はどういった経緯で行われたんですか?

【一ノ瀬】NHKに限らず、NHKに限らず、
この時期、つまり8月15日の前後で、

太平洋戦争に関わるいろんな特集番組というのは組まれますよね。

その一つとして、NHK新潟放送局の企画、

実際には野尻さんは長岡所属なんですけど、
長岡の企画として、多分、柏崎に取材に行く予定です。
長岡の企画として、多分、柏崎に取材に行く予定です。

という経緯だったんだと思いますが、

7月の終わりぐらいだったと思いますが、

野尻記者からお連絡をいただきました。

多分その段階で、後で出てくると思いますけど、

巻口弘さんという柏崎にいらっしゃる、

満州柏崎村の出身者の方に取材をされて、

その中でちょっと前に、
慶応の学生が取材に来てたんだよと、

そんな話を聞かれたんじゃないかなと思いますが、

8月の15日に向けて取材したいということで、
依頼があったんですけど、みんな卒業してますと。

そういう話で、いろいろ調整した結果、

岸田さんは大学の近くにまだいらっしゃいますので、
ということになって、今度は岸田さんに連絡を取って、
岸田さんは平日はやっぱり無理だということで、
実は8月11日って山の日。
山の日は祝日だけど、
集中講義で大学が空いてたんです。
だからその日やりましょうということで、
休みの岸田さんに出てきてもらって、
大学で取材したということです。

すごかったんですね。
ちなみになんですけれども、岸田さんに聞いたところ、
まだ放送会はちょっと照れくさくて、

見てないっていうことらしいですね。

見てないんです。

ファンの私が4回も見たのに。
ぜひご自身でも見ていただきたいなと思っております。

なるほど。
満州柏崎村の背景と移民政策

基本のところに立ち返りたいのですが、
1932年に日本の傀儡国として、
中国東北地方に満州国が作られたというのが、

そもそもの始まりだと思います。

石上先生、満州に人々が移民していった理由、

橋綾崎の人々にとっての意味、

そういった背景を少し説明していただけますか。

満州っていう地域ですね。
今、中国東北地方と言われている地域に、

日本が何らかの形で進出していきたいというのは、

だいぶ前から多分日本は考えていて、
それは軍部がやりたかったとか、
いろんな理由はあるんでしょうけど、
やっぱり大きな理由としては、

農村の貧困問題を解決するというのが

当時あったみたいですよね。

そういう意味では、広い中国の北の方に、

自分たちが移民していく場所を作りたいというのと、

同時に日本としては別の意味の野心があったのかな、

軍が出ていきたいというのもあったのと、

いろんな意味合いがあったんだと思いますが、
多分北の方は当時の中国の政府の支配も

あまり及んでいないっていうこともあったんですよね。

それで出て行って、自分たちのものにしちゃいたいと、
いろんな経緯があるんだけど、

その前からいろんなことをやっていくんですけど、

あるタイミングで新庁の最後の皇帝を連れてきて、
もうその人は皇帝じゃなくなってますから、

あなたもう一度皇帝になりましょうと言って、
北の方に連れて行って、

その人をトップにして形としては据えて
満州国というのを作ると。

フギですか?
フギが満州のトップとして?

そういうことです。
なんていう名前かというのはいろんな経緯があるんですけど、
一応トップにすると。
でも実質は日本が全部仕切るじゃないですか。

なおかつそこはすごい広大な大地があるけど、
あまり日本人もいないので、

北のソ連との戦いに守りを固めるという意味もあり、

開拓民と言っているけど、
多分半分は何かあったらそこで戦わせようという気持ちもあった。

いろんな狙いがあって、そこに移民政策を進めていくんですね。

国境を守るという意味で、
農村の人たちを送ったわけなんですけども、
でも実際にそこで何か訓練みたいのはあったんですかね?

飛田兵みたいな、北海道の。
ああいうのを最初やろうとしたんだけど、
あんまりうまくいかなくて、
多分途中で諦めるんだと思うんです。
諦めて、ほぼ丸腰に近い村人たちを送り込むというのが、

後半になってからの実態だと思いますし、

結構ゲリラ兵とかも攻めてくるようなところに送ったって戦えないじゃないかというので、

結構心配する向きもあったんだけど、
それは国策で、各村々で、今回の柏崎もそうなんだけど、
各自治体とか経済界とか地元の偉い人たちが説得して回って、
行きましょう、行きましょう、行きましょうとこうやって送り出したということですよね。

農村の人たちは、自分が戦争に関わるということは知らされていなかった?

いや、ないです。そこは向こうは平和だから、

もっと今よりも豊かな生活ができますよと、そういう話で送り出されていくと。

柏崎の場合は、取材された記事とかも読むと、必ずしも農民だけじゃなくて、

柏崎の町の人とかも行ってたという話もあり、
だから必ずしも農民だけじゃないんですよね。東京から行った人もいたりとか、

いろんなのもあって、必ずしも農民だけではないんですけど、

一応農作業をしながら農村を開拓して暮らしていくというモデルですからね。
だから農業に長けた人たちのほうが良かったんだと思いますけど、

結局でもその良い土地はみんな中国の人の耕してた土地を取っちゃうわけですよね。

だから取られた人たちの恨みは、そういうことです。

めちゃくちゃ恨みを買ってそうな。

それも行ってから分かったって言いますよね。

行く前はそんな話じゃないから。
農村の人たちも。

そうそう。

やっぱり途中で中国の人が、言葉は分からないけど、
満州の歴史と立場

抗議に来て、俺の土地を返せみたいなことを言って、困っちゃう。
そこでも戦争が軽く起きたということなんですね。

そうそう。
それが後々、戦争が終わった後で恨みを買っているというのも、
日本人の立場を悪くしていく。
立場はもともと悪いんだけど、
弱い立場に置かれることになるということですよね。

そうだったんですね。
さて、ではここで1曲お届けします。
今日の曲はこちら。
隆一坂本、ザ・ラストエンペラーテーマ。
こちらの曲は1987年公開の映画ラストエンペラーの中で使われた曲です。
岸田さんが取材の際に、
満州に興味を持つきっかけとなった映画と挙げていらっしゃったそうです。

市野平先生、何かコメントがございますか?

放送で使われていたかちょっと覚えていないんですけど、岸田さんがそう言っていたのがすごく印象に残っていて、
ラストエンペラーを見て、私は満州のことは結構関心を持っていて、
というふうに話をしていて、見たんだと思ったんですけど、お二人はご覧になりましたか?

私は去年アジア市という授業を取っていて、

そこの担当の先生が、最後までは時間の関係で見れなかったんですけど、

途中まで見せていただいて、言葉が英語で話していたのがすごい印象に残っています。

全編中国の話だけど、基本全部英語で喋っているでしたっけ?

はい、喋っていて、ほとんど英語のイメージがあったので、
なんで中国なのに英語?関係ないんじゃない?と思いながら見ていた記憶があります。
ラストエンペラーについて

なるほど。さっきちょっと説明した不義を日本が説得して来たの。
彼らは満族と言われる人ですよね。

彼らの自分たちの先祖のところに新たな国を作らないかと言われて、行くんだけどという話ですよね。
どこまで見た?

そこまで。
行きました?

はい、見ました。
行くけどあまり力はなくて、全部日本の軍の言うことを聞かなきゃいけなくてという話でしたっけ?

はい、そうです。

そういう話なんです。

どれぐらい皇帝が孤独だったかみたいなのは、実はいろいろ諸説あって、
皇帝も彼もノリノリだったんじゃないかというふうに言う人もいるし、

それは全然何の力もなかったんだというふうに本人は言っているということですよね。

それって結構、だからそういう上の人たちのいろんなおもはくの下に満州国というのができていくわけですけど、
今回話をしているのは、それに踊らされてひどい目に遭ってしまった日本の人たちという話だし、
もう一つはその話と全然関係なく中国の人たちはその話に巻き込まれて土地を覆われ、ひどい目に遭うということなので、
ちょっと上の方の話だよね。ラストエンペラというのはね。

そうですね。

農民の人たちの苦労みたいな話は出てこないんですけど。

一切出てこなかった記憶があります。

でも、一つの側面を表しているということですよね。

立場があってもなくても、力がなければ大変なんですね。
そうですね。

経話キャンパスレポ
お届けしている曲は、隆一坂本、ザ・ラストエンペラテーマです。

ポッドキャストでは流れませんが、エヘイム柴田をお聞きの皆さんには、そのままラストエンペラーが流れていると思います。

小林さんこれ知ってました?

覚えてます?
隆一坂本は結構世界的にも有名で。
隆一坂本は?
隆一坂本っていう。
坂本隆一さん。
隆一坂本さんって言っちゃった。
台本に引っ張られて。
引っ張られちゃいましたね。
すごい有名な曲ですよ。

今日の経話キャンパスレポは、番組MCを務めていた卒業生の岸田レルさん他3人の卒業生の皆さんの映像作品
満州柏崎村の奇跡について、2023年8月にNHK新潟放送局が改めて取り上げたということで、再度取り上げてお話ししています。
1945年の終戦直前にソ連軍が旧満州の国境を越えて進行して逃げ惑う海田区民の人たちは最終的に日本に引き上げてくるということなんですが、

その間にも多くの苦難があったわけですよね。

そうですね。引き上げっていう言葉でちょっと勉強することはあると思うんですけど、それの意味するところはわかんないですよね。この文字だけ見ても。

そうですね。見てもなんだろうって思いますね。

実際にはソ連がいきなり攻め込んできて、その時日本は全然戦う能力がないので、結局攻め込んできたところに農民が最前線に晒されて、どうしようもなくなって、終戦直後ずっと南へ逃げていくしかないことですよね。

ここでソ連が出てくるのってちょっと意外だなと思うんですけど、どういうきっかけでソ連が進行してきたんですか?

ヤルタ協定でアメリカとイギリスと秘密で約束してて、攻め込みますということになっていたんだけど、日本は何も知らないわけですね。

もともと中立国だって日本は思ってたけれども、実は。

だから日本としては出し抜けにやられたので、みんなショックを受けるわけですけど、東京の政府の人もショックを受けたんでしょうけど、現地の人はショックどころじゃないわけですよね。

ちょっと疑問なんですけれども、日本はソ連は攻めてこないって思ってるじゃないですか。

でも満州の北の国境の方に人を送り込んで、いざとなったら飛んでんへいみたいな感じで、それって何か矛盾してませんか?

ニスト中立条約っていうのはそういう意味では、ぶつかりそうな日本とソ連が中立条約を結んでお互いに攻めないようにしましょうっていうことを決めただけだから。

じゃあ防衛って感じなんですかね。

常に国境を巡る緊張関係っていうのはあったわけですね。

ありがとうございます。なるほどです。

みんなだからその後帰ってくる時に死んでしまう人とか、戦いに巻き込まれた人もいるし、よく聞くのは子どもを連れて行くことができなくなって中国の人に預ける。

残留孤児。

残留孤児っていうのもそうだし、女性が乱暴されるとか、そういういろんな話がありますよね。
帰国の運命と複雑な状況

取材された柏崎出身の牧口博さんはすぐに引き上げずに村に戻り、しばらく中国国内に留まっていたってことですよね。

そうですね。残留孤児と並んで残留婦人っていう言葉もあるんですけど、その人たちはつまり大人になっている女性が、夫はみんな戦争に連れて行かれちゃってるから、

女性と子どもだけで逃げていく家庭で、結局中国人男性と一緒になるっていうようなケースも結構あって、
だからそこで子どもとお母さんで中国人家庭に入って、農産で一緒に暮らすみたいな、そういうことになっていくのもあります。

そういう人たちも残留孤児と同じように、たぶん後々日本に帰ってくることになるんですけど。

牧口さんの家庭がそうだったわけですよね。

牧口さんの場合はもっと複雑なんですよね。だから牧口さんは引き上げた土地が19って言うんですけど、結構大きくなってたんですけど、
もう最後、しばらく中国に残って農村で暮らしてたんですけど、もう最後の船ですよっていうお知らせが来て、牧口博史さんだけが帰る。

お母さんや弟たちは残って、牧口さんのみが柏崎に。

この時いろんなことが実は分かっていたんですけど、お母さん自身も中国の現地の男性と結婚して一緒になってたということですけど、
実はお父さんの方も柏崎に帰っていて、再婚していたということが分かります。

そうなんですね。つらい。

だからお母さんは帰れない。帰れない。

子供も小さい。

はい。

じゃあ、ひろしお前だけ先に帰って、という話になるんですね。

ひろしさんのお父さんとお母さんは会うことはできなくなっちゃった。

そうですね。だからお父さんのところにひろしさんは帰って、その後お母さんと手紙のやり取りとかずっとしていたのも見せていただきましたけど、

いろいろ中国に残った家族のことを支援したりするのもひろしさんやってましたが、
でもお母さんは帰ってこれなかったんだ、最後まで。
結局、最後までというか、お父さんが亡くなってから帰ってきてます。

そうだったんですね。

それは中国で結婚した中国人の方とともに日本に帰ってきたってことですかね。

そうですね。だからまきぐちさんのお母さんとその家族がみんな一緒にその後に帰ってくることになり、
だから私の記憶では中国人のすれ合いの方も一緒に帰ってくるというか、一緒に日本に来ているはずです。
だから非常に複雑。その時、戦争の時に何があったんですかっていうことを私たちはその話ばっかり聞きがちですけど、

実はその後、まきぐち家がどういう複雑な状況に置かれるのか。

そんなに戦争の時の激しいドラマみたいなものはないけど、複雑なものはずっとその後に残るんだなっていうのをいろいろ聞いてて分かりました。

今取材の話が出たのですが、その壮絶な運命を生きたまきぐちさんへの取材、先ほども市野平先生がおっしゃってましたが、苦労も多かったんじゃないでしょうか。

そうですね。戦争の時の後、戦争に巻き込まれたとか逃げ惑ったとかそういう話、それから食べ物がなかった話、どれも壮絶な話なんですけど、

でもそもそももう昔の話でみんなほとんど断片的な知識もあるかないかぐらいな状態で行ったメンバーもいて、

多分相当大変だったと思いますね。聞いた話をどんどん消化するのも大変な状態で。

なので編集も多分最後大変だったし、岸田さんが多分一番メモとかも作って頑張ってたけど、
彼女自身は編集の経験がその時なかったので、そこも難しさがあったような気がしますね。
「満洲柏崎村の軌跡」とは

岸田さんも編集をしようとしたけれども、自分の持っているパソコンのスペック的には非常に厳しいみたいなのを言ってたのをわずかに覚えてますね。

そうですね。

コロナ禍での取材でもあったんですよね。

そうです。それも大変でね。だから本当はなかなかあんまり外に行って取材するっていうのも難しい状態だったんですけど、
訪ねて行ったらどんどん上がって、じゃあうちでやりましょうみたいな話になって、
人の家に上がり込んでいいのかみたいな、いろいろ悩みもありつつ、せっかくでも機会を作っていただいたので気をつけつつ、
たぶんずっとマスクをしたままですけどね、もちろんね。
マスクをつけたまま牧口家で取材したという記憶があります。

この作品は新潟県自作映像視聴学教材コンクールで優秀賞を取ったと聞いています。
当時の皆さんの反応はいかがでしたか?

そうですね。このテーマを知らないのは、私の世代もあまり知らないと思います。

本当にこれからどんどん忘れ去られていく記憶なわけで、

それを20代の大学生がチャレンジして、
それまわりなりに自分たちで消化して作品にするっていうことそのものが、

作品としても大きな意味があったと思いますし、大学生らしいというかね。
うちの大学のリベラルアーツの中で学んだことを作品にするっていうプロセスとしても非常に意義があったと思うし、
まだ卒業する段階ではあまり消化できていなくても、
こうやってまた取材に来てもらったりして、
なるほど自分がやったことはそういう意味があったんだな、
あとからかみしめられるっていう、そういう意味でもよかったんじゃないかなと思いますね。

すごいスルメみたいな作品が出来上がったみたいな。

スルメみたいなところがあるんじゃないかなと思いますね。

さてエンディングです。
柏崎の海について

小林さんは今年の夏に柏崎の海が綺麗な駅大海川に行ってきたそうですが、

どういった経緯で行かれたんですか?

実は大海川駅っていうのはインスタグラムとか、
Twitter、今Xって呼ばれてるんですけど、そこで実際写真を見たことがあって、
写真を見たら本当に海が近くにあって、すごい綺麗だったんですね。
それで行ってみたいなってずっと思ってたんですけど、
なかなか柏崎って行く機会がないんですね、私は。

なのでどうしようかなと思って、このまま行かないで終わるかなと思ったら、
ちょうど友達も行きたいって言ってくれる子がいて、

それで一緒に友達と青海川駅に行ってきました。
実際その時も晴れてて、すごい本当に海が近くにあって、
実際海も本当に今まで見たことがないぐらい青くて、すごい綺麗でした。

さすが青海川と書いて大海川と呼ぶだけありますね。

これ人いっぱいいるんですか?

そうですね、私が行った時は本当に実際に立派なカメラを持って来ている人が3組、

私含めて4組ぐらい。

でも結構私が柏崎の方にまた用事があって柏崎駅に行く電車に乗った時に、
実際に降りている人とかもいて、結構人気な駅なんだなっていうのが分かりました。

今ネットで検索してみたら、そこまで大きい駅ではないので、

4組も写真撮影に来てたらそれはなかなかの人気ですよね。

では今日の放送はこの辺で失礼します。
敬和キャンパスレポは、
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番組名、敬和キャンパスレポで検索してみてください。
今日の敬和キャンパスレポ終了の時間です。
みなさんおやすみなさい。
敬和キャンパスレポは、実践するリベラルアーツ、敬和学園大学の提供でお送りしました。