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三井・三菱を圧倒するか、叱らざるも天下を三分するか。始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
よろしくお願いします。なんか三井やら三菱やら出てきたけど、何だろうね。
これ結構ね、たぶんね、もしかしたらリスナーの方もこれだって分かっちゃう人もいるかもしれないんだけど、
これね、第一世界大戦中に天下三分の宣言書って言われて、鈴木商店の金子直吉っていう人が書いた手紙の一部なんだよ。
これ結構長い文章なんだけど、今抜粋したところ、一番有名どころのところなんだけど、
鈴木商店ってさ、今は破綻しちゃってないんだけど、この第一世界大戦中とかもう一番前世紀というか、
もちろんその今でこそある三井だったり三菱っていうのと、本当に引けを取らないぐらいの大企業だった。
材末みたいな?
そうそうそうそう。ただね、三井とかはもっと歴史は古いんだけど、この何だろう、明治になって一気に出てきたっていうような会社なんだよね。
なるほどね。
そうそう。そんな感じでね、今日はですね、実はこれね、前にさリクエストがあったじゃん。
で、兵庫県の親父さんっていう方から。
で、その中の一つに鈴木商店の倒産っていうのがあったんで、せっかくなんでちょっとやってみようと思って、今日。
なるほどね。
ただ、もしかしたらどうなんだろうな、鈴木商店のその倒産部分に絞ってやってほしいのかも知れないんだけれども、
多分聞いてる人も鈴木商店ってそもそも何ってわかんない人の方は絶対多いから、もうその鈴木商店っていうの全体をやっていきたいなと思います。
わかりました。
でね、さっき言った天下三分の宣言書って言われるものなんだけど、これ。
この第一世界大戦の時に最も取引高が多くなったんだけど、これね、大正8年、9年の取引高が16億なの、その当時の金額でね。
で、その当時三井物産が12億で、三菱にももちろん圧倒してるっていう、そんなね、すごい大企業があったんですよ。
へー。
そうそう、まあ今で総合商社みたいな。
うん。
で、あのね、鈴木商店っていうのは破綻したんだけれども、その後関係会社、子会社だったりとか、鈴木商店が携わった企業って今でも残ってて、
例えば神戸精工だったり、定陣とか、あと創実とかね、ほんとね、これ以外にもいっぱいあんの。
03:04
うん。
っていうぐらいな影響を残してるんだけど、今でも。
うん。
で、まずね、じゃあちょっとおいたちから説明したいなと思うんだけれども、
おい。
1868年にですね、神戸が港が開港するの。
うん。
で、それで外国とか海外からいろいろなものとか入ってくるようになるんだけども、
うん。
そこでね、鈴木いわじろうっていう人がいて、
うん。
この人ね、菓子職人になりたくて、長崎に修行に行ったのよ。
うん。
ちなみにこの人、埼玉県出身なのよ。
あ、そうなの?
そう、うちらと一緒だ。
で、長崎で修行に行って、東京に戻る途中で、
うん。
神戸がね、あの開港でこうにぎわってたわけよ。
うん。
で、あ、なんかここでちょっと商売やってみようっていうふうになって、
うん。
実はその神戸っていうのは、あんま関係なかったとこだったんだけど、
うん。
この鈴木いわじろうにとっては。
で、金立鈴木商店っていうのを1874年に開くんす。
うん。
これはね、もともと海外から輸入された砂糖を国内で販売しているタツミヤっていうのがあったの。
で、そこがもともと大阪にあったところで、
うん。
で、のれんわけっていうことで、神戸に金立鈴木商店っていうのを開いたんだよね。
へえ。
そうそうそう。
で、この人ね、その3年後にヨネっていう女性と結婚するの。
うん。
で、これね、砂糖の販売ですごい繁盛するわけよ。
ああ。
で、そんなときにね、1886年に金子直吉っていう土田出身で20歳でね、今で鈴木商店に入ってくるわけよ。
ああ。
そう。で、この金子直吉がこれから鈴木商店をどんどん大きくしていくその存在なの。
うん。
で、この入ったときにね、まあ初代のその岩二郎に厳しくね、商売を教わって。
ああ。
で、なんだろうな、ソロ版でこう頭殴られるって血が出るような。
ああ。
そんなね、厳しいね、ときもあったらしくて。
へえ。
で、金子直吉はね、こう最初耐えられずに、一度ね、土産に帰ったりとかして。
うん。
で、その米さんが手紙で金子直吉を励ましてもう一度戻ってきたりとかしてた。
うん。
そうそう。だからこの米に対してもかなり恩情を感じてんでね。
ああ、そうなんだ。
そう。で、そんなときに1894年にその先代の岩二郎っていうのが病気で亡くなっちゃう。
うん。
で、ここでね、店じまいをするっていう風にちょっと悩んでたんだけども。
うん。
まあ米が存続するっていうのを決意するんだけど。
うん。
それはなんか金子直吉に経営を任せるっていう形で存続を決意するの。
うん。
そうそう。一番トップは米なんだけれども。
06:02
うん。
ただ、実際のもう経営の舵は金子直吉が握るっていう。
ああ。
で、その後もね、直吉っていうのは授業で最初うまくいかずに大きな損を出すときもあって。
うん。
それでも米っていうのは信頼して自分を任せてくれたんだよね。
うん。
で、この鈴木商店っていうのは、まあいろんな形で儲けるんだけども。
うん。
商納で儲けるんだよね。
商納?
そう、商納ってあんま今聞かないけど。
うん。
あの、クスヌキの葉から取れるのが商納なんだけど。
うん。
これ、あの、当時防虫剤とか。
うん。
あと火薬の原料になってたりするの。
へえ。
だからね、あの、例えば第一次世界大戦とかぐらいのときは。
うん。
商納っていうのはもう金と同じぐらいの価値だったなって。
へえ。なんか物がわかんないからピンとこないけど。
あ、そうそう。まあね、確かに。よかったら調べてください。
そうだね、商納ね。
商納。で、あの日清戦争がね。
うん。
あったじゃん。
ああ。
それでさ、台湾があの植民地になるんだけども。
うん。
この台湾でその商納が多く取れたのよ。
うん。
台湾ってあのクスノキが結構ね、あって。
うん。
で、それにね、鈴木昌天も目をつけるわけよ。
ああ。
そうそう。で、ただね、台湾をね統括してたのがその児玉玄太郎っていうのがいて。
うん。
この相方としてあの後藤新平がいたのよ。
うん。
で、この人があの民政局長として台湾にいたんだけども。
うん。
この商納を国が主導で戦敗制にしようとしたんだよ。
うん。
そうするとさ、今までさ、商納をこうやって扱ってる業者ってさ、あんまりさ、嬉しくないじゃん。
まあそうだね。
ね、国の戦敗制になっちゃったら。
うん。
でも、金子直吉は逆にその商納を扱ってる業者を取りまとめて。
うん。
政府にね、まあ協力をしたわけよ。
うんうん。
まあなんか、そっちの方が最終的に自分にとっても旨味が取れると思ったんだろうね。
ああ。
結果ね、その戦敗制に協力したっていうことで、台湾のね、65%の独占販売権を鈴木商店っていうのは得るんだよね。
ああ、なるほど。
で、これでもっともっと大きくなっていくんだけど。
うん。
今まで個人商店だったのがだんだん大きくなってきたんで、1902年に合命会社鈴木商店っていうふうに、まあちょっと組織化するんだよ。
うん。
あとね、商納の他にも砂糖っていうのも大きく扱ってて。
うん。
北九州にね、代理製糖所っていうのを建てて、砂糖のね、販売するだけじゃなくて製造も行ったの。
へえ。
そう。で、九州でね、もうトップシェアになるぐらいの大きな製造所を作るんだけども。
うん。
でね、そこでね、関西でね、その当時独占してた大日本製糖っていうのがあって。
うん。
09:00
まあ大きな会社なんだけど、そこにね、合併を持ちかけられるの。
うん。
だけど、まあ金子直吉っていうのは合併せずに、結構な高値で650万で最終的に売るんだよね。
うん。
割とね、吹っかけて高い金額出して売って。
うん。
だから投資した額の3倍の利益で売ったんだ。
ああ。
そうそうそう。しかもさらに、売るだけじゃなくて販売権ももらったんだよね。
ん?砂糖の販売権は残したまんまってこと?
あ、そうそうそうそう。
うん。
っていうような有利な状況でやったっていう。
へえ。
そうそう。だから商売上手なんだよね、この人ね。
うーん、そうだね。
で、あの、鈴木商店にね、だからこうやって大きくなるにつれて、有能な人材も多く入ってくるようになったの。
ああ。
それは当時で目指すようなその大卒だったりとか。
うん。
そういったどんどん活気が出てくるわけ。
うん。
で、こういう若い社員にもいきなり大きな金額を動かしたりとか。
うん。
で、自由にこうなんだろう、自由にというか裁量を持たせてやらせたっていうところもあって。
うん。
有能な人材がどんどん育つっていうのもあったのよ。
で、そんな時にね、1914年から第一次世界大戦が始まるんだよね。
ああ。
で、ここで鈴木商店っていうのは海外にね、40箇所ぐらいもう既に拠点を持ってたのよ、この時。
うん。
で、世界中の視点から当時ではね、割と珍しいあの電報でやり取りをしたの。
ああ。
で、これで自社で設備投資して、あの独自の情報も作ったんだけど。
うん。
あらゆるさ、その海外の商品の値動きだったりとか。
うん。
海外の情勢とかをどこよりもこう早くね、情報を得ることができたの、これで。
ああ、そうだよね。
そうそうそう。だからなんだろうね、朝日とか毎日新聞とかも。
うん。
で、あの鈴木商店に海外の情勢とかを聞きに来るほど、情報に長けてたんだよね。
ああ。
そう。で、ここでね、読みをするわけよ。
うん。
当時さ、第一世界大戦って始まった時は、すぐに終わるだろうっていう予想が多かったのよ。
うん。
だけど、実際は割と長引いたんだよね、この戦争って。
うん。
で、その時に砂糖とか小麦、鉄っていうのをね、最初に買いまくったのよ。
うん。
で、金子直吉も鉄と名のつくものは、金に意図目をつけずにいくらでも買いまくれっていう指示が出るのよ。
うん。
そこでね、活躍した一人にも、ロンドン支店にいた高畑誠一っていう人もいるんだけど、各国でこう買い占めを行ったのよ。
ああ。
そう。で、これがね、世間では、なんかすごい異常な行動で気が狂ったんじゃないかって言われたほど、本当に買いまくったんだよね。
うん。
そしたら、3、4か月後に物価が高騰したの。
ああ。
そう。で、インフレが起こったんだけど。
うん。
12:00
で、特にね、鉄とか船がものすごく高騰したの。
うん。
まあ、事前にさ、鈴木商店っていうのは鉄を買ってたりとか、船もね、注文して作ってもらってたりしてたの。
うん。
当時さ、船っていうのは、イギリスのさ、艦隊とかが、ドイツの潜水艦とかに1日に平均5万トンぐらい沈められてたって言われてんだよね。
ああ。
そうそう。だから、この日本にも国内外から注文が殺到したのよ。
ああ。
まあ、これで大きく繁盛するわけなんだけども。
うん。
でね、1916年に鈴木商店っていうのは、自らね、造船所っていうのを買収して、張馬造船所っていうのを作って、船の製造も始めるっていう。
うん。
積極的にこう、どんどん拡大路線に入ったんだよね。
ああ。
そう。で、そんな時にね、でもね、鉄っていうのは結局そのイギリスとかアメリカからもらってたというか、依存してたわけよ。
うん。
その戦争によって、鉄っていうのは鉄不足になったのよ。
うん。
で、イギリスとかアメリカも日本に鉄を輸出するのを禁止したんだよね、一時期。
うん。
で、鉄が入ってこないっていうんで、国がアメリカだったりとかに交渉したんだけども、
うん。
なかなか受け入れてもらえなくて、
そこで、鈴木商店の金子直吉も、日本に駐在してたアメリカ大使のローランド・モリスっていう人に商談しに行ったの。
うん。
でね、このね、金子直吉はやっぱ商売上手というか、
うん。
ただで、何だろう、お願いしますって言っても断れるだけだと思って、条件を出すのよ。
これがね、受け入れられたんだけども、日本がアメリカから鉄材を受け取る代わりに、
受け取った鉄材の3分の2はアメリカに提供する船を作りますって。
うん。
アメリカもさ、船が欲しかったわけよ。
あー。
それで、その代わり、残りの余った3分の1の鉄は日本で使っていいっていう条件にしてほしいっていう。
うん。
でね、受け入れられてね、鉄っていうのは入ってくるようになったのよ。
あー。
っていうような商売上手なとこもあって。
うん。
あとね、鈴木商店ってイギリスの政府の注文をね、直接受けつったときもあったの。
うん。
それはね、イギリスの商社がもう戦争で麻痺しちゃってて、
だから政府からの直接注文を受けて、小麦とか大豆とか約50万トンぐらい一気に注文が入ったりとか。
うん。
そのときに、冒頭で言った大正8年、9年ぐらいに、年賞16億って三井物産を抜いて、もう日本のトップに踊り出たの、そのときはね。
あー。
そうそうそう。
これ、なんでこんなに鈴木商店が大躍進をしたんだろうっていう、すごい手法がいろいろあって、
うん。
ちょっと2つだけ紹介するんだけど、
うん。
15:00
当時さ、例えばイギリスに行くのに、日本から40日くらい船でかかんのよ。
あー。
で、普通だったら、例えばイギリスだったら注文が日本に来るじゃん。
うん。
そしたら、来てから船に積み込んで、40日かけて運ぶんだけども、
うん。
鈴木商店はもう事前に、もうこれが必要だろうっていうものを船に積み込んで、
うん。
出発して、あのイギリスに着く2、3日前になって初めて、そのイギリスの商人とかに当てて情報を流すのよ。
うん。
船がもう2、3日後に着きますみたいな。
うん。
そうするとさ、あのイギリスの商人とかがこう争って、もう本当にさ、戦争中ってあればあるほど欲しいから物資が。
うん。
争って値が吊り上がんのよ。
あー。
だから普通にこう売るよりも2割とか高い値段で売れるっていう。
うん。
っていうので儲けたりとか、
うん。
あとはそのストックボート方式っていうんだけど、
うん。
だから受注されてない段階でもう受注を見越して、船を大量生産しとくの。
うん。
そんで、すぐ船を売るっていう。
これってさ、ある意味すごい儲けられるんだけど、このストップしちゃった時に損害は大きいんだよね。
まあリスクはすごいありそうだよね。
そうそう。これもね、ちょっと破産になる一つの原因にもなるんだけど、
うん。
そんな中ね、1918年に米騒動が起こるの。
うん。
これね、米騒動が起きて、鈴木商店って本店がね、焼き討ちにあうんだよ。
うん。
1万人ぐらいの群衆が鈴木商店の本店の前に来て、
うん。
鉄球缶だったりとかで流して火を放ったりとか、
うん。
民衆が壊したりとかしたの。
うん。
そうそう。これね、そもそもなんで米騒動になったかっていうと、
うん。
第一次世界大戦ってさ、まあ後継期になったんだけど、インフレを引き起こしたわけよ。
うん。
要は米の値段が、例えば100円で買えたものが200円とか300円になったわけよ、一気に。
うん。
そうそう。で、物価が上がっちゃって、庶民がなかなか買えない状況になっちゃったの。
うん。
そう。あとは単純に米が不作だったっていうのもあったのよ。
うん。
その年にね。で、あとね、政府がシベリア出兵を宣言したときなの、そのときって。
うん。
で、これによってシベリア出兵するのに、多く軍が食料として必要な米っていう需要が高まるわけよ。
うん。
なんで米の値段が吊り上がるわけよ、またさらに。
うん。
そうそう。だからその物価の上昇に、この民衆のお金がついていかないというか、
うん。
そんな状況になってたわけよ。
うん。
で、なんでこの鈴木商店がターゲットにされたかっていうと、
うん。
大阪朝日新聞って、今の朝日新聞の大阪支店なんだけど、
18:00
うん。
これがね、鈴木商店が米の価格を吊り上げてるっていうようなね、記事を書くのよ。
うん。
それ以外にもね、朝日新聞って結構、鈴木商店だったりとか、
さっき言った、台湾で関係が鈴木商店と深かった誤党新兵とかを、
うん。
ある意味ね、敵対するような記事をね、たびたび書いてたりした。
うん。
で、これでね、世間が信じて暴動に移るような要因を残すんだけども、
うん。
あとはその、なんだろう、政治の絡みなんだよね。
うん。
言われてんだけど、当時寺内内閣っていうのがあって、
うん。
その内緒に、誤党新兵っていうのがいたの。
うん。
そうそう。で、誤党新兵は鈴木商店とかなり信仰が深かったから、
うん。
で、当時ってその内閣を倒そうと、派閥があって県政会っていうのがいて、
うん。
それがなんか、鈴木商店が今、こんな時に小麦を買い占めてるとかいうのをバックローしたりとかするの。
うん。
まあ、だけど米じゃないのは小麦なんだけどね。
うん。
まあ、そういった悪い印象をつけようとしてたっていう流れもあったの。
あー。
だからね、あの、鈴木商店って、しばらくね、なんか悪い印象を持ってったんだよ、ずっと。
うん。
それをね、破綻してからね、50年近いくらい歳月が流れてから、
うん。
城山サブロって作家の方が、
うん。
徹底的にその米騒動を調べて、
うん。
あの、これ有名な作品の中にネズミっていう本があるんだけど、
うん。
ここでね、半世紀近く経った後に、この鈴木商店のその米騒動についてね、調べた結果をその本に載せるわけよ。
あー。
で、これでね、鈴木商店のお名って晴れんだけども、
うん。
要は、あの、関係なかったのよ。
あー。
よくよく調べると、米騒動のその1年前には、なんか大量に71万票ぐらいかな、海外に輸出してたっていうのはあったんだけど、
うん。
その年はやってないのよ。
うん。
だからさっき言った、小麦はあのイギリス政府から食料危機の救済のために輸出はしてたんだけども、
うん。
その時は米は不足だから米はやってなくて、
うん。
逆に朝鮮米とかを輸入して、米のその緩和に力を注いでたの。
あー。
それが、なんか噂が噂を読んで、変な風になっちゃって、
うん。
っていうような、そんなあの衝撃的な事件があったんですよ。
まあ朝日の捏造か。
そうそうそう。朝日の捏造とも言われる。
まあその朝日の裏には、さらにまた政治が絡んでるんじゃないかとか、
うん。
あの、その裏には実は財閥も絡んでるんじゃないかみたいなね。
あー。
そういうね、ちょっと影がある。
あの実際ね、これね、三井物産の貨物船とかがハワイでね、この時日本の米を輸出してたっていう証言もあるんだよ。
うん。
まあまあ、これはちょっとあくまで憶測も入っちゃうんで何とも言えないんだけど、
うん。
21:00
まあそんなちょっと不運が訪れるわけ、鈴木商店にも。
うん。
そう、第一次世界大戦が終わって、
うん。
1920年にね、東京株式市場で株価が大暴落するの。
うん。
しかもね、あのその1923年には関東大震災もあって、
うん。
日本ってそう、どんどんどんどんさ、こう悪い状況に陥っていくわけよ。
うん。
でね、鈴木商店ってさ、こう事前にさ、注文する前に買いまくってさ、
うん。
発注前にこう用意して売るっていう強気の姿勢取ってたじゃん。
うん。
だからそういうのも裏目になったりとか、
うん。
あとはね、このどんどんその規模を大きくしようとしてたの、その当時も。
うん。
で、相模湾っていうところね、約3万坪のね拡張工事中だったの。
うん。
まだ完成してなくて進行中だったの。この不景気になっちゃったのに。
あー。
そうそうそう。でね、それで、たぶん張馬造船所とかは、
最初はね、従業員270人ぐらいだったのが、その第一次世界大戦終わる頃はもう5700人ぐらい従業員抱えちゃってんだよ。
うさまじいね、なんか。
だけど、戦争終わっちゃったからもう需要なくなっちゃったんだよ、船作るとか。
うん。
だからそういったさ、規模を拡大しすぎたゆえに、
うん。
需要がないっていうね。
うん。
逃げ場のない状況に陥っちゃったりとかしてて、
うん。
そう、神戸聖皇なんかも従業員がいっぱいいるのに仕事がなくて、
うん。
でもね、金子直吉って大きなリストラってしなかったのよ。
あー。
この人なんかね、そういう人とのつながりってすごく大切にするというか、
うん。
恩情でリストラはあまり行わずに、
うん。
むしろ神戸聖皇とか出勤するだけでね、6割ぐらい給料払ってたりとか、仕事ないのに。
あー。
そういう人なのよ。
うん。
でね、この鈴木商店ってあのね、融資を受けてたんだけど、
この融資先がね、台湾銀行にね、結構偏ってたの。
あー。
で、これでね、1923年ぐらいの末で借入金額っていうのが膨れ上がっちゃって、どんどん。
うん。
2億2000万ぐらい、当時の金額でなってて、
で、これがね、台湾銀行もさすがにまずいと思って、
うん。
買入して、当時ね、株式会社じゃなかったのよ。
うん。
それをまずあの持株会社っていうの、鈴木合命会社っていうのを作って、
うん。
で、まあその下に貿易部門として、あの株式会社鈴木商店っていうのを作ったの。
うん。
そう、だからなんか上にホールディングスを作って、なんか株式会社があるみたいな。
あー。
そういうまあ構造にしたの。なんでこういう構造にするかっていうと、
金子直吉がもうワンマン経営というか、独占してるような状態を監視する狙いがあったのよ。
あー。
そうそうそうそう。まあそんな感じで。
ただね、どんどんやっぱ景気も悪いし、需要も、商売もうまくいかないし、
24:00
うん。
っていうので、1926年にはさらに台湾銀行の貸し出し金額っていうのは、
6割ぐらい金子商店が占めてたの。
うん。
でぐらいね、膨大な。台湾銀行もさ、辞めるに辞められずに、金子商店もさらに融資をもらうみたいな。
うん。
そんな時に決定だとなるのが、1927年に昭和のね、金融恐慌っていうのが起こるの。
うん。
まあこれはもともとその第一次世界大戦の反動で不況になってるっていうのがあるんだけど、
うん。
その引き金を引いたのが衆院本会議で、
うん。
片岡直春っていう人が、これ討論してる時に事務方から渡されたメモがあって、
うん。
そのメモが間違ってたんだけど、とうとう東京渡辺銀行が破綻しましたって言っちゃったのよ。
ああ。
そうそうそう。これ有名な話なんだけどさ、
その当時別に東京渡辺銀行って破綻もしてないんだけど、
うん。
間違った情報を言っちゃって、それで国民とか預金者が銀行に殺到したりとかして、
うん。
お金を引き出そうとして、いくつも銀行が休業に追い込まれるっていうような、そういう金融恐慌が起こるんだ。
うん。
そうそうそう。で、こんな時にさ、鈴木商店っていうのは借金はもう総額5億円ぐらいだったの。
うん。
5億円って言ったら当時の多分数千億円って言われてるのよ。
うん。
で、そのうちの合計のうちの3億7千万が台湾銀行だった。
ああ。
でね、台湾銀行もそんな金融恐慌の中、もう融資は出せないって言って、
うん。
鈴木商店に対して融資を打ち切ったのよ。
うん。
これでもう鈴木商店ってどうしようもなくなっちゃって、1927年に経営破綻した。
うん。
っていうのが、まあ、鈴木商店のこの一連の流れなんだよね。
ああ。
そうそう。でね、経営破綻してね、金子直吉のね、家とか家財とかもね、一切ね、差し押さえられたんだよね。
ああ、まあそうなるよね。
そうそうそうそう。で、この人、だからさ、自分のお金ってあの懐にそんなに多くね、入れてなかったのよ。
ああ。
だから、あの逆にね、鈴木商店の関係者とかがお金を集めて、彼のためにね、あの神戸に家を与えたぐらい。
うん。
でね、あのこの破綻して、鈴木系列って会社ってね、60ぐらいあったの、その当時。
うん。
だから、あのまあ独立したりとか、あとはね、三井のね、参加に入ったっていうのも多かったのよ。
うん。
まあちょっとね、その三井が絡んでる影はあるんだけど、まあいいや。
で、まあ優秀な社員がね、多くいたんで、
うん。
ロンドン市でのね、高畑製地とかを中心にね、あの日商っていう会社も作ったのよ、その後。
鈴木商店っていうのはなくなったんだけど、その鈴木商店の商業部門を引き継いだのがこの日商で、
うん。
今はね、こう合併とかしてね、創実っていう名前になってるんだけど、
うん。
27:00
そうそう。でね、晩年直吉は何してたかっていうと、まだね、あの金子商店の復活を夢見て、
うん。
北海道でこう事業を起こしたりとか、最後のね、最後までね、まあ頑張ってたんだよ、彼なりに。
ああ。
まあだけど、まあその夢は叶えられずに、1944年、77歳でね、この世を去るわけ。
うん。
まあこんな感じで終わるんだけど、まあまとめるとさ、なんでこんなに大きな企業がさ、三井三菱っていうのは不況の中でも生き残ったわけじゃん。
うん。
でもなんで鈴木商店は破綻したのかっていうね、
うん。
っていうのをちょっとまとめると、
うん。
まあその前にお前が語るなっていうとこは多分リスナーの人があるかもしんないけど。
なんで?
いや、俺思ったんだけどさ、こうやってさ、経営とかもしたことないのにさ、あの、例えば孫正義さんとかさ、あのね、スティーブジョブズとかが語るならわかるじゃん。
いや、まあそんなこと言ったら誰も語れねえよ。
お前が経営を語るなって思わない?
いや、思わないと思うけど。
まあまあいいや。で、鈴木商店ってさ、
うん。
金子直吉のさ、ワンマン経営だったわけじゃん。
ああ。
そうやってさ、いけいけの時はいいんだけどさ、
うん。
あの当時ってさ、三井もすでにさ、合議制っていってさ、複数の人がの、そうチェック機能が入る状態だったのよ。
うん。
で、三菱もさ、あの創業者の岩崎家っていうのが、まあチェック機能の役目を果たしてたりとか、
うん。
要はブレーキをね、かける役目の人がいなかったんだよね。
うん。
そう。で、あともうその、それでまあ事業拡張しすぎたし、
うん。
まあ攻めのね、姿勢がこう裏目に出たのかなっていう、
うん。
のもあるし、あとまあその銀行だよね、台湾銀行にこう依存しすぎてたっていうのがあって、
うん。
他のさ、その三井とか三菱っていう財閥はさ、自分のさ、ところの系列下にさ、銀行があったわけじゃん。
ああ。
そう。で、金子の基地の相手しなかったんだよ。その財閥系の銀行が嫌いというか、
うん。
彼って生産こそ人間の一番尊い仕事だっていう信念を持ってた。
うん。
だからね、あんまりそういうところには力を入れなかったんだよね。
ああ。
っていうのがあるのかなみたいな。
うん。
でもさ、いい点もあってさ、すごく若い人材が育ったんだよね、高校。
うん。
で、それはさっきも言ったけど、大きな仕事をさ、大きな金額取引させたりとか、で、割とこの自由にやらせたっていう部分もあって、
うん。
その後に人材を残して、で、今にも繋がる企業を残したんだよね。
うん。
で、台湾とかにもさ、鈴木商店の影響もあって、工業化っていうのが一気に済んだとも言われてるね。
うん。
まあ、そんな感じです。
はい。
いかがでしょうか。
そうだね。やっぱさ、それって結果論にはなっちゃってるけどさ、金子直吉はさ、結局は潰しちゃったわけじゃん。
30:03
まあね。
うん。で、多分それはもう結果論だからさ、あれだけど、多分本当に経営者として、何だろうな、やっぱ運とかさ、そういうのもすごい重要だなっていうのを本当に思ってさ。
ああ。
だって結局、まあ変な噂とかさ、単純にその強行とかさ、もうどうしようもない部分ってさ、なんか傾いちゃったっていうところが強いわけじゃん。
うん。
だから本当なんかそういう運がね、なんか、やっぱり運ってすごい大事っていうかさ、タイミングとか運っていうのは本当に人の人生とかそういったものにはすごく絡んでくることなんだなっていうのは感じたね。
ああ、確かにね。あのさ、これさ、大きく戦争が絡んでんじゃん。
うん。
空気商店の発展にも。
うん。
没落にもさ。
うん。
戦争ってすごいその、何だろう、本当に機にこう浮遊走というか作り出すけど、
うん。
一気にこうやって終わったら没落するっていうような、なんかすごいよね、落差が。
うん。
でね、このね、金子直吉ってね、写真もあるんだけど、
うん。
丸眼鏡がトレードマークなのよ。
ああ。
そう、ね、なんかそれ見てね、あの、例えばジョン・レノンだったりとか、
うん。
スティーブ・ジョブスも丸眼鏡だったなと思って。
え、それは何、多分関係ないよね、きっと。
関係ない、関係ない。
真似したとかじゃないんでしょ。
真似してないでしょ、全然。
まあそんな感じで、今日はリクエストに初めてお答えするという形で、
鈴木商店をやってみました。
はい。
じゃあ皆さんにとってね、歴史から学んで、実際に私こんな行動してみましたっていうのもあったらね、
ぜひぜひコメントよろしくお願いします。
なんかすげえスケールがでかい話になりそうだけどね、歴史から学んでって。
なんかさ、こういうの聞きたくない?もしあったら。
まあなんかね、変な話を俺らがこうやって喋ってるのを聞いて起業しましたとか聞いたらちょっと嬉しくなっちゃう。
それやばいでしょ。
ねえ、もう発注前に事前に船作ってましたとかそんな人もいたらね。
船作ってる人の方が少ねえわな。
まあね。
はい、じゃあ最後まで聞いていただいてありがとうございました。
はい、ありがとうございました。