-
-
スピーカー 2
いやー、またなかなか興味深いテーマをね、こう選んでくれて、今大人はね、こう歓喜してるよ。わーって。
スピーカー 1
いやいや、ちょっとね、重い話なんですが、この事件について、当時の関係者とか、丹念にね、聞き取りとか調査を行って、本となって、9人の乙女一瞬の夏っていうのを川島康夫さんって方が書いてるのを今回は主に参考にして話したいと思います。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
で、ちょっとできるだけ、電話交換士の方も名前を読み上げるんだけども、読み方がね、ちょっとそこまで書いてないかったんで、ちょっとね、間違ってたらごめんなさい。
はい。
スピーカー 2
で、電話交換士っていうのがまずあって、今みたいに、かけたいあの子に直接電話できるっていう時代ではなかったんだよね。
スピーカー 1
うん。
で、電話をしたい発信者はまずその電話交換士につないで、そこでかけたい相手先を伝えるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、その電話交換士が手動で回線を接続して、初めて相手先と通話が可能になるっていう、で、この電話の取り付き業務のことが電話交換士だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、戦時中、この業務っていうのは軍の情報をいち早く伝えるっていった、まあ重要な役割もになってたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ちなみにちょっと余談なんだけど、あの、もしもしとか言うじゃん。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、こうやってあの電話交換士が使っていた言葉から来てるらしい。
スピーカー 2
ああ、そうなんだ。
スピーカー 1
そうそう、あの、この電話交換士が最初にね、申します、申しますって言ってから話すようにしてたんだって。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これから話しますよっていう意味もあるし、まあその当時さ、回線が今より不安定だったから、相手にこうちゃんと届いてるかっていうのを確認する意味でも、こういうあの申します、申しますって言っていたんだけども、いつしかこの申しますが短縮されて、あの、もしもしになったらしい。
スピーカー 2
ええ、そうなんだ。
スピーカー 1
そうそう、ええって思っちゃって。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ちょっと話は戻してその、この事件の時代背景をちょっと辿っていきたいんだけども、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まず南カラフトっていう場所は、あの日露戦争後のそのポーツマス条約によって、北緯50度より南の部分は日本の領土となっていたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、これは第二次世界大戦後ソ連が実行試合するまであの続いていて、で、これがまあいわゆる南カラフトと呼ばれていたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
戦時中の人口だと約ね45万人ぐらいが暮らしてた島なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、真岡はあの南カラフトでも南寄りの方で、まあ北海道に割と近い場所なんだよね。
スピーカー 2
うん。
西海岸側に面していて、あの日本最北の不凍庫っていう言われ方、まあ凍らない港っていうような呼ばれ方もしてたんだよね。
うん。
で、時代はその第二次世界大戦の終盤で1945年の出来事で、まずあの8月9日にそのソ連が日ソ中立条約を破って日本へ進行してきたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、カラフトではね、8月13日に在留法人の本土への緊急疎開を決めていて、で、その後日本政府っていうのはポツダム戦を受諾して、8月15日に抑揚放送で戦争終結を宣言してるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただその後8月16日ソ連軍がどんどん南に進行してきて、カラフトに上陸をしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、8月20日になってくるとソ連の艦隊が総勢ね、約3500名ぐらいって言われてるんだけども、真岡にこう上陸してきたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ここであの冒頭で言った電話交換所の悲劇が起こるんだけれども、まずそのなぜ事前に電話交換所らはその真岡から避難しなかったのかっていうところで、
多くの民間人は女性とか子供って避難をしたんだけども、彼女らは残ったんだけど、それはね、残留命令が出ていたって言われてるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
真岡郵便局長のこれは指示だっていうのが有力で、本人自身はね、後々否定をしているんだけども、
生き残った電話交換所らの証言とか関係者の証言によって、これが有力じゃないかって言われてるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、その局長がある一人の電話交換所を呼んで、電話交換所の業務を継続していくために真岡に残ってくれる人を集めてもらうようお願いをしたっていうのがあって、
で、そこからあの電話交換所のその責任者の人たちがその残留する希望者を募ったところ、彼女らはその重要な任務であるっていう使命感を常に日頃から叩き込まれてたから、全員がこう残る意思表示をしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただ、あの家族なんかと実際家帰って相談してきたら、そのやっぱり家族を反対する人も多くて、で、結果ね、20名の電話交換所が残ることになって、この20名を2班に分けて24時間体制で勤務を行うことにしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
でも、残った10代から20代って本当に若い子たちなんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
この人たちはその家族にやっぱ言った時にその反対されながらも、自ら自分は残るんだっていう強い意思で残った人たちだったり、自宅でその紙を切って母親に塊として渡したりとか、そういろいろな残留するまでのエピソードがあったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、あの8月19日の夜になって、真岡郵便局はそのソ連接近の情報から非常体制に入るんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それで、8月20日の早朝に急遽ね、1人、滋賀春代さんが宿直とは別に呼ばれて、この時点で早朝、ソ連の艦隊が真岡の海岸に現れたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この時、真岡郵便局には電話交換所が12名いて、で、電話交換所がいる場所って2階だったんだけども、そこに下は17歳から上は24歳っていう本当に若い子たちがいたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、1階はね、また別の部署で電信課っていう部署があって、そこに7名ぐらいいたっていう、そんな状態だったんだよね。
うん。
で、ソ連の艦隊から、海岸から空砲が撃たれたっていうのが最初で、これに対して日本軍が実弾で反撃したのか、またはソ連が実弾を撃ってきたのかっていうのはちょっとここは定かじゃないんだけども、
いつしかそのソ連軍が撃ってくるのがその実弾へと変わって、海上からの艦砲射撃が激しくなってったんだよね。
スピーカー 2
うん。
で、その後ソ連軍っていうのは上陸をするっていうのがあって、で、真岡に駐留していた日本軍がいて、彼らがそのソ連軍に対して定戦するための軍士を派遣したんだけども、ソ連軍はこれを射殺して定戦交渉を拒否したんだよね。
スピーカー 1
うん。
で、その後真岡の街っていうのは戦火に包まれて、銃弾が至るところに撃ち込まれるっていうことがあって、真岡郵便局自体もその会場から一際大きな建物で目につきやすくて、多くの銃弾が撃ち込まれたって言われてるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ここに中にいたその電話交換所っていうのはもうしゃがみ込んで机の下に入るなんかして、その恐怖を感じながら過ごしていたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この銃撃が序盤の段階で電話交換所の高石美希さんって方が包み紙を手に取って、その中に生産管理が入っていて、それを口に入れて湯飲みで一気に流し込んだんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、もうこれは本当に一瞬の出来事だったって周りにいた人は証言をしていて、彼女はすぐにその床に倒れて、胸をかきむしりながら母親の名を叫んでその後亡くなるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
彼女ってその場にいたさ、電話交換所の中でも24歳って言っても年齢が一番上で、まあ主事補っていう役で彼女らを取りまとめる班長役だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、次にそれに続いて年齢が上の23歳で班長の大務役の香谷茂さんっていうのも続いて同様に生産管理を流し込んで、まあお母さんってその絞り出すような声を残して亡くなっているんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
この生産管理についてなんだけども、これね成人でも0.2とか0.3ミリグラムっていうほんの少しでもその死に至るもので胃に入るとさ脳の呼吸中枢を瞬時に犯して呼吸が止まって1分から5分っていうこう短時間で亡くなるっていうものなんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただこれあの穏やかに亡くなるっていうものじゃなくて、本当に胸をかきむしりながらとか叫んで苦しみながら亡くなるっていうようなそんな症状が出るんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、続けざまにさ頼りにしていた先輩らが目の前で苦しみながら亡くなるっていう光景を見て、その現場っていうのは異様なこう状況に陥ったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この9名だけがすごく取り出されて、この後映画とか歌とかにもなったりとかして有名なんだけども、実はこの真岡郵便局には最初にちょっと言ったんだけど、
1階に電子医科っていう部署があって、そこに7名もいたんだよね。
うん。
で、彼ら彼女らはその一個にやまない重症とか恐怖を感じていて、そこに斉藤美恵子さんって方が、実は生産カリを持ってるってことを同僚の薬丸信子さんに打ち明けて一緒に死のうって言ったんだよね。
うん。
で、最初は薬丸さんは断ってたんだけども、何回も言われて、とうとうその薬を飲むってことになって、2人は薬を口にして含んだところでソ連兵が入ってきたんだよね。
うん。
で、慌てて口から吐き出して彼女らは死ななかったんだよね。
うん。
で、後に分かったんだけども、実は飲んだものっていうのは生産カリじゃなくてうがい薬だったらしいんだよね。
うん。
これはね、その前に斉藤さんの旦那が彼女が日頃からいざとなったら死ぬっていうのを聞かなかったから、あえて生産カリじゃなくてうがい薬を渡してたっていうエピソードがあったんだよね。
うん。
で、入ってきた3人のソ連兵士に郵便局員が手を挙げろって言われて、腕時計とか万年筆、煙草なんかを持ち物が取り上げられて連行されていったんだよね。
うん。
結果ね、真岡郵便局では電話交換手が9名。
で、他にも職員とか関係者が実は6名死亡してるんだよね。
うん。
これはね、郵便局から避難を防空壕に逃げ込んだ人たちもいて、それがソ連軍に手榴弾を投げ込まれて亡くなってたり、あとはソ連軍の襲撃を受けて亡くなってる方もいるし、
またはその後本土へ疎開中に小笠原丸に乗船中にソ連の潜水艦に攻撃されて亡くなってるっていう方もいるんだよね。
うん。
あの、前にやった三船巡覧事件のまさに小笠原丸なんだけど、
うん。
これなんかね、ちょっとエピソードがあって、真岡に残った職員、電話交換手らは、後に小笠原丸が迎えに来て避難するっていう話もあったらしいんだけども、
結果その実現はしなかったんだけども、もし小笠原丸に乗ってても、そのタイミングもあるかもしれないけど、こういう事件っていうのにも巻き込まれてた可能性もあるんだよね。
うん。
8月20日のこのソ連軍の侵攻によって真岡の町っていうのは大部分が消失をして、死者が418人って言われてて、行方不明者合わせると合計477人が犠牲になったって言われてるんだよね。
うん。
これは届け出のあったものだけで、もっと被害は大きかったんじゃないかとも言われてるんだよね。
うん。
南カラフト全体では、ソ連のカラフト侵攻から戦闘終結までのこの2週間だけでも、日本人が約4200人亡くなったって言われてるんだよね。
さらに生き残った人たちも、その後シベリアに抑留されたりとか、過酷な環境下で死亡したって人も多くいたんだよね。
自決をした真岡郵便局の電話交換所9人っていうのは、その後ソ連軍の許可を得て、日本人関係者らで穴を3箇所掘って、3人ずつ入れて埋葬するってことをしたんだよね。
その後、それだとあまりに不便で、遺族の方から過葬したいっていう要望があって、もう一度埋葬した場所を掘り起こして過葬が行われたんだよね。
そもそも、なぜ生産管理を彼女らが持ってたっていうところなんだけれども、実際のところ、これはどうやって手に入れたかっていうのは不明なんだよね。
決してその電話交換所の女性らが持ってるっていうことは当たり前ではなかったんだよね。
これはあくまでも推測にはなるけれども、近くに技術館真岡駐在所っていうのがあって、工事とか修理なんかの業務を行う職場があったんだよね。
ここに生産管理がメッキに用いる薬品に使うから保管されていたんだよね。
ここから薬品を持ち出したんじゃないかとも言われてるし、ただ真実はちょっと不明で、なぜか生産管理があったっていうことだけは分かってるんだよね。
そもそも、なぜ命を落とさなければならなかったかっていうところなんだけれども、
これ、みんなで合わせて自決したっていうわけではないんだよね。
これさ、ソ連軍が進行してくる際の銃撃の初期の段階で、もう電話交換の取りまとめ役だった2名の先輩電話交換所が自決をしてるんだよね。
このことで頼る先輩を失って、現場は混乱をして、冷静に判断できるっていう状態ではなくなったんじゃないかとも言われるし、
それによって自決するものが続いていったんだよね。
元同僚の証言なんかもあるんだけども、自分たちもあの状況にいたら同じように自決をしていたっていうふうに言ってるんだよね。
歴史にもしもないんだけども、生還した電話交換所の岡田美子さんの証言があって、もし現場に上司や男子職員がいたならば悲劇は回避できたかもっていうようなことを言っていて、
また、彼女らその電話交換所のいた場所って出入り口が銃撃のあった海側とか逆側にあったから避難しようと思えばできたんだよね。
でも彼女たちはせずに自ら自決の道を選んだっていうことなんだけども、これさ、なんかいろいろ想像しても自分がその場にもいないし想像できるものじゃないなっていうのは正直に思って、
あの現場にいた彼女らしかやっぱりわからないもの、その恐怖だったり彼女らのもともとあったその覚悟だったのかもしれないし、