皆さん、地ビールと聞くとどんなイメージが湧きますか?
もしその言葉がかつて、高くて美味しくないお土産の代名詞だった時代があったと聞いたら驚くでしょうか。
今日は、そんなマイナスイメージのどん底から、たった一つのコンセプトとデザインの力で奇跡の復活を遂げ、世界的なブランドへと羽ばたいた物語です。
多くの地ビールが市場から消えていく中、なぜ彼らが世界中のファンから推される存在になれたのか、その秘密に迫ります。
こんにちは、株式会社KAZAORIの矢澤彩乃です。推し活未来研究所へようこそ。
この番組では、ますます盛り上がりを見せる推し活をビジネスの視点から、そして時には私自身の経験も交えながら、楽しくそして深く紐解いていきます。
私は普段、推し活をテーマにしたビジネス、例えばファンの皆さんがイベントで一緒に盛り上がれるサービス、スクートなどを提供する傍ら、ベーシストとしてアーティストさんのバックで演奏する活動もしています。
だからこそ、推す側と推される側、両方の視点から推し活の面白さや可能性、その未来を皆さんと共有できたらいいなと思っています。
さて皆さん、ビールはお好きですか?実は私はビール大好きで、よくビールの専門店にも飲みに行っています。
この日常に馴染んだビールを推すという感覚ありますか?好きな銘柄をいつも選ぶという方は多いと思いますが、このビールブランドを応援したいというもっと熱い気持ちになったことはあるでしょうか?
実は、ちょうど先日、小江戸ブルガリー代表の朝霧茂春社長の講演会に参加させていただいたんですが、なんとその講演会、参加者はみんな小江戸ビールを片手に飲みながらお話を聞くというスタイルだったんです。
ブランドの哲学を、そのブランドが生み出した美味しいビールを味わいながら聞くという体験は初めてだったんですが、その会社は本当に自分たちのプロダクトを愛し、ファンと楽しみを共有したいんだなと強く感じました。
講演会の中で特に印象的だったのが一枚の写真でした。それは外国のおしゃれなバーのカウンターに小江戸ビールが置かれていて、それを外国の方が本当に美味しそうに飲んでいる写真だったんです。
埼玉県の川越という一つの町で生まれたビールが遠い外国の日常に溶け込んでいる。その光景ってすごいことですよね。
このビールが単なる飲み物ではなく、一つの押されるブランドとしてしっかり国境を越えていることを実感した瞬間でした。
さて本日のテーマは、地方から世界へ小江戸ビールに学ぶローカルブランドがグローバルな推しを獲得するまでです。
埼玉・川越初のクラフトビール小江戸は今より世界25カ国に輸出され、国際コンテストで受賞歴も多数という日本を代表するクラフトビールです。
一つの商品がその生まれた土地の物語を背負い、いかにして世界中のファンから押される存在になったのか、その軌跡を追いながら川越の町おこしとの深い関係性や、同じクラフトビール業界のライバルである
ヨナヨナエールや日立のネストビールの戦略とも比較しながら、ローカルブランドがグローバルな推しを獲得するための秘密に迫っていきたいと思います。
番組を聞いての感想や、あなたの好きなクラフトビールの推し勝ちエピソードなど、ぜひハッチュタグ推し勝ち未来研究所でシェアしてください。
あなたのお気に入りの地ビール、クラフトビールのお話もぜひ伺いたいです。
それでは早速本編に入っていきましょう。
小江戸ビールの物語を理解するためには、まず彼らが登場する少し前の日本のビール市場で何が起きていたかを知る必要があります。
それは、地望に満ちたブームの始まりと、そのあまりにも早い終焉の物語です。
すべての始まりは1994年、日本の酒税法が劇的に変わりました。
それまでビール製造免許を取得するには、年間2000キロリットルという大手メーカーにしか達成できないような高い生産量が義務付けられていました。
2000キロリットルってなかなか想像がつかない量なんですが、ビールの注文約400万本分です。
これをクリアするのは本当に大手メーカーしか難しいですよね。
しかし、この規制が一気に60キロリットル、ビールの注文だと約12万本分まで引き下げられたんです。
これは日本のビール業界にとっての革命でした。
この規制緩和をきっかけに、日本各地で小規模のブルワリーが続々と誕生します。
いわゆるジビールブームの到来です。
当時は北海道から沖縄まで観光地のお土産コーナーに行けば、必ずその土地のジビールが並んでいるなんて光景も珍しくありませんでした。
最盛期の1990年代末には、全国で300以上のブルワリーが乱立し、ジビール専門のパブや飲み比べイベントも登場。
大手メーカーもこの新しい飲みを歓迎し、技術提供などで支援するほどでした。
しかしこの熱狂は長くは続きませんでした。
わずか数年でブームは急速に絞んでしまったのです。
その失敗の理由は大きく3つありました。
第一に品質のばらつきです。
多くの新規参入者は醸造の経験が浅く、技術的にも未熟でした。
また醸造所が増えすぎたことで、中には品質がいまひとつなビールも出てきてしまい、消費者の信頼を得られないケースもあったようです。
その結果、残念ながら美味しいとは言えないビールが市場にあふれてしまったのです。
第二に待ち起こしの罠です。
多くのジビールは観光地の土産物という位置づけから抜け出せませんでした。
まるまる温泉ビールのように地域の名前を冠にしてはいるものの、その中身や哲学が伴っていない。
少量生産ゆえに価格が高めで、大手ビールに比べると割高感もありました。
品質に見合わない高い価格設定も相まって、一度飲んだらもういいやという観光客向けの商品になってしまったのです。
そして第三に市場の変化です。
ちょうど同じ時期に価格の安い発泡酒が台頭してきました。
消費者の目が価格に向かう中で、高コストなジビールはあっという間に競争力を失っていきました。
このブームの崩壊が残した最も大きな負の遺産は、ジビールという言葉そのものに染み付いたネガティブなイメージでした。
ジビールイコール話の種にはなるけど味はいまいち。高くてあまり美味しくないお土産物。
この厳しい市場環境のまさに過中である1996年に小江戸ビールは産声を上げたのです。
彼らのその後のブランド戦略のすべては、このジビールブームの失敗から得た教訓への極めて意識的で戦略的な回答だったと言えるでしょう。
彼らはただ美味しいビールを作っただけではありません。
ジビールという言葉が持つあらゆる負の遺産を一つ一つ丁寧にそして徹底的に解体していくことから、そのブランド作りを始めたのです。
小江戸の物語が他の多くのブルワリーと決定的に違うのは、その始まりの場所にあります。
彼らのルーツはビール醸造所ではなく、川越で1975年に創業された有機野菜の流通を手掛ける共同商事という会社でした。
彼らのDNAは醸造ではなく農業にあった、の事実こそが小江戸ブランドの揺るぎない本物の根幹になっています。
ビール作りのアイデアは、地域の農業に新たな付加価値を与えたいという思いから生まれました。
その着想の原点には二つの象徴的な物語があります。
一つ目は緑肥の麦の物語です。
川越の農家では、古くから土壌の健康を保つために麦を育てて収穫せずにそのまま畑にすき込む、緑肥という農法が受け継がれていました。
これは土のための麦であり、商業的な価値はなかったのです。
小江戸の創業者たちは、この畑に眠る麦を有効活用できないかと考えたのです。
そして二つ目は、彼らの最初の代表作、ベニヤカを生んだサツマイモの物語です。
川越は古くからサツマイモの名産地でした。
小江戸は、この地域の特産品であるベニヤカという品種のサツマイモを使ったビールの開発に挑みます。
ここで重要なのは、彼らが着目したのが、味はいいのに形や大きさが規格に合わないために廃棄されてしまう規格外のサツマイモだったことです。
捨てられるはずだったものに光を当て、世界に通用するプレミアムな商品へと生まれ変わらせたのです。
これからは、ワインやチーズのように手間暇かけた職人仕事の時代が来る。
地域性と職人技に未来があると見据えていたそうで、その言葉通り、1994年の規制緩和を追い風に自社ブルワリー、小江戸ブルワリーを立ち上げました。
このアプローチは、90年代の自ビールブームにおける表層的な待ち起こしとは、その哲学の深さが全く違います。
小江戸と川越との繋がりは、ラベルに地名を入れるといったマーケティング上の都合ではありません。
それはサプライチェーンと製品のDNAそのものに深く刻み込まれています。
彼らは、川越という名前を利用してビールを売っているのではなく、川越の農業が持つ思想や歴史をビールという液体を通じて表現しているのです。
これは、ワインの世界でよく使われるテロワールという概念をビールに見事に適用した例といえるでしょう。
テロワールドは、単にその土地の産物を使うということだけではなく、その土地の土壌や気候、そして人々の営みといった全ての環境が産物に唯一無二の個性を与えるという考え方です。
小江戸のビールを飲むとき、私たちは川越の持続可能な農法や食材を無駄にしない知恵、そして地域の歴史そのものを味わっている。
これにより、地ビールという言葉は、単なる産地表示から地域のアイデンティティを豊かに表現する媒体へと昇華され、その商品に知的で感情的な深みを与え、結果として人々が推したくなる強力な物語を生み出したのです。
しかし、その道のりは平坦ではありませんでした。
立ち上げ当初、川越の郊外にビアレストランも併設し、観光客や地元客でにぎわったといいます。
ところが、先ほど触れた地ビールブームの沈静化とともに、そのビアレストランも閉店。
大幅に拡張した工場も稼働率が落ち、事業は赤字続きで、存続の危機に陥ってしまいました。
まさに、撤退か継続かの瀬戸際です。
そんな状況で、2003年、この事業の再建を託されたのが、創業者である義理の父の下、副社長に就任した朝霧重春さんでした。
当時若干30歳。ここから小江戸ビールの復活劇が始まります。
物語の基盤を築いた小江戸が、次なる日焼けのために打った一手、それが2006年に行われた大規模なリブランディングでした。
当時副社長だった朝霧重春さんと、デザイナーの西澤昭博氏がタッグを組んだこの改革は、小江戸を、そして日本のビール文化そのものを変える革命的な試みでした。
朝霧さんがまず目をつけたのは、品質と技術への徹底的なこだわりでした。
当時多くの地ビールメーカーは、技術や人材の面で手探り状態でしたが、共同生じには幸い、ドイツから設備を導入し、ブラウンマイスター、醸造のプロ職人を招いていたという土台があったのです。
朝霧さんは、「うちのビールは観光土産の地ビールではなく、初見人技で極めるクラフトビールなんだ。」と強い信念で最終発に挑みました。
彼らが下した最も重要な決断は、「地ビール」という言葉との決別です。
前章でお話したような、ネガティブなイメージを払拭し、世界基準の品質と哲学を持つブランドであることを示すために、彼らは国際的に通用するクラフトビールという言葉を意識的に選び取りました。
そして、その新しい哲学を象徴するコンセプトとして掲げられたのが、「Be a Beautiful」です。
これは単なるキャッチコピーではありませんでした。
アサギーさんは代表取締役に就任します。
ここで他の押されるブランドの戦略と比較してみましょう。
同じクラフトビール業界のライバルであるヨナヨナエールと日立のネストビール、
それぞれが全く異なるアプローチで熱狂的なファンを獲得しており、
小江戸の独自性を浮き彫りにしてくれます。
まず、長野県のヤホーブルーイングが手掛けるヨナヨナエールです。
黄色い付きのイラストが目印の缶ビールなので、ご存知の方も多いかもしれませんね。
ヤホーブルーイングは1996年設立と小江戸の同世代のクラフトビールメーカーです。
リゾート運営で有名な星野リゾート系列の会社として誕生しました。
彼らの強みは、徹底したファンマーケティングと熱狂的なコミュニティの形成にあります。
ファンとの絆を花粉より大切にしてきた、まさにファンベースマーケティングのお手本のような存在です。
ヤホーブルーイングも一時期、ジビールビーム中円の煽りを受けて販売不振に陥ります。
2000年代初頭には、地元軽井沢以外ではどこの店も扱ってくれないなんて状況になってしまったそうです。
そこで踏みとどまるために取った手段が、当時まだ珍しかった楽天市場での直販でした。
宣伝仕様にも、毎回同じビールでは話題も尽きてしまう。
苦肉の咲きで始めたのが、代表の井出直幸さん自らが筆を取る自社のメールマガジンです。
自分のビールがいかに美味しいか、このビールがどれだけ大好きかを厚苦しいほど熱いたっぷりに、時にユーモアを交えて語るメールを定期的に送ったそうです。
これが酵素をして、読んでいて楽しいと評判になり、楽天市場のショップオブザイヤーも受賞するまでになりました。
ビールそのものの味はもちろんですが、それ以上にお店の運営や発信が面白いからファンがついたという状態です。
さらに驚くのは、そこで終わらずリアルイベントでファンと直接つながったことです。
2011年頃からファンとの交流飲み会を企画し、これはいけると確信したヤッホーは、以後超宴と名付けた大規模ファンイベントを何度も開催するようになりました。
自社のビールを形に、ファンも社員も一緒になって大宴会を開くという何度も楽しげな取り組みです。
SNSに呼びかければ、全国からビール好きが集まり、音楽ライブがあり、新作先行シーンありのフェスのような盛り上がり。
参加したファンたちは、同じビールが好きな仲間がこんなにいると感激し、ますますそのビールのことが好きになる。
お客さんに楽しんでもらうことが会社の成長につながるという好循環が生まれました。
ヤッホーブルーイングは、自社のマーケティング方針を100人に1人が熱狂的に好きになってくれればそれでいいと表現しています。
万人に薄く広く受ける商品より、100人中たった1人でもいいからその人にとって100点満点のお気に入りになるものを作ろうという考えです。
その個性にハマったコアなファンをとことん大事にする。
Twitterで世の世のエール美味しかったと呟く人がいれば、公式アカウントがありがとうございますとリプを送るなど、エゴサーチしてでもユーザーの声を披露している姿勢を貫いていきました。
こうした双方向のコミュニケーションに力を入れた点が、ヤッホー最大の特徴です。
小江戸が美学を売っているとすれば、世の世のエールは楽しさと仲元のつながり、つまり熱狂できるお祭りを売っていると言えるかもしれません。
次に関東を代表するクラフトビールの一つ、茨城県中市の木内酒造が手掛けるひたちのネストビールです。
ラベルに書かれた赤い袋のマークでご存知の方もいるでしょう。
木内酒造は江戸末期創業の老舗の酒造で、日本のクラフトビール霊命期間の先駆者であり、特に海外で絶大な人気を誇ります。
彼らの戦略は小江戸とも世の世のエールとも全く異なります。
その特徴は徹底したグローバル戦略です。
当時の国内酒場では地ビール熱が冷めつつあったこともあり、木内酒造は早くから海外酒場に目を向けました。
その最大の武器が一度見たら忘れられない袋のロゴです。
このキャッチーなアイコンのおかげで、ひたちのネストビールは世界中であの袋のビールとして認知され、現在では35カ国以上輸出され、総生産量の半分以上を海外向けが占めるまでになりました。
成功の鍵は3つあります。
1つ目は海外のビール品評会に積極的に出品し、受賞を通じて知名度を獲得したこと。
2つ目は日本ならではの独自ビール開発です。
木内酒造も日本酒造りの技術を応用した気だる熟成ビールや副原料に柚子や赤米、麦茶、八丁味噌などを使った伝統と革新を掛け合わせた商品展開でブランド力を高めました。
3つ目は各国ごとの適切なディストリビューターと提携し、現地の流通網に溶け込んだことです。
コエドが川越というローカルな物語を深く掘り下げて世界に届けたのに対し、ヒタチネストはより普遍的で覚えやすいアイコンと伝統と革新の物語を武器に巧みに海外酒造を開拓していたのです。
彼らはファンに日本初のユニークなビールを世界中で楽しめるという世界へのパスポートを作ったのかもしれません。
こうして比較すると、それぞれの戦略の違いが鮮明になります。
ファンからの推しを獲得する方法は一つではありません。
ヨネヨネエルのように顧客との関係性をエンターテインメントにアップするアプローチもあれば、ヒタチネストのような強力なアイコンで国境を越えるアプローチもあれば、
コエドのようにプロジェクトそのものの完成度とその背景にある物語を極限まで見かけ上げるアプローチもあるのです。
では、川越えの土壌から生まれた物語とBe a Beautifulという美学は、いかにして国境を越え、グローバルな推しを獲得するに至ったのでしょうか。
その鍵は、ファンを単なる消費者ではなく、ブランドの価値を共に広める共犯者へと変える巧みな仕組みにありました。
その再来の武器となったのが客観的な評価、つまり数々の国際的な評価会での受賞歴です。
リブランディングの翌年、2007年にはモンドセレクションで最高金賞を受賞、しかも出品した5名柄すべてが入賞という快挙を成し遂げました。
さらにビールのワールドカップとも言われるワールドビアカップや、ヨーロッパのヨーロピアンビアスターといった権威ある賞を次々と獲得していきます。
看板商品の一つで、川越産さつまいもを使ったベニアカは国際味覚審査機関ITIで3連連続三星を獲得し、世界で7例目というクリスタルテイストアワードに輝いています。
これは単なる企業の実績ではありません。
ファンにとって、これは自分たちの推しているビールが世界レベルであることを証明する強力な武器となるんです。
友人に小枝を勧めるとき、川越の美味しいビールなんだというのと、ワールドビアカップで金賞を取ったビールなんだというのは説得力が全く違いますよね。
この外部からの客観的な評価が、ファンの主観的な好きという気持ちを誰もが納得せざるを得ない事実へと掲げし、自信を持って普及することを可能にしたのです。
さらに小枝は、ブランドの物語をファンが直接体験できる場を積極的に創出しています。
例えば、四捨の麦わたけで開催する麦の時音楽祭、これは単なる音楽フェスではありません。
ファンは自分たちが飲むビールの原料が育つ場所で、音楽とビールを楽しむことができる、ブランドの原点である農業へとファンを物理的に誘う、いわば政治巡礼のような体験です。
また、醸造所のある川越では、毎年10月に小枝ビール祭りが開催され、地域を挙げて小枝を盛り上げています。
醸造所見学ツアーを小枝ビール学校と名付けているのも象徴的です。
これはブランドを先生、ファンを生徒として位置付け、ビールの奥深さをモナンバーを提供することで、ファンをより知識の深い愛好会と育てていく試みです。
そして、川越にある小枝クラフトビア1000ラボでは、実験的なビールを試すことができます。