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今回は、教育虐待についてのお話です。
教育虐待という言葉は、近年各メディアでもよく聞かれるような言葉ですけれども、
一般的には、親の一方的な教育熱心さが、逆に子供たちを苦しめているというような認識で
取り上げられていることが多いのではないかなと思うのですが、
こちら、リスナーさんからも質問が来ておりますので、まずはご紹介したいと思います。
ニックネーム、だるまちゃんさん。
教育虐待という言葉を聞くとドキッとします。
先生は、どういう状態が教育虐待だと思いますか?
普段、ピアノの練習を嫌がっている。
たまにうまくは弾けない時は大泣きしながら練習している。
でも弾けるようになると楽しそう。
といった場合や、
習い事、ピアノ、プール、ダンス、ソロバン、シュージ、バレエなどで忙しい。
結果時間に追われる日が多い。
でも習い事は好きなように見える。
といったような場合、
あるいは、一般で言う難関中学受験。
勉強時間も長く、テストのプレッシャーも強い。
本人の意思もあると思うが、親の期待に応えているだけということも。
といったような場合、
虐待かどうかは、本人が虐げられ辛かったかで、
明らかな肉体的苦痛などを除けば、ケースバイケースなのかもしれません。
我が家は教育虐待ではないと思いますが、
それでもなんだか後ろめたい時があります。
先生のお立場でのお考えをお伺いできますとありがたいです。
とのことで、だるまちゃんさん、ありがとうございます。
個人的にはですね、確かに子ども側の気持ちというものも非常に大事なのかなというふうには思いますが、
メディアとかで紹介されているような教育虐待というような話については、
少し偏っているような印象も持っていたりもします。
このあたり、小川先生に教育虐待という言葉についてお話を聞いてきました。
2年ぐらいですかね、2年、3年、教育虐待という単語が世の中に出回るようになって、
その問題意識が広がったこと自体はいいんだけど、
何でもかんでも虐待という言葉でくくって、
よくわからないまま振り回されている人がものすごく増えたなというのも、
世の中の問題としてあるわけですね。
ちょっと他の人が子どもに注意していたら虐待じゃないかという、
人を非難するときの材料として虐待という言葉を使う。
自分は大丈夫、でも他の人はということで、
根踏みするような言葉としてもなってしまっているのは、
僕は気になっています。
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これは虐待という話題にも限らないんですけれども、
日本人なのか世界的な現象なのか、とにかく目立つ言葉が流れてきたら、
その単語だけに簡単に乗っかって、そもそもの意味をちゃんと調べない。
定義をきちんと確認しない。
医学的にどういう意味で使われているのかですね。
専門家たちが様々に研究しながらきちっと意味付けしたものを、
確認もせずに雰囲気で使ってしまう。
テレビで流れているから、ネットで聞いたから、
そんなんで振り回されるということは大折りしておきますよね。
それは非常にまずい。大人としての有様としては良くない。
一時情報に触れるというのは絶対的原則なわけです。
虐待というのは、例えば厚労省、児童虐待の定義というのを出していて、
大きく4つ分かれているんですね。
身体的虐待、2つ目が性的虐待、3つ目はネグレット、4つ目に心理的虐待。
今回、教育虐待という単語は心理的虐待の一つのパターンなんですけど、
厚労省の心理的虐待の定義というのはですね、
言葉による脅し、無視、兄弟感での差別的扱い、
子どもの目の前で家族に対して暴力を振る、
ドメスティックバイオレンス、兄弟に虐待行為を行う、
などというふうに書かれている。
つまり、どのレベル、どの強さであれば虐待に当たるかというのは、
明確に示されていないので、やっぱりこの国理として判断していくしかないんですが、
だるまちゃんさんがおっしゃっていると、
本人が強いてあげられづらかったかで虐待というのが決まるのでしょうか、
というような質問も入っていたけれども、
肝心なことはですね、
僕自身の理解として、子どもに対して、
どの程度の信頼感を持っているのか、こちら側が。
不信感に基づく注意・失跡はエスカレートする傾向にあります。
なぜなら、信頼していないので、
全面的に自分のコントロールか支配下に置こうという方向に走りやすい。
結果、子どもが今何を感じているか、
今この注意が本当に子どもの役に立つのか、
ということの判断が客観的になったり、
自分の都合で押し付けてしまうということが起きやすい。
でも、基本的にはこの子の自分の意思で決めてくれたらいいんだとかね。
一定の信頼を子どもに寄せている親御さんの場合、
自分の関わりが本人にとって傷つけるものだったら、
そこに気づける。
なぜなら、信頼しているということは見ているということですからね。
であれば、さっきの言い過ぎたごめんね、
本当に言いたかったことと違う言葉を使っちゃったら悪かったね、
謝れるし、子どもに。
間違いな人を起こしますが、
その間違ったこと、過度に何かをしたことを
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正当化して、さらに振り返すと
虐待というカテゴリーにやはりなりやすいんでしょう。
違うなと思った、やりすぎたなというときには、
さっきのはママが悪かった、お父さん、パパが、
さっきのは間違ったことにしてびっくりさせたよね、ごめんね。
その相手を尊重して、子どもを尊重して、
じっと自分は冷静になりながら謝るときは謝る。
そういう姿勢が持てるのであれば、
あまりナーバスにならなくていいだろうと思うんですね。
そもそも子どもの成長において、
子どもが何でもかんでも全て自分で選択するなんてありえないわけで、
社会を知らないし、社会のルールも知らないし、
人間社会の中でどういったマナーを知ることによって
どんな人間関係が生まれてくるか、
お金というものの役割であり、そこには稼ぐという行為がある。
また使い方というのもある。
心の問題も絡んでくる。
ということは、生まれつき分かるわけではない。
教えていかなきゃいけない。
子どもが成長する過程で、大人たちは一定の与えること、
押し付けることが必要なんですよね。
じゃあそのどこまでは与え、
どこから本人自身も意思に任せるかという、
この我が子への理解、信頼というものをどのように持っていくかによって、
この虐待に自分が陥ってしまう危険性というのは随分防げるだろうし、
なりやすい方は、
根本的に親である自分自身に対する不安が強い人だと僕は感じています。
思い通りにいかないことを自分自身の不甲斐なさ、
情けなさ、力のなさを嘆きつつも、
それを子どもの責任、子どもに問題があると理解することによって、
そこを強制しようと過度に関わってしまうので、
心を完全に傷つけるところまで追い込まれてしまう。
親に余裕があれば待てますからね。
余裕がないからこそ、あれもこれも次々と追い求めてしまう。
結果、子どもの心、体のキャパを超えるということが起きる。
虐待という状態というのは、親の余裕のなさであり、
子どもへの信頼の浅さが生み出す現象だと思うから、
ちゃんと目の前の子をしっかり見つめ、また自分自身に等信頼で、
あれもこれも全部できる親がどこにもいないんだから、
ここは自信を持って頑張れるけど、
こっちの分野は不安だなという、自分の弱さを受け入れていく。
そんなことを大事にされていけば、
教育に役立てる言葉が流れたとしても、
自分たちは大丈夫だろうと100%OKと言われる。
それは子どもに聞かないと本当のことはわからないけども、
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でも大丈夫だと思えるぐらいの余裕は生まれるんじゃないかなと思います。
ちょっと目安としては、自分の口からですね、
でも何々すべきですよね、何々しなきゃいけないからだって、
仕方がないものとか何々が正しいんでしょう、
すべきとかしなきゃとか正しいって言葉が、
朝も昼も夜もしょっちゅう口にしてるなと思ったら、
ちょっと危ないかもっていう気づく指標にしてもらうと、
いいんじゃないかなと思います。
べき論で喋りだすと傷つけやすいんだよね、人。
あと自分に自信がないからべきとか正しいってことを使うので、
そこを冷静になってもらうために、
自分の口からどんな言葉が出ているか、
時折点検されるといいんじゃないかな、
そういうふうに思います。
この自分を客観的に冷静に見るということが一つ必要ということで、
言葉遣い以外にも、夫婦間とかその辺とかでも。
家族でお互いに対して話したり、
どう思う相手に意見を聞いたりっていう関係は、
あれはより安全ですよね。
やっぱり自分の目から見えるものは物事の一部でしかないっていう、
そういう謙虚さっていうものは、
大人になればなるほど持つことが大事だと思います。
大事な問題意識でね、
ご相談送ってくださってありがたかったです。
小川先生の方では、
世間では人を非難するときの道具として使われているような気がすると。
きちんとした専門家や国が定める定義というものを元にしないで、
言葉に振り回されているというのは、
大人としてはよろしくないことではないかというふうに警鐘を鳴らしております。
本編の方でも小川先生が話されておりますが、
厚生労働省が自動虐待というところで定義しているものの中には、
4つありまして、
身体的虐待、これは暴力を振るったり、
傷や火傷を負わせる、あるいは縄などで拘束する、
などといったような例も挙げられていたりします。
2つ目は性的虐待、
これは子どもへの性的な行為というようなことが書かれており、
3つ目はネグレクト、
直訳すると無視をするというような意味ですけれども、
この場合はある場所へ閉じ込めたり、
食事を与えなかったり、病院に連れて行かなかったり、
よくある自動車の中に放置するといったようなこともこのネグレクトに当たると言っています。
最後は心理的虐待というところで、
兄弟間での差別だったり、
子どもの目の前で家族に対して暴力を振るう、
いわゆるDVというようなものですね。
あるいは言葉による脅し、
そういったものが心理的虐待に入ると書かれています。
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教育虐待という言葉はしっかりとは定義がされていないのですが、
教育という名のもとにこれらの虐待、
特にこの中では心理的虐待が当てはまることが多いということなんですが、
こういったものに該当するかどうか、
これは専門家などの第三者の目というものがやはり必要かなと思い、
一般の言葉だけを知った人が、
簡単に教育虐待だというのはどうかと思うという印象をお持ちということでした。
ではこの教育虐待、
そういった曖昧な第三者の意見ではなく、
親御さん本人の目で自分が教育虐待に当たっているのかどうかというのを
見極める点についてはですね、
2つのポイントから確認すると良いのではないか。
1つ目は、子供に対する信頼感を持って接しているかどうか。
子供を信頼できなくてですね、
不信感によって言葉が出ている、
怒りの声、叱責というものが不信感によって発せられている場合は、
かなり注意が必要ではないかと。
2つ目は、親自身、自分自身に余裕があるかどうか。
自分の中で間違ったこと、正しいこと、教えたいことというものがどういうものであるかということを
きっちりと頭の中で整理されている。
そういったような余裕がない場合、
間違ったこと、自分が違うなと思っていることでも謝ることをせずに
正当化してしまうという自分がいるというような場合ですね。
こういった2つの点で、
自分自身の行動、親としての行動を振り返ってみることで、
教育虐待かどうかというところはある程度判別がつくのではないかというお話でした。
おっしゃるようにですね、教育虐待という言葉が一人歩きをしていて、
それを恐れるあまり子供に対して何かを教える、接するということができなくなるというのは
本末転倒の話ではありますので、
自分のことを客観視して、
自分の中で子供がどういうふうに育ってもらいたいというような
自分の中の基準というものを持ちながらですね、
今のうちの子供はここまではできている、
こういうことはでもしてもらいたいというような観点から、
できたところは認めてあげながら、
子供を信頼して育ててあげるというようなことができていれば
いい勝負じゃないかというような印象を持ちました。
最後にですね、その一つのチェックポイントといいますか、
何々すべき、しなければならない、
それが正しいことなんだという、正当化するような言葉というものが
頻繁に出ているようであれば、
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ちょっと要注意ではないかというチェックする言葉として紹介されていましたので、
この辺りを参考にしながら、
お子様と接していただければいいのではないかなというふうに思います。
なかなか難しい問題ではありますが、
言葉というものに振り回されずにですね、
自分の家族、子供に対してどういうふうなことをしてほしいのかというところを考えながら、
子育てをしていけば大丈夫なんじゃないかなというふうに思います。
さて、今回ご紹介しましたように、
この子育て受験ラジオでは、
リスナー様からのテーマのリクエストや、
また小川先生への子育てや受験についてのご質問などお待ちしております。
番組詳細欄にあるリンクよりお気軽にご投稿ください。
子育て受験ラジオは毎週水曜日の更新です。
今回も最後まで聞いていただきありがとうございました。