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2025-06-08 28:02

#267永遠の命の言葉を食べる ~聖書の効能25/6/8

ヨハネ-66からの礼拝説教。2025年6月8日録音。(聖書朗読は()までです)ヨハネの福音書には、大事なことが繰り返されながら言い換えられ、そして新しい教えが入ってくるという特徴があります。今日もそれらのことを取り上げて学びましょう。1.「イエスの血を飲む」とは()、2.「イエス様のみ言葉を受け入れる」とは()、3.毎日食べてイエス様にとどまる()、の3つの点を取り上げます。 

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https://note.com/nsbc/n/n4421aac2200a?sub_rt=share_pb

サマリー

このエピソードでは、イエス様が「肉を食べ、血を飲む」ことの意味を深く掘り下げており、永遠の命に関する教えを解明しています。また、御言葉の重要性や聖霊によるいのちの源についても語られています。イエス様との関係を深めることが、永遠のいのちを与える重要な要素であることが述べられています。特に、聖書の言葉を通してイエス様を受け入れ、日々の生活でその命を取り入れることの意義が強調されています。

イエスの教えと血の重要性
それでは、文にします。
ヨハネの福音書、6章52節から66節
それでユダヤ人たちは、この人はどうやって自分の肉を私たちに与えて食べさせることができるのかと、互いに激しい議論を始めた。
イエスは彼らに言われた。
まことにまことに、あなた方に言います。
人のこの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちにいのちはありません。
私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
私は終わりの日に、その人をよみがえらせます。
私の肉は、まことの食べ物、私の血は、まことの飲み物なのです。
私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私のうちにとどまり、私もその人のうちにとどまります。
生ける父が、私を使わし、私が父によって生きているように、私を食べる者も、私によって生きるのです。
これは天から下ってきたパンです。
先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。
このパンを食べる者は、永遠に生きます。
これがイエスがカペナウムで教えられた時、前カイドウで話されたことである。
これを聞いて弟子たちのうちの多くの者が言った。
これはひどい話だ。誰が聞いていられるだろうか。
しかしイエスは弟子たちが、この話について、小声で文句を言っているのを知って彼らに言われた。
私の話があなた方をつまずかせるのか。
それなら、人の子がかつていたところに登るのを見たら、どうなるのか。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。
私があなた方に話してきた言葉は、霊であり、またいのちです。
けれども、あなた方の中に信じない者たちがいます。
信じない者たちが誰か、ご自分を裏切る者が誰か、イエスは初めから知っておられたのである。
そしてイエスは言われた。
ですから、私はあなた方に父が与えてくださらない限り、誰も私のもとに来ることはできないと言ったのです。
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスと共に歩もうとはしなくなった。
以上です。
御言葉の受け入れの意義
今日はこのところから、永遠のいのちの言葉を食べると題して、御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
梅雨入り間近の蒸し暑い日となりました。
先週はいろいろなことがありましたが、日本では長島茂雄さんが89歳で亡くなったということが話題となりました。
長島さんが卒業した後ですけれども、母校の立教大学の一部が人材に移ってきたりしていますし、ご子息の一茂さんもそこの野球部の料理にいたりしています。
そこのよくあるのは、一茂さんなんかが出入りしたおいしい中華料理屋さんとかお弁当屋さんがテレビに取り上げられたりします。
今日、そんなので食べ物に関わる話が出てきます。
ヨハネの福音書の特徴をいつも言っていますが、大事なことが繰り返されたり言い換えられたりして語り直されている。
そしてその中で新しい教えが入ってくる。それがヨハネの福音書の特徴で、今日の箇所にもそれが見られるかと思います。
そういうことを取り上げながら、今日3つの点から考えていきますが、最初はイエス様の血を飲むということがありますので、それを見ます。
2番目は、イエス様の言葉はいのちであり霊であるという言葉からそのことを取り上げていきます。
3番目は、毎日食べてイエス様に留まるということが新しく出てきたので、そのことも少し触れていきたいと思います。
では一番最初、これいつもの映像ですけれども、ガリダヤ湖のカペナームの街道で、ユダヤ教の街道でのやり取りが記されているわけです。
いつもお話していますが、ガリダヤ湖のほとりでなされた5千人の給食の奇跡、パンの奇跡から炭を発したイエス様と人々のやり取りが記されています。
一番最初、イエスの血を飲むとは、ということを見ていきます。
今日の冒頭の一部ですが、6章53節。イエスは彼らに言われた、まことにまことにあなた方に言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちにいのちはありません。
今日の箇所での新しい話題、それはイエス様を食べるという、肉を食べるということに加えて、新しくその血を飲む、イエス様の血を飲むという言葉が、教えが新しく登場しているんですね。
旧約聖書の律法では、この当時の異教徒、イエス様の時代もそうですけれども、異教徒の風習を真似ることになるので、血を飲んではいけないということが言われていました。
新約聖書でも、違法人が救われる中で、エルサレムで会議がなされて、そこでも律法を守るのかどうか、かつれ違法人も起きるのかという議論がありましたけれども、
血を避ける、生き血を飲むということを避けるということが、少なくとも必要で、かつれ受ける必要がないということが合意されています。それほど、血を飲むということがタブーだったわけです。
ですから、今日の箇所、後ろの方で、こんなひどい言葉は聞いていられないと言って、12弟子以外の弟子たち、イエス様に付き従っていた多くの人が離れていったと記されているわけなんですね。
でも、大事なことは、この血を飲むということが、実は十字架の死、罪を贖っていのちを与える行為を示しているということなんです。
実は、この血を流すことには、ひどい死に方をするという、そういう意味があったからなんですね。
そして、今日の箇所では、新たなことのもう一つのこととして、弟子の一人に裏切られて死ぬということも示唆されています。
このように、無駄らしい死ということ、弟子に裏切られて死ぬということも、血を流すということとともに、新しく示唆されているわけです。
さらに、もう一つ新しいこととして、61節、62節で、こういうことをイエス様が語っていますね。ちょっと読める方、読んでみましょうか。
私の話があなた方をつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに登るのを見たら、どうなるのか。
この、登るという言葉、ここにもいくつかの示唆があって、一つには十字架のように挙げられるということもそうなんですが、最終的にはイエス様がかつていたところに登る、それは永遠の父なる神様のところに登るということですから、平たく言うと昇天の出来事をイエス様はここで示唆している。
十字架、受難と十字架と復活と昇天ということが、新たにと言いますかね、今日の箇所でこうやって示唆されているという点があるわけです。
これ以降、このヨハネの福音書の中では、イエス様の受難と十字架という、ある種不吉な影が落としていくということになっていきます。
と同時に、復活して昇天するという石と筋の希望の光も差していく。そういうことが見え隠れていくということを、ヨハネを知っていく上で、これからの大事なこととしてまず覚えておいてください。
2番目、イエス様の御言葉を受け入れるとはどういうことか、ということを見ていきましょう。
この躓いた弟子たちに対して、イエス様はこのように言いました。
私の話があなた方を躓かせるのか。いのちを与えるのは御魂です。肉は何の益ももたらしません。私があなた方に話してきた言葉は霊であり、またいのちなのです。
実はここでも新しい考えが導入されているんですね。
どんな考えかというと、特に私たちがイエス様の言葉を受け入れるとき、私たちがイエス様を中に受け入れているという発想なんですね。
聖書の言葉そのものを見ていきますけれども、新しい言葉というのはイエス様の言葉なんですね。私の話があなた方を躓かせるのか。
そして私があなた方に話してきた言葉は霊であり、またいのちなのです。イエス様の言葉は霊であり、またいのちだという教えが新しい変わりです。
そして今日はペンテコステですけれども、ここでも後に語られる聖霊ということが示唆され始めています。イエス様が登った後に聖霊が来るということとも関わりがあるんですけどね。
どういうことかというと、ちょっと後でも見ますけど難しいかもしれませんが、結論は私たちがイエス様の言葉を受け入れるときに何が起こっているかということなんです。
イエス様の言葉を読んだり聞いたりして、それを受け入れるとき、信じるとき、実は私たちはイエス様を私たちの中に受け入れているということなんですね。
そして、その受け入れたイエス様の言葉によって私たちが生かされるということなんです。
それはまた、私たちがイエス様の言葉を受け入れるときに、私たちのうちにいのちを与える聖霊が働いて、私たちを生かすということなんです。
いのちをもたらすのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。という意味があるんです。
あなた方がどんなに理屈で考えても、私の教えは信じることができませんよ。それは肉の行為だと。
聖霊が働いたときこそ、あなた方は私の教えを真摯に受け入れることができるんですよ。そういう示唆があります。
聖書を読んで、聖書をまた受け入れるときに、私たちのうちにいのちを与える聖霊が働き、私たちを生かすということなんですね。
そしてそれはさらに、今、永遠のいのちに生きることであり、さらにたとえ死んでも、私たちは永遠に生きるものとされるということ。
それが私たちが聖書を読んだときに、私たちの中で起こっている出来事のある面、理屈といいますかね、仕組みなんですね。
このイエス様の言葉から言えること。難しいことなんですけども、実はここにイエス様がこれまでたとえてきた、
ご自分がいのちのパンであって、私を食べるものはいのちを得る、永遠に生きるということに話が繋がっていくんですね。
そして今日のところでは、私の血を飲むものは生きるという言葉と、御言葉を血に取り込んで生きるということが繋がってくるんです。
イエスに留まることの意味
どういうことか。実はですね、皆さんね、今朝ご飯食べました?夜も食べました?
なぜ食事をするのか。それはですね、生きるためですね。
食べ物が、体の中で分解されて、様々な栄養素が吸収されて、私たちはいのちを維持していくわけですね。
栄養学とか解剖学的に言うと、そういうことですよね。大事な酸要素があって、栄養分も。
そういうものを食べ物を通して取り入れていく。取り入れた時に、体がですね、それをちゃんと消化して、必要な栄養素に変えて、
そして私たちのいのちの源にこの食べ物がなっていく、そういう仕組みですよね。
このようにですね、食べ物を食べて私たちのいのちが維持されていくように、私たちがイエス様を信じ受け入れることによって、
イエス様の御言葉を信じ受け入れることによって、私たちは永遠のいのちの糧、食べ物を食べる。
そして永遠のいのちに生きるものとされる。そういうことをですね、イエス様はご自分をパンと例えて、食べるということを例えて、
ここでは御言葉、そしてそれを受け入れると生きるということに結び合わせているわけなんです。
何か見ますけども、私たちが食べ物を食べるときに、栄養学とか解剖学の仕組みを知らなくても、食べたらですね、
栄養になって私たちのいのちが維持されていきますよね。同じように私たちは、難しい理屈を知らなくても、
イエス様を信じ受け入れ、イエス様のいのちの御言葉を受け入れるときに、永遠のいのちに生かされていく。
そういうことが今日の話からわかるわけなんです。
あのね、これラーメンですけどね。まだ前夜に行けてないんですけども。
この作り方とかあるわけでしょ。今日写真持ってきませんでしたけど、日本料理とか。
でね、ラーメン屋さんに行ってカウンターに行ってね、親父にどうやって作ってるんですかとか、
これどういう出汁をとってるんですかとかって聞きたくなるわけですけども、
そうすると頑固親父がね、つべこく言わずに食えって言うわけじゃないですか。
で、私たちが食べると理屈わかんなくても美味しい。美味しいわけです。
そして美味しいだけじゃなくて、体にいいわけですよね。
で、同じように私たちが今日の場合は聖書を読んで、そしてそれを自分の心に蓄えるとですね、
イエス様は言わないかもしれませんけど、つべこく言わずに食べなさい、私を信じなさいというようにですね、
イエス様信じたり聖書の御言葉に触れると、私たちは永遠のいのちに生かされていくということが起こるわけです。
いい食べ物が体に良いというと同じように、このイエス様の御言葉、聖書の御言葉は
私たちの永遠のいのちの体に、永遠のいのちそのものにも良いということなんです。
実はこの今日のイエス様の話はですね、旧約聖書のやはり背景があるというんです。
で、聖書を食べて美味しいということがいっぱい旧約聖書や新約出てくるんですけども、
特にエレミア書の15章16節にそういうことがあります。
預言者が神様に祈りの捧げているような言葉ですね、読める方にちょっと読んでみましょうか。
私はから3、私はあなたの御言葉が見つかった時、それを食べました。
そうしてあなたの御言葉は私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
別の箇所にはですね、エゼケール書には、口には甘い、四辺には蜜のようだという言葉もあるわけです。
はい、じゃあもう少し深く見ていきましょう。
3番目、毎日食べてイエス様に留まるということですね。
6章56節でイエス様はこのように言っています。ヨハネの6の56。
私の肉を食べ、私の血を飲むのは、私のうちに留まり、私もその人のうちに留まります。
ここで出てくる新しい言葉はですね、イエス様を食べる人は、イエス様と留まるという関係に入るということなんです。
留まるという言葉ですね。
これはですね、大事な言葉なんです。
イエスとの親密な関係
1章の後半では、ピリポだったかな、ナタナイルだったかな、イエス様を遠くから見てですね、主よ、あなたはどこに留まっていますか?って聞くんです。
そうするとイエス様は、私と一緒についてきて、そこに留まりなさいって言うんです。
ピリポでしたかね、ナタナイルだったかな、ピリポかな、イエス様と一緒にそこに留まった。
そしてイエス様を信じた、アンネルだったかな、すいませんよくわからない。
でもそこの留まるという言葉はですね、やはり留まるという言葉です。
イエス様の宿泊場所に一緒に宿泊するという意味で使われていて、それは親しい関係を表しているわけですね。
また15章、ヨハネの15章では有名なイエス様がブドウの木で、弟子たちは枝という例えがあります。
そして枝がブドウの木につながっていないと身を結ばないように、あなた方も私に留まっていなければ身を結ばないし、留まっていれば豊かに身を結ぶということを教えられています。
それは親密だけじゃなくて有機的な関係、いのちのやりとりがある関係です。
ここにありますけれども、イエス様に私たちが留まるときに、やはりさっき言った永遠のいのちをイエス様からいただいて生きる。
そこがこのブドウの木の例えから留まるという言葉から教えられているわけです。
このイエス様と弟子たちがイエス様に留まって、親密でいのちをやりとりする、そういう関係について、六四章の56の次の57節でイエス様はこう言っているんですね。
読める方は読んでみましょうか。
生ける父が私を使わし、私が父によって生きているように、私を食べる者も私によって生きるのです。
これも爪子も言わずに食べるということと繋がるんですけれども、このイエス様に留まって、イエス様のいのちをもらって生きるということがですね、ここに表されています。
ちょっと今日は難しいので御父と御子の関係は言いませんけれども、イエス様がこの地において御父から豊かないのちによって生きているようにということと関連しております。
とにかくイエス様を食べる人、それはイエス様によって生きる。イエス様に留まって生きるということがここからもわかるわけです。
実はこれは2番目に見たことと関係しているわけなんですね。
聖書の言葉の受け入れ
実は2番目に見たこと、つまり私たちが聖書の御言葉を受け入れるときに何が起こっているかというとですね、先ほど言いましたけれども、聖書の御言葉を受け入れるときに私たちは永遠のいのちの食べ物を食べているという話をしましたね。
そしてそれはまた聖書を読むとイエス様を食べることになる。そしてイエス様が私たちを内側から生かすということを先ほど申し上げました。
今度はここで新しく語られているのは、私たちが聖書の言葉を通してイエス様を私たちのうちに留めることになるんだということなんですね。
私たちが聖書の言葉をうちに受け入れていることとそれは何かというと、私たちの中にイエス様が留まってくださる行為であり、私たちはイエス様の御言葉を受け入れることによってイエス様の中に留まって生きるということになるということなんですね。
ある学者に言えばイエス様に留まって生きるというのはどういうことですかというと、イエス様を信じ続ける、イエス様を信頼し続けて生きることがイエスに留まることだということも言われているわけです。
聖書を読み受け入れるということは、実は今も言いましたけれども、聖書を読んで受け入れるときにイエス様が私たちのうちにも留まってくださっていのちになってくださるということなんですけれども、
犬にとって理想的な食べ方があるって知ってます?あるいは犬を飼ったことがある人とか、おやつをあげるといくらでも欲しがるんですよね。くれくれと太っちゃう。
獣医学を学んだペットトレーナーが言うにはどうしたらいいかというと、1日にあげる分を小分けにしてあげる。犬というのは、いっぺんに食べるよりも小分けに食べたほうがいい。絶えず食べてる。
実はこのイエス様が私を食べるという文字の言葉はギリシャ語でトロゴーという言葉なんです。これは犬が食べてる、動物が食べるようにむしゃむしゃ音を立てて食べる。
イエス様をむしゃむしゃ音を立てて食べる。それは何かというと本当に一生懸いのち食べる行為を強調している。
そして、現在形なんですね、ギリシャ語。現在形というのは継続的な行為を表していますから、私をむしゃむしゃ食べ続けなさい。
犬にとっては1日何回もむしゃむしゃ食べるようにイエス様は弟子たちに私をむしゃむしゃ食べ続けなさいと言っている。
それはまた言い換えると、今日のところから言い換えると、イエス様の御言葉を私たちは継続的に食べ続けていく。
それはまさに先ほど言いましたように、ご飯のようにいのちの糧として聖書を日々取り込んでいく、読んでいく、受け入れていく、そういうことと繋がっていくわけです。
そのように私たちクリスチャンとして何気なく聖書の言葉に触れて信じていたり、日々あるいは週の半ばで聖書を読みます。
そしてそれを心に蓄えます。それは何をしているかというと、永遠のいのちの食べ物を食べることであり、そしてうちにイエス様を宿すことであり、永遠のいのちに生きることであるということですね。
ですから聖書を読むときに皆さん覚えていただきたいのは、今イエス様に私はこうやって生かされている、イエス様を食べているんだ、そのような思いを持ってですね。
時間がある方もない方もいるかと思いますけれども、週の半ばでもですね、聖書を食べていく、イエス様をうちに宿していく、イエス様に留まっていく、そんなことに生きていくお互いであり、教会であれば幸いかと思います。
信仰と生きる喜び
それでは今日の大事な御言葉のうちの一つを読んで終わりにしましょう。
ちょっと長いんですけど、最後頑張って読んでみましょうか。
いける父が私を使わし、私が父によって生きているように、私を食べるものも私によって生きるのです。これは天から下ってきたパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べるものは永遠に生きます。
天の神様、皆を賛美いたします。あなたはいのちのパン、そして誠の飲み物として、私たちのために十字架で身体を捧げて下さいました。
私たちは今、あなたを救い主として信じ、また、あなたの御言葉、聖書の御言葉を受け入れるときに、あなたの永遠のいのちに預かることができる、そのいのちに生かされるということ、イエス様のうちに宿すということ、そのことを知ることができて感謝いたします。
どうぞ私たちが与えられた機会で、聖書の言葉に触れるときに、その御言葉の美味しさを知ることができますように、また、その御言葉に生かされるその幸いと喜びを知ることができるように、どうか導いて下さい。
あなたが私たちのうちに生きて下さり、私たちを生かして下さること、その幸いを感謝し、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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