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2025-07-13 29:42

#272 生ける水の川~聖霊は渇きを癒し周囲を潤す共におられる神 25/7/13

ヨハネ-44からの礼拝説教。2025年7月13日録音。私たちの心が潤され周りにもその影響が浸透して行く。そのことを聖霊との関りから(新旧両約聖書やパスカルの言葉などをヒントに)考えていきましょう。(聖書朗読は()まで、メッセージの導入は()からです)聖霊を生ける水にたとえたイエス様の教えから1.私たちを生かす水()、2.周囲を潤す水()、出エジプトの荒野の旅との関りから、3.私たちの中に住まわれ導かれる神を取り上げます()。

サマリー

ヨハネの福音書に基づき、イエスは生ける水について話し、信じる者が受ける聖霊の恵みを強調しています。このエピソードでは、霊的な渇きとそれを満たす聖霊の重要性が探求されています。また、エゼケール書の水の象徴を通じて、聖霊の癒しの力と生ける水の川についても探求します。さらに、イエスが人々に与えるいのちの水の意義や、彼らがその水を周囲に流し出す役割についても触れています。旅を通じての神の導きや滋養についても確認されています。

いける水の紹介
それではお読みします。ヨハネの福音書7章37節から。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。
誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、行ける水の川が流れ出るようになります。
イエスは、御自分を信じる者が受けることになる、御霊についてこう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
この言葉を聞いて、群衆の中には、この方は確かにあの預言者だ、という人たちがいた。別の人たちは、この方はキリストだ、と言った。
しかし、このように言う人たちもいた。キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベスレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。
こうしてイエスのことで、群衆の間に分裂が生じた。彼らの中には、イエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、誰もイエスに手をかける者はいなかった。
以上です。今日はこのところから、いける水の川と題しての言葉を取り付けます。皆さんおはようございます。
昨日お届いと涼しい日が続きましたけど、今日は昨日よりも、埼玉県地方は7度、最高気温が高い暑い日になってしまいました。
一緒にまたこうやって礼拝が守れることを感謝しています。
ちょっとレジュメの方でタイトルを入れ忘れてしまったので、何かいける水の川とでも補足しておいていただければと思います。
さて、今日イエス様が、まさに暑い私たちにぴったりのいける水についてお話ししてくださいました。
仮容の祭りの期間だ、エルサレムにいた神殿で話したということをこれまで見てきました。
その中で、実は仮容の祭りの中でこういう儀式と言いますか、セレモニーがあるんですね。
それは、毎日神殿に水を汲みに行くという、神殿の敷かれべき場所に水を持って行って水を注ぐということを、七日なり一節によると八日なり繰り返すということが言われています。
そして今日言われている、祭りの最後の日にイエス様が大きな声で教えたというんですけれども、それも七日目なのか八日目なのかそれ以外なのかという議論がありますけれども、いわゆるクライマックスですね。
クライマックスの日にイエス様は神殿で、この聖霊を水にたとえて、まさにこの水のお祭りでもありますから、そのように教えているんですね。
その水は何を言っているかというと、こんな絵がありますけれども、39節でこうありますね。
イエスはご自分を信じる者が受けることになる御霊についてこう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので御霊はまだ下っていなかったのである。
この後半の部分は皆さんご存知のように十字架復活焦点、そしてペンテコステがまだ来ていなかったので御霊は下っていないけれども、イエス様はやがて来る聖霊の約束をここで語ったと著者ヨハネが解説しているわけです。
そんなところからですね、今日ですね、この水と聖霊ということが、水に聖霊が例えられて語られているというイエス様の語り方を参考にですね、3つの点を見ていきたいと思います。
最初は信じる私たちを生かす水です。2番目は周囲を潤していく水です。最後はエジプトの出来事と実は関連しているということですね。神が私たちの中に住まわれるという点をですね、見ていきたいと思います。
それでは一番最初の点、私たちを生かす水ですね。もう一回7章37、38節を読んでみますね。さて祭りの終わりの大いなる日にイエスは立ち上がり、大きな声で言われた。長いイエスが読める方、誰でもから読んでみましょうか。
誰でも渇いているなら私のもとに来て飲みなさい。私を信じるのは聖書が言っている通り、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。
まあ先ほども申し上げましたけど、今年のですね6月は猛暑の梅雨となりましたね。その真夏日が記録的な日数を記録したということで、もういつもですね暑い日しか出てこない。そういう6月でした。
炎天下歩いてきた方いらっしゃるかもしれませんけど、炎天下歩くともう生きた心地がですねしないですね。汗がたくさん出てきます。そうすると喉も渇きますから熱中症予防で、最近はNHKのニュースまで言ってますよね。水を飲んで水分だけじゃなくて塩分を取って。
ちなみに生理食塩水と同じ濃度の0.9%の塩水を飲むと良いわけです。実は私それを自分で作って、レモン果汁、ポッカレモンとかですね、あるいは梅を絞ったものとか入れてですね、それを飲んでいます。
だいたい毎日4、5リットルぐらい汗かくから飲んでますね。でも水を飲むとこの渇きが癒されて、生理食塩水というのはこのいのちを保つわけですね。そして先週の木曜日ですね、ライブがありました。いろんな日が出ましたけど、幸いのことにそのライブ、大雨のおかげで翌金曜日が非常に涼しくなりましたね。
そのところからですね、水というのは私たちの喉の渇きを癒す、まさにいのちのために必要不可欠なもの。そして暑さを癒す大雨ということで、この水というのが私たちに癒しをもたらす、そんなことが見てわかるわけです。
このようにですね、いのちと生活のために水というのは必要不可欠なわけですね。そういうところからイエス様は生きる水の川が流れ出るということを教えています。しかしここで言うとですね、イエス様が渇きと言っていますが、それはですね、あえて言えば霊的な渇きというような表現ができると思います。
もう少し霊的というのは危なっかしい響きがありますので、別の言い方をすると、神様を信じてこそ癒される渇き、その神様を信じてこそ癒される渇きを癒すのがこの生きる水、つまり聖霊だとイエス様はおっしゃっているわけですね。
実は神様を知ってこそ私たちの渇きが癒されるということをですね、いろんな洋の東西を問わず、特に西洋のキリスト教の思想家が言っています。パスカルってご存知ですね、みなさん。パン生、パン屋さんじゃありませんよ。
パン生を書いたフランスのパスカルは今、さっきも言った天気の単位で使われてるでしょ。昔はミリバールって言ったんですよね、気圧。今はヘクトパスカルって言うんじゃないですか。そのパスカルがこのフランスのキリスト教の思想家のパスカルなんです。
彼はですね、経験がクリスチャンであってこんなことを言っているんですね。
そしてイエス・キリストを通してその神に出会うとき、初めて人はその空白を本当に満たされるということを言っているんですね。
難しい言葉を簡単にしているんですけど、難しい言葉ではこんな役になってですね、人の心には神の形をした真空がある。神の形をした真空があって、真空ですから何を入れてもですね、もう満たされないわけでしょ。
それはその神の形をした真空を満たすことができる唯一のものは何かというと、まさに神の形をした、神であられるイエス様しかありませんよ。その真空の心にイエス様が入るときに、霊の渇き、神によってしか満たされない渇きが癒されますよということをパスカルは言っているんですね。
実はそのことと聖霊と関係してイエス様は、以前見ましたヨハネの4章14節でこう言っています。サマリアの女性がですね、それも暑い昼、結婚何度も繰り返していたということで悪い噂が立っていたから、誰も行かない暑い昼に水を汲みに行った。
そしてそんな時にですね、その水の話からですね、その水をくださいということでサマリアの女性が言った時にイエス様がこのように女性に言ったんですね。
しかしこの水を飲む者は、この井戸の水を飲む者は渇きます。しかし私が与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがありません。
ここだけから読んでみましょうか。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
実はこれは何かという答えが今日のところに出てくるイエス様信じる人に与えられる聖霊だということでですね、この4章の生ける水の答えが出てくるわけです。
霊の渇きを癒す方法
何は去っておき、イエス様こそ人の心の中にある神に対する上渇きとかですね、永遠に対する上渇きを癒すことができる。
それをいのちの水に例えて、あえて言えば聖霊が与えられることによってそれが満たされるということで教えているわけですね。
このようにですね、イエス様を信じる、それはイエス様のところに来て飲むということと同じなんですね。
イエス様を信じて、イエス様から飲む人、その人は神様を知って、そして信じた人の中にはどうなりますか。
聖霊が宿りますね、見えなくて。
そして聖霊が私たちの心に宿るときに、その救いと喜びをこのイエス様がですね、心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになると。
聖霊を与えられた喜びや満足をですね、心の奥底から生ける水の川が流れ出るということで表現しているわけなんですね。
私たちはですね、今日改めてイエス様の見事を見ましたので、そのことを再確認してですね、その聖霊が与えられて、渇きが癒されるということ、その祝福に感謝したいと思います。
まあ、いろんなことが言えると思いますけども、私がファッと思いついたのは、本当にですね、どうしようもない心の叫びをですね、神様に祈る。
あるいは聖書を通して解決が与えられる。そのときに私たちは霊の渇きを癒されるんじゃないかと思うわけですね。
あるいは礼拝に集うことによって賛美をしたり、交わりをすることによって、またそこに共におられる、神様に触れることによって私たちは霊の渇きを癒される。
まあいろんな言い方あると思いますけども、それぞれあると思いますが、とにかくイエス様を信じる私たちはですね、聖霊が与えられていて、その聖霊によって心の渇きが癒されている、癒されるということを再度確認できればと思います。
そしてじゃあ次ですね、第2番目。実はここでイエス様が7章の37、38で言っている一つの言葉が大事と言いますか、注目を浴びるんですが、聖書が言っている通りって言っているんです。旧約聖書なんですけど。
それはどこですかということでいろんな議論があるんですが、簡単に言うとたくさん旧約聖書の中に聖霊が与えられる豊かな水といのちの聖霊が重ね合わされて旧約聖書にたくさん美しい素晴らしい描写で書かれています。
その一つの御言葉だけ今日は取り上げたいと思います。
2番目、周囲を潤す水ということで、エゼケール書の47章1節にこういう言葉があるんですね。
神様かな、水界かな。
彼は私を、この預言者エゼケールを神殿の入り口に連れ戻した。
見ると水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。
神殿が右に向いていたからだ。その水は最南の南、神殿の右側の下から流れていた。
距離関係、位置関係がちょっと難しいかもしれませんが、エゼケールはですね、聖霊の幻を見るんです。
それはイエス様が、正確には違いますけれども、イエス様がいたその神殿からですね、水の川が流れている。
それを幻で見た、ここで記録してるんですね。
そのことをもう少し詳しく見ていきましょう。
そしてその川から流れ出た水がですね、神殿から流れ出た水が川になって海に流れていく。
しかもそれがどんどん増えていっているとですね、エゼケール書の47章1節から12節にかけて書いてあります。
水の流れと生態系の豊かさ
あとで読んでみていただきたいんですけど、水がですね、最初川のように流れてて、くるぶしまで来た。
次にまた水の量が、川が増えてですね、今度は膝まで来た。
そしてその水の量が増えて今度は腰まで来た。
川を渡るようにと言われてですね、渡ってるんだけども、ついにはですね、この首まで来てですね、渡れないほどの量になった。
水がどんどん増えていった。
皆さん水泳とかやったことあります?プールで歩いたりしたことあります?
私も平泳げとか好きなんですけど、本当に水の中に浮かぶと自由があったり、生かされている喜びを水の中で感じたりしますけど、
そういう水が増えていっていのちが湧き出ているような、そんなイメージがこの幻から伝わってくるわけです。
そんなことでですね、泳いでないんですけど、私勝手にイメージでゼキで泳いだのかなと思ったんですけども、
そして川の水がですね、海に入ったって言ってですね。
ところでですね、この写真は神奈川県の相模湾です。
ここはですね、豊かな漁場で日本全体の約4割の魚種、魚がいる。
1600種類もこの相模湾に生息しているそうなんです。
よくね、旅番組とか釣り番組で相模湾とか言ってるじゃないですか。
で、なぜこれだけ豊かな漁場かと言いますと、この流れ出る川のですね、
水源が箱根ですとか、丹沢水系という豊かな森林なんですね。
織田原。で、森林が豊かであると、その豊かな森林、土の中から出てくる水に栄養がたくさん含まれている。
そうするとその栄養がたくさん含まれている水が海に流れ込むと、それをプランクトンが食べて増えて、
そしてそのプランクトンが増えているから魚もそれを食べたり、あるいは水が豊かになりますから海藻もですね、豊かに茂ってくる。
まさにですね、このエイゼ・ケールが言っているように47章9節でこれと似たことがですね、この神殿から流れているいのちの川について言っているんですね。
この川が流れていくどこででも、そこに群がるあらゆる生き物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。
ここから読んでみましょうか。この水が入るとそこの水が良くなるからである。この川が入るところではすべてのものが生きる。
イエス様のいのちの水の宣言
私は個人的にこれ最後の2行は素晴らしい宣言だと思うんですね。この水が入るとその水が良くなるから魚が生き物が増える。
そしてこの川が入るところではすべてのものが生きる。これはまさに人を生かすいのちの源である潤す聖霊のですね、象徴であるわけですね。
どんな魚かちょっとわからないですけど。
このようにですね、聖霊様というのは先ほど言いましたが、信じる私たちを生かす。
それだけではなくて今度は私たちからその生きる水の川が流れ出て、海を潤す川の水のように私たちの周りを潤す。
それが私たちから流れ出る生きる水の川、聖霊なんですね。
ですからぜひ皆さんね、私たち信じていきたいですね。私たちの中から、私の中から聖霊が流れ出て周りの人を潤す。周りの人を生かす。
自信がない方もいらっしゃるかもしれません。私もそういうところあるんですけども。
そういうですね、自信がない方について牧師がですね、ある神学者がこんなことを言って励ましているんですね。
私たちは自分が何かのために役立つことができるのに、それに専念する代わりに他の人がしていることを羨んでしまいます。
ああ、もっとああいうふうにできたらいいのにな、私は貧しいなとかね。
しかしイエス様は私たちの人生をあるがままに神の栄光のために生きることを願っています。
ですから自分がトロに足らないといって、自分を避けすんだり、豊かな人、才能豊かな人をねたんでしまうことをしないでですね、自分のできることを専念する。
それこそ神様、イエス様が願っていることで、人生あるがままに神の栄光のために生きることをまさにイエス様が願っている。
それを信じる中でですね、神様が私たちを通して、聖霊の川の流れを通してですね、周りの方々を潤していく。
そのように信じていくお互いでありたいと思います。
最後3番目、では仮容の祭りのモチーフから考えていきましょう。
3番、私たちの中に住まわれ導かれる神様、ということですね。
ヨハネの7章の40節に戻ります。
イエス様のこの生ける水の川が流れるという宣言を聞いて、群衆がこう言ったんですね。
この言葉を聞いて群衆の中には、この方は確かにあの預言者だという人たちがいた。
別の人たちはこの方はキリストだと言った。しかしこのように言う人たちもいた。
キリストはガリラヤから出るだろうか。
聖書を見たように、イエス様の出身地にこだわってはいけないということですよね。
本当にイエス様は救いでした。
こうやってイエス様をキリストだと信じる人たちや、あの預言者だと信じる人たちが出てきた。
あの預言者って誰か分かります?覚えてます?
あれは申命記の18章3節だと見てほしいんですけど、
モーセが自分で、やがてのちの時代に私のような預言者を神はあなた方の中に使わすと言って、
約束の時ですか、終わりの時に、神様がモーセの最愛の預言者を使わすという約束をしていました。
ですからイスラエルの人たちは、モーセのような預言者がいつ来るか、いつ来るかと待ち望んでいた。
その中にはイエス様が確かにあの預言者だという人がいた。
おそらく救い主だということと言い換えてもいいかもしれない。
なぜこのことがここの言葉で出てくるか。
実はこのヨハレノ福音書の5章で何があったか。
6章でしたか。あの奇跡覚えてますか?5000人の給食の奇跡だったじゃないですか。
あれは何をイエス様について語っているかというと、
モーセが荒野でマナーを与えたようにイエス様はいける、
本当にそこでパンを与えましたけれども、いのちのパンであるということを教えてますね。
そういう形で荒野の民とモーセとイエス様がダブっている。
今日の箇所気がつきましたか。今度は水が流れ出る。
これ荒野で水が流れ出た話覚えてます?
これパンがね、マナー。
ホレブの泉、この民が喉が渇いたと荒野で叫んだ時に、
モーセが神様に言ってですけれども、岩の中から水を出した。
モーセがいのちじると神様に言って岩の中から水がほとばしり出た。
まさに砂漠の旅の中では食べ物と水が必須ですよね。
実は今日の仮容の祭りの出来事、イエス様のいのちの水の宣言は、
ここの水を与えたモーセとイエス様が重ね合わせられているという非常に興味深いことなんです。
そして実はモーセのパンを食べた人もイエス様のパンを食べた人も死ぬけれども、
イエス様も食べたら死なない。
そしてこのイエス様が与える水はいのちの水だ。
つまりイエス様はモーセ以上の存在であり、本当の救い主である。
人々を本当の食べ物、飲み物によって生かす、永遠のいのちを与える救い主であるということが、
実は出エジプトの出来事と重ね合わされて語られているという奥深さがあるんです。
非常に興味深いと皆さん思っていただけるとありがたいです。
そしてこの仮容の祭りでなぜテントの中に住んだかって覚えてますか?
それは仮容の祭りでテントの中に住むことによって、
40年間砂漠の中を民がテント生活をして移動したということ。
そしてそれで何を表しているかというと、
その仮容生活の間に40年間ずっと神様が一緒にいてくださった。
その誠実な神様と共にいられる神様を思い出すために、
あえて仮容の祭りでテントの中に住んだということが仮容の祭りの意味なんですね。
イエス様と聖霊の導き
こうやって3つの点で、この孟聖の執エジプトの荒野の出来事と、
今日の出来事、その前からの出来事がイエス様やって、
重ね合わされていて、イエス様が成就だ。
つまり40年間神が共にいて導いたように、
今人となった神であるイエス様がここに共におられる。
そしてイエス様が天に帰った後、どうなったかというと、
聖霊が下って、今度は私たちと一緒に聖霊様として神様は日々過ごしてくださっている。
導いてくださっている。
そして私たちが霊に飢え渇く時に、聖霊によって私たちを養ってくださる。
そして私たちが荒野の旅のように困窮した時に、
その日必要なものを神様が共にいて私たちに与えてくださる。
そういうことがイエス様によって実現した。
そのような神が共にあることをもたらす救い主がイエスキリストだということを、
今日の歌詞も含めてお伺いしているわけです。
そのような荒野の旅とモーセとイエス様の結びつきを確認できたわけです。
そしてそのことと結びついた旧約聖書の言葉を最後にあげたいと思います。
保守でエルサレムが滅ぼされた後、神殿が再建されました。
そして実はその時に仮庵の祭りをもう一回イスラエルの民はお祝いしたんですね。
その時の感謝の祈りがネヘミヤキ9章19-20に書かれていて、
実はその言葉も水と聖霊の今日のイエス様の言葉と関係しているということを確認して終わりたいと思います。
この仮庵の祭りを祝った、保守から帰還した民の祈りがこの言葉ですね。
ネヘミヤ9-19-20
あなたは大きな憐れみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。
ステージフの伝言を思い出している。
昼は雲の柱が彼らから離れず老中を導き、夜は火の柱が行くべき道を照らしました。
あなたは彼らを賢くしようと御自分の良き霊を与え、彼らの口からあなたのマナーを絶やさず、彼らが渇いた時には水を与えられました。
エジプトの時に、このように導いてくださった神様が今、保守から帰った民にもいるということを確信しています。
そして今度は私たちは、この神様がイエス様にあって、聖霊にあって、私たちと共にいて導いてくださる。
感謝の祈り
そのことを感謝し、確信しながら歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様は、モンセのような預言者でありながら、誠の神であり救い主として、誠のパンをいのちを与え、そして誠の生ける水を与えてくださり、
聖霊によって私たちを生かし、私たちを通してまた周りの人々を潤してくださる、その幸いな約束を感謝いたします。
今、目には見えませんが、私たちの内に宿り、私たちを日々導いてくださること。
私たちの祈りを聞き、私たちを困難の中にやって救い、また必要を満たして導いてくださる神であることを覚えて感謝いたします。
どうぞ私たちがイスラエの民のように日々、あなたに信頼し、あなたから与えられるものを受け、歩んでいくことができますように。
そしてあなたのごエコのために用いられ、天への旅路を続けていくことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様の名前によって祈ります。
アーメン。
それでは1分ほど、御言葉に応えて祈る時間を持ちましょう。
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