2024-01-28 30:30

#男と女と結婚 24/1/28

マルコ10:1-12からの礼拝説教。2024年1月28日録音。今日の聖書箇所でイエス様は、敵対者の質問による罠を回避しました。その中で質問者の問題の本質をとらえ男性と女性と結婚について教えています。その教えを紐解く中で、性別に関わらず人は尊い存在である理由や結婚が神聖で結婚の誓約を守り抜くべき理由が見えてきます。1.パリサイ人ら人間の頑なさ、2. 神は人を男と女とに造られた、3.夫婦は一体であり神が男女を結び合わせた、の3つの点を取り上げます。

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00:07
マルコの福音書10章1節から12節をお読みします。イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。
群衆がまたイエスのもとに集まってきたので、再びいつものように彼らを教え始められた。
すると、パリ裁人たちがやってきて、イエスを試みるために、 夫が妻を離縁することは立法にかなっているかどうかと質問した。
イエスは答えられた。 「モーセはあなた方に何と命じていますか?」
彼らは言った。 モーセは離縁状を書いて、妻を離縁することを許しました。
イエスは言われた。 モーセはあなた方の心が堅くななので、この今しめをあなた方に書いたのです。
しかし、想像の始めから、神は彼らを男と女に作られました。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのです。
ですから彼らはもはや二人ではなく一体なのです。 こういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。
家に入ると弟子たちを再びこの問題についてイエスに尋ねた。 イエスは彼らに言われた。
誰でも自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して肝炎を犯すのです。
妻も夫を離縁して、別の男に徒継ぐなら、肝炎を犯すのです。 以上です。
今日はこのところから、男と女と結婚と題して見言葉を取り付けます。 皆様おはようございます。
早いもので、まもなく1月も終わろうとしています。 ノトの地震も、またまた復興に時間や労力がかかるようです。
今朝、ニーザー市近辺で8時59分に震度3程度の地震があって、びっくりした方もいらっしゃるのではないかと思います。
また寒い日も続いておりますけれども、先週あたりから、ニーザー市近辺では日の入り時刻も5時台になりまして、少し日が長くなったな、そんなことも感じさせられる今日このものでありますが、
また共に礼拝の見事を学べることを感謝しております。 さて今日のところはイエス様が結婚や男性と女性について教えています。
今日のところはですね、一節にありますようにイエス様がユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行った、
03:07
簡単に言うと先週からの続きでイエス様は、今ちょっと地図を出せませんけれども、
ガリラ湖の近辺の活動拠点から南に下り始めました。そしてエルサレムに向かっているところです。
まさにこれから柔軟と十字架を迎えようと、エルサレムに向かう途上にあるということがわかります。
そこで群衆が集まってきて、いつものように教えていた。 そしてその中でパリサイビトがイエス様に質問したところから始まっているわけです。
現在、昨今はですね、ライフスタイルやジェンダーの多様性が尊重されているということで、 今日はそのことは詳しく話しません。そのことを受け入れた上で、
結婚するかしないかとかいろんな多様性が尊重されていますが、それを受け入れた上で結婚している方もいるし、結婚するだろう方もいるので、この機会にこのイエス様の御言葉をもとに、
聖書からですね、結婚について学びます。またそれをもとに神様の視点で男性女性、そして人間について学びます。
この神様の視点というものを持つと、男性であり女性であれ、自分を受け入れることができるようになるんです。
すると、いらない劣等感や、また反対に優越感という他者との否定的な感情によって振り回されることがあっても、それに負けずに済む。
自分自身を確立することができる、そういうことも今日のイエス様の教えから、私たちは受けることができます。
そして当然自分を認められるようになると、他の人の自分と違う理由も認められる。そんなこともできますし、今日詳しく見れませんけれども、自分をきちんと尊重できるようになると、
相手に対してふさわしくないことはNOと言えるようになるわけです。そんなことも考えながら、結婚や男性女性、人間について学んでいきます。
一番最初はですね、ちょっと今日の物語、話の背景にもなりますが、まず最初は、パリ災人たち、人間の固くなさということを取り上げます。
10章の5節で、パリ災人の質問に対してイエス様は、こうまず投げかけられました。
パリ災人の答えに対してイエス様はこう言われたんですね。イエスは言われた。
モーセはあなた方の心が固くななので、この今しめをあなた方に書いたのです。どの今しめかというと、
離縁状を書けば夫は妻を離縁することができるという、新明記の24章の1節からのところを
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挙げているわけです。 まずですね、
私たちここで見たいことは、パリ災人たちが質問したその動機がねじ曲がっていったということをまず知らなければいけません。
彼らはイエス様を罠にかけるためにこの質問をしたんです。これ詳しく言いませんけども、簡単に言うとイエス様が
離縁を良いと言った時にも言葉尻を捉えて批判できますし、離縁はダメだと言った時にも言葉尻を捉えて批判できるということがあったんですね。
とにかく動機がねじ曲がっていた。 それはこの悪意を読んだ上でイエス様は彼らの少年の悪さを指摘したんです。
彼らの根本的な間違いは、 聖書や立法の教師だと言いながら
本質的な部分で神様の御心を誤っていたということなんです。
根本的なところでは神に従っていない。 どういうことか、本来のこれからも見ていきますが、神様の意図からすれば
夫が妻を離縁することはあるべき姿ではないんですね。 でもイエス様はこの許容と言っておられるように、人間の不完全さや
罪のゆえにその夫と妻が離縁するということが起こってしまうので、神様は、あるいは孟聖はそれを許容してこの離縁状を書いて妻を離別するということを許したということなんですね。
それ以上にパリ沙耶人たち、質問した彼らに深い問題があったんです。それは
自分たちの固くなな心を押し通すために神様の忌ましめを乱用しているとイエス様を指摘しているんです。
先ほども言ってますのに、本来はやむを得ない理由でと書いてあるんです。 孟聖の立法を見ると、やむを得ない理由で妻を離縁する場合は離縁状を書いて離別することができると書いてあるんですが、
それを自分たちの我を通すために離縁状を書けば夫は好きなように妻を離縁することができると、
そういう論法に彼らはすり替えていったわけなんです。 そして
当時そういう解釈をして、後でも見ますけど、そういう男性優位の考えが広がっていったわけです。
そういう価値観、男は離縁状を書けば好きな時に妻を離縁できるということが
張り取ってしまった。
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孟聖のこの立法でこう言ってるから妻を離縁できるということを、それはすなわち自分たちの堅くなさを正当化するために、
制度として孟聖の立法を利用したんです。 単なる自分の自己実現のために制度として神の言葉を利用したというところが問題だったんですね。
その一つの例が今までずっと述べてきてますように、この離縁状を書けば、書け際すれば男は好きな時に女を離縁することができるということ。
それに対してイエス様はそこの言葉辞を囚われる罠に囚われないで、
本質的なことをここで教えていたわけなんです。それは結婚本来に込められている神様の御心だったんです。
そしてパリ裁美とはその神様の本来の御心、いわゆる本質を見失って
表面的な原則論で離縁できるできないということを話していたわけなんですね。
弟子たちも同じ過ちを犯していた、同じ考えにあったので、後でも言いますけども
男は妻を好きな時に離縁できないんですか?ということでイエス様に質問しているわけです。
まず第一のポイントは、この物語の発端になった、イエス様の言葉の発端にあったパリ裁美たちの堅くなさ、
神の本質的な御心を見誤っている彼らの堅くなさであり、
神の御言葉を自分の好き勝手な自己実現のために利用しようとする人間の過ちということがここに隠れていたわけです。
その上で2番目、 結婚ということを見ていきましょう。2つ神様の意図ということを見ていきますが、1つ目は
2番目のポイント、神様の意図の第一。 人を男と女とに作られたということが神様の意図とした。
ちょっとじゃあ10章6節のイエス様の御言葉をここに挙げましたので、読めるかと読んでみましょうか。
しかし創造の始めから、神は彼らを男と女に作られました。
実はこの御言葉は、 創世紀の1章の27節からの引用なんですね。
皆さんのレジュメにもありますが、1章27節にこう書いてあるんですね。
神は人を御自身の形として創造された。 神の形として人を創造し、男と女に彼らを創造されたという言葉です。
12:03
ここからわかること、神の形に御自身の形に人を創造したということなんですが、
そこも見ていく前に、神様は男も作ったし女も作ったということなんです。
つまり何かというと、男性も女性もいわゆる違った性別があるということは、神様の御心である。
それはすなわち、優劣の問題ではないというんです。
最初見たパリ沢人たちや弟子たちが勘違いしていた、当時の中でまかりとっていたのは、男性優位だということです。
でも創造の神様の意図から言うと、男性女性の違いはあっても優劣はないということなんです。
今ジェンダーについて配慮が必要なので、発言に気をつけながら紹介しますが、
一般的に前に掲げましたが、男性らしさというと、
一般的ですよ。いろんな例がありますけど、男性らしさはどんなものがありますかというと、同時な余裕を持っている。
決断力と行動力を兼ね備えている。ぶれない信念を持っているとか、志が高い。これが男性らしさ。
女性らしさ、例えばですね、
穏やかで気立てが優しいとか、感受性があり繊細である。
愛らしいものを好む。かわいいとかですね。無駄に危険なことを避ける。安全なことに対する安定とか安全に対しての感性が鋭いということなんです。
一般的にこう言われているんです。それを挙げた上で、
創世記1章27節、神様が神の形に人を作ったという時にこれを考えていきましょう。
神の形に人が作られたというのは、こういうふうに言い換えることができるんですね。
前にも書かれましたけれども、目に見えない神様のことが人間を見るときにわかるということです。
いろんな言い方ができますけれど、一つ言えるのは。言い換えれば、目に見えない神様を、限界がありますが、
人間のありようによって目に見えない神様をイメージできるというのが、人が神の形に作られたということなんです。
実際ですね、英語で神の形というのはイメージって書いてあります。イメージオブガード。
だから、神の形に作ったというのはそういうことでもあるわけですね。これダンテかな、天地創造の絵から引っ張ってきたんですけども。
で、その上で、いいですか、人間が神の形に作られた。
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そうして、人間を見ることによって、目に見えない神をイメージできるということがわかったと思うんですけれども、その時に注目すべきことがあるんです。
それは、神様のイメージを表すのに、男性も女性も両方必要だということなんです。
だから、このことからも男性優位がまかり通ったり、男女に優劣があるということではない。
そのことをちょっと理解していただきたいですね。
ちなみにイエス様は、さっき弟子たちの間違いを指摘する時に、
弟子たちもですね、ここの箇所を別の福音書で詳しく書いたんですけれども、
イエス様にね、この言葉を聞いた後にこう言ったそうです。だったら結婚しないのがマシだって言ったんですね。
好き勝手に妻を離縁できないなら。そういうふうに弟子も言った。それに答えてイエス様がこう答えたんですね。
誰でも自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は妻に対して寛容化すのですと言ったんです。
好き勝手に妻を離縁する男は妻に対して寛容化すと言ったんです。
これ当たり前に思うかもしれませんけど、当時からしたら衝撃的な言葉なんです。
なぜか、実はですね、これ当時の考えですよ。怒ってもいいですけど、私怒らないでくださいよ。当時の考えで、
こうやって男性が妻を不当に離縁した場合、男性はですね、その妻じゃなくて妻のお父さんに対して罪を犯したことになるんです。
その妻に息子がいたら妻の息子に対してその夫は罪を犯したことになるんです。
つまり、この妻に対しては男は罪に問われない、そういう文化だったんです。
そういう中でイエス様は、いや、男が勝手に女を離縁したら、その男は女に寛容の罪を犯させて、
女に罪を犯したことになるんだよと言って、女性の、うまく言いませんけども、
地位というものがそういう男性に劣らないんだというようなことを認めさせたということで、衝撃的な言葉なんですね。
さらにちょっと話を飛躍させますと、今日の10章12節では、
夫を離縁する女も寛容を犯すと言っていることは、実は逆に女性も男性に対して同じことをしたら罪を犯すことになるんですよと言って、
女性の責任も明確にしているんです。それはつまり、男性も女性も共に責任ある主体としてイエス様が認めているということです。
難しい言い方をしましたけれども、今言いたいのは、男性が圧倒的に優位な社会の中でイエス様はきちんと、
神の形に女性も作られてありようが必要だということを言いながら、そして
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男女の離縁に関して、男性も女性も同等だということを言いながら、この女性の地位をきちんと確立して、男性と女性を等しい神の前にあるものだということを、イエス様がここで言っているということを、私たちは知るべきなんです。
長い話になってしまいましたけれども、
これらのことから私たちが受け止められるメッセージ、それは私たちが男性であろうと女性であろうと、
私たちそれぞれ神様の目に見えないご性質でありようを表す尊い存在だということなんです。
ジェンダーの問題とか、いろいろ男性優位、女性優位とか言われますね。
2022年に世界のある経済のトークを調べる団体が、国会議員の男女比率を比較したんです。
144カ国を調べて、女性の比率を調べたときに、144カ国中、日本は何位だったかわかります?
たぶん、133位ぐらい。
146カ国中133位。この女性の国会議員の比率が少ないということが、どれだけ女性の社会進出がなされているかという指標になるそうです。
ちなみに、サウジアラビアは99位だったんです。
そういう意味で、それが日本の現状。
そんな中で、私たちは、神様の視点から見たら、男性も女性も神様のありを等しく表す尊い存在なんだということなんです。
だから皆さんがどういう性であったとしても、神の前でそういう神のありを表す尊いものなんだということで、ご自身を見ていただけることができるし、見ていただきたい。
そうやって、あえて言えば、自分自身の尊厳を神様にあって認めていく。
そうすると、自分自身のありを認めながら、今度は自分と違う他の人のありをも認め受け入れられるようになりますよ、ということを学んでいけたらと思うわけです。
最後の3番目のポイント。神様のもう一つの結婚における意図。それはちょっと誤食がありますが、
夫婦は一体であり、男女、夫婦を神が結び合わせたということなんですね。
今日のところでイエス様はこう言っています。10章の7節から9節。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのです。
ですから彼らはもはや、二人ではなく一体なのです。 最後のところに行ってみましょうか。
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こういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。
夫婦は一体であり、神がその夫婦を結び合わせたということが神様の意図だということなんです。
ここでは結婚とは一体何ですかということが、神様の視点から教えられています。
結婚とは神様が制定されたものだとイエス様は教えています。
私も時々、キリスト教の結婚式の司式を頼まれることがあります。
その時に、いつも大体10分ぐらいお勧めの聖書からお話をするんです。
必ず言うことがあります。 結婚式で一番大事なものは何だと思いますか。
ラジオの前のみんなはどう思うかなぁ。
司会?そういうのもあるんですけどね。結婚式で一番大事なものは何か。
指輪の交換でしょうか。 指輪の交換に象徴されているものです。
それは、結婚の制約です。
誓いますか?はい、誓います。ということを男女それぞれ、両性が、夫婦がそれぞれする。
それが一番大事です。なぜか。
それはですね、 結婚がなぜ神聖であるのかということと関係しています。
それは、結婚が神聖であるが故に制約が一番大事だ。
なぜ結婚が神聖なものなのでしょうか。それは神様が結婚を制定したからなんです。
しかも、人を作られ、男と女を作られた想像の始めに神様ご自身が結婚を制定したということ。
それ故に結婚が神聖なものとなったわけですね。
そして、その結婚の制約とは、その結婚の神聖さと厳粛を受け入れた二人が、
神と多くの証人の前で誓い交わすものだから、この制約が結婚式で最も大事だと言われる故なんですね。
そのことを覚えておくと、
皆さん良い共有になると思います。とにかく結婚式で一番大事なものは、結婚の制約だということです。
その上で、神が結婚を制約したということがまず3番目の最初のポイントなんですけど、もう一つは、
次のように教えられていますね。男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる。
24:04
それはその両性、結婚を制約する両性、二人は親のもとを離れていく。
そして一体となるというんです。つまり親子関係よりも、その夫婦の関係が結婚において尊重されるべきだということなんですね。
さらに、それは詳しく言いませんけど、なぜかということとそれと関連して、なぜかといえば、結婚によって結ばれた二人は
一つの体となるからなんですね。 これは文字通りの二人の結びつき、体の結びつきを言いますが、同時に
二人であっても一人の人であるという結婚の性質も表しているんです。 それは、もちろん夫婦が別人格であるということを否定しないんですよ。
全然それぞれの人格として尊重されるべき、全くお互いがイエスマン同士になるわけではないということは、それは大前提です。
でもその上で、 夫婦は本来一体であるということを見失ってはいけないということなんですね。
結婚式で読まれる、必ず読まれる、キリスト教の結婚式で必ず読まれる聖書の言葉があるんですね、新約聖書。
ファウロが書いているエペソの4章25節からなんですけども、ここ書いてあるんですね。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を捧げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。
同様に夫たちも自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。 自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。
ここにもですね、ちょっと割愛してしまいましたけど、実はこのエペソの4章の25節から28節の間に、
イエス様が引用したソフセキの2人は父と母を離れ、一心同在となるという言葉が引用されているわけです。
そしてその続きで5章の33節でこう書いてありますね。ちょっと読んでみましょうか。
それはそれとして、あなた方もそれぞれ自分の妻を自分と同じように愛しなさい。
妻をまた自分の夫を敬いなさい。 ここもですね、結婚式で読まれますが、この前後にやっぱり
自分の妻を愛する人は自分自身を愛するのですということも言われているわけです。 これらの
言い言葉からわかりますように、聖書は
2人となった夫婦は
あたかも、まあ心学的に言っても難しいんですけども 神の目の前では一つの体であるんだよ
27:06
ということを言っているわけなんです。 結婚の制約の時にですね、辞める時も健やかな時も相手に誠実を尽くすことを誓いますか
ということもこれらの 聖書の教えと関係しているわけなんです。
ですから、まあ夫婦が互いにいたわり合うということ、その根拠もこれらの言葉にあるわけなんです。
そしてまあ当たり前ですけども、 あってはいけないことですがDV、なぜいけないか
それはもちろん相手を傷つけることですし、またそれは相手を傷つけるということは 自分自身を傷つけることになるんだということなんですね。
まあそういう中で そういう理由からですね
まあ夫婦が利縁という 現実的な選択を選ばなきゃいけないことがあるかもしれませんが、やはりそれも
最初にイエス様が言っているように、人間の堅くなさ、罪ゆえに悲しいことが起こって離れざるを得ないということが許容されているということにも帰っていくわけなんです。
神言から男性について、女性について、結婚について学びましたけれども、私たちがもしそういう立場にあるならば、そのような思いで今の家庭生活を築いていく。
あるいは自分のお子さんであろうが、周りの若い後輩であろうが、そういう人たちをですね、そういう目で見守っていき、あるいはサポートしていく。
また必ずしも結婚ということが 人生の選択ではありませんけれども、であるにしても私たちの周りにいる
男性女性 いろんな方々をですね、神の形に作られた尊い方々として受け入れていく、そして使えていく。
それが弟子のありようであり、神の姿を表すお互いであるということを覚えていければと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
今日は 結婚やまた男性女性の
ありようについて神様の御言葉から学びました。
私たちの現代、様々な課題があって難しいことが起こりますけれども、どうかまず私たちが自分自身を
神様にある形に作られたものとして、受け入れ、またその尊さを認めながら、神に感謝し、お互いを感謝し、
歩んでいくことができるように導いてください。 そのようにしてまた家庭において、社会において、
使わされた場において、あなたに使え、人に使え、互いに使い合っていく、お互いでありますように、そのような教会でありますように、
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どうか導いてください。 この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。 それでは1分ほどいつも通り御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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