1. 名谷教会 podcast
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2024-06-16 28:47

2024/06/16:愛を豊かに

2024/06/16 聖日礼拝

加藤満牧師

出エジプト記 20:2-14


00:01
一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、
今日も私たちを、あなたの御前へと招いてくださり、
あなたが、私たち一人一人を恵もうと、この場所で待ち構えていてくださることを、心から感謝いたします。
あなたは私たちを、限りなく愛し抜いてくださいました。
それは十字架に表された、イエス様の愛です。
罪人を見つめ、罪ある私たちをそのまま愛し、
父よ、彼らを許しくださいと、ご自身を与え尽くしてくださった、あなたの姿を思うときに、
私たちは本当に、このようなものだと思わされますが、
しかし、このようなものを、あなたは愛してくださり、
復活の命を与え、永遠の命、
死と共に生きる新たな人生を、開いてくださったことは、ありがとうございます。
痛みがあり、重荷がありますが、
しかし、あなたは自分の足ではなく、私の恵みによって、私と共に歩むのだと、
あなたは、私たちにその声をかけ続けてくださいますから、ありがとうございます。
どうか、御言葉を開いてください。
命の言葉によって、私たちを養い、
私が道であり、真理であり、命であると言われた、
あなたご自身を見つめることができますように、
この礼拝のときを豊かに祝してください。
お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、
特にこの気候の中で身体が弱っておられるお一人一人がいらっしゃることを覚えます。
どうか帰りに来てください。
施設におられる方、ご支度で礼拝を守っておられる方、
それぞれの歩みを主が守ってくださいますように、お願いいたします。
これからのときを見てに委ねて、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
私が独身の頃の話ですけれども、
ある多教派の先生とお話をしたときに、
結婚生活の極意ということを教えていただきました。
独身の牧師には大体そういう話をしたがる方が多いんですけれども、
その先生の話はとても印象的だったんです。
先生が、加藤さん結婚がこれからですね、ということを言われたときに、
ただ一言、先生、牧屋は何ですかと聞いたら、一言、
水を注ぐことですねと言われました。
水を注ぐことですねと。
加藤さんは花を育てたことがありますか?
その花を咲かせるために、加藤さんは何をするでしょうか?
先生、おそらく私は水を注ぎ、必要であれば栄養剤を挿したり、
撒いたりするのだと思います。
そうでしょ?
03:01
花は栄養があって、水が注がれて、初めてきれいに咲くことができます。
夫婦も同じですよ。
奥さんになる方について、いつも笑顔で咲いていてほしいと願うならば、
共に穏やかな気持ちで居続けたいならば、
まず自分から水を注ぐことを務めることです。
水を注ぐこともせず、綺麗に花に咲いてくれというのはわがままでしょうと言われたことがありました。
実に私は腑に落ちたんです、その言葉を聞いて。
ああそうなんだ、そういうことなんだと思いながら。
そっか、じゃあ水を注げばいいんだと思いながら、結婚生活を始めていきましたけれども、
ただいざ結婚をしてみるならば、
これは井上先生、私自身のことを振り返るならば、
私自身のことを振り返るならば、
この極意を忘れることが本当に多いです。
実に多いです。
先んじて何かをしようと考えるのだけれども、
それ以上に、なんで私にこういうことをしてくれないかのという不安の方が
たまることが多いような気がいたします。
驚くほど自分のことしか考えられない時があります。
相手のことから考えるということは、頭では分かっているんだけれども、
そうはできなくて、言葉の誤解であったりだとかすれ違いで、
こんなことで喧嘩しなくてもいいのにしてしまっているということがあって、
その時に本当に気づかされます。
ああ、私という人間は本当に愛がないんだなということです。
しかも、愛ということがよく分かっていないんだなということです。
互いに愛し合うということ。
愛ということを聖書の中では中心的に語られます。
おそらく教会の中でも一番語られるのは、
互いに愛し合いましょうというメッセージですね。
ただ、一番大事だと言われる事柄が一番難しい。
私たちが抱える問題の中心的なところにあるのは、
おそらくですけれども、身近な人を愛することに関わっています。
そうじゃないでしょうか。
そして、愛って分からないな、
愛するってことはどうしたらいいんだろう、
そういうことが分からない、どうしようと悩む中において、
実は私たちは愛し合うということに大きな過ちを犯し得る時が、
今朝ご一緒に見ますのは10回の第7回です。
肝炎してはならないという言葉に目を向けてまいります。
肝炎してはならないです。
この肝炎という言葉はおそらく日常で使われることはまずない言葉だと思います。
06:04
ただ、これは旧約聖書のこのところの正確な意味で言うならば、
これが意味するのは、結婚している女性が
自分の夫以外の男性と関係を持つことを意味します。
もしくは、男性が結婚している女性、
もしくは、結婚予定の女性と関係を結ぶことを意味します。
現代風に平たく言い直すならば、不倫ということでしょうか。
そのことを禁じている言葉です。
10回というのはこれまで見てまいりましたけれども、
私たちの人としての、本来の神様に作られた人としての歪みを指摘し、
そこに回復を与える言葉ですが、
同時に超えてはならないラインというものを設定している言葉です。
人と共に、その人が大切な相手と共に生きていくために、
これは超えてはならないラインとして設定されています。
もしもこれが起きてしまうならば、
いちじるしく、取り返しがつかないほど、
この関係は傷んでしまうからですね。
でも、旧新約聖書の時代も、そしておそらく現代においても、
この問題というのはつきません。
全くつきない問題です。
なぜなのでしょうか。
おそらく今朝のお菓子を中心的に問うべきことは、
こういうことだと思うんです。
私たちはみんな、愛を誤解している。
愛とは一体何なのかということです。
そのことを少し目を向けながら、
今日のメッセージにさせていただきたいと思います。
ででして、この出演じく時の二十章に目を向けてまいりますと、
十四節のところに、
寛容してはならないという言葉がございます。
この言葉の意味は、先ほども確認をいたしましたが、
結婚している女性が夫以外の男性と関係を持つこと、
もしくは、男性が結婚予定の女性と関係を結ぶこと。
聖書の中では、この寛容という問題は、
実に厳しい諸断が下されます。
ちょっと今日のお菓子と違いますが、
レビキの二十章の十節というところには、
こういう言葉があります。
レビキの二十章の十節、ちょっとお読みしますので、
聞いていただけたらと思いますけれども、
レビキの二十章の十節、
人が他人の妻と関姻したなら、
すなわち自分の隣人の妻と関姻したなら、
その関姻した男も女も必ず殺されなければならない。
09:02
要は、当事者となっている男性、女性両方とも、
死刑ということです。
現代の日本においては、いわゆる不倫というのは、
美化されて、消化されて、
もしかしたら一部のところでは、
楽しまれている傾向すらあります。
数年前に昼顔というドラマが流行りましたね。
不倫のドラマでした。
そのようなある種、そこに何か美しさを見出したい、
そのような私たちの時代からするならば、
この不倫をしている双方が命を奪われるというのは、
厳しい、とても厳しい諸断に見えるかもしれません。
でもこの関姓というのは、時代を越えて残り続けるんですね。
一つだけ逸話をお話しするならば、
イエス様が生きた時代から40年後、
今戦争でちょっと取り戻されていますが、
イスラエルの首都エルサレムという町があります。
ここはイエス様が生きた40年後にローマ帝国によって破壊されるんです。
焼け野原になります。
ユダヤ人は多く殺されるんです。
その中でも逃れて生き延びたユダヤ人のグループというのがあった時に、
時の皇帝がユダヤ人たちに聞いたんです。
お前たちがローマ帝国でこれからも生きていくために、
お前たちはどこまで妥協することができる?
要は、どこまでローマ帝国と一緒に足並みを揃えることができる?
どこからお前たちは譲ることができない?っていうことを聞かれた時に、
彼らは三つのことを言いました。
一つは偶像崇拝です。
偶像崇拝をするぐらいなら殺してほしい。
もう一つは殺事。
もう一つは下院です。
下院をしなければ生きていけないならば殺してほしい。
そう彼らは言いました。
で、何でそこまで下院の罪というのを警戒したのでしょうか?
いろんな説明ができるでしょうけれども、
おそらく中心的な問題は何かというと、
下院ということは繰り返せないような、でも不倫でもいいですけど、
そういうことをしてしまう心は、
心になってしまう時に、
私たちは本来の愛の形からかけ離れていってしまうからです。おそらく。
下院というものをするような心になる時に、
私たちは本来の愛の形もしくは、
本来の神様の愛の形から激しく離れていってしまうから、
そして愛を誤解していくからだと思います。
ちょっと分かりにくいですけど、もうちょっと分かりやすく言ってくれているのがイエス様ですね。
ちょっと一箇所開きたいのですが、
マタイの福音書の5章の27節から30節というところをちょっとお読みしたいと思います。
12:05
マタイの福音書の5章の27節から30節というところをお読みいたします。
これは参上の説教の箇所ですけれども、少しお読みしますが、こういう言葉があります。
マタイの福音書の5章の27節から。
下院してはならないと言われていたのを、あなた方は聞いています。
しかし、私はあなた方に言います。
強欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中ですでに下院を犯したのです。
もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。
体の一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれない方が良いのです。
もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。
体の一部を失っても、全身がゲヘナに落ちない方が良いのです。
実に物騒な言葉が書いてあります。
これは別に本当に目をくり出して手を切れということではなくて、
いわばこの28節に書いてありますが、
強欲を抱いて女を見てしまうという男性の心というものは、
要はそれほどまで切り離しでもしない限り抑えられないほど、
囚われてしまう危険性があるということを意味していますが、
ただ、イエス様はここで改めて下院をするなということが言われていますけれども、
単に婚姻関係の女性に対して、
そう見なければいいという話ではなくて、
男性が強欲を持って女性を見るという、
いわばもうちょっと一般化するのです。
でもここで言いたいことは何かというと、
おそらく問題は、
ちょっと生直しい表現にならないように気をつけますが、
男性が自分の欲望を満たすために女性を消費するということです。
これをもうちょっと一般化して言い換えましょう。
それは、私の欲望を満たすために、
相手を消費することを愛だと考えてしまうということです。
私の欲望を満たすために、
相手を消費することを愛だと考えてしまうということです。
その姿勢を意味しているのではないか。
そう思わされます。
例えば、こういうことがあるかもしれません。
私の欲望を満たすために、
相手を求めることが愛だと考えるならば、
もしかしたらこういうことがあるかもしれませんね。
ある女性がお金持ちと結婚をしました。
彼女はこれまで人生で生きてくる中で、
経済的に非常に苦労をしてきていました。
ですから彼女はお金の苦労はしたくないと願って、
15:01
おそらく経済的に豊かで安定する男性と結婚をした。
けれどもある時、そのご主人の事業が失敗して、
経済的に困窮に陥ってしまった。
するとその女性はまだ若くて、
その女性に対してアプローチをかけてくる他のお金持ちがいたとする。
彼女はどのようにその心が動くでしょうか。
わかりません。でももしかしたら、
そのアプローチをかけてきた違う男性を選ぶかもしれません。
なぜなら彼女にとって大事なのは夫ではなくて、
自分の欲望、お金に苦労をしたくない。
そういう願いが中心にあるからです。
でも現実に起きているのは簡易です。
でもこれは私自身自戒を込めて言いますが、
おそらく身近に私たちの中にある問題でもあるかなと思います。
誰しも願いがあります。
こうあってほしいという欲望があります。
欲望という言い方もよくないですね。
それは悪いことではないでしょう。
それを相手に求めます。
私はこういうふうに生きたい。
私はこういう妻でありたいのに、
なぜあなたは私の願い通りに変わってくれないのよ。
いや、俺はこういう生き方をしていきない。
こういう自分を変えることができない。
もっとそういう俺を理解して順応してくれよ。
ということがもしも、私もあるなと思いますが、
私たちの中にあるときに、
願い通りに相手が変わらず、
願い通りに私が理解をされないとき、
私たちは私たちの願い通りに願いを叶えてくれる人に心が動きます。
そうじゃないでしょうか。
それは大事なのは相手ではなくて私の願いだからです。
私の欲望だからです。
でも、私の欲望を満たすために相手を消費することを
愛だと考えると申し上げましたが、
愛とはその程度のものなのでしょうか。
これは実に愛の意味が曲解をされ、
本来の愛の形から遠く離れている姿であると言うことができるのではないかと思います。
イエス様はそのことを警戒をされて、おそらくユダヤ人たちもそのことをよく知っていた。
肝炎をさせられるならば、私たちは本来の愛の形から離れてしまう。
じゃあ、聖書が語っている本来の愛の姿とは一体どのようなものなのでしょうか。
愛を学ぶためには私たちはイエス様を見なければなりません。
18:03
イエス様について短く見させていただくならば、
まずイエス様は、よくご存知かと思いますけれども、
イエス様は神として天上におられましたが、地上にまで下ってきてくださいました。
クリスマスですけれども、パオロはこのことを指してこう記しました。
一箇所だけ聖書を開いて申し訳ないんですが、
ピリピ書の2章の6節から8節、もう皆さんよくご存知の箇所かと思いますけれども、
ピリピ書の2章の6節から8節ということです。
ピリピ人への手紙の2章の6節から8節を読みしますと、こういう言葉があります。
5節から読みましょうか。
ピリピ人への手紙の2章の5節から8節。
キリストイエスのうちにあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい。
キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分を虚しくして下辺の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
イエス様は罪ある人間と共に生き、歩むために、神としてご自身の在り方を捨てたとここでは語ります。
ご自身の在り方を捨てた。
そして成長されたイエス様は、人々は悪霊から解放し、病を癒し、罪を指摘、十字架にまで進まれました。
福音書を見ればそのことがよくわかります。
その歩みを指して、イエス様は端的に、何のためにこの歩みをしているかということも言われました。
ここも一箇所だけ読ませてください。
マルコの十章の45節。短い箇所なので大変であれば私読みしますが、
マルコの福音書の十章の45節というところに、有名な言葉ですが、お読みいたします。
マルコの十章の45節。
人の子も使えられるためではなく、使えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです。
使えられるためではなく、使えるために、そして自分の命を与えるために。
イエス様の十字架というのはまさに、罪人のために命をイエス様が与えてくださった場面、与えてくださったことを意味しますね。
21:05
繰り返し出て、繰り返しというか、トピックとして挙げた言葉を集めるならば、イエス様はご自身の在り方を捨て、
使えられてもない、使えるためにいらっしゃり、そして自分の命を与えると言われる。
このイエス様の姿勢というのは、先ほど確認した愛の姿勢とおそらく真逆ですね。そうではないでしょうか。
イエス様は自分の欲望を満たすために相手を求めておられません。そうでしょう。
自分の目的のために弟子たちを消費していく人たちじゃなかったですね。そうではなかったです。
むしろ、この人と共に歩むために自分の在り方を捨てました。変えたと言ってもいいかもしれません。自分の在り方を変えました。
人を自分の願いに従わせるのではなくて、相手の願いのために使えられました。
相手の命を利用して奪うのではなく、この人が生きるために自分の命を与えられました。
これらがおそらく愛の本来の姿なんです。奪うのではなく与える。
そしてこれは言い換えるならば、これが私たちを見つめておられる神様の愛そのものです。
私たちが何者であろうとも、神様の願いに応えられず、愛において歪んでしまって、
いや、こんな話を聞いても愛を与えるなんてことをみじんも考えられない。
そういう私たち、相手に何かを求めるばかりで、そこから一歩も自分を変えられない私たち。
神様はそういう私たちを愛しておられます。そういう私たちを愛しておられます。
なぜなら、神様はご自身の願いを満たすために私たちを愛しているのではないからです。
神様は何のために愛しておられるのか、私たちを咲かせるために愛しておられるのです。
そうではないでしょうか。神様の愛はそんなに貧しくはありません。
私たちが美しく綺麗に咲くことができるために、おからかに私たちが神様を愛し、家族を愛し、
互いに愛し合い、この世界で生きる喜びを知るために、神様は私たちを愛してくださる。
どこか私たちは誤解をしていないでしょうか。
でも神様はまずご自身から水を注いでくださったお方です。
私たちのためにまず命を与えてくださったお方ですね。
24:01
もう終わりますけれども、
罪というのは私たちの姿を歪めますが、おそらく私たちの愛を歪める。
でも大事なのはおそらく、愛の量ではなくて愛の質ですね。
自分の欲望を満たすために相手を消費し、相手を利用することが愛だと、
もしかしたらこの世界は私たちに語りかけ続けます。
多分、でも簡易してはならないという言葉から私たちが捉えなければならないのは、
それをし続けるならば私たちは大事な人との関係が切れちゃうということです。
愛の歪み、愛の貧しさということを示し、
そしてそれではいけないよと、本当の愛へと私たちを誘います。
本当の愛の形というのは、相手を見つめ、相手を満たすために自らを与え、使え、変えることです。
相手を変えるためのことではないはずです。
期待をするものが与えられる前に、相手の渇きにまず私から水を注ぐという決断をすることです。
ここまで話しながら、言うはやすし、行うはがたしだなと私自身が思っています。
けれども恐らく私たちの中で一番最初に始められることは何かというと、
相手を見つめるということからではないでしょうか。
相手を見つめることです。
自分の願いや欲望ということはちょっときついですが、
しかしこうなってほしい、こういうふうに、私がこうだからこの人にはこうなってほしい、この人はこうあるべきだ。
でもその人のことを見ていますか。
その人が今どういう気持ちでそこにいるのか見ていますか。
私たちはイエス様ではありませんから、
時にそのことが大事だと分かっていても水やりを忘れてしまいます。
でも大丈夫です。私もそうですから、私も何度も忘れますが、
何度も何度もその度にイエス様を仰ぎながら私たちは愛を学び続ける。
学び続けなければならないんです。
愛というのは学んで成熟させなければならない。最初からできる人なんかいません。
それほどまでに私たちはある種愛の理解において歪んでいるものを持っているからです。
その度にイエス様から学ぶ度に徐々に私たちは愛が成熟し、
27:00
愛が豊かになっていくということがあるのではないでしょうか。
ただし今朝の言葉から一つ言えることは、
面倒がって開き直ることだけはしてはならないということです。
開き直ってはいけない。
自分の欲望を満たすために、私の願いを叶えるために
相手がこうなってほしいと願うことは何が悪いんだ。
でもそこに帰ってはいけない。
簡易してはならないと今朝は語られます。簡易してはならない。
それはおそらくあなたにとって本当の大事なパートナーを、
大事な家族を守るための最終ラインです。
そこを変えることを面倒がってしまうならば、
私たちはどこかでおそらく傷んでしまうことがあるかもしれない。
私が偉そうに言えることではありません。
私自身も最初に話した通り失敗をします。
水やりを忘れて相馬先生にご迷惑ばかりおかけしている。
そういうところが私自身もあります。
だからこそ一緒にこのことに取り組んでいかなければならないと願っています。
面倒がらずに私たちの愛は一体どうなっているのか。
どうか主が私たちを憐れんでくださいますように、
私たちにイエス様の愛を教えてくださり、
私たちが愛において成熟し、愛が豊かにされていきますように、
私たちの愛の量ではなくて、愛の質がキリストに似たものになりますように、
そのことを願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
28:47

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