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皆さん、おはようございます。今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。それでは、メッセージの前にどのような形と挨拶を交わしましょうか。
おはようございます。ありがとうございます。お祈りいたします。
私はこの世の者でないように、彼らもこの世の者ではありません。真理によって彼らを清め、おかってください。あなたの御言葉は真理です。
私たちを清めてください。あなたの御言葉によって、清めてください。
この朝、神様の御言葉を語る者も聞く者も減り下り、あなたの御言葉として、全知全能なる神の御言葉として受け止め、
積いで従ったら、どうかお与えください。
ここに咳を共にしていらっしゃる恐竜の方々の上にも、唯一の神にお出会いする恵みの時となりますように、神様、祝福をお与えください。
神様の御名によってお祈りいたします。
アーメン
それでは、ヨハネの訓書のメッセージ、今日52回目ですが、
神様のお祈りから、彼らを清別してください、という題にさせていただきました。
この神科学は、清めわかってくださいとありますが、普段あまり使わない言葉ではないかなと思ってですね、新しい成長も清別してくださいとなっておりますけれども。
このヨハネの訓書17章には、神様のお祈りが書かれているんです。
そして、今日読まれたところ、一部分ですけれども、6節から19節までは、
イエス様がこの地上に残される弟子たちのために祈られた、イエス様のお祈りなんですね。
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今日は、イエス様が神様に地上に残される弟子たちのために、何を祈られたのか、そこを一緒に見ていきたいと思います。
まずもう一度、もう一度ではありませんが、11節、11節をですね、私は読みますのでご覧ください。
私はもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、私があなたの身元に参ります。
聖なる吉、あなたが私にくださっているあなたの皆の中に、彼らを保ってください。
それは、私たちと同様に彼らが一つとなるためです。
まず、今日はここから始めていきたいと思いますけれども、
イエス・キリストは12人の弟子たち、セテーロ・アンデレ・ヨハネ、そういう12人と、
3年間、一緒に電動をしたり、一緒に寝たり、一緒に食べたり、川を渡ったり、山に行ったり、人の家に行ったり、
さまざまなことを3年間ずっと一緒にされました。
だからね、神なるイエス様から見たら、その12人の弟子たちの彼らの信仰とか、
あるいは彼らの強さとか、あるいは弱さを、イエス様がよく知っていらっしゃるということなんです。
ところが、3年間の弟子たちの様子を見てみたら、とても素晴らしい時もありました。
すごいな、立派な信仰を持っているな、という時もありましたけれども、
彼らの12人の弟子たちの関係をよく見たら、よく争っていたり、論争をしていたことが、よく実はあったんですね。
一つの例があります。
そのゼベダイの子2人がイエス様の弟子ですけれども、ある日ですね、その弟子2人の兄弟なんですよね、だから言わないと。
そのお母さんがね、イエス様のところに来て、お願いするんです。
それはもう大勘違いから始まったお願いです。
イエス様がいよいよすごい国の王様になるかと思って、
イエス様、よかったらぜひうちの息子を、イエス様が国の王様になったら、一人は右に、もう一人は左に座らしてください。
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何々大臣みたいにね、そういうふうに思ってお願いした。
それに対して、あなた方は間違っている、知っていない、という話はされたんですけれども、
その後のその話を聞いた様子を見ていた弟子たちは、自分たちも右に座りたい、左に座りたい、そういう思いを持っていたから、腹を立てたという言葉。
よく彼らはね、誰が偉いか争っているうちに、彼らは弟子として召された使命感を見失っていた。
それをイエス様はとても悲しんでおられました。
だからイエス様はもうこの地上から十字架にしなれて天に行かれるわけなんです。
彼らはこの地上に残されるわけなんです。
となるとですね、このままの弟子たちの姿のままでは、弟子としてはやっていけないだろうし、その使命を果たすことは難しいだろうと。
それをよく知っておられたイエス様は、神様に祈ってお願いしたわけですね。
その中の第一が、彼らを一つにしてくださいという彼らの一致のための祈りだったんです。
それは今日の私たちにも同じイエス様の祈りではないでしょうか。
兄弟が神にあって、イエス・キリストにあって一つになること、これ以上に大事なことはないと思うんです。
さっき読みました十一節をもう一度よくご覧ください。
そこにね、最後のところを見ますと、
それは私たちと同様に彼らが一つとなるためです。
私たちと同様に、まずこの言葉を注目してください。
ここの私たちとは誰をさっき言うんでしょうか。
イエス様が神様に私たちと言っているから、これは誰のことでしょうか。
三民一体の神様のことなんですね。
神様、イエス様、聖霊様のことを指しているわけです。
つまり、弟子たちも神様、イエス様、聖霊様が一つであるように、
同じく同様にこの弟子たちも一つにしてくださいという祈りなんです。
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わかりましたか、みなさん。
神様、イエス様、聖霊様が三民一体の神様として一人の神様であって、
一つ一致しておられるように、その通りに全く同じように、
この弟子たちも一つにしてくださいと神様に祈ったんです。
さあ、考えてみましょう、みなさん。
神様とイエス様と聖霊様の関係はどんな関係だと思いますか、みなさん。
その三人の神様の間には、例えば、ストレス、緊張感がありますか。ないんです。
揉め事、争いがありますか。あります。
壁がありますか。ないんです。
悔しいなあ、とイエス様が挨拶して思いますか。そんなこと一切ないんです。
素晴らしい一致の姿が、神様とイエス様と聖霊様の素晴らしい関係なんです。
それと同様に同じく弟子たちをも一つにしてくださいとイエス様は祈られました。
わかるでしょうか、みなさん。
となると、三名一体の神様のあの素晴らしい、うるわしい一致の姿や関係のように、
弟子たちもそれから私たちも、神にあってキリストにあって聖霊様にあって一つになることが、
イエス様の最大の感心事であって願いなんです。
みなさん考えてください。
イエス様の地上での時間がもうないんですよ。
もうすぐこの十七つの祈りが終わったら、
イスカリオやローマのヘシバシといって、イエス様を捕まえていくわけなんです。
これからイエス様の十字架のし、他にはイエス様の働きができないんです。
一秒一秒がもったいない時間なんです。
その時間にイエス様は、あの弟子たちのために、もう祈れない、かけられた時間の中で祈った第一の祈りが、
主よ、彼らを一筋してくださいと祈ったことから、これがどれだけイエス様の願いであって感心であったのか、みなさんおわかりでしょうか。
そういうことなんです。どうするかね。
それほど私たちのキリストにあって兄弟間の一致は、本当に本当に命のように大切なことなんです。
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いや、実は信仰生活において全ての全てだと言っても過言ではないと。
だからもしも一致を失ったり、あるいは何かそれが目に見えるものであろうが見えないものであろうが、
何かによってその一致が妨げられたりすることは、神様の形を失うことである。
霊の命を失う。
神の形を失うということは、つまり体は生きていてもこの霊は死んだことと同じである。
いや、信仰派は別に言ってですね、会社の関係を見てもそこに一致がなくて不安があるならば、
それは本当にそうなんです。
神様の願いは私たちがキリストにあって一つになる。
ですから皆さん、私たちは自分の生活の問題であろうが、外にある問題であろうが、
あるいは人格の問題であろうが、あるいは感情の問題であろうが、
もしも自分と神様の間、あるいは兄弟と姉妹との関係の中に何かによって妨げられているものが、
もしも少しでも誇りぐらい何かがあるならば、そのまま放置しておいてはいけないということなのではないでしょうか。
なぜなら、私たち神様、イエス様、平霊様の中には、そういった妨げられるものが一切ないから。
信仰の素晴らしさ、人生の麗しさは一気にそこからある。
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何もですね、放置しておくことはよくないんです。
放置の長時代のジャンバンを放置しておいたら、いいことは一切ないです。
放置のゴミを放置しておいたら、いいことは一切ないです。
私たちの心も精神も実は同じなんです。
心の中にある何かの、そういったものを放置しておいて、時間が越せるやつを一般的に言われます。
それは全く違う。
聖者の教えを知っていただきたい。
常に神様は、私に帰ってきなさい、私に帰ってきなさいと招いてくださっているんです。
なぜでしょうか。
私たちが神の前に行きますと、その神の前に行って神様に向き合うと、自分の弱さや罪やそういうものに向き合うことができるようになる。
精霊の神の光によって照らし合わされて、それが気づかされる、知るようになる。
どういうことなのでしょう。
まるで明るい部屋の中で鏡を見て自分の顔を見ることと同じなんです。
そして神に向き合って、自分の弱さや罪に向き合って、神の前では自分は弱い人に過ぎないものである。
罪人に過ぎないものである。
漱石の仁教の御言葉を見ますと、ただのすしくれに過ぎないものであることが、そして神の前で死を食い晴らさめて、死を一つにしてください。
そして死を私の中にあるもの、私の外にあるもの、それを取り除いてください。
死を掃除してください。清掃してください。解放してくださいと祈るようになる。
それが聖火であって清めであります。
そしてそれが私たちが目指すべき進行のゴールなんです。
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ところがこの世のやり方は、そういったときにおいしいもの食べてね、休んでね、どこか海外でも旅行に行ったらどう?
それもね、時々には確かにリラックスできるかもしれないですね。緊張感を保護する。肩をもみもみにしてくれるような気持ちになることもあるかもしれない。
でもね、そして我々の過ちや罪を時間が解決してくれるわけではありません。
もちろん時間の流れの中で神様が気付かせてくださる恵みはすごいあります。
イエス様の皆によってお願い申し上げます。一致を保ってください。
そしてその一致から来る、イエス様がもう時間がないこの時に一つにしてくださいと祈るほどのこの大事な一致の素晴らしさを、恵みを、喜びを味わいたい。
そしてもしも内側に外に一致を妨げるものが、それが何かがあるならば、それが何であろうが、それを神によって、精霊様によって取り除いてやる。
もしながら覚えておいてほしいのですが、神の霊は一致であり和解です。しかしサタンの霊は争いであり不和であるからです。これは永遠に普遍の聖書の教える真理であります。
神様は私たちを神の形に似せたものとして作ってくださる。神の形には神様の人格が、神様の感情が、神様の品性がそこにあるわけ。それに似せて作られたんですよ、私たちは。
だから神様が感じられるように私たちも感じる。神様が物を言われるように私たちも物を言う。神様が歩まれるように精霊様が歩まれるように私たちも歩むことが信仰生活なんです。
だからちょっとずれていたら、最悪取り戻して抱くことが大事なんです。
みなさん、ちょっと私を見てくださいますか。2つの線があります。最初はレーテンレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレーレ
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1ミリくらいずれて大した問題ないでしょう。そんなもんね。もう大丈夫だよ。それくらいはもう見ないから。もういい。
と、そのままほったらかしといたらどうなるでしょうか。1年経って、2年経って、10年経って、20年経って、渡ることができないくらい大きなギャップになってしまう。
だから今取り戻しやすい時にそれを戻して一致しないといけない。
夫婦の間も親子の間も兄妹姉妹の間ももちろん神様と私たちの間もそうなんです。ギャップがありますか。不一致があるんですよ。早く神の恵みになって取り戻していただかなければ。
なぜなら私たちは神のかたちに似せて作られたものだから。
いわめイエス様は弟子たちの性別のために祈られました。
まず15節一緒に読みたいと思います。15節を一緒に読みましょう。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪いものから守ってくださるようにお願いします。
皆さん本当に感謝のことなんです。
イエス様は弟子たちのためにも今の私たちのためにも悪いものから守ってくださいとイエス様が神様に祈ってくださっているんですよ。
仲介して取り戻してくださっているんです。あれは感謝のことではないでしょうか。
悪から守ってくださいと祈ってくださるシュウイエスキストがおられるということなんです。
そしてその次の16節17節も一緒に読みましょう。
私がこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを清め分かってください。
あなたの御言葉は真理です。
イエス様は私たちをそれから私たちをどれだけ愛しておられるでしょうか。
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性別をどれだけイエス様が願っておられるでしょうか。
本当に感謝のことなんです。
ところが皆さん、悪いものから守ってくださるようにイエス様がお願いして祈っておられるんですね。
今もそうなんです。祈ってくださるんです。イエス様が。
ところがどうでしょう皆さん。
私たちが何にもしなくても、何をしていなくても、もうオートマチックで自動的に悪から守られるんでしょうか。
実生活においてどうでしょうか。何にもしていなくても、もうオートマチックで自動的に自然に悪から守られているんでしょうか。
悪が自ら逃げてくれるんでしょうか。どうですか皆さん。
悪は私たちを決して避けないからなんです。
悪は、罪はいつも私たちに向かって突進しようとしてやってきているんです。
絶対に突進して倒してきたりする。
ですから私たちはイエス様に聖霊様の助けをいただきながら、もう意識的に悪の影響を受けないという固い聖霊による神によるこの強い意志が非常に大事なんです。
悪と罪を避けることです。
つまり、神様と聖霊様に助けをいただきながら、悪を見ない、聞かない、言わない、触れないなどなどです。
皆さん、今の中でもアレルギーのある方いらっしゃるでしょう。食べ物のアレルギーとかね。
神とかカルとか、いろいろアレルギーがあります。
とてもひどい方は、それを触るだけで、ちょっと口につけるだけでもうじゅんまわしが出て息苦しくなって、すぐに反応が真っ赤に出てくるんです。
神様、イエス様、聖霊様は、悪に、罪に対してとても繊細で敏感なアレルギー反応が出てくるんです。
わかりやすく言うならばね。すぐに出てくるんです。
ですから、聖霊に満たされている信者ならば、本当にとても小さな軽い罪であっても、その悪に対してとてもすぐにアレルギー反応みたいにですね、反応が出てくるわけなんです。
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それを例えば、ただの嘘とか悪口である。皆さん、覚えているだけでいいですか。
聖なる神様、イエス様、聖霊様は、悪や罪と一緒にはおられないんです。混ざらないんです。そうでしょ、皆さん。
となると、その形に似せて作られた私たち、その品性に似せて作られた私たち、聖霊様が、イエス様が、神様が宿ってこの中におられる信者であるならば、同じ反応、同じ罪に、悪に対するアレルギー反応が出てくるはずなんです。
敏感に。でしょ、皆さん。ちょっとだけ、この暖房の風吹いたら、すぐに咳出る方々おられるでしょう。敏感なんです。それじゃ体のね、いろいろ具合があるでしょうけれども。
例的に私たちは、聖霊様はこの中におられるわけですから、ちょっとした小さな悪でも罪でも、そこにもういられないんですよ。大きな罪であるが小さな罪である。罪の座にそこにいません。
ちょっと一箇所整理してみましょうか。四編第一編一節。聖像をお持ちの方は開いていただきたいですが、四編の一編一節。私の聖像では907ページ。
907ページです。一節。聖像をお持ちの方は辞書にお読みしたいと思います。
幸いなことよ、悪者の計りごとに歩まず、罪人の道に果たず、あざける者の座につかなかったその人。アーメン。ここにありますよね、皆さん。悪者の計りごとに歩みません。罪人の道に立ちません。
あざける者の座に来ません。誰がですか。神の人。その人こそ幸いな人なんです。なぜでしょうか。悪に対して、罪に対して、とても繊細なこの清さのゆえに、そこにもういることができなくなってしまうんです。
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覚えていただきたい。聖徒。聖徒は小さな悪であろうが大きな悪であろうが、その道に立つ。条件や公術をつけます。なぜでしょうか。強い聖霊の人だ。聖霊の人は、悪を避けます。罪を避けます。もしも、悪に触れたならば、徹底的に食い上げられます。
もう一箇所提唱していただきたいと思います。新約に行きましょう。第一テサロニケ五章二十節です。四百一ページです。第一テサロニケ五章二十二節です。四百一ページ。ご一緒に読みたいと思います。
悪はどんな悪でも避けなさい。悪はどんな悪でも避ける。それが、さぐわいな人の愛です。聖徒の愛。そのために、イエス様は弟子たちのために、私たちの性別のために、悪い者から彼らを守ってくださいと祈ってください。
だから私も、自分自身のために、家族のために、兄弟姉妹のために、子供のために、大人のために、主よ、兄弟よ、姉妹よ、家族を、悪い者から、悪から守ってください。主よ、私を悪から守ってください。見ないように、触れないように、言わないように、影響を受けないように、主を守ってください。
それが、気をね、わかってくださいという、性別してくださいという、イエス様のお祈りなんです。イエス様は、この十五節の文脈として、十六節、十七節を語られたわけなんです。
さあ、もう一度、今日の聖書、歌書を見ていきましょうか。ヨハネイノ福音書十七章の十六節、十七節です。私が読みしますね。十六節。私はこの世の者でないように、彼らもこの世の者ではありません。真理によって彼らを清めわかってください。あなたの御言葉は真理です。と、イエス様が祈ってくださいます。
33:15
簡単に言って、主を、弟子たちを、性別してください。私たちを性別してくださいと、イエス様が祈られたんですね。感謝のことなんです。そして、そこにまず十六節を注目したいです。
イエス様は語られました。イエス様がこの世に属していないように、この世の者でないように、つまり、この世の流れや様々なものから影響を受けない聖なるものであるように、彼らも、私たちも、私たちも、この世の者ではありませんと、おわかりでしょうか。どういう意味でしょうか、皆さん。
私たちは、この世の者ではない。誰の者ですか、皆さん。誰の者ですか。主の者なんです。主の者なんです。キリストの者、神の者なんですよ。ご主人の者ではありません。
日本に住む私たちは、日本に属しているから、日本の法律を守ります。私たちは、この世に属してはいるんですけれども、実は、私たちは、天に属しているんです。神の者なんです。
だから、シト・ファウルは叫ぶかのように言いました。私たちの国籍はどこにありますか。天にある。神の者なんです。神の立法、神の法律、神の御言葉を守り、その御言葉によって動かされ、生かされる者が私たちなんです。それを忘れちゃいけない。
皆さん、私たちは肉体的には、皆さんは日本人とか、私は韓国人とかそうですけれども、しかし信仰を持ってから国を越えて、私たちは神の未国の人なんです。未国の人。この世の者ではないんです。
なぜなら、後から話をしますけれども、この世から選び出してくださったんです。清め渡ってくださった。選び出してあがなってくださったんだから、この世の者ではないんですよ。だから、信じないで、気にしないで、みんな、一つの国の信仰の命と意識を持っていただきたい。
36:09
そして、17節にイエス様は、真理によって、真理は御言葉だと語られていますから、御言葉によって彼らを性別してくださいと。
なぜでしょうか、皆さん。私たちは、私たちの体も考えも、この唇も手も足も経験も人生もすべて、神の、聖なる神の形にとられて作られたもの。
そして、神様がこれを大事にして使ってね、って神様が預けてくださった、すべてはプレゼントなんです。賜物なんです。それを、私たちは、清く大切に使わなければならない。
そうでしょうか、皆さん。金曜日の夜の木とかに例えてあがってしまったけれども。ちょっとした例えですけれども。このネクタイ、感謝のことは、さっきのネクタイも、
E君が来るときに、ちょうど私の誕生日の近かったから、お母さん、お父さんからプレゼントしてもらった、いただいたものなんです。これは、私が大切に、結構高いものだと思いますので、これをもらって、ハサミで切って、便器をきれいにする蒸気に使ったらどうでしょう。
あるいは、口を磨く蒸気に使ったらどうでしょう。それをE君が見たり、ある日、私が口を磨いていることをE君のお母さんが妙なにかかにして、あれは私がプレゼントしたものでないと見たらどうなると思いますか。
とても気持ち悪くなると思うでしょう。神様は私たちに、体も唇も言葉も考えも歩みも全て清く使ってくださいねと、神様が預けてくださったものなんです。それを私たちが清く用いたら素晴らしいということですよ。
でもそれを、人を裁く、悪を資格にする、罪を犯す、それに使ったならば、神様はイエス様はセーブ様はどうなると思いますか。大変悲しまれると思うんですよ。そう思いません、皆さん。
なんで私が清く、大切に綺麗に使うように預けたのに、それをこんなふうに使うのとイエス様が思われるのでしょうか。
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性別というものは実は、もう一箇所同じ、この17章のあの同じ場でイエス様が語られた三言葉があります。15章の19節を見ていきましょう。
両姉の悔しさ、同じね。両姉の悔しさです。15章の19節を一緒に見たいと思います。
しかしあなた方がこの世のものであったなら、与は自分のものを愛ったでしょう。しかしあなた方は世のものではなく、かえって私が与からあなた方を選び出したのです。それで与はあなた方を憎むのです。
性別という意味はここでイエス様が、私が与から、この世から、この世の思想、哲学、文化、流行り、流行、考え方、生き方、見方、歩み方、そのすべてのところからあなた方を選び出したのです。
それが性別であります。どれほど性別を清く生きることを神様が願っておられたのでしょうか。イエス・キリストを十字架に渡して死なせるほど。
独り子を渡すほど、神様が命を捨てるほど、愛して、弟子たちを愛して、私たち一人ひとりを愛して、この世から選び出して、清め分かって、大切にしてくださっただけです。
そして清く歩んでほしいと、今も語っておられます。そして、取り成して祈ってくださっているイエス様が、もう一度繰り返しですけれども、私たちはこの地上に立ってはいますが、天に属しているものとして生きるということです。
選び出されたという意味は、そういう意味です。イエス様が死んじる前には、素敵な生き方をしていました。考えていました。言ったりしました。しかし、イエス様の死によって選び出されたものとされてからは、もはやこの世の生き方ではなく、御言葉が語る生き方で生きること。これが性別であります。
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一緒に皆さん、自分自身のあらゆる悪、悪い思い込み、悪いことが、にだらなこと、争い、裁きなどなど、そこから自分自身を精霊に助けていただきながら、性別してください。そのために精霊に常に満たされていてください。
そして、何が何なのか、分別できる力を神からいただいてください。この世の流れに流されないように、唯一の標準である御言葉だけを握りしめていってください。
何より、私たちの人格が、人生が、いやもう性格さえも、精霊様、イエス様、神様と全く同じく新しくされるように、日々新しくしていただきましょう。新しくしていただきましょう。私たちが歳のべき信仰の道であります。お祈りします。