祝福の関係についての導入
それでは、今朝はこの箇所から、祝福の関係と題して、御言葉を取り継がせていただきます。
一言お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今朝も私たちを死の御前へと招いてくださり、
あなたの命の言葉によって励まし、力強め国家から立たせようとしてくださっていることをありがとうございます。
あなたは私たちを愛し抜いてくださり、十字架の父様によって神のことし、罪を許し、
それだけではなく永遠の命を与え、永遠なる人と共に生きる人生を開いてくださいました。
主よ、あなたは私たちに十分な全ての霊的な祝福をもって、私たちにそれを注いでくださっていますが、
私たちは本当に、あなた御自身の恵みをより深く知りたいと願っています。
あなたにあって支えられて生きていきたいと願っています。
御言葉を開いてください。あなたの言葉によって私たちを強めてください。
そして本当に様々に悩みの多いこの世界にあっても、主にこそ希望があることをまた私たちに教えてください。
お願いいたします。
全世界において本当に言葉にもできないような悲惨な戦争の出来事が起きていることを覚えますし、
またそこにどう考えていいかわからない複雑な問題も答わっていることを覚えます。
どうか主が私たちと共にいてくださり、識別力を与え、知恵を与え、その現実をどのように受け止めるべきかもまた導いてくださいますように、お願いいたします。
何よりも主御自身がこの世界の王として治めてくださいますように、犠牲者に届いてくださいますように、お願いいたします。
ここに来たくても来れないご一人一人がいることも覚えます。
どうか今なお施設におられる方、ご支度で礼拝をままざるを得ない方、心が痛んで来れない方、ご一人一人を支え、死の身元へとまた招いてください。
今日のお供霊子さんが来ることができました。あなたの皆をあがめます。どうか導いてくださいますように、なお支えくださいますように、お願いいたします。
これからの時をゆだねして、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
異性と夫婦の祝福
三畳の説教というところを私たちは続けて見てきております。
今朝で何回目になるでしょうか。4回目ぐらいだと思います。
何度か見てまいりましたが、この三畳の説教といいますのは、イエス様が人々を神の国ですね、神様の恵みがあらわされているその支配の最中に招く説教だと言いました。
あなた方も神と共に歩み始めなさい。こんな素晴らしい神様がいるんですよと。
特に、この三畳の説教の目前にいた群衆は貧困と悲しみにあえいでいる人たちでした。
その人たちに対して、いや、神はあなた方のことを見捨ててなどいないし、むしろ神はあなた方を通して地を治め、この世界に平和を築くんだよ、そういう使命を与えていると語られました。
この世界の腐敗を防ぐ地の塩となりなさい、この暗闇を照らす世の光となりなさいと、イエス様は群衆たちを招かれました。
ただ、平和を築くというのはどういうことなのでしょうか。私たちは大きなことを考えがちですが、そうではない。
平和を築くというのは実に身近で具体的な隣人との関係の中にあるんだということをイエス様は語られてきました。
いわばそれは、あなたの外面が問われるのではなくて、あなたの内面、内側が問われるんだということを視点にお話をされていきます。
殺してはならないと言われる。隣人との関係を一番損ねるのは殺害です。しかし殺してはならないと言われる。
ただ、それは殺さないということだけではなくて、その殺人の根にあるようなあなたの中にある独善性、自分だけが正しいとする正しすぎる思い、自分の正しさを過信する思い、しかしむしろその正しさが砕かれ、争う前に和解をしなさい、そのようにイエス様は教えられました。
今朝の箇所で、じゃあイエス様はどこに目を向けられるかと言いますと、異性、そして夫婦の関係であります。
聖書は異性の存在も夫婦の関係も、これは祝福だと明確に語ります。これは祝福でしかありません。
今朝は、まず聖書が異性の存在であったり、結婚を祝福と語っていることを抑えながら、じゃあイエス様はここで一体何を問題とされているのか、そのことを少し順に見ていきたいと思っています。
まず一つ目のポイントです。異性、そして夫婦という関係は祝福であるということです。
この異性とか夫婦の存在が祝福であるというのは、創世紀というところに記されてあります。
ちょっとお開きいただけたらと思うんですが、創世紀、もう聖書の一番最初ですね。創世紀の2章の18節というところの段落を少し見たいと思います。
2章の18節ですね。旧約聖書の3ページの下段にあります。
お読みしますと、また神である主は言われた、人が一人でいるのは良くない。私は人のためにふさわしい助け手を作ろうと言われるのです。
この箇所は最初の人間アダムが作られるんですが、そのアダムに対して神様がパートナーを探すという、そのようなシーンであります。
ただ神様はアダムに適切なふさわしい助け手をつなげようといろんな生き物を連れてくるのですが、でもそこにふさわしい助け手が見つからないということがこの18節以降に書いてあることです。
その結果神様はどうなさったかというと、アダムを眠らせて、アダムのアバラ骨をとって、そのアバラ骨からエヴァといういわば女性を創造されました。
この23節、24節をお読みしますが、これは人類最古のラブソングと呼ばれているそのような箇所です。
23節からこういう言葉があります。
人は言った、これこそついに私の骨からの骨、私の肉からの肉、これを女と名付けよう。男から取られたのだからと。
アダムはエヴァがエヴァを見つけた時にそう言いました。
骨からの骨、肉からの肉ってなんか全然ラブソングっぽくないんですけれども。
この骨っていう言葉は、この地域のセム系のご族の中の言葉では、骨というのは自分自身を意味する言葉でもあります。
いわば私の骨からの骨っていうのは、私自身の中から私自身が出てきたようなということです。
いわば、エヴァはアダムにとって第2の私。
それほどまでに一体感を覚えられるような、実に適切なパートナーとして、神様は完璧にエヴァを想像されたのですね。
大事なことなんです。
聖書学者のマシュー・ヘンリーという人が、こういうことを女性の想像について書きましたが、ちょっと引用するとこういうことを彼が言っています。
女性がアダムのアバラ骨から作られたのは、男性を支配するために頭から作られたのでもなく、男性に踏みつけられるために足から作られたのでもない。
むしろ彼の脇にあって彼と対等であるために、彼の腕の下で守られるために、そして彼の心、いわば心臓の近くにあって愛されるためだということを言いました。
私、とても素敵な説明だなと思います。
エヴァはアバラ骨から取られた。頭蓋骨からでも足の骨からでも取られたんじゃない。肩わらに立って対等で、その腕の中で守られるために。
創世記において、男性と女性というのは対等です。神の形に互いに作られている。
いや、もしかしたら男性は土から作られて、女性は骨から作られてますかね。質がどっちがいいか分かりませんけれども。
でも違いはあるんですよ。違いがある。けれどもお互いは対等である。その尊厳は対等である。
それが創世記のものの見方です。
そして互いは敵対関係でも競争の相手でもなく、ふさわしく助け合う、助け手として創造されたのですね。
そしてその延長に実は結婚、夫婦というものがあるのだと思います。
関係の深さと信仰
24節、25節にこういうことが書かれています。これは結婚式でよく開かれる箇所ですね。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである。
その時、人とその妻は二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかったと。
男性と女性は一つとなっていくと聖書は語ります。
これは肉体的なことだけではありません。
精神的に人格的に一つになっていくということがまず言えるでしょう。
相手に対する深い共感です。
パートナーに対する深い共感と、そして相手を何かものだけではなくて、心で愛していくことのできる。
そのような成熟ですね。
それが共に生きる一つとなっていくという交わりです。
そしてもう一つ言えることは、霊的、信仰的な一つということも言えるでしょう。
私たちが何を信じているかというのは、その人の根幹に関わることですよ。
決して付属品じゃないんです。
であるならば、私たちはその土台にあるものを夫婦で共有したいと思うことは当然のこと、自然な思いではないでしょうか。
そういうことも覚えながら、夫婦というのはまさに全体を通して一つになっていくという営み。
しかしその一つとなっていくというのは、この25節の言葉は私は大事だと思うんです。
人とその妻は二人とも裸であったが恥ずかしいと思わなかった。
裸であったけども互いに恥ずかしいと思わない。
裸っていうのは別に身体を服着ていないってことじゃないです。
いわばありのままの私ということでしょう。
ありのままの私。
人前で私たちは鎧を着ながら喋ります。
仮面を被りながら喋ります。
別にそれは悪いことだと私は思いません。
ただ、ありのままの私であったり、鎧を脱いだ私、いや弱いままのはずべき私。
しかしそれを受け止めてくれる場所はどこかに必要なんです。
聖書はそれが夫婦だと語ります。
裸であっても恥ずかしいとは思わなかった。
それがまさに本当に祝福であると思います。
後にパオロは夫婦を教会とキリストの関係に重ねました。
エペスト書に書いてあります。
それだけに夫婦は聖なる関係でもあるとも言えるのかもしれませんね。
祝福の重要性
そういうようなある種、互いのありのままを受け止め合うような、本当に神様が備えてくださった互いの存在であるわけですが、
二つ目のポイントに入っていきます。
イエス様の時代、その祝福が損なわれていたということです。
その祝福は損なわれていました。
参上の説教に戻っていきますけれども、
イエス様の時代、そのような威勢の存在や夫婦の祝福というのは損なわれていました。
群衆に対してイエス様は27節から30節にこういうことを言われました。
もう一度読みますと、
会員してはならないと言われていたのをあなた方は聞いています。
しかし私はあなた方に言います。
情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中ですべに肝炎を犯したのです。
もし右の目があなたをつまずかせるならえぐり出して捨てなさい。
体の一部を失っても全身がゲヘナに投げ込まれない方が良いのです。
もし右の手があなたをつまずかせるなら切って捨てなさい。
体の一部を失っても全身がゲヘナに落ちない方が良いのです。
だいぶ物騒な言葉で、私は最初この歌詞を読んだときに本当に
罪を犯したら手足を切らなきゃいけないのかと思って怖がった記憶がありますが、
そういうことではないです。
ちょっと見てまいりますけれども、
イエス様は会員をするなという実戒の言葉を引っ張りました。
これも通常は不倫の禁止ですね。
性交渉を含めた不倫の禁止です。
ただ、それだけではない、実際に会員をしていなかったとしても
情欲を抱いて女性を見るならば、それはすでに会員と同じだと言われる。
誤解がないように申し上げますが、
これは異性に対して感じる性的魅力を全てダメだと言っているわけではないです。
性的魅力を感じることが全部ダメだと言っているわけではない。
私たちは互いに感じるのです。
けれども、この言葉をちょっと見ていきますと、
情欲という言葉は、これはエピスメオというギリシャ語でして、
元の意味は絶望する、激しく望むという言葉です。
これは良い意味にも使われます。
神の義を激しく求める、希望を激しく求める、同じ言葉が使われます。
けれども、それが女に向かうときに、
もしくはこの女という言葉、他人の妻という言葉にも訳せますが、
これは異性、そのところに向かっていくときに、
いわば異性を自分の欲望を満たす道具のように見ること。
それを禁じている言葉です。
異性を自分の欲望を満たす道具のように見ることです。
問題はどこにあるかと言いますと、
それはそういうときに自分の欲しか見えなくなるということです。
自分の欲しか見えなくなる。
いわばそれは、相手の存在を神様に創造された尊厳がある一人として見るのではなくて、
人格を持っている一人として見るのではなくて、
自分にとって役に立つかどうかの道具にしか見ないということです。
そしてそこで起きてしまうのは、実に破壊的なことですね。
人間が人を道具にしか見れなくなかったら、戦争みたいなことは起きるのでしょう。
その相手をそのように情欲を持って見ること、
イエス様はまさに手足を切り落とせだとか厳しい言葉で言われますが、
なんでそれをそこまで厳しく言われるのか、それは離婚につながるからです。
31節以降です。
また、妻を離縁する者は離縁状を与えよと言われました。
しかし私はあなた方に言います。
誰でもみだらな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に関与を犯させることになります。
また、離縁された女と結婚すれば、関与を犯すことになるのです。
この言葉を理解するには、少し当時の状況を説明しなければなりません。
当時、離婚を言い出すことができるのは男性だけでした。
女性に離婚を言い出す権利はありませんでした。
するとどうなるでしょうか。
女性が一人で生きれる社会ではそもそもないのです。
そうであれば、女性はこの夫に見限られないために、夫に従属していくわけですね。
夫は自分の優位な立場を悪用して、妻を支配するようになっていきます。
いや、時に自分の妻以上に魅力的な他の女性に情欲を持って感じてしまった場合、自分の都合で妻と離婚しようとする。
もう私はあなたじゃなくて、こっちの女性が良くなりましたから、あなたと別れます。
そうやって離婚するということが現実、実情としてあったそうです。
まさに実に悲惨ですね。実に悲惨です。
何が悲惨であるかというと、互いの祝福であるはずのその夫婦が、そのお互いが、
互いの裸のありのままを受け止め合うはずの夫婦が、女性が隷属することによって、本来の自分らしさを隠して生きざるを得なくなる。
男性は支配によって、自分を大きく見せては自分の恥を覆い隠す。
そのような支配と隷属の関係に夫婦がなってしまった。
情欲の警告
これはまさに創世紀の3章というところに書いてますが、人間が罪に陥った時に起きると神様が言われた現実をそのまま現してますね。
創世紀の3章16節にこういう言葉があります。
あなたは夫を恋したうが、彼はあなたを支配することになる。
エヴァに対して神様が言われた言葉です。あなたは夫を恋したうが、彼はあなたを支配することになる。
ただイエス様はそのような支配と隷属の夫婦関係が当たり前になっているところにメスを入れられるのです。
まずイエス様が明確に言われたことは、夫婦が別れる理由っていうのは、これは立法の中に一箇所しか定められていないんです。
神明記の24章の1節から4節ですが、そこに語られているのは、奥さんが不抵抗意じゃないけどそういうことをしたら別れていいですよと。
でもそれ以外の理由であなたが別れるというのは、人々が認めたとしても神の前には認められない。
その婚姻関係は続いている。だからあなたが自分の都合で離婚したとしても婚姻関係は続いているから、
その奥さんにあなたは関印を犯させるし、あなたも関印を犯してしまうことになるんだよとイエス様は言われますね。
そしてまさにこの27節から言われるのは、でもあなたがそのように動くその根幹にあるのは何か、原因は情欲ではないか。
いわば自分の欲しか見えない。
相手を神に創造された尊厳を持つ一人の人格と見れない。
そのようにしか見れない目ならば、えぐり出して捨てた方がいい。
そのようにしか行えない手足ならば、切り捨てた方がましである。
これは誇張表現です。だから本当にこんなことしなくていいんですよ。本当にそんなことしなくてもいい。
ただ、それほどまでにイエス様は情欲というものを厳しく警告をされます。
なぜなら、それによって確かに傷つく人がいるからです。
確かに傷つく人がいるから、その傷を見ぬふりをイエス様はなされないということです。
さて3つ目のポイントです。
祝福へと帰っていく道筋はどこにあるのだろうかということをご一緒に覚えたいと思います。
この目をえぐりなさい、手足を切り落としなさいという言葉は、イエス様の言葉の中でもかなり過激です。
でもそうまで言われることは、おそらく私たちの目であったり私たちの手足というものには、
情欲というものはこびりついて離れないという現実をご存知だからだと思います。
情欲、それは別に性的な事柄だけを言っているのではないでしょう。
私の欲しか見えずに、相手を神に創造された尊厳を持つ一人として、人格として見ることができないというのは、
私たちのおそらく内面の中にある根深い問題ではないでしょうか。
そしてこれは誰かを指さして言えることではないのですね。
ヨハネの福音書の8章というところに、皆さんよくご存知だと思います。
下院の女性がイエス様のところに連れて来られました。
その時にイエス様はその連れてきた人たちに、
あなた方の中で罪のない者がまずこの人に石を投げなさいと、ヨハネの8章の7節で言われましたね。
すると年長者からその場を去っていったということがありました。
みんな心の中に覚えがあるわけです。
それは私は自分のことしか考えてなくて、相手を尊厳のある一人として見ていない。
夫婦と言いますのは、先ほども申し上げました裸を受け止め合う関係であります。
ただこれは決して簡単なことではありませんね。
相手の裸を受け止めるというのは忍耐力が必要な時がありますし、
もしくは逆に甘えというものが入り込む場合があります。
夫婦は甘えて良いのですが、
ただ相手を私のこの願いを満たすためにどう動いてくれるかということにしか見れない時に、
私たちは実に注意しなければならないということです。
相手は心のある人格であるわけです。
時に頭の中で今はこの人の気持ちを受け止めなければならないと分かっていてもできない時というのは私たちにあります。
その時は反省しなければならないのでしょう。
これはすべて自戒を込めた言葉です。
私もそれができてなくて愛がないなあということをつくづく教えられる日々であります。
ただ今朝ご一緒に覚えなければならないのは、
イエス様はこの情欲によって異性との関係が、夫婦の関係が痛む時、
女性の尊厳
イエス様はその痛みを見過ごされないということです。
重ね重ね申し上げますが、
イエス様の時代は男性社会です。
いわばこの女性の尊厳を重んじるという価値観はイエス様の時代では本当にないです。
ただイエス様がそれをおっしゃられたのは、
この時代が何を言っているかが問題ではないんです。
イエス様が立っておられたのは御言葉の価値観です。
神様がそれぞれの人間をどう見ておられるか、
この夫婦というものをどういう形として備えられたのか、
そこにある痛みをイエス様は無視されないのですね。
これも言っておかなければならないかもしれません。
2000年前は男性が強くて女性が弱いということでしたけれども、
現代はその逆も十分にあり得ます。
そんなことを言ったら怒られるかもしれませんが。
ですから私たちは実は加害者であり被害者であるということがあるんですよ。
加害者であり同時に被害者であるということがある。
ただ何度も申し上げますが、
イエス様はその痛みを無視はされていない。
私たちはどうするべきなのでしょうか。
一つ今朝ご一緒に向き合いたいこと、それは
このような互いに裸であることを受け止め合うという
祝福の中に置かれる夫婦関係が
支配と連続になっているのであれば
私たちはそれを状態化させない。
それを当たり前にはしない。
そういうチャレンジへと招かれているのではないでしょうか。
できることは実にシンプルです。
傷つけたなら勇気を持って謝るということ。
傷つけられたならばそれもまた勇気を持って伝える。
一人でできないならば誰かと一緒に伝える。
そして神の前に悔い改めることです。
私たちがこのようなところで過ちを犯す時に
誰の前に立っているのか。
誰でもない私たちは主の御前に立っているんです。
主が私たちを見ておられる。
それこそがおそらく悔い改めながら方向転換をしながら
またやっちゃったなということを繰り返しながら
でも状態化させない。
そこに向き合っていく。
何度も謝りながら何度も自分の愛の足りなさをかみしめながら
それでも向き合っていく。
それはおそらく夫婦という祝福へと至っていく道筋なのではないでしょうか。
その時人とその妻は二人とも裸であったが
恥ずかしいとは思わなかったという
そのようなある種自分を相手に開示するということもそう
私の弱さも恥もこんなもんなんだと相手に言えるようになることもそう
相手の弱さは恥を見ながら最初は軽蔑するかもしれないけれども
でもこれを含めてこの人なんだということを受け止めていくことができることを通しても
夫婦はそういうことを通して成熟していくんです。
そこに私たちはキリストの愛が必要です。
祈りながら祈りながらやっていく。
もう終わりますが私たちの中に
いつも自己中心の思いだけで生きている人はいないでしょう。
皆さん見ていてなんかもうそんなことばっかりやってる人はいないと思います。
しかし同時にいつも思うこと
私たちは互いにいつでも情欲にとらわれ得るお互いであるということです。
私たちはいつでも互いに失敗し得るお互いであるということです。
それもまた事実でしょう。
ただその時に私のその目を
私のその手足を放置することのないように
私たちは神様またやっちゃいました。
本当に許してくださいとまず神様に謝って
勇気を持って奥さんに頭を下げにいかなければならない
つくづくそのことを思わされております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。