2024-02-04 25:47

#子どものように 24/2/4

マルコ-16からの礼拝説教。2024年2月4日録音。「神の国はこのような(子どものような)人たちのものです」と「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」。これは今日の聖書箇所に出て来るイエス様の言葉で、良く知られています。では神の国に入る条件ともとれる「子どものように」とは一体どういうことなのでしょうか。それを知るために1.神の国は何もできない人のもの、2.神の国に入るのは「信頼し受け取る人」、3.祝福は霊的のみではなく現実的である、の3つの点から考えます。

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それでは、新約聖書・マルコの福音書の、 短いですが、10章の13節から16節をお読みします。
さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れてきた。 ところが弟子たちは彼らを叱った。
イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。 「子どもたちを私のところに来させなさい。
邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。 誠にあなた方に言います。
子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできません。 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されます。」
以上です。今日はこのところから、子どものようにと題して御言葉を取り継ぎます。
皆様、おはようございます。 今日は雨降りの朝でしたけれども、もう6時前には雨が上がって、雨がない中、こうやって共に礼拝堂を募っていることは感謝しております。
少し寒いですけどもね、新沢。 今日はですね、日本の小読みの上では立春で、
今日から春ということですよね。でも寒い日が続いています。 節分が機能で、
やるところがあるのかな、豆巻きなんかで年齢の数だけ豆を食べるとか。 子どもは小さいからですね、大人がいっぱい食べるってずるいなんてあるかもしれませんけども、
子どもの健康を願うのは万国共通の願いのようです。 今日の箇所は実はそのように子どもの健康や祝福を願って
大人たちがイエス様のもとに子どもたちを連れてきた、そこからことが始まっています。 事件が起こったのは
失礼しました。事件が起こったのはですね、 近づいてきた子どもたちを弟子たちが叱りつけた、その親も多分叱ったんでしょう。
そういうことからですね、イエス様の言葉が、 とても有名な子どものように神の国を受け入れるものでなければということが
発せられます。そういうことで、よく知られている子どものように 神の国を受け入れるとはどういうことかということを考えながらですね、
3つの点。 神の国は何もできない人のものですよということとか、2つ目は
信頼し受け取る人のことを子どものようにと言いますとかですね、 最後イエス様が手を置いて祝福したっていうのは、イエス様はいわゆる霊とか魂と
言われている、いわゆるスピリチュアルな必要だけじゃなくて、私たちの体とかですね、 実生活の必要にも関心を持っておられる、そんなことを話せたらと思っています。
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まず最初ですね、神の国は何もできない人のものということですね。 繰り返しになりますが、発端となったところを読みますね。
子どもたちと親たちを弟子たちが叱っているのを見て、 イエスはそれを見て憤って弟子たちに言われた。
これから読んでみましょうか。 子どもたちを私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。
神の国はこのような者たちのものなのです。 で、弟子たちが子どもたちを遠ざけながら、おそらくこう考えていたと思うんですね。
忙しい先生をつまらない子どもたちによって煩わせたらいけない。 そう考えておっぱらった。
当時の子どもに対する考え方はいろいろあったんですけども、 代表的なものの一つに皆さんも知っているかと思いますが、
無力で人の助けなしに生きていけない子どもたちというのは、 人にとっても神にとっても役に立たない。
そういう考えも一つにあったんですね。 おそらくそれに弟子たちは左右されていて、おっぱらったようです。
また以前話したみたいに、弟子たちはイエス様、いわゆる メシアのサークルに入っているという特権意識から
排他的になって、独善的になっていく。 そしてですね、こう考えていたと思うんですね、おっぱらうときに。
イエス様に気兼ねなく近づけることが、近づくことができるのはイエス様のじきじきの弟子、 私たちしかないんだ。
だからあっち行けという特権意識を持っていたようであります。 彼らはですね、自分は神の国に入るのにふさわしいという自負もあったわけですね。
メシアである、文字通り新しい神の国の王であるイエス様の一番弟子、二番弟子だから私たちはそこに入れる。
そのような自信は、例えばイエス様の敵対者の立法学者やパリサイ人にもあったんですね。
彼らはよく皆さんがご存知のように、 自分は
厳しい決意によって、 立法を守ることによって十分に正しさを実感できる。
そういう決まりを守ることによって自分の正しさを実証していたので、 自分たちは神の国にふさわしいと考えていたわけですね。
でもイエス様によると、このような価値観とか立法主義は神の国に入るのにはふさわしくない。
確実ではないと考えておられたら当然ですね。
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またそういう弟子たちにおいても、立法学者においてもですね、
貴族意識というのがあったんです。 詳しく言いませんが、
私たちはここのグループに属しているから特権があるんだ。
よく言いますけど、どこかの派閥解体したというので、いろいろ話題になりますけれども。
そういうので、そのような貴族意識がもたらす名誉や特権でですね、 自分を何者かと思っている。
何者かと思っている。 そういうことが見え隠れするわけです。
しかしイエス様はですね、神の国は 良い行いを積み重ねる人の
ものでも、名誉が伴う立派な人が入る資格があるというものでもないんですよ。
それは神の国は、ここで言っているように、子供たち、このようなもの、子供たちや小さな、
トロに足りない人たちのものでこそあるんですよとイエス様はおっしゃったんですね。
ある学者に言わせればですね、 神の国はですね、
全てにおいて、 賜物なんだ。そこに入れるのはプレゼント以外の何者ではないんだって言うんですね。
もし私たちが良い行いによって神の国に入る資格を得ようとしたら、キリがないんですね。
こんなことはある学者にですね、 その立法主義ってよく言われますけども、そういう人の特徴、当時の人の特徴。
何でも自力でなし、自己中足的な人は、神の現実から遠く離れた 自己中心の世界に生きているのです。
自分で何でもできるよ。自分で全て満たすことができるよ。 神の前で自分は過不足がないよということなんですけども、そういう神なしで自分が
神に近づくことができると考えている人は、
自己中心。 それこそ立法主義に生きる人、自分の力で神の国に入ろうとする人の特徴なんです。
で、おそらく皆さんも私たちもそうだと思うんですけども、それと反対に、 よくイエス様が参上の説教で言う心の貧しい人。本当はこれ、霊において貧しいという言葉なんですけども、
心の貧しい人とはこういう人なんです。 この世界は神様によって作られている。
そして神様が十分に満たしてくださっているのがこの世界だということに気が付いているんですね。
あのこれ難しい言葉で言うと、神の創造と神の摂理って言うんです。 世界を作った神様は今も働いていて摂理ですね。
私たちに必要なものを備えてくださるし、生かしてくださるという、そういう意味で神が十分に満たしてくださっているのがこの世界だと気づいている。
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すべては神の善なるもの、良い御性質から与えられ見出される。 それはすべては神の恵みによるのだという。
平たく言うと自分はその恵みを与えられるでしかないんだと考えるということなんですね。
ですからその神の国というのは何もできない人。 自分は神の前で何もできないんだということを知っている人のものだ。
反対に神がこの世界を作って十分に満たしてくださっているから、神に寄りすがるんだっていう人のものが神の国だって言うんですね。
よく知られたマタイヌ菩薩の3説をちょっと読んでみましょう。 まとめとして心のから3、はい。
心の貧しいものは幸いです。 天の御国はその人たちのものだからです。
このようにイエス様もはっきりおっしゃっておられます。 2番目、子供のようにそれは神の国に入るのは信頼し受け取る人だって言うんですね。
イエス様の15説の、十書15説の言葉を読んでみます。 続けてこう言ってるんですね。まことにあなた方に言います。
子供のように神の国を受け入れるものでなければ決してそこに入ることはできません。 で、子供のように、あ、失礼しました。
ごめんなさい。子供のように受け入れるとはどういうことかというと、本当に簡単に言うとですね、皆さんも気づいているように
迷わず素直に受け入れるって言うんですね。 それはですね、迷わず素直にイエス様が救い主であると信じると言い換えてもいいと思います。
あの皆さんも気づいているようにイエス様に敵対する人たちはもちろん、時には弟子たちでさえもですね、素直にイエス様を救い主であると信じきれなかったわけですね。
信頼できなかった時が弟子たちでさえありました。 で、繰り返しますが、神の国を受け入れる、
神の国を受け入れるというのはイエス様を信じるということと関連して 言い換えたり考えることができるんですね。
そのイエス様を受け入れること自体が 神の国を受け入れるとも言います。なぜならイエス様は神の国がこの世に実現したということを表すために来られた方だからですね。
また、イエス様を神様の御子であって救い主であるって信じること、そのことを信じれば自分は神の国に入れる。
そうやって信じる、イエス様を救い主と信じるということも神の国を受け入れると言い換えることができます。
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また、よく言っているように 神の国って言葉は
広くて深い意味がありますね。聖書の歴史から。 ギリシャ語でバシレイヤーって言うんですけども、神の国っていうのは神様の
御支配、支配っていう意味もあるんですね。 だからこういうふうに変えられるかもしれないんですね。
イエス様を信じれば救われる、そしてイエス様を信じて救われている私は
何があったとしても神様によって最善が自分になされると信じる。 神の支配が自分に及ぶ。だから何があっても
神の最善が自分に与えられる、なされると信じる。 それも神の国を幼子のように受け入れると言い換えられるかもしれません。
イエス様が救い主であることを勘違いしたのが弟子たちでしたね。
その弟子たちと違って子供たちはですね 素直にイエス様が信頼できると考えられた。
イエス様は信頼できる方だって子供たちは考えたからこのようにですね イエス様の方に近づいて
抱っこしてもらったり できたわけですよね。
あるですね、北米の心学者、牧師がこういうことを言ってですね
子供らしさって一体何ですか。それは子供らしさというのは私たち人間が本来持っている 生きる上での基本的で本来は欠かせない資質なんですよ。
それが子供らしさ。でもそれは残念ながら大人になると失われてしまうんですよ と言うんですね。
どんな資質かそれは 信じようとする
熱意 与えられるものをこまず受け取ること
そして愛し愛される意欲を持っているということなんですね。英語の文でそのままで訳すと難しいんですけど英語でこう書いたんですね
an eagerness to believe 信じることの熱心さ
a readiness to receive いつでも与えられるものを受け取る準備ができている
a willingness to love and to be loved 人を愛し愛されることをいつも願っている
まあ皆さん子供と接してたら本当に子供っていうのは素直に人も信頼してくれたり受け入れてくれることがありますよね
で皆さんご存知のように私仕事である同じところに毎週通うんですね。そうして親しくなるんですけども
1ヶ月くらい前ですかね あのある男の子と道端で会いました。でその子はいつも行っているところの子でもう多分
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0歳か1歳ぐらいの頃から知っている男の子なんです。で外でこう仕事をしていると時々今は多分3年か4年ぐらいの学童クラブ帰ってきてですね
挨拶してくれるんですねこんにちは 1ヶ月に1回ぐらい会うんですけどこの間ですね
私時々あの出先で飴とかお菓子もらうんで食べないものを取ってあるんですけどもその後来て多分帰っても
お母さんいない一人だからお菓子あげようと思ってお菓子あげたんですねいいかなと。でその時に
あのねちゃんとお母さんとお父さんにおじさんからお菓子もらったって言ってね
あともう一つ知らない人からお菓子もらったらいけないよってまあ一応何でしょ 警告っていうかね言ったんです。そしたらその子が間髪入れずにおじさんを知らない人じゃ
ないよって言ったんですよ。なんかその素直な言葉にすごく自分が感動して
こんなにこの子僕のこと信頼してくれてるんだなぁっていうことでなんかまあ嬉しく思ったんですね
まあそう今のちょっとしたエリトリーですけども本当に子供っていうのは信頼と愛に素直に満ちている
そんなことを感じさせる経験でした まあそういうことがあったんですけどもこの
今日ですね私たちはイエス様の子供のように神の国を受け入れるっていうことから子供らしさ
特に私たちはイエス様や神様を当たり前のように信じようと イエス様から与えられるものを期待して受け取っていこう
イエス様を愛しイエス様に愛され素直に愛されていこう そういうことをですね今日この見事を学んだきっかけにですね
考えていきたい。もう一度ですねイエス様を信じること によって
イエス様によって父なる神様私たちに良いものを与えてくださるんだってことをもう 一度ですね素直に信じる機会にしてみてはいかがでしょうか
あるいはですね私たちも その日常生活の中でイエス様が私を救ってくださるんだ
そのいうことをですね 素直に信頼していくってことを日常生活の中でどう意味なのかなってことを考え
ながらちょっと日々歩んできっかけにしたらどうかと思うんですね でそのことをですね子供のように素直にイエス様を信頼していく
イエス様から受け取れると信じて受け取っていくってことをわかるとですね 本当に日常生活の中でイエス様の救いがより身近になりますし
ちょっと自然に他の人にですねイエス様って本当に助けてくれるんですよってね いうこともできるんじゃないかと思う
イエス様がこの父なる神様に信頼するってことについて有名な見言葉を発しておら れるんですねちょっと最後にこの1番目のポイントに最後みたいと思うんですけども
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マタイの7章の9から11節でこんなこと言ってますイエス様 あなた方のうちの誰が自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか
魚を求めているのにヘビを与えるでしょうか このようにあなた方人間は悪いものであっても自分の子供たちには良いものを与える
ことを知っているのです最後だけ一緒に読んでみましょうか さあはいそれならなおのこと
天におられるあなた方の父はご自分に求める者たちに良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか
そんなことを考えて歩んでいきたいと思います 最後
イエス様のこの神の国の祝福は霊的だけではなくて現実的だってことを見たいと思います 最後のところでを書いてあります
そしてイエスは子供たちを抱き彼らの上に手を置いて祝福された でこの最後の結論の言葉はですねある学者に言わせれば今日の物語の頂点だって言うんですね
でそこでもう一つはあの
3つの教官福音書の中でマルコの福音書にだけこの イエス様が抱いて手を置いたということがあるんです
でここは率直に何を言ってるかというと イエスは子供たちが好きでありそして彼らを祝福するということが
明確に伝えられている素晴らしい箇所だって言うんですね 皆さんね私も調べたんですけどこのイエス様の時代と重なるローマの時代
平均寿命がね245歳なんです なぜかというとその理由はですね多くの若い子供たちちっちゃい子が死んじゃうからそこで
平均年齢を引き下げているんですね実際まあ王様 皇帝で80歳とか皇帝の奥さんで100何歳生きた人もいたらしいです
どういうことかというと1歳までに女の子は30%がなくなっちゃう 男の子は35%が1歳までになくなっちゃうんです
このニューヨークの死亡率日本と比べると2021年だと0.17% これだけの日だけが
当時と今あるわけです3人から4人弱に1人の赤ちゃんが死んじゃう時代でした そして20歳
で5歳までにまたその20%がなくなっちゃうって言うんですね そういう時代にあって親たちはイエス様救い主だって知ったら
ねこのイエス様に祈ってもらおう いろんな人いらしているイエス様に祈ってもらおうってやっぱり
熱心に思ったと思うんですよね そしてその子供たちをイエス様は抱いて手を置いて
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まあ当時の宗教家がよくやったそうですけども祝福した 音です
親たちのこの 切実な思いとイエス様のこの熱心な思いが想像できるかと思います
でそうやってイエス様が実際にですね 体と体のコンタクトを取ったってことをある学者はこういうんですね
それはですね
イエス様が人間の体と命も大事に思った いわゆるスピリチャルな魂や霊ということだけじゃなくて
体と命をイエス様が大事に思う この地上の一に生きるっていうことをイエス様が大事に思ってまた
体を大事に思って抱いたり手を置いたりされたっていう 身体的なコンタクトを持ったんですね
そしてイエス様自身も赤ちゃんとして生まれたわけですよね 肉体を持ってこの地は歩まれて最後には十字架で体の苦痛を覚えながら
命を落としたわけです だから私たち人間の体の必要ということ日常生活の必要ということを現実として
イエス様ご自身も知っておられたわけなんですね そしてそれだけじゃなくて
イエス様は私たちの日常生活にあふれる 物質的な必要
健康をはじめとする体の必要 祝福ということに心を注いでくださる救い主である
まああえて言いますけど魂だけ天国に行けばいいというそういう考えだけの 救い主じゃないお方なんですね
ですからこの実際に子供を抱いて子供の手を置いて祝福した 健康と長寿を祈ったかもしれません
そのイエス様のことを思い出してですね 私たちはですね自分の具体的な必要
体やもの そういうことですねイエス様に
助けを求めて祈ったりその祝福を願い求めて祈ることができるわけです そのために人のために使いたいまた人のために祈ることができるわけなんですね
そしてそういう具体的な必要イエス様が助けてくださると信じて委ねることもできる わけです
まあそういう意味で具体的なイエス様の助けや必要ですね 祝福を信じて祈ってご互いでありたいと思いますそして子供のようにですね
イエス様が救い主であることそして父なる神様が私たちに良きもの 最善のものを授けてくださるということですね
素直に信じていく お互いでありたいと思います
体があるイエス様の心ということでペブルビテの手紙でこういう言葉があるので 最後に紹介します
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ペブル4-15から16節の抜粋ですね 私たちの大祭司つまりイエス
私たちの大祭司は私たちの弱さに同情できない方ではありません ここから読みましょうかさんはい
ですから私たちは哀れみを受けまた恵みをいただいて 檻にかなった助けを受けるために大胆に恵みの御座に近づこうではありません
家様に信頼していくお互いでありたいと思いますお祈りしましょう 天の神様皆を賛美いたします子供たちを受け入れ
手を寄宿してくださったイエス様 そのイエス様の姿を今日学びました私たち自身私たちの生活や人生
体の健やかさ そのようなことに関心を持っておられる
誠の救い主であることを感謝いたします どうかそのような救い主でありまた神様のご支配を私たちの日常生活にもたらす
救い主であるそのことを信じながら歩んでいくお互いでありますよ そのことが私たちにとってどんな意味があるのかどれほど祝福なのか
どうかそのことを私たちが知ることができるように導いてください この願いと感謝を私たちの救い主
シューイエス様のお名前によって祈りますああ それでは1分ほどに言葉に応えて祈る時間を持ちましょう
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