イースターの喜び
皆様、イースターおめでとうございます。
聖火隊の皆様、ありがとうございました。
皆様と、イエス様の復活をお祝いできることを、とても感謝しています。
お祈りをもって、共に御言葉を聞かせていただきたいと思います。
お祈りをいたします。
天の神様、主の皆を賛美いたします。
イースターの朝です。
よみがえりのイエス様を、復活の命をありがとうございます。
先週、私たちは、イエス様の犠牲と贖いを覚え、十字架を覚えました。
私たちを救い、命の道を開いてくださった、神様の御計画を感謝いたします。
今朝、私たちは、よみがえりのイエス様を、主が与えてくださった新しい命を覚えます。
主が愛しておられるお一人お一人とともに、このイースターの喜びと希望を分かち合うことができますように、導いてください。
わけあって、今日、教会に集うことができない方々の上にも、主の変わらないあふれる恵みを注いでいてくださいますように、お願いをいたします。
御言葉のときを感謝いたします。イエス様の皆によってお祈りをいたします。アーメン。
イエス様の復活
春が近づきますと、近頃は街のいろんなところでイースターという文字を見るようになったなと思っています。
春の訪れを喜ぶといったニュアンスの、とてもかわいらしい春らしいデザインの看板をよく見るなと最近思っています。
スーパーとかでもイースターフェアになるものがあるそうで、実際私見たことなく聞いた話なんですけれども、
イースターフェアで卵が特売価格で売られているということがあられるそうですね。
イースターエッグが特売卵になるんだということを面白いなと思いながら聞いていました。
教会では昨日ご覧になられたと思いますが、素敵なイースターエッグを富士の方々が作ってくださいました。
イースターのお祝いに、私たちは卵をこのように飾ります。
この卵は生命をイメージしている、生命のシンボルとして卵が使われています。
イースターというのは、地から新たな命を与えられてよみがえられたイエス様。
そして、罪に死んでいた私たちも新しい命を与えられて生きるものとされた。
イースターはまさにそのことをお祝いします。
先週私たちはジュナン州を過ごしました。
イエス様の十字架の死、それは罪に囚われる私たちを解放するために流された血であり、犠牲であること。
イエス様のその身業を覚えました。
そして聖書は語ります。
イエス様の死から三日目の朝、つまり日曜日の朝です。
イエス様はよみがえられました。
教会はそのことを記念して、今も日曜日に教会に集って主を礼拝します。
それは、このよみがえられたイエス様こそ、私たちの王であり主であると告白するためです。
今朝は死からイエス様がよみがえられたこと、その復活の意味、
そして神様が私たちに何をしてくださったのかを一緒に覚えたいと願っています。
二つのポイントでお話しいたします。
第一に、イエス様がよみがえられたのは、天においても地においても権威あるお方となられるためでした。
イエス様がよみがえられたのは、天においても地においても権威あるお方となられるため。
今朝はマタイの28章、16節から20節をお開きしましたが、復活の出来事がこの28章の1節から記されています。
イエス様が死なれて、十字架で死なれて三日目。
イエス様のご遺体が納められていた墓は空っぽになっていました。
しかしそこに見つかりが現れてこのように言っています。
お開きできる方はご覧ください。28章の5節から7節をお読みします。
あなた方は恐れることはありません。十字架につけられたイエスを探しているのは分かっています。
ここにはおられません。前から言っておられた通り、よみがえられません。
前から言っておられた通り、よみがえられたのです。
さあ納められていた場所を見なさい。そして急いで行って弟子たちに伝えなさい。
イエスは死人の中からよみがえられました。そしてあなた方より先にガリラ屋に行かれます。
そこでお会いできますと。いいですか。私は確かにあなた方に伝えました。
見つかりはそのように言ったのです。
そしてその直後に女性たちが墓にはいたわけですけれども、
その彼女たちに復活されたイエス様がお出会いされるのです。
十節でイエス様は彼女たちに言われます。
恐れることはありません。行って私の兄弟たちにガリラ屋に行くように言いなさい。
そこで私に会えます。
見つかりとイエス様が共通して言っていることがあります。
ここで共通して語られているのは、復活されたイエス様が弟子たちに
ガリラ屋で再び会おうと言っておられるのです。
ガリラ屋で再び会おう。
イエス様の宣教はエルサレムから遥か北の辺境の地ガリラ屋から始まりました。
そして弟子たちの人生もガリラ屋でイエス様に出会って新たにされ始まったのです。
このイエス様のガリラ屋で再び会おうという言葉は、
弟子たちの新たなスタートを予期させます。
ガリラ屋で再びイエス様に出会う。
イエス様は弟子たちを再び新たに使わそうとされているのです。
そういう出来事があっての今朝の16節からの場面です。
三鶴先生がマタイの福音書をずっと見てきてくださって、
今日は最後の箇所になりました。
最後の場面です。
よみがえられたイエス様が弟子たちと再会される。
まさに映画や物語で言えば感動的なクライマックスの場面なわけです。
登場人物たちが様々な困難を乗り越え、大きく成長して、
ハッピーエンドで終わるという位置づけが普通ならばされる場面です。
しかし残念ながら、そういうきれいなクライマックスではないようなのです。
16節からの箇所。
11人の弟子たちは、参上でイエス様に出会い、礼拝します。
礼拝するという言葉は、神様に向けての態度として使われる言葉ですから、
彼らは全員、復活のイエス様の姿を見て驚き、
このお方は誠の神であると礼拝したんです。
ただこれだけならば感動的ですが、聖書は悪い事実も隠しません。
17節には、イエスに会って礼拝したただし、疑う者たちもいたと記されているのです。
弟子たちはイエス様にひざまきつつも、疑っていた。
何を疑っていたんでしょうか。
この目の前にいる人は本当に、蘇ったイエス様なのか。
そういう疑いでしょうか。
当然それもあると思います。
普通に考えれば死者はよみがえりません。
ただ他の福音書を見ますと、弟子たちはすでにこの前に、
エルサレムでイエス様との再会を何回か果たしているようです。
もう何度か会っているイエス様と。
今朝の歌手は、その何度目かの再会の後のガリラ屋での出来事。
目の前にいるのは紛れもなく、蘇った主だと彼らは分かっている。
そうであるとすれば彼らは何を疑っていたんでしょうか。
おそらくこうだと思うのです。
私は果たしてまたイエス様に従っていくことができるんだろうか。
そういう疑いだったのではないでしょうか。
ガリラ屋で再びイエス様に出会う。
それは新たな使命を与えられて生きていくこと。
弟子たちは予期していたかもしれません。
ガリラ屋で会おうと言われて、そこへ向かう道中。
弟子たちはイエス様の復活の意味と、
これまでの自分の歩みを振り返りながら思ったかもしれません。
また同じ過ちを繰り返さないだろうかと。
私たちは福音書の弟子たちの姿を見ています。
十字架にかかられる前のイエス様に、ペテロは賛同を知らないと言いました。
そしてペテロに限らず、他の弟子たちも皆、イエス様を裏切り逃げ出してしまいました。
その後弟子たちは何か名誉挽回をしたわけでもありません。
そしてその自分たちの失敗の記憶。
誰よりも本人たちが一番感じていることでしょう。
私はまたイエス様を裏切ってしまうかもしれない。
逃げ出してしまうかもしれない。
こんな自分がまたイエス様に従っていくことができるのだろうか。
新しい使命の授与
この弟子たちの姿は、私たちにとって一言ではないかもしれません。
イエス様を信じている。
でも何度となく、その信仰に反する行動、言動をとってしまう。
それは言わば、イエス様の愛を裏切る私たちの姿かもしれません。
神聖歌に、主は命をという賛美があります。
主は命をという賛美。
イエス様は私を愛し、私のために命を捧げてくださった。
私は主のために何をしようと歌っている賛美です。
でも現実は、イエス様の愛に応えて生きるどころか、
開き直って生きてしまっている自分の姿があるかもしれません。
私たちもイエス様を前にしたら、疑わずにはいられないのかもしれません。
しかしこのような疑いを持つ弟子たちの心、状態もご存知の上でイエス様は言われました。
19節
あなた方は言って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
この世界に出ていき、私のイエス・キリストの弟子を生まれさせ、育てなさいとおっしゃるのです。
イエス様は大胆な方だなぁと感じます。
自分のことも信じられない。疑いを持つ弟子に、そんなことができるのでしょうか。
普通に考えれば、自分のことを裏切って逃げた弟子たちに、こんなことは頼めないです。
しかしイエス様は弟子たちに言われる。
そんな彼らに信頼を込めて、あなた方が生きなさいと。
なぜそう言えるのかというと、それは18節です。
私には天においても地においてもすべての権威が与えられています。
死よりよみがえらされたイエス・キリストは、天と地、非造物世界のすべてにおいて、すべての権威を持っている。
それはイエス様が天地のまことの王となられたということです。
それについてパウロもこのように語っています。
お聞きいただければと思いますが、ピリビートへの手紙2章9節から11節。
ピリビートへの手紙2章9から11節。
それゆえ神はこの肩を高くあげて、すべての名に勝る名を与えられました。
それはイエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての下がイエス・キリストは主ですと告白して、
父なる神に栄光しするためですと。
復活を通してイエス様は王となられました。
そしてまことの王は、ご自身に与えられている権威を、人を支配するためには用いられません。
まことの王は、その権威を人に使え、人を生かすために用いられるのです。
イエス様は福音書の中で、その権威によって嵐を鎮められたり、病を癒されたり、多くの奇跡を行われています。
でもそれはすべて、力で人をコントロールするために用いているのではありません。
人に使え、人を生かすためでした。
その権威によって、ある意味で十字架を拒むこともイエス様はできたはずです。
しかしそうはなされず、自ら十字架へと進まれ、命を捧げられました。
ご自身のためにその権威を用いず、私たちを生かすためにその権威を用いになられた。
そして復活された今、イエス様は、この天地最高の権威をもって弟子たちを使わす新しい使命を与えるとおっしゃっておられるのです。
裏切り、逃げてしまった弟子たちも、自信がなく信仰な私たちも、それができるとイエス様はおっしゃいます。
復活のイエス様と私たち
なぜなら、天と地のすべての権威者であるイエス様が、二十節、世の終わりまでいつも、あなた方と共にいるからです。
私たちのうちにいて、私と共に働いてくださる、イエス様の命に生きるものとして私たちを作り変え続けてくださるのです。
イエス様によってなおも弟子たちは、弟子とされ続け、そして新たなイエス様の弟子を生み出すということを行ってきました。
実際、この今日の聖書の箇所から今、二千年以上たって、天境の地の日本に福音が伝わり、今、私たちはイエスキリストの復活を今日、礼拝しています。
復活されたイエス様が今も生きていて、共におられるという何よりもの印ではないでしょうか。
さて二つ目のポイント、復活されたイエス様が願っていることをお伝えしたいと思います。
復活されたイエス様が願っておられることは、主御自身が与えてくださったこの命を生きてほしいということです。
主御自身の命を生きてほしい。
十九節と二十節を続けてお読みしたいと思います。
ですからあなた方は言って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
七子聖霊の名において、彼らにバプテスマを授け、私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。
みを私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいます。
イエス様はあらゆる国の人々を弟子としなさいと言われます。
弟子づくりをしなさいと言っておられるのです。
それは私たちにも言われているイエス様の使命です。
皆さんには互いに恩師と呼べる存在がおられると思います。
ただ誰よりも私たちは、私たちにとっての恩師というのはイエス様になるはずです。
私たちはイエス様の弟子であるお互いです。
イエス様の弟子をつくる。何ができるでしょうか。
世間ではいろんな指定関係があると思います。
職人さんであったり、落語家さんであったりというのは指定関係がありますね。
弟子というのは師匠から細かくあれをしろこれをしろとは教えられないそうですね。
弟子は師匠の動きをひたすら目で見て耳で聞いて、ひたすら真似をしながら技を磨いていく。
そして弟子たちはひたすら師の真似をして、やがてその師匠に似ていく。
そういうものだそうです。
さてイエス様の弟子とされた私たちがまずすること。
イエス様の歩みを真似して生きる。
イエス様の歩みに習って生きることだと思います。
命を生きるという使命
イエス様が生まれたように歩む。
これを考えたときにイエス様が歩まれる上で一番大事にしておられたことは何だろうかと考えていました。
マタイの3章の17節を開きたいと思います。
イエス様の生活の基盤は何であったのか。3章17節。
そして見よ。天から声があり子を告げた。
これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。
イエス様の生活の基盤、それは父なる神様との愛の交わりに休んじるということでした。
これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。
神様のこの声をイエス様は大事に受け取り、その言葉を持って歩まれました。
神様はこのおなじみ声を私たちにもかけてくださっています。
愛で包み、そして神の恵みの支配に入れてくださっています。
私たちはこの神の事実に安心し、喜びを持ち、そして兄弟姉妹とともに喜びながら生きる。
これが私たち教会にあらわされていく弟子づくりではないでしょうか。
少し私の話をしますと、私は中学生の時に教会に行くようになりました。
教会の中学生キャンプでイエス様を信じて、毎週教会に行くようになりました。
ですが、中学生、高校生だった私にとって、礼拝のメッセージは本当に難しかったんです。
もってなく、毎週本当に寝てたと思います。礼拝は正直寝てました。
そして、同じ世代の友達も多くはなかったです。
でも私はだんだん教会という場所が好きになっていきました。
メッセージが何を言っているかわからなくても、自分と違う年代の人ばかりの中であっても、だんだん教会が好きになった。
それは、教会に集う人たちが肩の力を入れずに無理なくお互いを受け入れ合っていること。
神様に祈る時、誰かを大切に思っているということがよく伝わってきたこと。
そして私自身の存在をただ喜んでもらえた。
それら一つ一つを温かく感じ、安心できる場所になったからだと思います。
私は教会の人たちを見ながら、イエス様って温かいお方なんだなということを知りました。
そして未熟であった私のことを、そんな人たちに受け止めてもらいながらイエス様を知り、イエス様の弟子にしていただけたのだなと感じています。
皆さんもそういう中でイエス様を知っていかれた経験があられると思います。
イエス様の弟子づくり、その言葉だけを聞くとハードルを高く感じるかもしれません。
しかし誰でもない私たちにイエス様はこの使命を与えておられます。
難しさと出会うことも、うまく進まないなと思うこともあるかもしれません。
でも私たちには常にこの約束が与えられている。
私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。
インマヌエルとしてお生まれになったイエス様が、世の終わりまで私たちと共にいてくださる。
マタリの福音書が一貫して私たちに与えてくださっている約束です。
主が共にいてくださる。
私たちが何か良いことをできるからでもなく、何も失敗しなくなったからでもない。
どんな私たちであろうと共にいてくださる。
最高権を授けられた方は私たちと共にいると約束してくださっています。
この約束と共に私たちは使わせていただけるのです。
失敗の中にあった弟子たちに近づかれたイエス様は、私たちにも近づかれ、
行きなさい、あなたを使わすとおっしゃっておられます。
イースターはイエス様の復活を、その復活の命が私たちに与えられたことをお祝いする日です。
やがてこの地上での生涯にあたるイエス様は、
私たちはイエス様のよみがえりの命をより鮮やかに体験することになると思います。
天国の希望があるからです。
死へ打ち勝たれたイエス様が、最高の権威をもって私たちをよみがえりの命へ移してくださる。
そして今度は、私たちの生涯をより鮮やかに体験することになると思います。
最高の権威をもって私たちをよみがえりの命へ移してくださる。
そしてこの命は、死後だけのものではなく、
今この時を生きている私たちのうちに、イエス様の命が働いています。
どこまで行っても私たちは、もしかしたら十七節の弟子のように疑いを持つお互いであるかもしれません。
でもイエス様にとっては、それは私たちを生かさない、使わさない理由にはならないのです。
失敗しても何度もこの方に立ち返らせていただきましょう。
どこまで行っても命に生かす権威をもって私たちを使わされる神、それが復活のイエスキリストです。
一言お祈りいたします。