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2025-02-16 31:41

2025/02/16:幼子のように

2025/02/16 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -30


サマリー

このエピソードでは、信仰における変化と神の愛について深く考察されています。特に、ヨハネの使命やイエスのメシアとしての役割に焦点が当てられ、神を知ることの重要性が強調されています。イエスは、天の御国における人々の偉大さや価値について語り、幼子のように神を知ることの大切さを伝えています。また、イエスを通じて父なる神の真の姿を知る道が示されています。このエピソードでは、父なる神様の真実の愛について語られ、教会に集まる目的を再考することの重要性が強調されています。

信仰の力
お祈りをいたします。
天の父なる神様、今日も死の御前へと私たちを招いてくださり、あなたを仰ぎ礼拝ができますことを感謝いたします。
あなたが私たちを愛し抜いてくださった十字架の愛をいつも覚えています。
あなたが私たちのために命を捧げ、流された血潮によりその私たちのすべての罪をその身に担ってくださり、
三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、永遠なる死と死を超えても切り離されない、共に生きる命を与え、
あなたは二本足ではなく、私の恵みによって立ちなさいと、あなたの恵みに常に支えられ、どんなことがあっても下に永遠の腕のある、
そのような世界へと私たちを招き入れてくださったことをありがとうございます。
主の恵みによって御国を築くようにと、その使命を与えられている私たちの人生です。
どうか様々な弱さや戦いを覚えますが、最後まで主が私たちを握り、その使命、その人生を守ってくださいますようにお願いいたします。
御言葉を開き、今日もあなた御自身が語られることに耳を傾け、あなたへと答えていくこと、あなたを愛することができますように導いてください。
ここに来たくても来れないお一人一人、施設におられる方、御高齢の方、御自宅で礼拝を守っておられる方、心が痛んでおられる方、
お一人一人がどうか癒されて、あなたのもとへとまたその場でも集うことができますように導いてください。お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。様々なことがあります。世界の紛争や私たちの中にある戦い。でも全ての主はあなたです。
あなたへと委ねてあなたを見上げるこの時とさせてください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
ヨハネの使命
最近一冊の本の言葉に教えられました。また後ろに置いておきますが、信じても苦しい人へと。神から始まる新しい自分という本があります。
その一節にこういう言葉がありました。信仰者はよく自分が変えられることを目標とします。確かに私たちはイエス様に出会って変えられます。
しかし変わるためにイエス様を信じたわけではありません。どれだけ私が変えられたかではなく、どうしようもなく罪深い私を許すためにイエス様が十字架にかかってくださったその愛を知る方が大切です。
変えられることは目的ではなく、神から受け取る恵みです。本当の信仰の成長は私が完成されることではなく、私が壊され、私の中にイエス様が大きく愛を広げてくださることなのです。
そういう一節がありました。私はこの言葉を読みながらすごく、ああそうだなと思って心が軽くなったことを覚えています。私たちはよく、私は不十分であると自分を責めがちです。まあ、責めますね。
信仰者であれば、自分の罪の現実に落ち込むことが当然あるでしょう。そうでなくとも、人生には乗り越えるには重い出来事があり、もう私にはそれを乗り越える気力がない、そう思うこともあるでしょう。
私たちは現状に至り、変わることを願いますけれども、ただ、そう簡単に変われないということを私たちは何度も何度も経験をいたします。ただ、そういう私を愛し、十字架で私の罪を引き受けてくださったイエス様の愛があるというのは確かですよね。
そしてその神の愛を知ること、いわばそれは神ご自身を知っていくということがあなたのすべきことなんですよということを言われる時に、私はすごく心が軽くなった気がいたしました。
私たちが変えられていくのは救いの結果であって、私たちの目的はいつも救われ、私を愛してくださっている主を知り続けていくことである。主を知ることによって私たちは変えられるという、そういうことが言われている。
今朝を開きしたこの箇所もそういうことを言っている話だなあと思うのです。少し一緒に見ていきましょう。今日はマタイの11章全体を見ながら、先ほど読んでいただいた箇所に少し目を向けていきます。
2つのポイントを一緒に見ますけれども、神様の目にいます私たちは偉大なものとして見られているという事実があるということを確認したいと思います。私たちはこれまでマタイの福音書を見てきました。イエス様の姿を見てきました。
誠の王であるイエス様は、これまでをぎゅっとまとめるならば、いろいろな人のところに行かれました。タラーとの病人であったり、悪霊つきであったり、主税人などの罪人。いわば当時は神様の愛から見放されていると思われている人たちのところへ行きました。そしてイエス様はそこで奇跡を起こして癒されましたね。
これは神様はそういう見放されていると思っている一人一人を愛しておられるのだということをイエス様はご自身の姿を通して表した。いわば神様の恵み深い姿をイエス様は表していかれたのです。
ただ、そのようなイエス様の姿は人々が期待するようなメシアの姿とは違っていたということもまたこれまで見てきました。人々が期待していたのはローマから解放してくれる力強いメシアですね。ダビデの再来のような。でもそういうメシアの姿とイエス様は違っていました。
ですから多くの人たちがイエス様を見て、あの人は本当にメシアなのかといぶかしみましたし、今日のこの11章の段になっては、バクテスマのヨハネがそのことを言うのです。
11章の3節を読みしますとこういう言葉があります。牢獄に囚われていたヨハネの言葉です。イエスに講義を送った。おいでになるはずの方はあなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうかと。ヨハネも戸惑っているのです。本当にあなたはメシアなのですか。
実は今日のこの11章の7節以降の言葉を見ていくとイエス様はその疑問に丁寧に答えていかれるんですね。7節から10節をちょっと読みしますとこういう言葉です。7節から10節。この人たちが言ってしまうとイエスはヨハネについて群衆に話し始められました。
あなた方は何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる足ですか。そうでなければ何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。そうでなければ何を見に行ったのですか。
預言者ですか。そうです。私はあなた方に言います。預言者より優れたものを見に行ったのです。この人こそ見よ。私は私の使いをあなたの前に使わす。彼はあなたの前にあなたの道を備えると書かれているその人ですという。イエス様はそういうことをおっしゃられました。
アメシアを期待している人たちに対してイエス様はあなた方は何を見に行ったのかと聞くんです。これは言い方を変えるならば、あなた方は何を期待したのかという意味です。あなた方は何を期待したのか。風に揺れる足というのはこれはガリラ屋漁師のヘロデのことだそうです。ヘロデの高架には足が掘られていた。
だから風に揺れる足というのはあなた方はガリラ屋の王であるヘロデに期待してたんですかということです。もしくはあなた方は柔らかな衣を着た王宮に住んでいるような権威者たちに期待していたんですか。
けれどもその人々たちに期待ができなかったあなた方はアラノでヨハネを見に行ったんでしょうということです。予言者よりも優れたヨハネをあなたたちは見に行ったんでしょう。彼に期待をした。その通りヨハネは予言者よりも優れたものである。
けれどもこの時ヨハネは囚われている。なぜなら彼の使命はイエス様が言うように10節ですね。彼の使命は道を備えることだったからです。彼自身がメシアであるとかそういうことが彼の使命ではない。道を備えることであった。
14節にもイエス様はヨハネを指してあなた方に受け入れる思いがあるならこの人こそ来たるべきエリアなのですということを言いますけれども。人々はまさにヨハネの姿がエリアみたいな格好をしていましたからね。炎のような予言者エリアそのような姿をヨハネにも重ねていたかもしれない。
このエリアというのは、これはマラキショ4章の5節6節の言葉の引用なんです。開ける方だけ見ていただいたらと思いますが、マラキショの4章の5節から6節というところにはこういう言葉がありますね。
マラキショの4章の5節、旧約の一番最後の書簡ですが、ちょっとお読みしますと、「みよ私は主の大いなる恐るべき日が来る前に、予言者エリアをあなた方に使わす。彼は父の心を子に向けさせ、この心をその父に向けさせる。
それは私が来て、この地を静寂のものとして討ち滅ぼすことのないようにするためである。」簡単に言うと、ヨハネの使命というのは、こういうふうにイスラエルの子たちの心を神様へと向けさせて道を備えることが彼の使命である。そういう意味では彼の使命は十分に成し遂げた。
真言の王イエス
では、道が備えられて終わったのでしょうか。そうではないですね。13節はだいぶ過激な言葉です。13節をお読みしますとイエスもこう言われるんです。
すべての予言者たちと立法が予言したのは、ヨハネの時まででした。これは何を言っているのかと言いますと、予言者と立法はヨハネまでと言い方を変えるならば、それらが予言していた救い主を待つような、メッシャーを待つような、そういう時代はヨハネまでだと言っている。
ヨハネは最後ですよと言っている。この言葉には含みがあるんです。つまり書かれていませんが、つまり何が言いたいかというと、ヨハネの後に来たイエス様こそが真言の王、メッシャーであるということを言っているんです。
真言の王イエス様は、人々が期待するような力あるダビデの姿ではありませんでした。むしろ下辺のように低く、神の恵みをこの世界に実現されていきました。ただイエス様はこの時に、私が王だと明確には言わない。
言ったらヘロデニ、ヨハネと同じように捉えられるからです。けれども15節の言葉に、耳のあるものは聞きなさい、これは聖書で何度か出てきますが、耳のあるものは聞きなさいという言葉は、これは言い換えるならば、私の今言った言葉には含みがあるからよく考えて聞きなさいよという印なんです。耳があるものは聞きなさい。
はっきりは言いません。けれども、今やイエス様、真言の王メッシャーを通して、天の御国はこの世界に入り込んできている。人々の前に神の恵みが表されている。
そういう世界が始まったんだから、私を受け入れてそこに入ってきなさいというのが、いつもイエス様の招きでしたね。そして、そういう中でこういうことを言われます。11節の言葉です。
天の御国で一番小さいものでさえ、彼より偉大です。ということを言われるんですね。天の御国で一番小さいものよりも、バプテスマのヨハネより偉大であるということ。これは誰のことを言っているのでしょうか。おそらくイエス様についてきた一人一人のことを言っているのです。
イエス様についてきた人々は、これまで見てきましたが、罪人であり、癒された病人であり、そして開放された、悪霊から開放された人々、世間から見れば小さい人たちなんです。
しかし今や、私の広げた恵みの支配、私の広げた神の国に、私についてきた一人一人に生きるあなた方は、ヨハネよりも偉大なんだよということを言っているわけですね。なぜでしょうか。
それは、神様の国に入るということは、神様の眼差しを受け入れるということ。そして神様の眼差しというのは、一人一人をこの上なく大きな存在として見ているという世界なんです。
実は、この中で天の御国で一番小さいものというのは、ギリシャ語の言葉でミクロスという言葉です。そのまま英語のミクロの語源になった言葉です。最も小さいということです。本当に小さいということです。
これは私たちも思いますね。私たちも時折それは、あれもこれもできなくなるということを私たちは経験をいたします。その中で、よくあるのは、世間から私はもう必要とされていない、そういうふうに思ってしまうときが私たちはありますね。
それは本当につらいことです。自分は小さくて何の価値もないと自分自身で見てしまうものがありますね。神様を信じていながらも。ありますよ。けれども、神の目から見るならば、あなたは偉大だと言うんです。この言葉偉大という言葉はメガスという言葉です。
これは英語のメガの語源になった言葉です。メガス。何よりも大きいということです。神の目にあなたの存在はメガ。あなたが自分自身を見るときにどれほどミクロに見えていたとしても、神の目から見るならばあなたの存在はメガなんだと言うんです。この上なく大きく大切な存在だと言うんです。
イエス様を信じ、イエス様の支配に入るということは、そういう神様が私たちを見ている眼差しを受け入れるということです。自分がどう思うかではなくて、神が私をどう見てくださっているかという眼差しを受け入れるということです。
神様は言われるんです。あなたがどれほどミクロだと思っていたとしても、私の目から見るならばあなたはメガなんだ。ものすごく大切で大きな存在なんだということを言われている。私たちもそれぞれそうなんですよ。私たちはそれぞれ神様の目には偉大なもの、メガなもの、大切なものであると見られているお互いです。
そういうことをイエス様はこの箇所で語られるわけですね。新しい世界が始まったあなた方もはや小さくないメガなんだということを伝える。これは素晴らしい世界なんですよ。素晴らしい世界なのだけれども、人々はなかなか受け入れないわけですね。
受け入れないの事情もちょっとこの後話しますが、二つ目のポイントです。イエス様はそういうあなたは私の目にメガなんだと言った一人一人に、こうありなさいという勧められる言葉がある。それが今日の中心性句です。幼子のように主を知りなさいということです。
幼子のように神を知る
先ほども申し上げましたが、イエス様がこの世界に始められた技は素晴らしい、恵みにあふれた世界です。ただ、あまりにもイエス様の言葉を人は受け入れませんでした。16節からイエス様は嘆いてますね。笛を吹いてもあなた方は踊らない。
そして20節以降にも、「ああ、コラジンベツサイダー、そしてカペナウム。」と。イエス様が初期に活動の拠点にされたのはカペナウム。コラジンベツサイダーはその隣の町です。イエス様が一番、いわば宣教活動を密になさった場所かもしれませんね。でも、受け入れられなかった。恵み深い神の技を誰も受け入れなかった。
受け入れなかった理由は一つ明確にあるんです。当時の人々にとって、神様を知っている人、神を知るという行為は何を意味するかというと、カイドウで立法学者やパリサイ派たちがトーラを解き明かす言葉を聞くことなんです。
簡単に言うならば、賢くて知識がある人たちが立法研究をするわけですけれども、そうやって立法を勉強して知った人たちが神様を知るんだということを当時の人は信じていました。だからカイドウに集う人たちは神様を知っているんです。
罪人でカイドウに入ることを禁じられた病人や悪霊好きな人たちは神様を知らないんです。でもイエス様はこの現状にとても悩まれたと思います。この世界はあまりにも知なる神を知らない。そういう現状に対してイエス様は明確にNOと言われるんです。神を知るために必要なのは知識でも賢さでもない。
それを言われたのが25節26節です。お読みしますと、こういう言葉ですね。25節、「その時イエスはこう言われた。天地の主であられる父よ、あなたを褒めたたえます。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに表して下さいました。
そうです、父よ。これは御心にかなったことでした。」と言うのです。
父なる神を知るために必要なことは、知識や賢さではない。たった一つ必要なことは、それはあなた方が幼子のようになることだと言うんです。幼子のように。
それはおそらく、子供が父親を見上げて、父親が語る言葉、父親の行う行動、父親の行うそういうことに通定する価値観、そういうものを身近に感じながら父親がどういう存在であるかを知るのと似てますね。
そのように幼子のように父を見上げる。そのようなものにあなた方がなるならば、あなた方は父なる神を知るようになるんですよ、ということを言うんです。
ただ一つ問題があります。父なる神様は目には見えないんです。でも目には見えない彼らが、そしておそらく立法を読む識術も低い、言葉を読めない彼らが、父なる神様を知るためには何があるのか、一つの窓口があるとイエス様は言われるんです。
それが27節です。
すべてのことが私の父から私に渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子が父を表そうと心を定めた者のほかに父を知っている者は誰もいません。
これは難しい言葉ですが、平たく言うならば、父なる神様を見る窓口にイエス様がなられたということです。
父なる神様は目には見えません。けれどもイエス様を見るならば、父なる神がどういう方なのかがよくわかると言われるんです。
私たちはこの内容を、ヨハネの福音書でもっと明確に知っていますね。箇所だけ言っておきますが、ヨハネの14章の8節から9節というところで、ピリポが、「イエス様、父を見ててください。」と言ったら、イエス様がピリポに対して、
ピリポよ、あなたは長年私と一緒にいるのに、父を見てないというのか。私を見る者は父を見るんだよ、ということをお話しされますね。
イエス様を見るならば、あなたは父なる神を見る。イエス様を見れば、神が何を語り、神がどのように行動されているかがわかる。
それが、神の子であるイエス様の使命です。私たちも神の子なんです。ここに私たちは習うようにと導かれますね。
だからイエス様は言われるんです。この28節以降は、そういう文脈の流れで読むべきですね。28節以降。
神の真実と愛
すべて疲れた人、おもに追っている人は、私のもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。
私は心が乳和で減り下っているから、あなた方も私の首輝を追って、私から学びなさい。そうすれば、魂に安らぎを得ます。
私の首輝は追いやすく、私の身は軽いからです。イエス様、イエス様、そのように道を学んでいこうとする一人一人に、イエス様という入り口はものすごく低いです。乳和で減り下っておられる。
そしてこの方を見て、この方と共に歩みを同じくしていく、首輝を共にしていくならば、魂に安らぎが来る。
私たちが父なる神様を知っていくという歩みは、安らぎを得ていくことですよ。平安を得ていくことですね。神様を知れば知るほど私たちは自由になり、平安を得ていくんですよ。
そのような歩みへと私たちは導かれる。ちょっとサーッと読んでしまいますけれども、人々は神様のことを知らないというのをわかりやすく示した例は、この後の12章の1節から8節の話です。
人々は神のことが本当によくわかっていない。
安息日にお腹を空かせた弟子たちが麦の穂を摘んで食べました。
パリ最派がそれを見て批判をいたします。
12章の2節に、
ごらんなさい、あなたの弟子たちが安息日にしてはならないことをしています。
確かに安息日には一切の労働をしてはならないと、新明記の5章14節に書いてあります。
ただ、イエス様はこのパリ最派の言葉を聞いて思われたことでしょう。
ああ、彼らは神のことがわかっていない。
イエス様は旧約聖書の話を引き合いにして話されますね。3節以降にそういう話があります。
ダビデとその下辺がサウルの手から逃れている時に、彼らが空腹で死にそうな時に、聖女のパンを食べたでしょうと。
性別されたパンを彼らは食べた。本当は食べてはならないパンを食べた。
でも神様はそういう彼らを責めなかったでしょう。
なぜか、神様は性別されているという決まりも大事です。
でももっと大事なのは、一人一人の命の存在が大事だからです。
神はそのようなお方であるということを、あなた方はわかっていない。
イエス様が投げかけられる言葉は7節の言葉です。
私が喜びとするのは真実の愛、生贄ではないという意味が、あなた方はわかりますかと。
これは、主にはイザヤ書1章の引用の言葉ですね。
当時の人々、今日は話が長くて申し訳ないです。
当時のイザヤ書に書かれている人々は、
罪を平気で犯しました。けども祭りは守っていた。
なぜなら、祭りで生贄を捧げて、私の罪の代わりに生贄の犠牲を捧げていたら、私は好きなことができるんだ。
父なる神様の真実の愛
自分の都合を通し、自分の好き勝手するために、神様に生贄さえ捧げていたらいいんでしょう、ということを彼らはしたのです。
けれども、その姿勢は、父なる神様がどういうお方か分かっていない、最たる霊ですね。
父なる神様は、真実の愛の神。それは、私たち一人一人を真実の愛で愛される神様である。
それは、まさにその極智は十字架ですね。
神は罪人をも真実の愛で愛されました。そのため、イエス様はすべてを引き受け十字架で死なれました。
私たちが、罪から離れ、神を愛して生きるためにですね。
父なる神様は、そんな冷たい神ではない。
真実の愛で私たちを愛し、真実の愛で私たちに愛されることを望む神である。
そのような神の姿を、あなた方は見落としていないだろうか、ということが言われるのですね。
私たちは知識ではないのです。
生ける神に対し、幼子のように御言葉から声を聞き、
受け入れ、イエス様イエス様と仰ぎ歩んでいく中で、イエス様の生ける技を見る、そのように招かれるのが私たちの歩みである。
もう終わりますが、一つの問いかけが私たちに今朝かけられているように思います。
私たちは教会に何を見に来ているのでしょうか。
願わくは人間でないことを願います。
牧師を見に来ているのは、別に大したことはないですけど。
誰々の顔を見に来ている。
何々こと、いや私という顔をここに見せに来ている。
私たちは何を見に来ているのでしょうか。
もう一度思い返しましょう。私たちが見なければならないのは、真実の愛で御自身のすべてを捧げて私たちを愛してくださった、
あの十字架に御自身を捧げて、変わりない愛を示してくださった、神御自身を見るために私たちはここに集っている。
全地を治める神、教会の頭であるイエス様を私たちは仰ぎに来ている。
このお方は私たちを十字架で救い、私たちを偉大なものとして見つめ、十字架の愛でなおも懸けある私たちを覆いながら愛し続けてくださっている。
それが真実の愛の神である。
私たちは今朝幼子のように、何を知っているではない。誇るべきや、であるならば生ける種を知っているということでしょう。
種を知ろうと、ただ素朴に素直に種を仰いで生きていく愛の意味へと再び照準を合わせたいと思います。
そしてそのように種を知っていくその最中に、私たちは結果変えられていくのではないでしょうか。
教会にもしも冷たいものが流れるならば、私たちは神を知らないということを恥じなければならない。
種を知っていくならば、私たちは教会は自然と温かい場所になっていくのではないでしょうか。
真実の愛がここにあるとなるのではないでしょうか。なぜなら真実の愛である神ご自身が教会の頭だからです。
そのことをご一緒に覚えてお祈りをしたいと思います。一言お祈りをいたします。
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