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2025-12-28 27:51

#306 失望に終わらない理由 25/12/28

ローマ5:1-5からの礼拝メッセージ。2025年12月28日録音。

サマリー

このエピソードでは、ローマ書5章に基づき、神との平和や苦難の意義について考察します。苦難が信仰の成長につながる理由や、苦難を誇ることができる背景にある希望についても触れられています。また、苦難から希望への流れと、その中で神の愛を知る重要性が語られています。聖霊によって心に注がれる神の愛が希望を支え、最終的には神の栄光へと導いてくれることが述べられています。失望に終わらない理由として、聖霊による希望と神の愛が支えとなっていることが強調されています。

神との平和
ローマ人への手紙、五章一節から五節をお読みします。
こうして私たちは、信仰によって義と認められたので、私たちの主イエスキリストによって、神との平和を持っています。
このキリストによって私たちは、信仰によって今立っているこの恵みに導き入れられました。
そして、神の栄光に預かる望みを喜んでいます。
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。
それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
この希望は、失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
以上です。今日はこのところから、 「失望に終わらない理由」と題して、耳言葉からお話をいたします。
皆様、おはようございます。 先週はですね、クリスマス礼拝でしたね。
そして、いよいよ今年最後の礼拝となりまして、街も静かになってまいりました。
そんな中でですね、今日、実は先週ですね、クリスマスのメッセージを見まして、天使が羊飼いたちに伝えた、この御言葉から見ていきました。
いと高きところで栄光が神にあるように、地の上で平和が御心にかなう人々にあるように、ということですね。
そこで先週は、平和ということ、神との平和ということをお話ししました。
しかし、もう一つですね、ここで大事な言葉で、御心にかなう人々にあるようにという、平和がそのような人たちにあるようにという、御心にかなうという言葉ですね。
そして、これをですね、
先週話しましたが、簡単に言うと、神に気に入られているという意味で、御心にかなうという言葉を理解できるわけです。
皆さんご存知のように、音楽の父といえば、バッハですね。
そしてまあ、いろいろな説がありますが、バッハを語るのであれば、やはりベートーベンという非常にユニークで、今、大工なんかも歌われますけれども、その二人を語っていく。
あるいは、昭和のプロ野球史上ですね、有名な方といえば、今年亡くなられた長島志業さんがいますが、長島さんを語るならば、
王さんなんですよね。大長島。この二人を語らなければいけない。同じように、神の平和についてここから見るならば、実は御心にかなうという言葉についても見ていく。
それが必要なんじゃないかと思って、今日取り上げるわけです。実はこの御言葉はですね、先週見ました
ローマ書5章1節の、キリストイエスのゆえに神との平和を持っているという言葉、そこから始まるですね、ローマ書の5章の1節から5節までの間を見ていくと、この御心にかなう人々ということがわかってくる。
そんなこともあって、今日は先週の続きということもちょっとあるのと、年末の特別企画でもありませんけども、そんなんでですね、ローマ書の5章の1節から5節を取り上げました。
3つの点から見ていきますが、一番最初はですね、苦難を誇る、ちょっとレジュメにかけていますけれど、苦難を誇るというところをまず見ていきます。
2節から4節を読んでいますね。
神の栄光に預かる望みを喜んでいます。ちょっと読めるからここから読んでみましょうか。
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと私たちは知っているからです。
この苦難をね、前の神科学では観難と訳されていて、観難という言葉の方が味に深い方もいるかと思います。
実はですね、この箇所で謎めいてしかし興味深い言葉があるんです。それは、神の栄光を望んで喜ぶだけではなくてですね、神の栄光のまあこれは直訳すると、神の栄光の希望を喜んでいる。
希望を喜んでいるというのはですね、まさに明るいですけども、実はその後に苦難さえも喜んでいますと、わざわざさえもと言っていて、
このことが謎めいている。 まずありは興味深い言葉です。実は
これはですね、二節三節で喜んでいますという言葉は、元々の言葉では誇るという意味です。
カウカオマイというね、こういう言語です。で、よくパウロがいつも喜んでいなさいっていうね、喜ぶという時はカイロという言葉を使うんです。
でもここではカウカオマイという言葉を使っていて、新教導訳の最新バージョンで、2018年に
教会教導訳というのが出たんですけども、そこでも誇ると訳されている。新教導訳でも、私はたちは、私は苦難さえも誇っていますと訳されています。
おそらく新解約聖書の、そうですね、中のところ、二章の中のところでは、やはり誇りという言葉で訳されています。
で、実はここでなぜ誇りという言葉が使われているかというところを見ていくと、謎が解かれてですね、しかも私たちの信仰の糧となる。
誇る、なぜ誇るということで訳されているかということで、それを知ると私たちの信仰の糧になるし、謎を解くことができます。
信仰の成長
実はここではですね、この有名な2節から4節、苦難から始まって希望まで至るところで、簡単に言うと信仰の成長、
ひのおきお先生は人生の完成と言いますけど、信仰の成長や人間の成長が段階的に描かれていると言うんですね。
ところで、2025年、いろんな総括してますけど、スポーツハイライトが出てくるとね、大谷翔平さん一触でもありますけども、
そういうスポーツのハイライトが取り上げられていくいろんな場面がありますが、
まさに栄光輝く実績を残したからハイライトに取り上げられていくわけですけど、ご存知のようにそこの栄光に至るためには、もう涙ぐましい、血の滲むような努力があるわけですね。
これに関連して、いろんなオリンピックや世界競技のことなんかも出てきましたけどね、 ちょっと関連で、日本で陸上で初めて金メダルを取ったオリンピックの金メダリストって誰か覚えてます?
キュウちゃん。 お化けのキュウちゃんじゃなくてですね、高橋さん。シドニーオリンピックのマラソンで、そのことが取り上げられていて、すごいなと思ったのはですね、
勝つことを確信してたって言うんです。 そしてあの方、インタビューでも言ってて思い出したんですけど、楽しくてしょうがなかったって言うんですね。
もう最後の10キロぐらい独走だったんです。 で、それをおそらくサッカーの日本の女子のですね、
レジェントの数えられる沢さんがですね、キュウちゃんから直接聞いたんだと。 もう楽だったし勝利を確信していた。
なぜなら私は毎日80キロ以上走ってるんです。 もう倍以上走ってる。だからどうってことないし、優勝すると確信してましたって言ったんですね。
ですからあのオリンピックの金メダルの背後には、彼女の血の滲むような努力があった。 そのような栄光とある面、トレーニング、
苦難と栄光ということがセットと考えられると考えてもいいかと思うわけですよね。 アスリートがそのようなことをトレーニングを通して体も心も強くなったように、
キリスト者もですね、このような苦難を通して信仰のそして人間の成長が見られていく。 そういうことが言えると思いますが、実はここの箇所を
ある学者が解説して、苦難についてね、苦難とはこんなものだという、 興味深い表現があったので紹介しますね。苦難とは何かというと、
恵みの支配を、この今日の5章1節から、恵みによって、恵みの家にこの栄光に立っているって言ってるから、
恵みの支配に入っているっていうことが前提なんですけども、 そのクリスチャンの恵みの支配を打破すべく打ちかかっている敵対勢力の筆頭が苦難だって言うんですね。
そして、その苦難はどんなものかというと、せっかく与えられた信仰も根こそぎ奪い去ろうとして襲いかかってくる試練である。
彼は言うには、この手紙を書いたパウロは何度もそのことを経験している。 第2コリントを見ると、いっぱい難戦したこととか、死中に足りない鞭を3度受けたことがあります。
そのような彼だから、こういうことを書いていたって言うんですね。
しかしですね、 そこで試練で終わるのではなくて、この神様の恵みというのは、
そのような破壊的な力に真正面から打ち勝ち、圧倒的な勝利を示すことができる。
8章でもそんなこと言っていますけれども。 それが神の恵みなんだって言うんですね。
そして実はパウロは、その苦難に打ち勝つ神の圧倒的な勝利というものを、
現実に深く心を体験して、揺さぶられているゆえに、思わず私が今あるのは神のおかげだと言って、神を賛美せずにはいられなかった。
だからこそ彼は苦難を誇るという表現を用いたのではないかということなんですね。
皆さん、お察しになったかもしれませんけれども、このように私たち、
キリスト者がですね、この苦難を忍耐して、忍耐するだけではなくて、それを通して
品性が練られていく。前の聖書では連達が生まれるって言ってますけどね。 そしてその練られた品性連達から希望が生まれる、希望を持つことができる。
そういう一連の流れを、おそらく私たちは試練を通して体験すると思うんですね。
その時にですね、私たち自分の力で乗り越えたというのではなくて、この
苦難からの希望
苦難から始まって希望に至る一連の流れの中で、その主役は自分ではなくて神であった。
その主体は神であった。 私が乗り越えたけども、神様が私を乗り越えさせてくださったんだ。
そのような苦難から始まり希望に至る一連の流れの中で、私たちは神によって支えられたというところで、
この天使がいたところの神からのご行為に預かっているんだと確信することができるわけですね。
そしてそれ故に心にも平安が与えられるということです。それが最初です。 最初は苦難を誇るというところですね。
2番目、その上で神の愛を知るということを見ていきましょう。
今日の最後のところですね。五相の誤説を読んでみましょうか。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私正直言いましてね、多分キリスト者員になって40年近くですけど、ここのことはよく知ってたんですけど、
どういう意味なのかよくわからなかったんですね。
なぜ聖霊によって神の愛が心に注がれていて、それが失望にならない希望なのかということがわかっていてわからなかったんですけど、
ちょっと今回調べてわかったことがあったので、皆さんと共有できて、皆さんもその確信に少しでも一緒に預かれればと思って取り上げています。
実はここで一つの鍵はですね、聖霊によって神の愛が心に注がれているということなんですね。
じゃあその神の愛っては何ですかっていうので二つの説があるんです。
一つ目をまず今日2番目のポイント取り上げますけども、それは神から愛されているという意味の愛。
愛の主体が神様ですね。よく英語でGod loves youって言いますけど、神が私たちを愛しているという意味での愛を最初取り上げていきますね。
実は端的に言いますと、私たちは自分が神様に愛されているんだということを実感として経験を通して知るということがここの意味になるって言うんですね。
どういうことかと言いますと、先ほど申し上げましたように苦難から希望に至る一連の流れや歩みの中で、人はですね、神に自分は守られて愛されているんだなってことを実感するわけですね。
その神様に愛されている愛というのはどんな愛かというと、先んじる愛でよく言われている
私たちが神を愛する前にまず神が私たちを愛してくださったという、神様が先に愛してくださったということです。
そしてその中に私たちをもう包み込んでしまっているというある学者に言わせれば、神の愛によって包まれているという圧倒的な事実があるんだということなんですね。
そしてその神によって愛されているということが、どんな苦難の中にあっても、それが希望を壊すことがない理由になるんだって言うんですね。
で実は先週も少し申し上げましたけど、残念ながら私たちは人間関係の中で傷ついたり躓いたりしますね。
そうすると、その中で神様への信頼というものも揺らいでしまうわけです。
どうせ神様もそんなもんなんだなっていう、この負の経験が神との関係にマイナスの影響を及ぼすわけですよね。
しかし、ある学者に言わせれば、神様の愛とはこういうものだと、それは
神様の愛というのは、変動したり逆転することがない、絶対的なものが神様の愛なんだって言うんですね。
この神様の絶対的な愛というものを私たちが頭で知るだけでなくて、
心と体という体験で知る、それはどうやってできるかというと、
そうやって知らしめるのが、聖霊の働きだって言うんです。
もうね、こうやって説明するしかないんですね。
目に見えない神様によって自分が愛されているって、どうやって知ることができるんですか?
それは人間の知性や理解を超えているので、それを知らしめるのが聖霊の働きなんだ。
それをもって神の愛が、聖霊によって私たちの心に注がれていると、パウロが言っているんですね。
実はその私たちの心に宿る聖霊が、私たちに神の愛というものを実感させ、体験させ、それがそうだと確信させるって言うんですけども、
実はパウロはそのことを、この同じローマ書の中で別の言い方をしているんです。
私たちが愛された神の子供であるということを、聖霊によって私たちは知る。
聖霊がそれを教えるということで、こういう言い方をしているんですね。
ローマ書の8章16節、ちょっと読んでみましょうか。
御霊ですね。
御霊御自身が私たちの霊とともに、私たちが神の子供であることを証ししてくださいます。
他でもない、神の子であるという私たちの事実を、聖霊が私たちに証ししてくださる、確証を与えてくださるという言い方をしているんですね。
神の愛の最初の点ですね。
聖霊によって神の愛がここに注がれている、それは聖霊によって私たちは神に愛されているということを知ることができるということなんですね。
3番目、もう一つの愛の側面は神の愛に生きるということです。
もう一つ聖霊によって注がれている神の愛についての考え方それは、愛する主体が先ほどは神でしたけど、今度は私たちにあるということですね。
言い換えると、私たちが神様を愛し隣人を愛するという上での神の愛、神の愛を実践する、神の愛を生きるということです。
ちょっとこれ英語ですけど、Love God、神を愛し、Love Neighbor、隣人を愛しなさいという、この私たちが主体となる愛の思いや愛の行為です。
繰り返しになりますけれども、私たちは残念ながら、罪という問題があるゆえに、正しく人を愛することができないという、そういう賭けが私たちの中にあるわけですね。
そして神様を認めることもできない。
ですから、イエス様を私たちが、あるいは神様を真実に愛せれば愛するほど、あるいは私たちが真実に誰かを愛したり、心から気にかけて何かをするとすれば、
それができればできるほどは、それは自分の力ではなくて、神様によって私は人を愛する、神を愛することができるんだなということを知ることができるんですね。
その愛の働きは、自分の中に働く神の働きであって、自分の働きではないということをはっきり知るということですね。
その上でですね、それを言い換えて、ある学者が、ちょっと難しいんですが、レジュメにも書いてきたかったので、そのまま引用しますね。
神の栄光への道
そのような愛について、このような言い方をしています。
人が一生を通じても、あるいは日々のちょっとした行いにおいても、キリスト教が言うところの、あるいは聖書が言うところの、本当の愛を実現できるのは、自分自身の力によるものではありません。
それは、聖霊が私たちに新しいいのちを吹き込んで、動かしてくださるときにだけ可能になることであり、私たちの作り主であり、主である神様がその都度、新しく私たちに働きかけてくださるからこそ、できることなのです、と言っているんですね。
簡単に言い直すと、私たち人間が本当に人を愛せる、あるいは神を愛せるのは、自分の努力や才能のおかげではなく、その瞬間瞬間に神様が、聖霊を通して力を貸してくださるからだ、ということだ、と言いますね。
もう一回言いますけど、私たち人間が本当に人、あるいは神を愛せるのは、自分の努力や才能のおかげではなく、その瞬間瞬間に神様が、聖霊を通して力を貸してくださっているからだ、ということができるのです、ということなんです。
このように、私たちは、自分を通して神の愛が人に流れていくとき、あるいは私たちが神を愛せると言うときに、それはまさに聖霊による働きだと知ることができるわけですね。
こうやって、聖霊によって愛する、実はそれも神のご行為によって、私たちは神を人を愛させていただいている、そのように理解することもできると言えるのではないでしょうか。
私たちが、今日見たように、困難の中を歩まなければいけないとき、あるいは神を愛するゆえで、自分の罪や弱さを実感して、悩むときも、失望せず、希望を持つことができる。
なぜなら、聖霊が私たちのうちに働いて、神の愛を注いでくださっているからなんですね。
ですから、その行き着く先は失敗して失望するんじゃなくて、必ず神の栄光に預かるという希望があるわけなんです。
それが、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているゆえに、この希望は失望によることがない。
神の愛のゆえに、私たちは信仰を失うことなく、やがて神の栄光に預かるものになれますし、また人を躓かせることがあるかもしれませんが、やがてはキリストのように人を愛することができる、そういう希望が私たちはある。
なぜならば、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。そのように言えることができるわけなんです。
このように私たちの行き着く先、ゴールは神の栄光だ。
そして、そこに行き着く時、私たちはイエス様と同じに姿に変えられていく。
希望の源
実は、今日ちょっと大事だけども、あえて取り上げなかったんですけれども、神の栄光を希望として誇ることができるというのは、将来、第1ヨハネの2章にあるように、私たちはイエス様を見ると、その時に私たちはイエス様と同じ姿になっていることに気が付くと書いてあるんですね。
それは罪がない、栄光の姿にイエス様と同じく、自分を変えられている、その希望があるから私たちは失望しないんだ。
そしてそれができるのは他でもない、聖霊が私たちの中に与えられているからなんだ。
だから挫折しない、ちょっと難しいんですけども、そういう理論になっていくわけなんですね。
行為という言葉ね、実は今言った英語でフェイバーという神に好かれているというのは、好きっていう字に意思の意なんですね。
もう一個行為っていうと別の言葉があるじゃないですか。よく私ワープロ使うんですけど、変換するともう一個出てきます。
熱いっていう字ですよね。熱い焼き卵の熱い。熱いっていう字に意思の意で、それも行為って言うんですね。
その違いは何かっていうと、最初の好きっていう字の行為は気持ちだそうです。気持ち、相手を好きだとか。
次の熱いっていう字の行為はですね、それを実際に行動に表すことなんですね。アクションっていうらしいですよ。
ですから神様は私たちに行為を持っているだけじゃなくて、実際的な行為を通してできるようにしてください。そこに希望があるということですね。
今年1年間どんなことがあったでしょうか。本当に嬉しいことも大変なこともあったかもしれませんけども、ここまで守られたことを神様の行為に感謝しながらですね、
新しい年も神様の御行為によって、御霊によって守られていく。そこに希望があるということをですね、信じて歩んでいくお互いでありたいと思います。
ちょっと長いですけど、ローマの最後、5章の3節から5節を読んで終わりにしたいと思います。
私たちは観難さえも喜んでいます。それは観難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと私たちは知っているからです。
ここだけ読んでみましょうか。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
信仰の実践
お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、御名を賛美いたします。あなたはその十字架の贖いによって、私たちと神様との間に平和を実現させてくださいました。
それだけではなく、神様から御行為を得られるように、また私たちを神の子供としてくださったことを感謝いたします。
2025年様々なことがありましたけれども、その中に神様の導きがあり、守りがあったことを信じて感謝いたします。
新しい年も神様が同じく、私たちに与えられた御聖霊によって、私たちを支え、私たちを作り変え、導いてくださる、そこに私たちの希望があることを信じて感謝いたします。
どうぞ、これからも私たちはまた教会を導いていってください。
この願いと感謝を、私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど黙祷する時間を持ちましょう。
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