クリスマスの平和の告知
二章の八節から十五節です。 さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、
羊の群れの夜晩をしていた。 すると、主の使いが
彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、 彼らは非常に恐れた。
見使いは彼らに言った。 恐れることはありません。
見なさい。私はこの民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。
今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。 この方こそ主キリストです。
あなた方は布にくるまって貝羽桶に寝ている緑子を見つけます。 それがあなた方のためのしるしです。
すると、突然その見使いと一緒におびただしい数の天の群勢が現れて神を賛美した。 意図高きところで栄光が神にあるように、地の上で平和が御心にかなう人々にあるように。
見使いたちが彼らから離れて、天に帰った時、羊飼いたちは話し合った。 さあ、ベスレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださった。
この出来事を見届けてこよう。 以上です。今日はこのところから、クリスマスの平和と題して聖書からお話をします。
みなさん、クリスマスおめでとうございます。 クリスマスというのは、クリスマスというのはキリストのお祭りです。
キリストのお祭りをお祝いするのが本来のクリスマスの意味なんですね。 そして先ほど歌った賛美歌のグローリアインエクセリスデイオーと言いましたけどね。
この歌も今日読んだ聖書の言葉に由来していて、天使が言ったですね。 糸高きところで栄光が神にあるようにね。グローリア栄光ですね。
その言葉がこの歌詞になっています。 そしてクリスマスとなるとですね、いろんなこと言われますが、今世界でも紛争が起こっていて残念ながら、
その中ですけどね、クリスマス停戦というのが行われてしばらく戦争が止むんですね。
ですからクリスマスの一つの側面は平和のクリスマスなんですね。 今日はこの天使の告げた言葉からですね、
クリスマスの平和ということを考えていきたいと思います。 それは直接私たちに関係する平和です。
3つのことから話しますが、一番最初は天使が告げた平和とはってことを話していますね。 ちょっと皆さん読める方でいいので、もう一回今日の大事な言葉を一緒に読んでみましょう。
前に出てますか? ここから読める方読んでみましょうか。3、はい。
糸高きところで栄光が神にあるように。 地の上で平和が御心にかなう人々にあるように。
この後半の地の上で平和が御心にかなう人々にあるようにという言葉を中心に考えていきます。
この最初のクリスマスの夜に天使が現れて羊飼いに告げた平和。それはですね、争いがないという意味の平和ではないんです。
もちろんそういうことも願っていますけれども。 何よりもここで天使が言っていることは、
神様と人間との間に平和が訪れますということなんですね。
そしてクリスマスをお祝いする理由の一つは、 神様と人間との間に平和を生み出すために、
神なるイエス様がこの地に下ってこられた。 それをですね、お祝いするのがクリスマス本来の意味でもあるんですね。
一番大事なことは、 クリスマスが言う平和、世界平和も大事ですが、まず何よりもあるいはその根本にあることとして、
神と人との間に平和が訪れる、もたらされるということなんですね。 そしてなぜイエス様がこの地に下ってこられて死ななければならなかったか。
それはですね、神と私たちの間に敵対心を生んでいる、私たちの罪をイエス様が私たちに代わって十字架の上で担う、そのためにこの地に下ってきた。
それがイエス様が救い主だという意味なんですね。 二番目、罪の問題、その解決と平和ということを見ていきます。
罪と和解のメッセージ
残念ながらですね、皆さんは違うかもしれませんが、少なくとも私は人は良いとわかっていることができなかったり、あるいは悪いとわかっていても過ちを犯してしまう。
あるいは同じ過ちを繰り返してしまうことがある。そして後悔する。 先週の火曜日ですね、新聞を撮っているんですけど、読者の相談の投稿欄があったんですね。
そこで50代の女の人がこういう相談を寄せていました。50代の女の人。私は高校時代に今思ってみれば、ある一人の人にとてもひどいことを言ってきた。
とても後悔している。詳しく言いませんけど、そういう内容です。もう30年近く経っているのに、自分のしたことが今更ながら悪いと気がついて後悔しているという、そういう投書だったんですね。
そういうふうに、過ちに対して後悔したり繰り返してしまう。
そして、良心の咎めをそこから感じちゃうわけですよね。
そういう出来事の中に、人間の罪の問題が垣間見ることができるわけですね。
あるいはですね、皆さんは経験あるかわからないんですけども、 同じ過ちとかですね、繰り返してしまう。
そして避難されてですね、 また同じことした。前もこんなことしたじゃないかって言って避難されたり、
同じ過ちをした時に、そうやって怒られるんじゃないかなーって、心が咎められたりすることがないでしょうか。
あるいは自分の過去の過ちをですね、 何度も蒸し返して避難してくるような人がいるとですね、
心が痛くなるわけですよね。 実は今言った自分の問題、そして人から責められるという、
あるいは過去の過ちを繰り返して責め続ける。そこに繰り返しますが、人間の罪の問題を垣間見ることができます。
実はそうやって自分の過去を蒸し返されて、 避難されるという経験や恐れがありますから。
実はですね、そういう恐れから私たちがですね、 神様と自分の間に平安が訪れるよ、神とあなたとの間には平和がやってくるんですよって聞いてもですね、
そんな恐ろしい神様が、私の過去の過ちを許すはずがないとかですね、
過去の過ちを蒸し返して神様が私を避難するんじゃないか、そういう恐れに囚われていて、
神様と私の間に平和が訪れるということを受け入れられないことがあるかもしれないですね。
また先ほども繰り返しましたが、なんとなく自分の中に良心の過酌があるとですね、
神様に近づけない、そういう神様との間に平和が保てるとは思えない、そんなことが思うかもしれません。
でもですね、神様、聖書の言う神様はですね、そんなことはしないお方なんです。
私たちの過去の過ちを蒸し返して避難したりとか、また同じ過ちを犯したと言って私たちを避難する、
そういうような神様じゃないんですね。 実はなぜそういうふうにイエス神様は過去を蒸し返して避難したり、
私たちの罪を問い続けたりしないか、それはですね、先ほど言ったイエス様が十字架の上で私たちの罪を全部償ってくださった。
神様の前で受け入れべき私たちの避難や罰をイエス様が十字架の上で我がこととして引き受けてくださったが故に、
神様から見たらですね、そのイエス様を信じた人はですね、無罪訪問とされるわけなんですね。
実はそのような神様、イエス様の十字架の上に、それを信じた人、イエス様を救い主として信じた人が、
神の前で無罪訪問となる、そのことをですね、使徒パウロが聖書にこう書いているんですね。
主イエスは私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、これは十字架ですね、私たちが義と認められるために蘇られました。
これは私たちが神様の前で正しいものと認められるために、イエス様は背きの罪を追って十字架で死んで蘇ったというメッセージですね。
ここで私たちの背きの罪のゆえに至るように、イエス様の十字架というのは、私たちの罪の贖いの十字架だということなんですね。
そして繰り返しますが、そのイエス様の十字架は私の罪の身代わりだったんだと受け入れて、イエス様を救い主として信じる人は、神の前で罪なき者とされる、神との間の平和が訪れていたわけです。
実はそのような神との間にイエス様の十字架によって訪れた平和をファウルは続けて宣言しているんですね。
ちょっと難しいんですが読める方は読んでみましょうか。
こうして私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主キリストによって神との平和を持っています。
ここではっきりイエスキリストによって神との平和を持っていますと言われているんですね。
これが福音の良い知らせなんです。
繰り返しますが、神様は私たちの過去の過ちを掘り返したり、そしてまた同じ過ちを繰り返したといって非難するようなお方ではないんです。
実はそのことを旧約聖書の中でこのように述べているんですね。
主は憐れみ深く情け深い、怒るのに遅く恵み豊かであられる。
主はいつまでも争ってはおられない。常しえに怒ってはおられない。
ここから読める方は読んでみましょうか。
私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、私たちの都がに従って私たちに報いをされることもない。
力強く宣言されている通りなんです。
神との平和
ですからここからさらに発展して考えることができるんですけど、私たちの身に例え悪いことが起こったとしても、それは神様のたたりとか神の罰ではないんですね。
その辺できれば来週ちょっと話してみたいんですけども、そしてあるいは将来悪いことが起こるって不安になるかもしれません。
でもそういう不安があっても過度な心配はいらないんです。
なぜなら私たちの身に何が起こってもこの許しと恵みに満ちた神様は、私たちをその悪意や私たちの罪に従って扱うということは決してしない。
それどころか、愛情深く善知善能の神様は全力に私たちを守ってくださるんです。
原稿にないんですけども、天使の言葉にですね、地に平和がありますようにっていうこの前に、
ここありましたよね。身心にかなう人に神との平和がありますように。
身心にかなう人というのは、言い換えれば神のお気に入りの人なんです、お気に入り。神の恵みを受けている人。
じゃあどういう人が神にお気に入りの人になるんですかって言ったらですね、罪がない人、それはイエス様によって罪が全部無罪法面とされている人がですね、神のお気に入りです。
そしてその人は神との間に平和が構築され、神の平安を知ることができるということが、このクリスマスの良いメッセージなんです。
最後にですね、少し半分くだらない話をしますが、平和と平安を知って味わうということです。
これ何かわかります? これ豆乳入面です。
私は、皆さんどうかわかりませんが、米不足になって米が高くなってですね、お米がなかなかもったいないから、昼ご飯をよくそうめんにしてたんです。
そうめんにしてた。だけど飽きたんですね。そうめんすぐ1分でできるからいいんですけど、麺つゆとそうめんだけじゃ飽きるんです。
どうしたかというと、AIに聞いてですね、コパイロットに聞いて、簡単にできるそうめんの何か料理ありませんか?って言ったら、この
豆乳入面の作り方に出会ったんですね。昨日も食べました。 でもね、まだ私の場合はスマホを見ながらまだ作ってるんですね。もう2、3ヶ月やってます。
ここで何が言いたいかというと、皆さんもねレシピを見ながら、本を見ながら、サイト見ながら料理作るかと思いますが、
そんなものを見ないで作れたら、もうこの料理は自分のものになるわけですよね。 そして味わえる栄養にもなるわけです。
はい。で、実は
神の平安を味わうことも同じなんですね。 料理をただ知ってるだけと、
作って味わって栄養にすることと大きな違いがあるように、イエス様を信じて神様との間に平和が訪れている。
私は神との間に平和があって、平安の中を過ごす。
それと違いがあるんです。知ってることとそれを味わっていること。 実はそのことをですね、私は今回のこの
礼拝の話を準備してて分かったんですね、改めてね。 で、もう間もなく新しい年が来ようとしています。
そんな新しい年ですね、私はこのイエス様にあって自分が与えられている神の平和、平安のうちに生きるということを
もう少しこう身近に体験していきたい。 日々の生活の中で何か起こるために、たびに心配したりですね、
怖がったりしないで、神との平安を自分は持っているんだ、という 生活の中でそれを実感していきたいと願うようになったんですね。
で、まあ私今日こんな話をしますけれども、ぜひですね、 皆様も新しい年、イエス様を信じて無罪方免となった身、そして神との間に平和を持っているという、
その意味とですね、幸いを日々の生活の中で味わっていく。 そんな日々を過ごしてもらいたいと思うんですね。
今本当に情報過多ですぐ何でもネットで知れば得るし、AIなんかなんでこんな早く出るんだと思うぐらいすぐ答えが出るんです。
でも情報過多の時代ですけれども、それを知っていることと自分がそれを味わって生きることが違うわけですよね。
ですから私がそうであるように皆さんも新しい年、このイエス様にあって神様との間に平和を持っている、
神の平安の中に生きることができる、そのことをですね、 知り味わっていく。そんな一年になればと願っています。お祈りしましょう。
天の神様御名お賛美いたします。クリスマスに密会が告げた平和のメッセージを私たちを改めて今聞くことができました。
物事が様々うまくいかない時や、自分を咎めるようなことが起こる時に、どうぞイエス様にある神の平安を改めて知り、その神との平和のうちを歩んでいく疑いであり、
教会でありますようにどうか導いてください。この願いと感謝をイエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。いつも通り1分だけですね、その場で黙祷して聖書の言葉を考えたり、神様に祈る時間を持ってみましょう。