00:01
皆さん、おはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました主に捧げられて、このように共に礼拝できますことを本当に主に感謝いたします。
では、メッセージの前に隣の方と挨拶をしましょうか。
おはようございます。
では、一言お祈りいたします。
お祈りします。
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいる時だけでなく、私のいない今はなおさら、おそれをののいて、自分の救いの達成に努めなさい。
神様、主は私たちに、おそれをののいて、自分の救いの達成に努めなさいと語られています。
神のことされ、罪許されている私たちが、主の意地に向かって清められ、罪からまったく離れて、そしていよいよ、キリストのように姿に変えられる日、この日をあたして歩んでおります。
この信仰の旅路が、いよいよ、神様のように、私たちの人格も、生活も、信仰の持ち方も、すべてが、いたまの神聖、キリストの神聖にいたものとして、主が変わらせてくださり、変えられますこと、主を信じ、主を期待いたします。
今日も、一人一人に、道化菅お語りくださって、良き悟りと良き気づきを与えてくださって、神の心にかなったものへと、主を歩みたいと願う、その心たちが、良い強い心たちが、上から与えられますように。
そして日々、主を見上げて、歩むことができるように、主を導いて祝してください。皆によって祈ります。
アーメン。
03:19
今日は、今続いています、神に祝福される人生の法則21のうちに、20回目になります。来週で終わりますけれども、その中で、3回目、最後の4回は、その21回の中の小シリーズと申しまして、
神は誰なのか、救われた生徒はどういうものなのか、そしてその自分は神とどういう関係にあるものなのか、そのことを正しく知って、そして正しく信じましょう、正しく歩みましょう、というメッセージになります。
その小シリーズの3回目になりますが、今日は、自分の救いの達成に努めなさい、自分の救いの達成に努めなさい、というテーマになります。
神様の愛によって救われた私たち、すべての罪が許され、罪の死から儚われました。そして私たちは、いよいよ、どんどんどんどん、キリストの見たけまで成長していくのです。
さあ、そこで今日は、救われるとはどういうことなのか、もう救いの完成に至る3つのプロセスについてお話していきたいと思います。
今日、成長を多めにしたきますので、1日目にしたいと思います。
どうなるのでしょうか。すぐにポーンと実が大きくなって、柿の実がパーンと出てくるのですか。違うでしょう。
枯れた種が発芽した後に芽が出て、茎や葉っぱが出て、そしてそれが徐々に徐々に成長して、そしてやがて花が咲いて、そしてその花が散って、最後に実りますよね。そうでしょう。
06:23
救いというものも、まったく一つではないのですけれども、このプロセスに例えることができるのではないかと思います。
この救いという全体を見るならば、最初があって、中ほどがあって、最後、つまり完成があるということなんですね。
さあ、今日はこの3つ、最初、中間というか中ほど、そして最後、完成、この3つの話をしたいと思います。
これは非常に大事な話ですので、ぜひ聞いて一緒に学んで、そしてではどういうふうに生きるべきなのか、それを神から学びたいと願っています。
まず第一、一番、第一、最初は、よく言われる義人ということですね。あなたは義だ。神様が私たちをあなたは正しい人だと認めてくださることを、教会では義人と言いますね。
それは簡単にわかりやすく言って、罪の許しなんです。私たちがイエス様を、よく聞いてくださいね。イエス様を救い主と信じて救われた。
それが本当ならば、私たちのすべての過去の罪も、現在の罪も、後の罪も、すべて許されたということです。
それはどういう意味なんでしょうか。制度は、罪の報酬は何である。死である。死です。だからその死ぬべき私たちが、その死刑のあの法的宣言からもう許されたということだ。
ここで一箇所、聖書を開きたいと思います。コロサイビトへの手紙1章13節と14節。字幕そのままにしてください。コロサイビトへの手紙1章13節と14節をみんなで開きましょう。
今日のピリピリとの手紙の次にありますね。389ページです。聖書全部ですね。持っていない方は、聖書を出して開きましょう。
09:02
コロサイビトへの手紙、第1章13節と14節。一緒にこれを合わせて読みますね。よろしいですか。
神は私たちを暗闇の圧勢から救い出して、愛する御子の御支配の中に移して下さいました。この御子の内にあって私たちは贖い、すなわち罪の許しを得ています。
どうですか。皆さん。キリストイエス様を救い主として神様を唯一の神として信じた者は救われた。この救われはどういう意味なのか。どういう意味ですか。罪の許しを得ているというわけです。それがこの救いの始めと言えるんじゃないでしょうか。
もう一箇所開きましょう。ローマ書3章26節です。ローマ書3章26節開きましょう。ローマ書3章26節。294ページですね。聖書の294ページ。ローマ書3章26節。
では御指示を読みますね。
それは今の時に御自身の義を表すためであり、こうして神御自身が義であり、またイエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。アーメン。
ここにね、イエスを信じる者を義と認めてくださるということ。これを義人と言いますが、だからルターはこの罪の許しを義と認められる。そうから多分義人という言葉が由来した。日本語はね、由来したと思いますけれども、この義に罪の許し救われる最初ののはどういう意味があるのでしょうか。
まず一番、無罪宣言を主が神様が私たちにイエスを信じる者に与えてくださったということであります。神様は信じる者に、いわゆる罪人としての法的な責任をかきがえてくださって、
あなたはキリストにあって、キリストのゆえにあなたは無罪だ。宣言してくださった。私の話ではありませんよ。聖書の話です。ローマ書8章1節、300ページ。
12:18
聖書を知っていただきましたか。読みますね。こういうわけで、今はキリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません。アーメン。
神様が無罪を宣言してくださった。罪を許してくださった。もちろんそれはただではないんですよね。私たちにはただですけれども、神様とキリストにはただではないんです。なぜでしょうか。
イエス様が私たちが無罪されるために、イエス様がすべての罪を背負って踏んでくださったかゆえに、私たちはそのキリストの義という衣を着せていただいたわけなんです。
でもここに注目すべきことがあります。聞いてくださいね。私たちは罪を許されました。それは事実であります。しかし以前と同じように、罪深く愚かな者であることには変わりないのですが、
キリストが十字架でされたあがない、つまり身代わりとして死んでくださったあの死のゆえに私たちの罪を許してくださった。私たちの罪の責任をキリストの十字架の身代わりにおいて断罪して裁きを徹底しますけれども、
一方で、イエス・キリストが獲得された義の功績をまるで白い衣を着せるようにして、何の正しさも持たない裸の罪人に過ぎない私たちに着せてくださった。
だからこの義は自分から出たものではなくて神様から与えられた義なんですね。その義のゆえにあなたは義ですよ、正しい人ですよ、義人ですよと神様が認めてくださるということです。
これは不気味なことでありまして、それで私たちは罪人に対する神の怒りを受けるべきものでした。しかしどうですか、その裁きを受けるべきものでしたけれども、それがなくなってしまったんです。なぜでしょうか。
イエス・キリストの義を私たちに着せられて受け取っているから、イエス様がその怒りを代わりに受けてくださったから私たちは正しいと認められるのです。それは何を通してですか。信仰を通してなんです。
15:14
目に見えない信仰によってイエス・キリストの義が私たちに注がれました。これはすでにできたものであります。
2番目、神のことを知ってくださった。これはこの小シリーズの1回目、2回目で何度もお話しました。さらに神様はこの罪を破り捨ててくださって罪を許してくださるだけではなく、
私たちに対して、かつては責であって、神を知らない者であって、悪魔の奴隷だった私たちを愛する若子として、神様との霊的な交わり、清い交わりへと回復してくださったんですね。入れてくださったんです。
だから私たちは神様をアバ、キキオ、お父さんと呼べるようになった。
ローマ書8章15節を読みたいと思います。ローマ書8章15節です。一緒に読みますね。ローマ書8章15節301ページ。
あなた方は人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、断してくださる神様を受けたのです。私たちは神様によってアバ、キキと呼びます。アーメン。
ここにね、日本語も確かにそうですけど、既に神によってできたことは過去形の言葉に同時にできているんですね。ことしてくださる神様を受けた。
すでに受けたんです。アメですか?受けたんです。だから私たちは神様をアバ、キキオ、天の父なる神様と呼ぶようになったわけなんです。
つまり神様との関係が他人ではない、敵ではない、無関係の人ではなくて、お父さんと息子、お父さんと娘、親と子供の関係に回復されたということなんですね。これが救いであって救われることである。
これが既に私たちが信じたときにできたことなんです。だからそれはそれとして感性と言えるんですよね。これは神様との人格的な関係、神を恐れる関係じゃなくて、
18:13
神様と親しむ関係、神の愛の関係に私たちが入れていただいて、その中に生かされている関係のものになったということなんです。だから私たちは自分が何者なのか、神が自分とどういう関係なのか、正しく健全なこの自己認識を持つことが非常に大事なことなんです。
これも既にできたことなのに、私たちはいつまでも神様を恐れて恐れて恐れて、神様との親密でこの親しい関係の中に生きることを自ら願ってやられる。
そして次に罪の許しの3番目の意味は、聖霊が私たちに与えられたということであります。何が聖霊か。御霊が与えられた。さっきのローマンス8の15節にもここにもありましたよね。
あなた方は人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、ことしてくださる見たまを受けてとあるんです。聖霊を与えてくださったんですよ。信じた者には。
もう一回開きましょうね。第2コリント1章21節22節。第2コリント1章21節22節。第2コリント1章21節22節。346ページです。
一緒に読みますね。21節と22節を読みましょう。
信じますか皆さん。信じない人が半分ですね。どうしますか。これはもう半分冗談ですけど、普段の私たちの声や皆さんの声は大きいんですね。でもアーメン、ハレルヤという人たちには声が聞こえないんですよ。心の中でアーメンとしているんでしょうかね。
21:10
いじめきても、この22節の言葉をはっきりと覚えて信じてください。見たまを私たちの心に与えてくださいましたとね。
多分コリント教会のあの時の人々もこれに対する疑いまでではないんですけれども、わからない。そういうところがローマにいる教会の信徒たちにもコリントにある教会の信徒たちにも皆さんのように紛らわしくて迷っていた人がいたかもしれないですね。
だからヒト・パウルはローマにコリントにさっきのフィリピンの教会に書き送ってですね、何度も何度も教えて教えているんですね。今の僕たちのように。見たまを私たちの心に与えてくださいましたとね。
ところが、なぜ私たちは迷うんでしょうか。これは目に見えるものではないからです。このコップのように、マイクのように、皆さんの顔のように、自分が着ている服のように、目に見えるものじゃないんですよ。
精霊様が目に見えるものじゃない。しかし、私たちの信仰は、自分の感情とか、何かのすごい経験、あるいは悪い経験を土台にして、私は本当に良いクリスチャンだ、あるいは私はダメだというふうに、それを採用されるものではないんです。
これが私たちの信仰の土台は何でしょうか。神の御言葉、真理、それが唯一の土台なんです。それが唯一の根拠なんです。神の御言葉が、見たまを私たちの心に与えてくださいましたと宣言しているならば、その御言葉を信じればいいんです。
どうしても自分は救われたと、そう信じているんだけれども、この気持ちというか、その確信がなかなかできないならば、神様に祈って、精霊に頼んで、この心が噂をすることがないように助けてくださいと祈ればいいんじゃないか。
これを教団の神の告白の中には、内情と言葉をよく使いますよね。精霊の内情。つまり神様が精霊様を送ってくださって、信じる者の人生の中に、心の中に入ってきてくださって、一緒に住んでくださっているという。
24:03
これが誰に?信じる者に与えられた三つのこと。無罪の宣言を与えてくださった。神のことをしてくださった。精霊の心に与えられたということ。それで神様との私たちは霊的な交わりの中に、愛の交わりの中に招かれた。導き入れていただいたということでありますから。
だから私たちは救われたときに、私たちの霊は新しい霊的な誕生を迎えたわけであります。
そしてそこから聖書は、「それでもう終わりですよ。あなたは聖人に受けたんだから、天国に行けるチケットをもらったんだから、もうこれからはどうでもいいんですよ。教会に行ってもいいですし、もう行かなくてもいいですし、チケットをもらったんだから。」と教えていません。それは大きな誤解であって間違いであります。
聖書は、「あなたは救われた、神のことされた、精霊を与えられた。」と語っている同時に、今日の御言葉のように、「自分の救いの完成、達成に努めなさい。」と語っている。
「清められていきなさい。弱いもの、柔らかい植物だけ食べるんじゃなくて、大人になりなさい。キリストの見たけまで成長しなさい。」と主は同時に語ってくださっている言葉を全体的に、全体上見なくてはならない。
皆さん、私たちは信仰持ち方においても、あるいは説教の聞き方においても、まず私たちが認めなくならないこともあります。私たちの内側には、今日も今から話をしますが、罪に傾く性質をみんな持っている。ほぼ肉があるから。人間の器用というものがあるから。
だから、私たちは信仰の持ち方においても、完全ではないんです。あるいは、今日もあるいは先週も説教を聞いても、その聞き方、捉え方も完全ではないんです。
たまに私に説教させていただいて、そのあと皆さんが献金のときに応答の祈りを皆さんするんじゃないでしょうか。たまにですけれども、「あれ、私の意図はああいう意図じゃなかったんだけど。」というところがたまにあるんです。
さあ、戻りまして。なぜこういうことが起きるのか。我々の中に、完全なものじゃないことをまず認めるんです。
27:13
自分には罪に傾く性質があるから、よく聞いていたんだけれども、自分が拒否して聞いてしまう、そういう弱さが我々にあるんです。あるいは、聞きたいことだけ聞いて、聞きたくないことは話して流して、そういう弱さがみんなにあるんです。
だから、まずそこを私たちは認めなければならないんです。だから、自分が聞いたこと、悟ったことが絶対ではないんです。絶対なのは神の御言葉しかない。さあ、戻りまして。
だから、この話をなぜしたのかというと、救い、救われるということを思うときには、私たちは、救われた、信じた、天国のつけてもらった、ヤッホー、ハレルヤ、それで終わりじゃないんですよ。あるいは、それだけ、掘ってしまいがちなんです。不完全だから。聖書はそう教えていない。全体の状況をつかめてほしいんです。
さあ、そういうふうに救われた、ギトを認められた人が清められていくこの旅路があるわけなんですね。キリストの死にまで。それを何と言いますか、次のスライド。成果とね、よく皆さんご存知でしょう。成果。罪から清められること。罪の支配力からの解放ということであります。
これは、救われるとき始まって、それがもうキリストの死にいくまで、ずっと続くということであります。聖書を開きましょう。
いいですか。三節五十章に。神の御心は、あなた方が強くなることです。あなた方が不貧困を避け、皆さん、セサロニケは教会です。この手紙を受け取って、朗読して、聴いている人々は、皆さんのようには、全く同じの教会の信者たちなんです。
彼らに何と言っていますか。神の御心は、あなた方が強くなることです。これから強くなってくださいという話ですね。
30:10
さあ、それを七節にこうあります。七節。同じ第1テサロニケ4の七節。読みますね。神が私たちを召されたのは、穢れを行わせるためではなく、清潔を得させるためです。
ここにもね、清潔、清めと言っていいでしょう。清潔を得させるために、作ってくださった、召してくださったということなんです。だから皆さん、よく聞いていただきたいですが、誤解されや、ということがあります。
罪許されたと、さっき申しました。それは確実な事実であります。でも、なかなかといって、私たちのすべてから罪が完全になくなったという意味ではないんです。
罪に傾く性質、つまり偶像ばかり求めて、神から離れてしまう性質、心の奥深くに強く残っているんです。
ですから、何もしないで放置していると、人はどうなりますか。神のことを忘れてしまうんです。教会から離れてしまうんです。
以前のように、神を求めない生き方、偶像ばかり追いかける罪深い生活に戻ってしまいがちなのが誰ですか。私たち。だから、キリストに、教会の神の愛にずっと留まり続けることが大事なんです。
そこで、礼拝は非常に大事なことであります。この救いを経験した私たちは、すでに心の中に精霊を与えられています。この精霊の働きによって、助けによって、私たちは罪に勝つ力、そして、罪に支配されずに歩む力を得ているんです。
しかし、神様は私たちに、なんと不思議な奇妙なことですが、それを選べる意思を与えてくださったんです。
罪に支配されずに歩む力も与えられているのですが、それを選んで強く生きるか、罪を選んでしまうか、神を重んじるか、軽んじるか、神を挙げるか、自分勝手に生きるか、それを選べるわけなんです。意思が与えられている。
神様の心は、先週の大津先生のタイトルのように、奇妙でわかりにくいことでもあります。
33:06
精霊は私たちとキリストを霊的に結びつけて、交わりに導くことによって、心の中に十字架で示された神の愛を注いでくださった。
それで、その愛をわかった人、その愛がどれだけ大きな愛であるかわかった人は、その愛に応答します。応答して、罪に勝つ力を選んで、清く歩むのです。その旅路が、聖歌の旅路である。
だから、聖歌というもの、救いというものは、皆さん、頭の理解でできるものではないんですよね。
神の愛を深く、本当に心に深く、ずっと失敗ばかりする私たち、時には神が愛しているんだけれども、傲慢な私たち、善より悪を貪る私たち、
そんな私たちを本当に追いかけてくださって、清めてくださる、その神の愛をわかる人は、経験する人は、した人は、深く心に留めて、留めるだけではなく、神様への感謝の応答が現れるんです。
だから、清く生きるんです。だから、主に捧げるんです。あるいは、主に献身する。報しをする。礼拝するんですね。これが、聖歌の道なんです。神の愛を知る者は、その愛に応答していくこと。
だから、それで、罪を嫌い、悪を嫌って、精霊の働きによって、愛による良い行いを好んで、そして自分の気質も性格も、人からも、徐々にというか、時には大きく徐々に少しずつ変えられていく。
誰のように?イエス様のように。イエスの神聖のように。神様のように、変えられていくんです。それが、聖歌が現れるはずなんです。誰に?救われた人には。必ず。時間がかかる人もありますし、かからない人もあるでしょう。
だから、この変えられていく、精霊の神聖に似ていくこと、人格が、品性が、例えば、昔は本当に傲慢だった人が、本当に別離のように喧騒になりつつあることだったり、あるいは、怒りばかりしていた人が、本当に柔らかな人に変えられていく。
36:07
詐欺ばかり、嘘ばかりしていた人が、本当に正直な人に変えられていく。悪を好んでいた人が、その悪を捨ててしまって、清く変えられていくこと。それが聖歌であって、救われた人には、それが現れるはずであります。
だから、イエス様が、マタイの文書において、この木が良い木なのか、悪い木なのか、何を見ればわかりますか。実を見ればわかるんです。悪い実がなっていれば、この木は悪い木なんです。
聖歌のこのね、現れが、赤木が、神聖が、人格が、信仰の持ち方が、変えられているならば、その人は確かに救われた人である。なんででしょうか。主か神様、必ず変わらせてくださるからなんです。
どうですか、みなさん。お互いに長い間のお付き合いでしょう。あらゆる方は、50年もお付き合いですけれども、どうですか。50年前、40年前に比べて、お互いに変えられていますか。イエス様のような品性が現れていますか。少しです。
神によって人は変えられていくんです。清められていくんです。ところがここに、こういう疑問があるかもしれません。しかし、私たちの家にある肉の法則、ローマその言葉にありますよね。肉の法則、肉の原理とも言いますが、いわゆる残存している罪の性質、みんな持っているわけなんですね。
それがまた強く働いて、私たちを依然のような罪深い生活へと誘惑して引き戻そうとしていることがあるんじゃないですか。みんな葛藤があるんですよね。そういう疑問があるんです。その通りなんです。
残存している罪の力があります。そして私たちに対して常に戦いを挑んでくるんです。もう巧妙に誘惑するんです。疑わせる、傲慢にさせる、罪を犯させる、信仰を失わせる、神の御言葉を疑わせる。
礼拝より神よりもっと楽しみが自分の中に、その誘惑があるんです。その肉の法則、罪の性質が常に悪魔がそういうふうに誘惑するわけなんです。
39:05
だから皆さん覚えていてください。救われた、だから何も戦いもない、もう天にあるもね、そういうものじゃないんです。常に戦いがあるわけなんです。霊的な戦いに自分は置かれているこの厳しい現実から目を逸らすべきではないんです。
クリシャンはいつも、栄華まで、チリソの死にまで、肉の働きと霊の戦い、古き罪の原理と新しい御霊の原理の間にあって、緊張感の中にあって、その中で自分がどちらを選び取るかという心に誘惑、テストの中にあるんです。
簡単に言って、例えば今日の朝、例えば皆さんに最も楽しみ、何かがあったとしますと、例えば作家が本当に少ない人は、日曜日の朝、礼拝の時間に作家のすごい自分が楽しみにしていた中継があるならば、礼拝に行こうか、作家を見ようか、迷うんじゃないでしょうか。
皆さんの中にはないかもしれませんが、そういう人がいるんです。ゴルフが好きな人は、あの人と約束は、その人は日曜日しか行けないんだけど、礼拝に行かなくてはならないんだけど、どっちにしようか、みたいにね。
そういう誘惑がいつもある、その緊張の中にある、テンションがあるんです。そういう意味で、今日は皆さんは見事に神を選んだから、ここにいらっしゃるわけじゃないでしょうか。それが正解なんです。それは清めなんです。
もう一つの質問が、疑問があるかもしれません。ごい疑問です。信仰によって罪を許されたクリスチャンは、その後にどんな罪をも犯さないんですか?とか、あるいは斬存する罪の力によって罪を犯してしまった場合には、どうすればいいんですか?
もう罪を犯し続けているならば、神の怒りと裁きへの対処へと逆戻りするのでしょうか?どうなるんですか?という疑問があたりしますよね。
よく聞いていただけたらいいですか?ここに誤解しやすいところがあります。
義人を受けて神のことをされた、確実に救いに預かった人であれば、確かに斬存する罪の性質はありますから、罪を犯し得るというものであります。わかりますか?罪を犯すことがあるということなんです。
42:00
罪を犯していいんですよじゃないんですよ。皆さん、よく聞いてくださいね。犯していいんですよという話はありません。犯せ得るものである、自分は。この修行にいる限り。それが意識的であろうが、無意識的であろうが、罪を犯す場合があるということです。
しかし、その場合に私たちは失われないものと失ってしまうものがあります。確実に信じたもの、救われたものであれば、その人は神様を捨てない限りは、とっとした嘘をついたとしましょう。
誰かを憎んだとしましょう。あるいは常にもっとひどい罪を犯したとしましょう。その人が後で悔いを改めることを前提にして、自当を認められたクリスチャンは罪を犯しても、神の子としての立場、救われたその事実は失うことではありません。
いいですか。悔い改めを前提にしますよ。確実に。ですから、無意識的に軽い罪を犯してしまったからといって、それだけで自分は、神の裁きを受けるんだ、怒りを受けて私は地獄に行くんだ、みたいにね、と考えないでほしい。
ただ、感謝のことは不思議なこと神秘でありますが、私たちが救われたにもかかわらず、無意識的にあるいは意図的に罪を犯したならば、生命は悲しまれてはいますし、そして私たちの心の中におられ、どうしてくださいますか。とりなってとっててくださる。
でも、大事なことがあります。それは軽い罪であろうが、大きい罪であろうが、クリスチャンであるにもかかわらず、罪を犯してしまったならば、神との霊的な強い交わりは失われてしまいます。そこが穢れてしまいます。
信仰という神と自分の中が詰まってしまいます。だからどうなりますか。喜びも平安もなくなってしまいます。不安があり、恐怖があります。しかしそこでもっと大事な話があります。
救われた人であっても、確かに義と認められた人であっても、その人は神様を捨てた。離れてしまった。神は無い。最後に亡くなるまで言い張って亡くなるとしたら、その人は神の中にいない人です。
45:11
だから信仰を捨てたからなんです。信仰を捨てたものを神様が救うわけではない。だから私たちは亡くなるまで、自分の信仰、最後のゴールまでこの信仰を持ち続けていくように、神にすがり歩まなければならない。
だからどうなりますか。
救われた人ならば、神のことをされたならば、罪を許されたならば、その身分にふさわしい生き方をすべきであります。それが聖歌であります。聖書は救いとその救いにふさわしい身を行いをしなさいと両方教えていることを私たちは間違ってはいけません。
神様が手入れによって恵みを与えてくださいますが、私たち人間の皮ではその注がれる恵みを受け止めて、それを用いて応徳していくこと。
最後に栄華についてお話をしたいと思います。
義人、聖歌、栄華。栄華は何なのか。
罪の現在といいますね。アダムから受け継がれている、私たちのそれをどうしようもない現在からの救い、そして救いの完全な完成を栄華といいます。
48:05
聖書を開きましょう。第一コリント15章52節です。
新約聖書の342ページです。
15章の52節。よろしいですか。一緒に読みますね。52節。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると死者は朽ちないものによみがえり、私たちは還られるのです。
死者は朽ちないものに還り、私たちは生きているものは還られるのです。
もう罪を犯さない存在に、犯すことができない存在に、もうイエス様のように還られるのです。
その時が栄華の時なんです。それがいつ誕生されますか。イエス様のサイリンの死に。
だから私たちは今、栄華の途中にあるわけじゃなくて、聖華の途中にあるわけなんです。
キリストが再び来られるサイリンの時に、私たちは新しい霊と新しい身体を持った栄光の姿に還られます。キリストのように。
そしてすべてのこの原罪、罪のこの根っこ、それもすべて滅ぼし尽くされます。そして救いの完成に到達します。
私たちは復活のキリストと同じような栄光の霊の身体へとも、瞬時に還られて、神様ともに新しい天と新しい肉に積むようになります。
これが栄華です。栄華されるまでは、その日まではどうなりますか。私たちはこの死状において、罪の根である原罪を完全には消滅していないんです。
ですから聖華の著しい歩みに達したとしても、今後いかならず罪を犯す可能性もないような状態になっているわけではないんです。
だから皆さん私たちはお互いを見るときに、みんな罪を犯せる弱い存在であること、現在この罪の根っこをみんなまだ持っているものであること、
51:06
それを認め合いながら、しかしそこからどんどんどんどん清められて、罪を嫌うようになり、神を選ぶようになり、神に喜ぶ道を、神の心にかなった道を歩むように還られていくのです。
主がそういうふうにして下さるんですよね。その道を私たちは今歩んでいるのです。
最後のページを。さあ、真横と向いてください。国の感性であるキリストのサイリンに向かって、私たちは救われた者は義人とされました。罪を許されたわけですね。
そして今私たちは罪から清められていくその成果もこのプロセスの中に我々はいるわけなんです。
そして、イエス様のサイリンの日に生きている者であろうが、すでに死んだ者であろうが、その日には栄光の霊と身体に還られる。
すべての罪の根っこ、あの原罪もすべては滅ぼし尽くされて、完全な救いのものに。
だから皆さん、このことをよく覚えて。
救われましたか?そしてそれにふさわち身を結んでください。
救われましたか?そしたら清い道を歩んでください。
でもその中で罪を、お菓子を売る者だから罪を犯しましたか?徹底的に悔い改めてください。
そして二度三度、繰り返しはないようにしてください。
切り添うように謙遜の衣を着てください。死のために歩んでください。
それが救われた人の証であって、二であります。
しかしこの死状では完全になることはない。
あの栄華の時に死が全く新しいものに作り変えてください。
新想像がその日に起こることを待ち望んで、死を愛して、死を見上げて歩んでいこうではないでしょうか。お祈りします。