2025-01-26 24:33

#248 愛と光の中で~永遠のいのち、真理を行う 25/1/26

ヨハネー21からの礼拝メッセージ。2025年1月26日録音

サマリー

このエピソードでは、ヨハネの福音書3章16節から21節に基づいて、神の愛と永遠のいのちについて話されています。信じる者が裁きを免れ、救われる理由に焦点が当てられ、神の愛の深さが示されています。神の愛と先んじる愛の重要性が強調され、イエス・キリストの死によって表された神の愛が語られます。また、真理を行う人々が、自らの行いが神によってなされたものであることを理解し、光の中で生きることの意味について考察されています。

ヨハネの福音書の紹介
実は、ヨハネの福音書3章の16節から21節です。
神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。 神のひとり子の名を信じなかったからである。
その裁きとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
以上です。 今日はこのところから、「愛と光の中で」と題して御言葉を取り付けます。
みなさん、おはようございます。
寒い朝なんでしょうか。例年よりは暖かい冬だそうですけれども、アメリカでは20日に新しい大統領を就任したりと、様々な世の動きがありますけれども、
また、イスラエル・ガザの間も帝戦が始まったりと、色々な動きがありますが、今日もともに礼拝できる幸いを感謝しています。
今日の御言葉は、ヨハネの3章の16節から21節。
そして、この3章16節というのは、聖書そのものを1節で表すとすればどれですかと言われるときによく言われる代表的な聖書の言葉です。
みなさんも気が付いているかもしれませんが、私がイエス様を信じて洗礼を受けてクリスチャンになった最初のオリンピックがロサンゼルスだったんですけれども、その後の冬のオリンピックのときに、
スピードスケートの競技を見ていたら、観客席からあるプラカードを出している人がいて、それが目を引いたんですね。
そのプラカードは何かというと、英語でJohn3:16(ジョン・スリー・シクスティーン)、ヨハネの3章16節という、それだけ書いたプラカード、A3版ぐらいのものをパッと見せてテレビに映るようにしていたんですね。
面白いことをしているなと。その後、ちょこちょこそのようなジ英語でJohn3:16(ジョン・スリー・シクスティーン)というのが、オリンピック中継のときに観客席から見えるようになって、あるときはボブスレーという早いのがあるじゃないですか。
あの会場の映像が出たときも、ボブスレーが通る瞬間に、それを開く2,3人の人がパッとテレビにこの3章16節の存在を示す、そうやって何とか明かししようとしている人がいるんだなということで、興味深く見たのを覚えております。
そんな聖句、皆さんご存知かと思いますけれども、そのところを中心に今日は3つの点、永遠のいのちということがさらに言い換えられていますから、その点を最初に。
2番目はよく言われている、先じる神様の愛ということ、この永遠のいのちというか、私たちの救いの根拠ですね。
そして3番目は、そういう救われた私たちは、神によって真理を行う人なんだということを見ていきたいと思います。
では最初に、永遠のいのちとはということで見ていきます。
じゃあせっかくなので、3章16節まで、はいというところまで読んでみましょうか。この御言葉ですね。
持つためであるまでですね。
神は、実にその一人子をお与えになったほどに、よう愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
はい、続き読みましょう。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。
神の一人子の名を信じなかったからである。
16節と18節の引用です。
で、先週ですね、初めて永遠のいのちという言葉が、ヨハネの中で登場したということが増えました。
そして永遠のいのちという言葉は、本当に広くて深い意味があって知り尽くせないし、それがこれからどんどん福音書の中で明かされていくんですよって話したんですけども、
今日は逆説的な表現で、永遠のいのちとは何かということが表されていると思えるんですね。
で、その一つはですね、3章16節の冒頭ですね。
2節目って言うんですかね、2行目。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためであるということから、
永遠のいのちを持つとは、滅びることがないいのちを持つことだって言うんですね。
まあちょっと現行にないのと時間がないので簡単にだけ言いますけども、
永遠という言葉はギリシャ語でアイオニオスという言葉で、もともとの訳は時代とかそういうことを意味するんです。
どんな時代かということで、実は神の時代というニュアンスがあって、それはどういうことかというと、
終わることがない、神が完全に統治する将来の時代ということを特に指すようになったというんです。
ですからそれを広く言うと、たとえ私たちがこの地上のいのちが絶えたとしても、
後に神と共に生きる、神の時代を生きるという意味で、それを永遠のいのちと言うそうです。
神の愛の真理
その反対で滅びると言われているんですけども、とにかく永遠のいのちを持つとは、
滅びることがない後の時代でも生きるいのちを持つんだということがここから分かります。
そしてもう一つは、17節、18節の18節だけ引用しましたが、
信じないものはすでに裁かれているというところから、永遠のいのちとは、神の裁きを免れるという意味なんですね。
神の裁きを免れる。
実はこの裁きという言葉を詳しく見ると、もう少しその意味が分かってきます。
先日もある裁判の最新のニュースが知らされました。
去年は大きな冤罪事件の最新、無罪ということがニュースで取り上げられました。
実はその検察もいけないんですけども、その後の裁判、それは裁きですね。
この実は裁きという言葉はギリシャ語のプリノという言葉なんですけども、
裁き、裁判というのは本来はその人が有罪か無罪かを公平に判断するのが裁きであり裁判ですね。
実は同じプリノという言葉がここで使われて、日本語では裁かれる、裁きという言葉で、裁くという動詞で翻訳されていますが、
英語の主な聖書を見ると、NIVというのが一番有名ですが、裁くというギリシャ語がコンデムンという言葉に訳されています。
コンデムンというのは有罪に定めるという意味なんです。無罪じゃなくて有罪。
もう少し踏み込んだ訳で、実はこの意味の方がこのギリシャ語の文脈に合った翻訳だというんですね。
ですからこれはどういうことかというと、ミコを信じる者は神の前で有罪にならない。ミコを信じる者は神様の前で審判を受けたとしても有罪になることはないんだよ。
そういう意味なんです。それが広く言うと、永遠にいのちを得るということは神の前で有罪にならない、無罪であるという意味にとれるわけなんです。
先週もこれまでお話してきましたように、ヨハネの福音書の冒頭からイエス様が神の独り子である、とてもユニークな存在、特別な救い主であるということがずっと明かしされてきましたが、
その方を救い主として信じるならば、そしてその方を救い主として信じている私たちは神様の裁きの前で有罪とされることがなく滅びることがない。
それが福音であり、永遠のいのちを持っているということがわかるんです。
けれども私たちは、皆さんわかりませんが、私自身そうですけれども、自分自身を正確に見つめると、とても神様の前で無罪方面になるとは思えないんですね。
それが2番目のことと関係していきます。そこで大事なのが第2の点、先んじる神の愛ということですね。
繰り返しますが読みましょう。3の16、私が読みます。
神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ここからだけ読んでみましょうか。神が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、よって世が救われるためである。
イエス様を神様が使わせてくださったのは、有罪に定めるためではなくて、イエス様御子によって世が救われるためなんだということがわかります。
先ほど言いましたが、自分自身を正直に見つめると、とても神の前で無罪になるとは思えない。
あるいは、先ほど滅びると言うのですが、何か自分が滅んでしまうというような不安があって、それがもしかしたらいろんなことでの不安に通じていく。
自分が今やっていることが正しいのかな。自分は将来どういう生活を送るのかなというような不安ということは、何か滅びに対する不安と直結するのではないかな。
それは私の直感なんですけれどもね。今やっていることが身を結ばないのではないかという不安が生じるのは、何か滅びに対する恐れとか、そういうものが人間の中に備わっているからなのかなと思うんですけれども。
それはさておきまして、実は大事なことは、神様の愛というのは、私たちの人間性の良し悪しに関係ないということなんです。
その神様の愛の大きさや純粋さが、世界で最も有名な3章16節に込められているんですね。
この神は実にその一人子をお与えになったほどに、という言葉。この一人子を世にお与えになったというのは、最も大事なプレゼントを神は与えてくださったという意味なんです。
今日詳しく説明しませんが、今まで1章の1節から見てきた中で、神の一人子とか御子という言葉があって、それは父なる神とイエス様の特別な関係を表しているということを学んできましたよね。
永遠の前から一緒に存在して、親しく会話をし、そして世界を共に作った神の御言葉なるイエス様はこの地に降りてきた、そういうことをずっと見てきました。
とにかく御子、一人子というのは、父なる神様とイエス様の親密で特別な関係を指しています。
それを何のために与えたかというと、罪の贖いのために、十字架の上に与えるために、最も大事な御子を父なる神様が与えてくださったということです。
ここの聖句の大事なところは、イエス様もそうなんですけど、イエス様ではなくて、父なる神様がこの世を私たちを愛したという、神様の愛がここで強調されているという点が大事なんですね。
どれほどこの御子を与えた愛が、神の愛の現れであり大きなものだというのを、学者の言葉を借りて、難しいですけども、言うとこういう言葉なんですね。後でレジュメでじっくり読んでもらってもいいんですが、
神様はこの世を大変強く愛したので、その一人子を与えられた。神は彼にとって最も大切なものを与えたということである。
そのように父なる神の愛として示された。それが御子を与えた。御子を与えることによって、神様の大きな愛が示されたんですね。
神の愛は、これ面白いんですよ。神の愛はその対象が愛くるしい、ラブリーだからではなくて、神は愛であるという崇高な真理の結果なのである。
なぜ神様が私たちを愛したかというと、私たち、みなさんね、かわいい方々いっぱい多分教会にいるんですけども、そういうこととか、私たちの人間性の良し悪しとかではなくて、神そのものというのは愛するという性質を持っているがゆえに、私たちを愛してくださったんですね。
理屈を考えればわかりますよね。みなさんが子供さんなり、最近ペットかもしれません。別にそのお子さんやペットもかわいいですけども、本当に自分がお子さんなりペットなり家族なりを大事に思っているから、プレゼントをあげたりとか何かをしてあげるわけじゃないですか。
神の愛の証
ですからその神様の愛というのは、このようなアクションに現れているけれども、それは神が愛せなさるを得ないお方だからだというんですね。別の旧約聖書では、私は悪人が滅びることを望まないとされているんですね。かえって悔い改めて立ち返ることを望んでいると言っているわけです。
ということで、私たちはもちろん良いことをしたいと思います。神様の前に喜ばれたいと思います。でも私たちに、たとえそういう部分が欠けていたとしても、私たちの良し悪しに関係なく神様が愛するというご性質を持っているから、私たちは神様に愛されている。
その証拠として、いろんな御言葉があるんですけれども、私は特に気に入っているというのは変ですけれども、これが表していると思うんですね。パウロがローマ書の中で表している5章7節から8節を読んでいますね。よく読むと、なるほどと思います。
正しい人のためであっても死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。善良な人というのは、前の聖書の訳では、哀れみ深い人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれませんということになっていますね。ギリギリから自分も犠牲になってあげようと。
正しい人のためであっても死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかしから読んでみましょうか。
しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
これを読んで字のごとくですね。私たちがまだ罪人であった時、その時からイエス様が死なれたことによって、神様は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられた。よく知られた聖書ですけれども、もう一度この意味をかみしめていくということ。
神の愛を実感して、神の先んじる愛を実感していく意味ではないかと思います。最後、そういう人はどうなるか。3番目、神によって真理を行う人だって言うんですね。この最後の見事はちょっと読んでみましょうか。
3番目、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように光の方に来る。この対象として、この聖句の前までですね、悪を行っている人は、それが明るみに出ないように光のもと、神の前に来ないということがあります。
その対象的に真理を行う人は、その行いが明らかになるように光の方に来る。神様、イエス様の方に来る。どんなことかというと、それが神にあってなされたことが明かされる。
実はこの言葉はですね、先ほどから私たちの心の声として言っている、自分自身を正直に見つめると、とても神様の前で無罪にはと思えない。しかし、神の先んじる愛があるということと関係してくるんですね。
どういうことか。実はですね、これはですね、とても不思議な表現だって言うんですね。で、何を言っているかというと、光を愛する人はどういう人かというと、ここではそれはですね、本来優れた人じゃない人が光を愛するって言うんです。
どういうことかというと、この光、イエス様を愛する人っていうのは、こういう態度と違うって言うんですね。謙遜だって言うんです。謙遜でない。光の前に来ない。そういう人はですね、独善的だって言うんです。
私こそ、神の前で、人の前で立派な人間だ、そういう態度ではないっていうことなんですね。なぜそうなるかというと、なぜ独善的ではなくて、自分の行いをひけらかすのではなくて、そういう人じゃない人が神の前に来るかというと、それは自分のした良い行い、それは全て神様を通してなされたことなんです。
ということを知っているって言うんですね。つまり、自分が神様の中に生かされて、そして神様の力によって良いことができた。神のおかげだということを分かっているから、光のもとに来て、神に栄光を帰すということが、ここに明かされているって言うんですね。
私の尊敬する先輩の牧師がよく言うんですね。うまくいかないこととかあるし、うまくいくこともあるけれども、こう考えなさいと。恥は我がもの。栄光は種のもの。恥は我がもの。栄光は種のもの。
本当に自分が弱いとか不完全だということが分かっているからこそ、良き業がなされたときに、これは神様の御業なんだなということが実感できる。そして自分の良さではなくて、神が素晴らしいということが明るみに出る。
神様によって自分は行うことができたということが分かるようになるために、神のもと、光のもとに来るということが、この政府に表されていることなんだということですね。
そのように私たちは、神が先に私たちを愛してくださった。その何よりの証拠がイエス様の十字架であった。そして私たちはその、そうなんです。イエス様の十字架を信じるだけで、神様の前で正しいとされ、無罪方便とされるんですね。
真理を行う者の生き方
素晴らしいですよね。本当に信じるだけ。イエス様その通りです。あなたが私の救い主です。信じるだけで、無罪方便とされる。それは誰にでもできる、子供にもできる福音であり、私たちに対する福音でもあるんですね。
その人が光を享受するとすれば、それは全ての良い行いが、神を通してなされたことを知っているから。つまり、自分が神の中に生かされて、神の力によって良いことが行われた。そのことが明らかになるために、神様の前に出るということ。まさにそれで、神様に栄光を帰すということだということですね。
神の先んじる愛について、同じ横根が当時の教会やキリスト社に書いた御言葉を最後に読んで、お終いにしたいと思います。
ちょっと初めてなので難しいかもしれませんが、ここがですね、2行目のこれは、なだめの捧げ物ですね。なだめ。
最初から読んでみましょう。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの捧げ物としての御子を使わされました。ここに愛があるのです。
天皇父なる神様、皆を賛美いたします。
あなたは私たちがあなたを愛する前に、また私たちの良し悪しに関わらず、先に私たちを愛してくださり、尊い一人子なるイエス様を十字架の上に捧げてくださったことを感謝いたします。
そのイエス様を信じるだけで私たちは、あなたの前で罪なき者とされていること、永遠のいのちを得ることができること、あなたとの交わり、いのちが回復されることを感謝いたします。
どうか私たちがつまずくとき、弱さや限界に打ちひしがれそうになるときに、十字架のイエス様を見上げ、また神様の愛により頼み、あなたを信じ信頼して歩んでいくことができますように。
そうしてなされた良き業があなたの御業であると、あなたに栄光を捧げして歩んでいくお互いであり、教会でありますように。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、2言葉2答えで祈る時間を持ちましょう。
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