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2025-10-19 30:23

#296愛の三重奏25/10/19父なる神、御子イエス、私たちの関係

ヨハネ10:7-18からの礼拝説教。2025年10月19日録音。(聖書朗読は()まで)10章でイエス様はご自分を牧者つまり羊飼いにたとえ、ご自分を信じ従う人々を羊にたとえています。今日の箇所ではその意味合いが広げられ深まって行きます。1.豊かないのち()、2.お互いを知る()、3.御父と御子の私たちへの愛()、の3点を取り上げます。

原稿を読む愛の三重奏:ヨハネの福音書10章7—18節|Kishio

サマリー

このエピソードでは、イエスが羊飼いとしての役割を果たし、信者に豊かな命を与えることについて語られています。イエスと父なる神との親密な関係が羊と羊飼いの関係に反映されていることが強調され、愛の三重奏の概念が探求されています。また、イエスの奇跡を通じて父なる神との関係と愛についても触れられています。聴衆は日常生活の中でイエスの救いを実感しつつ、神の愛を深く理解する重要性を認識します。さらに、父なる神とイエスの愛について考察し、その関係を音楽のトリオに例えた愛の三重奏が紹介されています。

イエスの羊飼いとしての役割
そこで再びイエスは言われた。
まことにまことにあなた方に言います。
私は羊たちの門です。
私の前に来た者たちは御名盗人であり強盗です。
羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
私は門です。
誰でも私を通って入るなら救われます。
また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
盗人が来るのは盗んだり殺したり滅ぼしたりするために他なりません。
私が来たのは、羊たちがいのちを得るため、それを豊かに得るためです。
私は良い牧者です。
良い牧者は、羊たちのためにいのちを捨てます。
牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると置き去りにして逃げてしまいます。
それで狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
私は良い牧者です。
私は私のものを知っており、私のものは私を知っています。
ちょうど父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じです。
また私は、羊たちのために自分のいのちを捨てます。
私にはまた、この格好に属さない他の羊たちがいます。
それでも私は導かなければなりません。
その羊たちは私の声に聞き従います。
そして一つの群れ、一人の牧者となるのです。
私が再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父は私を愛してくださいます。
誰も私からいのちを取りません。
私が自分からいのちを捨てるのです。
私にはそれを捨てる権威があり、再び得る権威があります。
私はこのいのち令を私の父から受けたのです。
以上です。
豊かな命の提供
今日はこのところから、愛の三重奏と題して、御言葉からお話をします。
少々お待ちください。
はい、改めましておはようございます。
今日は7月の19日、10月の19日で月の後半に入りました。
来週からですね、明日からですか、寒くなるということで、
例年以上にですね、急に寒さが訪れるようで、健康のこともいろいろ考えなければなりませんけれども、
しばらく、ようやく秋らしい気候になってきたので、もしかしたら短いかもしれませんが、その間を満喫した日々をね、過ごせればと思っています。
さて、しばらく先週からですね、ヨハネの十章から見ています。
ご存知のように、ここではですね、イエス様がご自分を羊飼いに、
そして、そのご自分の民、私たちクリスチャンなんでしょうが、それを羊に例えている有名な箇所ですね。
そして今日はですね、その意味合いが広げられていきます。
それでですね、この意味合いが広げられていく、ヨハネの福音書はこれまでお話ししていますように、
内容がどんどん螺旋状にですね、前のことを語りながら深まっていったりしています。
今日の箇所も、羊と羊飼いというイメージが、さらに広げられ、深められている箇所です。
その中から3つの点を取り上げますが、最初は豊かないのちということを見ていきます。
2番目はですね、お互いを知る、羊飼いと羊がお互いを知っているということなどを話していきます。
そして最後はですね、2番目とも関係してくるんですが、3番目は、
父なる神様と御子イエス様と私たちの愛という、そのタイトルにありますが、愛の三重奏、そのようなことを見ていきたいと思います。
はい、では一番最初、今日ですね、取り上げるのは、
まず豊かないのちについて見ていきます。
10章の9節10節ですね。有名な10節が出てきますので、後で一緒に読んでみましょう。最初の部分だけ読みます。
私は門です。誰でも私を通って入るなら救われます。また出たり入ったりして牧草を見つけます。
盗人が来るのは盗んだり殺したり滅ぼしたりするために他なりません。
私が来たのは羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
この最後の部分がとても有名な箇所ですね。
イエス様はですね、今日どのように広めているか、深めているか、意味を深めているかと言いますと、
このご自分がこの世に来られた目的と、羊飼いと羊の関係を関連付けて語っているわけですね。
その目的は、羊がいのちを得る。ただ得るだけじゃなくて、豊かないのちを得る。
豊かな生活とも言うことができるかもしれませんが、そのためにこそイエス様がこの地に来たと語っておられます。
羊飼いと牧草地の絵がありますけれども、北海道では海産物のグルメが有名ですけれども、肉料理といえばジンギスカンですね。
これはご存知のように羊の肉を使います。
それで、この豊かないのちを得るためにということなんですが、そこへと関連して旧説では羊が入ってきてですね、牧草を見つける。
そういう豊かな牧草地で、羊が豊かに草を食べて、まるまると太っていくような、そういうイメージがあるわけです。
そして、よく超えて美味しそうな羊をほふって、ジンギスカンの鍋で食べてしまうなんていうこともあるかもしれませんけれども、
イエス様は、自分はですね、そういう羊たちをほふって、売ったり、あるいは食べたりするために来たんじゃない。
自分の商売のために来たんではなくて、羊そのものの幸いのために来ていますよ、と言う。
それが偽教師との関係で語られていることなんですね。
さあ、羊の最大限の幸せのために、イエス様は羊飼いとしてその役割を果たす、そのために来た。
イエス様を信じている私たちは、その豊かないのちが既に与えられている、持っているわけです。
そこでみなさん考えてみましょう。どうでしょう。私たちはそのイエス様の豊かないのちを享受しているでしょうか。
まあ、この間の9章で出てきた目の見えない人が、イエス様を羊飼いとしてついて行った話がありましたけれども、
実はイエス様の声を聞いて、羊飼いなるイエス様について行く、その羊としての私たちの生活や人生は、
時にこの豊かな牧草を食べてのんびり過ごす羊の様子とは違っているかもしれませんね。
けれどもイエス様は、私たちが豊かないのちを持つためにこの世に来られたと宣言している。
それをもう一度、今日ここで確認していきましょう。
次以降、それに関連した話になっていきますけれども。
親密な関係の理解
2番目、お互いを知る。
ちょっと何回か読んでもらうことが多いですけど、読んでみましょうか。
ここから3、はい。
私は良い牧者です。私は私のものを知っており、私のものは私を知っています。
ちょうど父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じです。
10章14から15の抜粋です。
先週、前回見ました10章の3節4節では、羊は羊の声を聞き分けるということが出てきましたね。
そこには羊と羊飼いの親密な関係が謳われていたわけです。
ここでイエス様はお互いを知るということで、さらにその関係の意味合いを深めたり広めたり豊かにしているんですね。
実はどのように豊かになっているかというと、
羊と羊飼いの親密な関係というのは、イエス様と父なる神様の親密な関係と関わっているというのです。
ある学者は鏡のようにその親密さを反映していると言いました。
あるいは、父と御子の親密な関係に羊飼いと羊の私たちとイエス様の関係は似ているんですよと言っているんですね。
さらっと聞き流してしまうと、うんと思いますけれどもね。
これまでのヨハネの福音書の流れからすると、とても素晴らしい重要なことです。
繰り返し見てきましたが、イエス様は父なる神様との親密な関係を伝えてきました。
その親密さは、どのようなものかというと、一例を挙げると、1章の1節から3節にありますように、
世界が始まる前から共にいたという、
初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であったと言われているように、
世界が始まる前から、この父と御子イエス様との関係は存在していたという。
言い換えれば、時間と空間を超越した永遠の関係だった。
それぐらい親密で強い絆なんですね。
そしてそのような親密な関係と私たちとイエス様の関係が似ているって言うんです。
さらに、
四角教材で表していますけれども、そのような道と御子の世界が創造される前からの時空を超えた永遠の関係と似ている。
そして次に、
知るっていうことが語られています。
関係性の深さを知るという言葉で表現されている。何度も知るってことが書いてありますよね。
じゃあ知るってどういうことですかって言うと、それは単なる知識ではないんです。
それはいくつかの意味があって、一つは経験を通して知るということですね。
別の言い方をすると、実生活を通してその中でお互いの存在を意識して、相手が自分にとってなくてはならない存在であるということを知る、確認するということかもしれません。
家族で言えば夫婦がそれが言えるかもしれないし、家族の存在とか親友の存在がそのような存在かもしれませんが、
実生活の中でお互いの存在を意識して相手が自分にとってはなくてはない存在だ。
実はイエス様もそれをこの地上の実生活の中で経験されましたよね、人として。
どういうふうにそれをイエス様が御言葉の中で語っているかというと、
一つにはですね、よくイエス様が言っておられることは、イエス様は奇跡をされましたね。
イエス様の奇跡と父なる神様
その奇跡は何ですかって問われたときに、それは父なる神様が私をこの世に使わせた証拠として、私は父なる神様の奇跡、宮座を行っているって言い方しているんです。
多くの人がですね、イエス様について、お前なんて偽物だ、神がお前を使わせたなんてことはありえないって反対してきたわけですよね。
しかしその中でイエス様は、自分がしているこの奇跡こそが、私がこの地上で、イエス様、私がこの地上で父に使わされてきているという正真正銘の証拠なんですよ、と言っているんです。
実はですね、すごい深くて広くて説明が難しいんですけども、イエス様は自分が奇跡を行うたびにですね、あえて代弁すればですね、多くの人が反対していたとしても、確かに私は父なる神様からこの地に使わされてきている。
イエス様はそこまで考えたかわかりませんけども、あえて言うならば、多くの人が反対して、万が一心が折れそうになったとしてもですね、あ、そうじゃない、この奇跡を通して私は父なる神様に確かにこの地に使わされているんだ。
父なる神様が私を人間的に言えば応援してくださっているんだというですね、その父なる神様との深い関わりや存在を奇跡を通してイエス様が実感したのではないかなと考えられるわけですよね。
まあそういう、自分が父なる神様から使わされているその証拠として奇跡を行っている、そういうイエス様と父なる神様の親密な関係について、ヨハネの5章の36節、まあいろんなところが証してるんですけども、あえて一つ言えば、このヨハネ5の36でイエス様がこう言っておられるんですね。
私が成し遂げるようにと父が与えてくださった技、まあ証拠としての奇跡が、すなわち私が行っている技そのものが私について父が私を使わされたことを証しているのですと言っているんですね。
このようにイエス様は地上の生涯で父なる神様の存在や父なる神様が正式に自分を使わせたということを確証しておられたわけですけれども、同じようにですね私たちも日々の生活の中でこのイエス様の救いの技を体験するときに、
ああイエス様が確かに困っている私を助けてくださったな、あるいは祈りに応えてくださったな、そういうことを私たちが日々の生活の中で実感するときにですね、イエス様のことを現実的に意識してイエス様の救いを私たちは新たに知ることができるわけですよね。
このような日常生活の経験を通して知るということがですね、このイエス様を羊になる、羊飼いになるイエス様を私たちが知るということと関係しているということをここで確認していきたいと思ったわけです。
そしてまた、知るには体験以外の側面があります。それはですね、よく観察して知る。言い換えれば思いの中で思い巡らして、思考の中で思い巡らして、心の奥深くで知るということです。
皆さんこの男性分かりますか。池上明さんですね。新聞斜め読みという、皆さん新聞読むときに、読書するときに斜め読みしますよね。
あるいは流し読みといって、なんとなくこんなこと書いてあるなっていう、私よくするんですけど、さらっと読むことがあります。あるいは最近はインターネット、スマホの時代ですから、スマホでですね、スクロールしていろんな情報をですね、AIで探ったりとか、スマホで記事を見てですね、流し読みするわけです。
スクロール流しなんて言えるかもしれませんけど、スマホで情報を流してみるってことがあるかもしれません。そのような斜め読みとか流し読みとか、スクロール流しをすると、なんとなく頭に入るけれど記憶に残らない。
ああ、あそこに書いてあったあれなんだっけ? 新聞だと、この南面のこの辺に書いてあったってわかりますけど、スマホだと流れちゃうから、どこだったっけ?って探すの難しいかもしれません。要はこういう読み方だと頭に入らないわけです。これは私たちがイエス様を知るということとも関係しています。
それはですね、イエス様を知るときに私たちは、斜め読み的な流し読み的な知り方ではなくて、イエス様の救いとか、先ほど申し上げた神に与えられた豊かないのちということを、頭の中でどういう意味なのか、思い巡らす。
スマホや新聞はたくさんの情報をザーッと流しますけど、少ない、少しのことを意味を深く考えていく。自分の生活に当てはめて、自分の生活に起こっていることに当てはめて、イエス様の救いは何なんだろうか、豊かないのちは何なんだろうかということを思い巡らしていくということが、私は必要なのではないかと思うわけです。
父なる神様と御子の愛
秋晴れになるとですね、空が澄んでいますし、見えなかった富士山も見えるような空気が澄んで、眺めが良くなりますよね。
ですから、そういう空を見上げながら、神様の愛について、イエス様の救いについて思い巡らしてみる。
散歩にもいい季節になりましたから、散歩しながらですね、歩くと思考が活性化されますから、聖書の言葉の意味とかですね、永遠のいのちとか神の救いってどういうことなのかなってことを考えていくとですね、ふっと心にストンと落ちてくることがあるわけですよね。
そのような深い意味での知り方を、私たちはイエス様との関係の中でしていくことも必要なのではないかな、そのことをちょっと2番目の点として申し上げていきたいと思いました。
3番目最後の点、道と御子と私たちへの愛、道と御子の私たちへの愛、これが愛の三重奏ということなんですけれども、
10章17節でイエス様はこのように述べていますね。ちょっと難しいかもしれませんが一緒に読んでみましょうか。
私が再びいのちを得るために、自分のいのちを捨てるからこそ、父は私を愛してくださいます。
ヨハネの福音書は繰り返し同じ言葉が出てくるという特徴もありますが、このいのちを捨てるということもですね、今日の箇所に出てきます。
実はですね、こんな話があります。旅人が先週もお話したように、羊たちがですね、羊の囲いの中にいるところを見たそうです。
でもその囲いにはですね、いわゆる入り口はあるけれども、今日のイエス様の言葉のような門がないんですね。
だからその旅人はですね、不思議に思って羊飼いに尋ねたんですね。
ここに門がないから、入り口が空きっぱなしになっているから、羊が逃げないんですか?
あるいは狼が入って、羊たちを襲わないんですか?と言ったんです。
するとですね、その羊飼いはこう言ったんです。
私が門です。
私は夜になるとここに寝そべるんです。
そうすると羊は私を超えて出ることがありません。
そして狼も私を超えて入ってくることがないんです、と言ったそうなんですね。
学者によると、そういうアジアなんでしょうかね、中東なんでしょうか、そういう習慣がこのイエス様の言葉の背景にもあったんじゃないかという人もいますけれども、
実際にそういうことがあったようです。
私はここに寝そべるんです。だから私は門です。
羊飼いがここで言ったわけです。
そこで、実はですね、この10章17節の捨てるという言葉は、新約聖書の元の言葉、ギリシャ語では、
ティスエミ、ティスエミ、置くという意味なんです。置く。
言い換えると、それは英語の聖書の訳ではですね、レイダウン、横になるというふうに訳されているんです。
私は羊飼い、私は自分のいのちを横たえる。
私は良い羊飼いで、羊のために自分のいのちを横たえます、と書いてあるんです。
実はこの横たえる、それにはですね、差し出すとか、自分の意志でそこに差し出すという意味があるんです。
皆さん何かわかりますよね。
ちょっと捨てるというような訳と関係してますが、この自らいのちを差し出す、体を差し出すというのは、イエス様の十字架を表しているんです。
だから良い羊飼いとして、偽の羊飼いは羊を殺すけれども、私は良い羊飼いとして、羊のためにいのちを差し出します。
横たえます。
羊が守られます。
その中で羊は豊かになります。
そしてそれは十字架の死です、ということが示唆されているんですね。
イエス様は、自分がいのちを差し出すことについて、今日の箇所の終わりで、見た箇所の終わりで、10章18節でこう言ってますね。
誰も私からいのちを取りません。
私が自分からいのちを捨てる、差し出すのです。
私にはそれを捨てる権威があり、再び得る権威があります。
私はこのいのち令を私の父から受けたんです。
今日は詳しく触れませんが、再び得る権威というところでイエス様は、十字架の死が失望ではなくて復活への希望にもつながるということを言っているんですね。
これは後で見ます。
でもここでもう一つ今日の文脈で強調したいのは、イエス様は被害者として十字架にかけられた未知名な人じゃなくて、自ら進んでいのちを差し出して十字架にかかったという。
そのことが、捨てる権威があるという権威という強い言葉にも現れているんですね。
イエス様は自らいのちを、自分の体を差し出した。
自分の意思を持って、しかもそれを権威として執行した。
決して犯罪者扱いされた、冤罪の被害者ではないという言い方とも言えるかもしれません。
そこから何が分かるか。
実はこの言葉でですね、父なる神様とイエス様と私たちの愛の、3つの愛の関わりがこの背景にあるということなんですね。
ちょっとね、難しいから後で皆さんをぜひ思い描いていただきたいと思うんですけども、どんなことかをお話ししますね。
実は父なる神様と御子イエス様の愛の親密さは今までずっと語ってきましたよね。
愛の三重奏
永遠の始まりかな、みたいな。
で、それが大前提としてまずあるわけです。
そして、それで終わりではなくて、父なる神様はこの世の人々、私たちをも愛しておられたわけですよね。
そして私たちを愛してどうされたかというと、罪の中から救いたいと思ったわけです。
それが私たちへの愛、父なる神様の愛です。
さあ、そういう愛があって、じゃあイエス様は父なる神様を愛してどうしたかというと、じゃあ道が愛している人を救うためにどうしたらいいか。
それは、自分のいのちを差し出すことだ。
つまり、父なる神様への、愛する神様への愛の応答として、イエス様は自分のいのちを喜んで差し出していった。
しかもそれは、さらに言うと、イエス様の羊に対する愛というか、私たちに対する愛もあって、喜んで自らのいのちを差し出していったということになるんですね。
ここではお分かりのように、この父なる神様の私たちへの愛と、イエス様の神様への愛と、そのイエス様の私たちへの愛のクライマックスが、もう種証ししてしまいましたけど、十字架の愛なんですね。
そして、その父なる神様とイエス様の愛を知った私たちは、その愛に応えて、イエス様の声を聞いて、そしてイエス様と父なる神様を知って、イエス様についていくわけです。
これは音楽に例えるならば、トリオ三重奏ですね。ウィキチとミコと私たちの愛の三重奏。そのような美しいハーモニーを奏でていければと願うわけですよね。
最後の部分は少し難しいかもしれませんが、このように十字架によって示された、そのような神様とイエス様の愛、そしてその素晴らしさと深みを私たちは流してしまうんではなくて、深く思い巡らしていく。そして感謝していくお互いであり、教会でありたいと思います。
そしてこの愛の三重奏を表すような聖書の有名な御言葉、未知知の愛、ミコの愛、私たちへの愛、そしてイエス様の献身十字架ということを表す有名な御言葉を最後に紹介して終わりにしましょう。
お祈りしましょう。およはれの3章16節ですね。読める方一緒に読んでみましょう。
神は実にその一人ごをお与えになったほどに要愛された。それはミコを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
お祈りしましょう。イエス様、あなたが良い羊飼いとして私たちのためにいのちを差し出してくださったことを感謝いたします。
それへ私たちはあなたに救われ、豊かないのちが約束されていることを感謝いたします。
日々の生活の中でそれを実感することができますように、イエス様の救いをどうか知ることができますように、
私たちがその思いを知ることができるように、どうかそれを明らかにし、また導いてください。
そのあなたの深い愛、またあなたの深い導きを感謝して、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それではしばらくいい言葉に応えて、黙祷する時間を一分ほどとりましょう。
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