2024-02-11 27:14

#富と永遠のいのち 24/2/11

マルコ-27からの礼拝説教。2024年2月11日録音。今日の箇所でイエス様はこう言いました。「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。」この言葉を私たちはどうとらえるべきでしょうか。この問いに答えるためにこの言葉が語られた背景を丁寧に探る必要があるのです。その先に永遠のいのちと富との関係について見えてくることがあります。そこを目指して1.第一義的な意味:イエス様に直接教えを聞いた人、2.人は自分を救うことができない―神のみができる、3.神から私たちを遠ざけるものについて、3つの点から学んで行きましょう。


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00:07
マルコの福音書、10章17節から27節です。イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、見前に跪いて尋ねた。
「良い先生、永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたら良いでしょうか?」
イエスは彼に言われた。
「なぜ私を良いと言うのですか。良い方は、神お一人のほか、誰もいません。
今しめは、あなたも知っているはずです。殺してはならない。
勧引してはならない。盗んではならない。
偽りの証言をしてはならない。騙し取ってはならない。
あなたの父と母を敬い。」
その人はイエスに言った。
「先生、私は少年の頃から、それらすべてを守ってきました。」
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。
「あなたには欠けていることが一つあります。
かえって、あなたが持っているものをすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。
その上で私に従ってきなさい。」
すると、彼はこの言葉に顔をこもらせ、悲しみながら立ち去った。
多くの財産を持っていたからである。
イエスは周囲を見回して、弟子たちに言われた。
富を持つ者が神の国に入るのは、
なんと難しいことでしょう。
弟子たちはこのイエスの言葉に驚いた。
しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。
「子たちよ、神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。
金持ちが神の国に入るよりは、
ラクダが針の穴を通るほうが優しいのです。」
弟子たちはますます驚いて互いに言った。
それでは誰が救われることができるでしょう。
イエスは彼らをじっと見て言われた。
それは人にはできないことです。
しかし、神は違います。
神にはどんなことでもできるのです。
以上です。今日はこのところから、
富と永遠の命と題して
御言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。
失礼しました。
ちょっと待ってください。
音が聞こえない。
03:00
ちょっと待ってください。
ミュートになりました。
すみません。
音声が聞こえるかと思います。
それでは今日はこのところから、
富と永遠の命と題して御言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。
先週、礼拝が開けた後ですね、大雪で大変でしたけれども、
今日は無事に皆さんと共に礼拝ができることを
期待しております。
今週はもっと暑くなりましてですね、
水曜日、東京近郊では20度くらいになるんじゃないか、
そんな本当に乱光芸の激しい日々が続いておりますけれども、
お互い守られますように、祈り合っていければと思います。
今日の歌書はですね、
しばらくイエス様の過激な言葉が続くところで、
この全てを捨てて私についてきなさい、みたいなのが書いてあります。
宗教カルトがですね、キリスト教を名乗る宗教カルトがこの歌書を通して、
あなたの財産全部を捧げなさいと迫る時に用いられるような歌書です。
そういうカルトに騙されないために私たちは、
今まで言ってきましたように、聖書を正しく理解する必要があるわけです。
その一つの道がですね、イエス様が教えた当時の人がそれをどう聞いたか、
あるいはそれをイエス様はどういう意味で当時の人に直接教えたのかということ。
同時にそこからですね、今度は歴史を通して、
今の私たちがそれから何を学ぶのかという、
そのことをですね、丁寧に解き明かしていく、学んでいくという方法があります。
今日はそんなことをいつも通り意識しながら、3つの点からお話したいと思います。
最初はこの第一義的なイエス様の意味ですね。
2番目はそのエッセンスである、人は自分を救うことができない、神様だけが人を救えるということ。
最後はじゃあここから私たちが学べるエッセンスとして、
神から私たちを遠ざけるものやことということを少し触れたいと思います。
まず最初はですね、第一義的なこととしまして、
第一義的な意味、それはイエス様に直接教えを聞いた人にとっての文脈ということです。
それはですね、まず21節の言葉の意味から考えますが、
イエス様がこの、あるマルコやルカの副印象を見ると、
金持ちの青年だと言われていますから、青年の映画が出てますけれども、
彼に対して永遠の命を得るために何をしたら良いですか、という彼の問いかけに対して、
イエス様はこう答えたんですね。
何でもやっています、みたいな、全て守っています、と言われた後にこう言いました。
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あなたに欠けていることが一つあります。
かえって、あなたが持っているものを全て売り払い、貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。
その上で私に従ってきなさい、という言葉です。
ここの意味、これはまず、ここに登場する、ここにいる富を持った青年と言いましょうか。
富を持った青年、男の人に直接語られた言葉として理解しなければなりません。
言い換えれば、私たちが今持っているもの全てを売り払って、貧しい人に捧げなければならないと教えているわけではないということです。
その上で、このイエス様の下で永遠の命を得る方法を尋ねた、この止める人。
その答えとして直接の意味があったんですね。
それはイエス様の弟子たち、特に十二弟子とこの青年の関係を見てくると浮き彫りになります。
どちらも同じ場所でイエス様のこの教えを聞きました。
イエス様の弟子たちとこの止める人の間には、同じところにいて同じ言葉を共有しながら、全く違った背景があったわけです。
それは、十二弟子は皆さんがご存知のように、まずペテロとその兄弟アンデレがガリラヤコで、私について来なさいと言われました。
その時に1章18節にありますが、ここに書いてあります。
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。まさに何もかも捨ててイエスにこの二人は従いました。
そのすぐ後に、マルコの1章20節のところに書いてありますが、
やはり両親のヨハネとヤコブの兄弟。
彼らも同じようにイエス様にまんぬくられた時にどうしたか。
1章20節に書いてありますが、こうあります。
彼らは父・ゼベタイを雇い人たちと共に船に残してイエスの後について行った。
つまりこの十二弟子は文字通りすべてのものを置いて、捨ててと言いますか、イエス様に従ってきたわけです。
一節によると、女性の弟子たちもいたので、ペテロの奥さんは一緒にいたんじゃないかという節もありますが、それはそれとしまして。
イエス様はここで何を言ったかというと、この留める人に対してペテロやヨハネやヤコブやアンデレと同じことを求めたんです。
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今ここであなたが持っているものをすべて売り払って、そして私についてきなさい。
そういう意味、そういう文脈で文字通りすべて売り払って、私の弟子として従ってきなさいと教えられた。
そのことをまず私たちは知るべき、必要があるわけです。これが第一の点です。
その上でこの言葉から、今度は救いの本質に関わる教えに進展していきます。それが二番目からの内容です。
二番目、人は自分を救うことができない。神のみが人を救うことができるということです。
イエス様は弟子たちにすごく印象的な言葉を言いました。
金持ちが神の国に入ること、富物が神の国に入ることは何と難しいだろうか。
富物、金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が楽だと言ったわけですね。
皆さん、私も言ったことがありますが、奈良の東大寺に修学旅行に行くと、大きい大仏殿の中に柱があって、穴が開いているわけですよね。
その柱の穴の中を通り抜けると無病息災のご利益がある。
あの穴、何のサイズか知ってますよね。
あれは、北島三郎さんではなくて、東大寺の大仏の鼻の穴の大きさと同じサイズの穴が柱の下にあって、
よくね、写真出てますけど、私も通りましたけどね、中国西時代。
そこを通ると、ご利益があると言われています。
イエス様は、そうじゃなくて、針の穴をラクダが通ることの方が金持ちが神の国に入るより簡単だと言ったんです。
どういうことかというと、皆さんが気がついているように、全くできない、不可能ということを表す言葉です。
当時、中東で最大の生き物は何かと言ったら、ラクダなんです。今もそうです。
ちなみに、地上最大の哺乳類は何か知ってます?知ってます?
地上最大の大きさの哺乳類。白流すクジラ。
でも、とにかく中東、今でも一番大きい生物はラクダ。
だからその一番大きいものが、針の穴を通ることが容易いというのは、不可能なことを表しているわけです。
で、その上で、イエス様と弟子とのやり取りから、救いに関わる三つのことが、本質が分かります。
一つは、三つの言葉を通して一つの同じことを教えています。
それは、永遠の命を受け継ぐという十七説の言葉、神の国に入るという二十五説の言葉、そして救われるという二十六説の言葉。
12:01
これらはいずれも、幅広く奥が深い、神様にあって人が救われるとか、そういうことを表す三つの言い換えなんですね。
皆さん、教会生活長いですから分かるかと思います。
その上で考えていくことは、イエス様に問いかけをした、この止める人は、自分は十分神様の今しめ、十戒の後半の部分を守っている。
だから、永遠の命を得る資格があるという、自負がある程度あったようなんですね。
その上で、この人に全て売り払いなさい、そしてついてきなさいと命じた理由。
ここも見えてくるんですが、それは、あなたは全部立法守って、神の前に正しいと思えるかもしれませんが、完全になることはできないですよね。
神の愛を100%実践することができませんよね、というチャレンジをした。
彼の不十分さを彼に分からせるために、全て売って、貧しい人に捧げなさい、そして私についてきなさいとイエス様が教えたわけです。
これはですね、この男の人が自分の能力によって、立法を守るという自分の能力によって救われると考えていたということと関わりです。
その上で、弟子たちが驚きましたよね。
金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が優しいと聞いた時。
その驚いた背景には、旧約聖書の教えがあったんです。
それは、アブラハムなんか見てもそうですね、非常に富んでましたよね。
親戚同士喧嘩するぐらい家畜に恵まれていた。ヤクブも非常に裕福でした。ソルマンもそうでした。
豊かな人、富を持っている人は神様から祝福された人だと、そういう信仰があったんです。
そういう人ですから、当然救われるという考えもあったわけです。
ですから、そんなに神様に祝福されている人でさえもう救われないのであれば、一体誰が救われるのかと弟子たちは疑問に思ったわけです。
ある学者は、この金持ちについて弟子たちがこう考えていたと言うんですね。
弟子たちは、金持ちにはこの世における全てのことが可能であり、また金持ちにとっては、神の国に入ることさえ簡単であると考えていたと。
もしかしたら私たちもなんとなくそう考えてしまうかもしれません。
その学者によれば、これはある一般的な宗教的な考えだとも言えます。
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弟子たちが持っていた、金持ちは当然救われるという考えの背景には、地位や財産が救いの根拠になるという、そういう信仰があったわけです。
一方、イエス様の前に駆けつけた金持ちの男の人は、自分の能力が立法を守る能力、自分の正しさが救いの根拠になると考えたわけです。
でも、いずれの根拠を持ってしても、人は自分を救えないということを弟子たちは知らされたわけです。
であれば当然弟子たちは、自分たちは当然救われないし、誰も救われる人がいないじゃないかということで驚いて、
もしかしたら言葉には、意気通りを持ってイエス様に、「じゃあ誰が救われるんですか?」って迫ったというんです。
これ私たちがどういうふうにとって、どういうような響きかなと考えたときに、私が思いついたのは、
例えばね、マザーテレサのような善行を積んでも、それだけでは神の国に入れないと言われていることと等しいんじゃないかと思うんです。
まあマザーテレサは天国にいらっしゃると思うんですけども、
マザーテレサはあんなに全てを捨てて神様に従った人でさえも救われないんですか?
じゃあ私は救われないじゃないですか?誰が救われるんですか?
それくらいの驚きを持って弟子たちはイエス様に、「じゃあ誰が救われるんですか?」と迫ったんですよね。
しかしですね、この箇所を解説しながら、ある学者はこういうことを、イエス様が本当に教えたかったことをこういうふうに解説しているんですね。
実にイエス様がこの中で教えようとしていること、それは実に神の国に入ることは、誰にとってもなんと難しいことであろうか。
さらに富を持つ者にとっては、それは全く不可能である。それに執着するからだというんですね。
実際のところ、人間的に言えば、金持ちであろうとなかろうと、全ての人にとって救われるとは不可能である。
しかし神には何でもできるのである、とイエス様は教えられた。
イエス様は、どんなことでもできる神様は、人を神の国に入れることができ、人に永遠の命を授けることができ、
人を救うことができる、人にはできないが神様には人を救うことができる、なぜなら神に不可能なことはないからだと福音を語っているわけなんですね。
皆さんもご存知というか気がついているかと思いますけれども、良いことをすることは本当に尊いことです。
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しかし私たちが成し遂げることができる、どんなことも私たちが求める永遠の命に達するのには不十分だということなんですね。
お気づきのように、その永遠の命を授かる、神の国に入る基準に達する、完全にそれを達成できるのは神様以外にありえないし、
人であれば神が人となってこられたイエス様以外にはありえないということなんですね。
そしてその救いに至る完全さを私たちに授けるためにイエス様が来られたわけです。
そしてそのイエス様を子供のように神様のプレゼントとして素直に受け入れるときに、私たちは神の国に招き入れられる。
ですからよく言われている救いは神様の賜物、プレゼントです。そういう理由なんですね。
子供のように素直にイエス様が私を救ってくださる、ありがとうございますと信じ受け入れる。
私たちは自分の拠り所、この永遠の命を得るための拠り所をいろいろ考えて不十分だと思うことがあるかと思います。
あるいは少し延長して考えると、自分自身が極端に言うとこの世に存在する意義とか、この社会にいる意味ということを自分自身のありようによって考えると、
胸を張って私はこれこれ故にこの世にいることができると言える人が少ないかもしれないです。
でもそうではない。神の国に入るのと同じように、私たちがこの世に存在している意義、その根拠というのは、自分自身のありようによるのではなくて、神様ご自身にある、イエス様ご自身にあるんですね。
私たちの救いの拠り所、私たち自身のアイデンティティとしての拠り所、それこそまさに神ご自身でありイエス様ご自身である。
救いに関して言えば、パウロがイエス様の死をまとめてこのようなことを書いていますね。ロンマ人の手紙の6章23節。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの宿、キリストイエスにある永遠の命です。
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このことを覚えていきたいと思います。そして最後、ではエッセンスを学んでいきましょう。
3番目、神から私たちを遠ざけるものについて、最後に少し考えたいと思います。
イエス様はこの豊かな男の人に言いましたね。10章21節。
あなたにかけていることが一つあります。かえってあなたが持っているものをすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。
そうすればあなたは天に宝を持つことになります。その上で私に従ってきなさい。
繰り返しますが、これはイエス様のもとを訪ねてきた止める青年、男の人に直接向けられた言葉、文字通り向けられた言葉でした。
しかしそこから学ぶべきこと、私たちにとって文字通りの意味でなくても、学者に言わせれば精神的な意味がある、エッセンスをここから学ぶことができる。
それについてある方はこう解説しているんですね。
私たちがイエス様に従うことを妨げるものを、私たちの生活から、過激ですけどね、根絶しなければならない。
またそれらのものに注意を払うべきである。
この男の人の場合は富でした。
じゃあそれは何ですか、エッセンスは何ですか、実例としてこう挙げています。
例えば欲望や誇り、自分勝手で自己中心的なもの、またこれらに関連するものや習慣を挙げています。
私自身、皆さんの前にいますか言いますけど、胸を張ってですね、そういうものから私は完全に自由だと言い切れない自分の現実があることを皆さんに告白します。
だからこそですね、先ほどの福井に入って、まさに自分は自分を救うことができない。
だからイエス様の救いにおすがりするんだというところに戻っていくわけです。
その上でまた、これがですね、クリスチャンの成熟に関わってくるんですけども、楽しいこともしますし、欲しいものを手にしますが、
でもそこに、エンジョイしながらもバランスよくとらわれず、そして必要な時に必要なものを捧げていく、そういう在り方がクリスチャンの成熟なのではないかと思います。
このイエス様の真っ直ぐな教えを聞いてですね、心が揺さぶられることがあれば、それは何でしょうかね、イエス様の言葉の力です。
その上で、今私がどうイエス様にお答えするのか、神に与えられたものをどう喜び楽しんでいくかということを考えていくということが、クリスチャンとしての成熟であるし、終わりへの旅路の中で養っていくものかと。
24:16
イエス様がおっしゃっていること、またキリスト教の歴史の中で教えられてきたこと、それはですね、ものをため込むことによって人生が豊かになったり、人生や命が保障されるのではないということなんですね。
ため込むことによって、握りしめることによってではなくて、私たち自身を神様にお委ねするときに、明け渡すときに私たちの命が守られ、人生も豊かにされていく、それが一体どういうことなのかということを知っていくことが、クリスチャン生活の醍醐味でもあるわけです。
そういう意味で、私たちが囚われるものに気を付けていく上でも、最後に一つの見事をご紹介して終わりにしたいと思います。
神言の4章の23節です。
じゃあ読める方は一緒に何を読んでみましょう。
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ、命の泉はこれから沸く。
私たちの救い主ならイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたはこの止める男の人に厳しいチャレンジをなさいました。
それによって彼は揺さぶられ、悲しみながらあなたの元を立ち去りました。
私たちは自分が握りしめるものであり、諦められないものであることも知っています。
そんな私たちをあなたが、まさに恵みのゆえに、イエス様の贖いのように救ってくださっていること、神様の御国に導き入れてくださっていることを感謝いたします。
あなたに与えられたものを豊かに喜びながら、またあなたの前で手放し、しがみつかない、そんな生き方をしていくことができますように。
あなたに従いますと言うことができる、そのような弟子として私たちが歩むことができるように、良か導いてください。
その命の幸いの道を、あなたに品しめていただくことを、あなたに委ねながら、これらの願いと思いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、イエス様の御言葉にお応えして、黙祷する時間を持ちましょう。
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