イエスの神性についての問い
ヨハネの福音書 十章三十一節から四十二節
ユダヤ人たちはイエスを石打ちにしようとして再び石を取り上げた。
イエスは彼らに答えられた。
私は父から出た多くの良い技をあなた方に示しました。
そのうちのどの技のために私を石打ちにしようとするのですか?
ユダヤ人たちはイエスに答えた。
あなたを石打ちにするのは良い技のためではなく、暴徳のためだ。
あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。
イエスは彼らに答えられた。
あなた方の律法に、私は言った、お前たちは神々だと書かれていないでしょうか。
神の言葉を受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が破棄されることはありえないのだから、
私は神の子であると私が言ったからといって、
どうしてあなた方は父が聖なるものとして世に使わせたものについて、神を暴徳しているというのですか。
もし私が私の父の身業を行っていないのなら、私を信じてはいけません。
しかし、行っているのなら、たとえ私が信じられなくても、私の技を信じなさい。
それは、父が私におられ、私も父にいることをあなた方が知り、また深く理解するようになるためです。
そこで彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼の手から逃れられた。
そしてイエスは再びヨロダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。
多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、ヨハネは何も記しを行わなかったが、
この方についてヨハネが話したことは全て真実であったと言った。
そしてその地で多くの人々がイエスを信じた。
神々の呼び名の解釈
以上です。今日はこのところから、道地と御子の内にと題して言葉を取り付けます。
皆様おはようございます。
11月に入りました。
今日は晴れやかで、少しばかりですね、昨日今日と。
過ごしやすい日。
3連休なんでね、交絡日和だなんてニュースや天気報で言っていましたが、
良い気候の中ともに礼拝できることを感謝しています。
さて、イエス様が神様であることについてですね、前回は10章30節の言葉。
イエス様が自分のことをですね、私と父は一つであると宣言したその言葉から学びました。
今日の箇所でイエス様はそのことを別の表現を用いて言い表しています。
なぜそのようないろいろな表現をするか。
それはですね、いろんな言い方ができるんですが、神様は無限なる聖なるお方です。
そして私たちは有限な存在です。
ですからこの有限な私たちが無限で知り得ない神様を知るために、いろいろな表現や言葉を使って、
今日の場合はイエス様はイエス様ご自身や神様のことを明らかにしている。
そのように理解していきましょう。
それがいつも言ってますが、ヨハネの福井書が意味をですね、広げたり深めたり豊かにしながら、
イエス様の神性を証ししているということとも関係しているんですけどね。
そこであっても、いろんな表現があってもですね、私たちは神様の真理を理解し尽くすことができません。
ですからその限界があるということを知りながらも、私たちが少しでもイエス様の神であるということ、
その意味が私たちにとってどんな意味があるかということを理解できればということを願って進めていきます。
今日の箇所ではですね、2つほど理解が難しい表現が出てきます。
その2つだけじゃないんですけども、特に2つをですね、最初1つ目、2つ目ということで取り上げていきます。
最初の点は、お前たちは神々だという言葉、その聖書の引用ですね。
2番目の難しいとされる解釈というか言葉は、父なる神がイエス様のうちにおり、イエス様のうちに父なる神がいるという、難しい言葉で言うと相互内在というんですね。
そういう意味、この2つが難しい点を見ていきます。
そして最後は、今日の10章の締めくくりにあるバプティスマのヨハネについての言及から、脇役が活躍できてみたいな、そんなことを最後、私たちの進行性が伝わって考えていきます。
じゃあ、まず最初の点1番、お前たちは神々だというイエス様の言葉から学んでいきます。
イエスは彼らに答えられた、神の言葉を受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が破棄されることはありえないのだから、私は神の子であると私が言ったからといって、どうしてあなた方は父が聖なるものとし、世に使わせたものについて、神を冒涜しているというのですか?
いつも言っているそれぞれの単語の意味はわかるんだけれども、それが全体的に何を言っているのかというのがよくわからない箇所なので、それを少し深めていきます。
その前に、先週もそうでしたが、この時間、ある世界的に大事なことが行われていますよね。
世界シリーズ、ワールドシリーズの第7戦で大谷翔平が先発していました。
トロントというカナダの球場で行われていますが、もし私がトロントの球場に行って、私はメジャーリーガーで二刀流の選手ですから入れてくださいと言ったら、どうなると思いますか?
理解のある人なら、「はいはい、わかりましたよ。」と連れて行ってくれるかもしれませんし、
北米なんかは、アメリカの業界なんかはそういったんですけど、屈強な兵隊上がりの警備員が両脇を抱えて連れ出されて、両足バタバタされながら、
俺は二刀流なんだ!と叫ぶかもしれません。
これは何を言っているかというと、皆さんね、私がもちろん違いますけど、大谷翔平選手がそう言ったら、そうだそうだと信じますよね。
これは何が違うかというと、言っている内容は同じなんです。
みんな理解しているじゃないですか。二刀流の選手だ。
でも、誰が言ったかによって、それを信じるか信じないかが出てくるんです。
もっと言いたいことは、言っている内容を理解するけれども、言っている人を信じるか信じないかという問題なんですね。
何でこんなくだらないことを言ったかと言いますと、これが…
ちょっと絵がアコになっちゃいました。
これが、今日、ユダヤ人たちがイエス様が神様であることは信じなかった、石打ちにしようとしたということと関わってくるからなんです。
つまり、ユダヤ人たちはイエス様のことが神である、神から使わされた救い主だということは信じませんでしたよね。
でも、イエス様が言った意味は理解したじゃないですか。
この人は自分が神だと言っているんだ。
だから、そのことを彼らはこう言っているわけじゃないですか。
お前は人間でありながら自分を神としている。
だから、お前は神を冒涜しているから、俺たちは石を投げるんだと言っているんですね。
この微妙な違いをちょっと理解していただきたいですね。
それは前提として、今お話ししましたけれども、ここでイエス様が聖書の言葉を引用しているんですね。
神の言葉を受けた人々を神と呼んだなら、聖書が破棄されることはないのだから、私の神の子であると、私が言ったのだと言ってうぬんというのは、
イエス様が4編の82編の6節の言葉を引用しているんです。
全部引用しませんけど、そこにこう書いてあるんですね。
ちょっと一緒に読んでみましょうか。
私は言った。お前たちは神々だ。みな糸高き者の子らだ。
おそらくこの私はというのは、神御自身が言った言葉です。
神御自身が人間を指して、あなたたちは神々だ。糸高き者の子らだと言ったという箇所なんですね。
神様は誰を指して、お前たちは神々だ。複数だから神々って言ってるんです。
よくわからないんですが、一つ有力というか主な説は、
孟聖を通して神の言葉を授かった当時のイスラエルの民を言ってるんですね。
そして2番目によく言われているのは、これは旧約聖書の詩式って知ってます?詩式。
英語でジャージズ。詩式のデボラさん。詩式にはいっぱい出てくるじゃないですか。
サムソンとかね。その詩師たちが神の言葉を授かったとして、彼ら彼女らを神々だって言ってるという説があります。
繰り返しますが、それが誰かわからないんですけども、イエス様は律法で言ってますけども、旧約聖書を指して、
その聖書が言ってる人間を神の子だって言ってるからって言うんですね。まとめるとこう言ってるんですね、イエス様は。
この人間を神様と呼んだという実例が聖書にあるなら、旧約聖書にあるなら、神の子である私が自分を神と呼んでも一向に差し支えないではないかっていうことをここで言いたかったわけですね。
もうちょっと丁寧に説明すると、不滅の神の言葉である聖書で、詩編で、人間を神と呼んでいるなら、
父と子の相互内在
なおのこと、イエス様が神であると主張しても何ら問題はないではないかということなんです。なぜなら、イエス様はこれまで主張されてきたように、
父なる神のもとから直接使わされた、性別されて直接使わされた神ご自身であるからだっていう主張なんですね。
繰り返しますが、ようやくすると、旧約聖書が、当時の聖書が人間を神と呼んでいるなら、神々と呼んでいるならば、私が自分を神というのは当然だろうっていう、そういう主張が今のイエス様の自分に対する証としての聖書の引用なんですね。
まずここの部分は、ちょっと難しいイエス様の言い回しにどういう意味があったのかということをとりあえず紹介しました。
その上で2番目、今度は私たちの信仰生活にもかかってくることを見ていきます。
2番目、未知知と御子の相互内在。
でも、それでもあんたたち信じないならば、とイエス様は続けているんですね。
もし私が、私の父の御業を行っていないのなら、私を信じてはなりません。
しかし、行っているなら、たとえ私が信じられなくても、私の業を信じなさい。
では、それはから読めるかと読んでみましょうか。
それは、父が私におられ、私も父にいることを、あなた方が知り、また深く理解するようになるためです。
このイエス様の最後の言葉、父が私におられ、私も父にいるという言葉、それは相互内在と言うんですね。
元の言葉では、インという英語にあたる言葉が使われていますから、私が父の中にいて、父も私の中にいるというニュアンスなんですね。
実はこれは、ずっとこれまでイエス様がおっしゃってきたことのまとめなんですね。
この間、先ほど言いましたように、先週見たところでは、十章の三十節で、私と父とは一つです。
イエス様が父なる神と一つなる神だという関わりということなんですね。
そして、その前にイエス様はこういうことを言ってきました。五章十九節。
子は父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを子も同様に行うのです。
ここにも実は、父と御子の一つだということと、相互内在ということが示唆されているんですね。
こうやって段階的にイエス様は、ご自分が神であるということを広げ深めて証ししてこられて、
今日のところでは、私と父はお互いに内に存在し合うということを言っているわけなんです。
それはどういうことかというと、単にお互いが協力して働いているという意味ではないんですね。
別々の人と協力しちゃって。あるいは、互いが似ているということでもないんです。
先週も言いましたけれども、そこには本質的な一致と交わりがあるということを意味しています。
神は神であり、人間は人間という区別がある。
そしてイエス様は人間という形をとりながらも、父なる神と等しく神だという、
そういう本質的な一致と、誰も超えることができない交わりがあるということを意味しているわけなんですね。
そこから何が言えるかと言いますと、つまりイエス様の言葉と行いは、父なる神様の技と言葉そのものであるということを示しているということなんですね。
これちょっと難しいんですけれども、正確には表現しえないんですが、例えて話してみますね。
これ、ロウソクの炎があります。
この光というのは炎から生まれている。
そして光を見ることによって炎の存在を示すものですね。火を。
でもこの炎と光は分かちがたく、互いに内在している。置き換えられるというか、不可分な存在だということなんです。
でも炎は炎、光は光。そしてそこからミチチとミコの関係も似ている。
どちらか一方が存在すれば、もう一方も必ずそこにおられる。
それはつまりイエスのうちにミチチがおられて、ミチチのうちにイエスがおられるという相互内在の関係を表しているんですね。
時間ないのはあれですが、あるいは波と水。波だけれども水だ、そんなことも言えますけど。
ちょっとこういうことが少しは理解できるのではないかと思います。
その上で何がこれ意味があるかというと、実は神様ご自身について聖書、ここではパウロがこう言っているということに注目したいと思うんですね。
神様について聖書は、パウロはこう言っているんですね。ちょっと長いんですが、第一テーマの第6章16節を読んでみましょうか。
神様は死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間が誰一人見たことがなく、見ることもできない方。
神との関係の重要性
これが神様の実在というか本質ですね。
旧約聖書で神の声を聞いたイザエとかは、神を見たから死ぬなんていうのもありました。
本来ここで言われているように、人間は神様を見ることができない、近づくことができない。
そしてそこから考えるときにですね、イエス様が人となってこられた神だということの重大な意味がわかるわけなんです。
この目に見えず近づくこともできない神様、それがでもイエス様がこの目の前にいて、当時の人は話をすることができた。
本来は目に見えず近づくこともできない神様と顔と顔を合わせて当時の人たちは語り合えたということが奇跡ですよね。
そしてなぜイエス様は人となってこられたかというと、人間が近づくことができないゆえに神様から近づいてきてくださって、人間の姿を。
そして人間が理解し得ない神様を言葉を通して、奇跡を通して実際に示すために。
私がするこということは神がするこということだということとしてこられたわけです。
そして最後は私たちを救うために十字架で死んでくださったということなんですね。
そのようなことを当たり前のように考えてますけれど、こういう神に本来近づけないというアプローチから考えると、
人となってこられたイエス様、その救い主として十字架にかかって死んでくださったということの尊さ、
イフの念ということが生まれて、私たちの信仰も深まっていったり、養われていくのではないかと考えるわけです。
ヨハネの証言
そしてもう一つだけ付け加えますと、次のようなことも言えるんですね。
ちょっと変な絵ですけれども、こういうことも言えるわけです。
つまりイエス様と父なる神様の相互内在というのは、私たちとイエス様との関係にも関わってくるんですね。
イエス様と父なる神様が互いにその内に存在するように、
イエス様は私たちもイエス様の中にいて、そしてイエス様も私たちの中にいるということを言っておられます。
ちょっとこちらの前の方に用意できなかったんですが、皆様が手元に持っているレジュメですね、聖書を開ける方はですね。
聖書はヨハネの14章の20節。レジュメですと、第3のポイントの真上、第2のポイントの最後にヨハネの14の20と書いてありますが、
ヨハネの14の20節でこういうことを言っておられるんですね。
読んでみますね。
つまり、このようにですね、私たちも神様にはなり得ないんですけれども、
があなた方のうちに家にいることがあなた方にわかりますわかりますね その日には私が父の家にあなた方が私の家にそして私があなた方の家にある
ことがあなた方にわかります つまり
このようにですね私たちも 神様にはなり得ないんですけども今まで言ってきたように道と御子の親密な関係の中に入れ
られているしかも今度は イエス様が私たち
私たちがイエス様の中にいて私たちは守られ そして
イエス様は私たちの中におられて私たちを支え導いてくださる まあそういうこともわかってくるわけです
じゃあ一番最後 今日ちょっと難しい話でしたけども最後少しわかりやすいかと3番目
脇役が活躍するときですね10章の41から42 読んでいますね多くの人々がイエスのところに来た
彼らはヨハネは何もしるしを行わなかったがこの方について ヨハネが話したことはすべて真実であったと言った
そしてその地で多くの人々がイエスを信じた イエス様はこのやり取りの後ですね
ユダヤ人たちがイエス様を捉えようとしたけども時じゃなかったので捉えられなかった そしてイエス様はそこを離れてエルサレムを離れてあるところにどこに行ったかそれは
バクテスマのヨハネが最初に先例を授けていた ヨルダン側の地方に行ったわけですね
そしてそこで多くの人々がこのイエス様を信じたということが書かれているわけです でこれ何が意味があるのかということなんですけども
ここでですね
この多くの人々がイエス様を信じたこの彼らはですね彼女らはすでに ヨハネからイエス様のことを聞いていたわけです
それでヨハネが言った通りこのイエスという方は神様が約束した神の子羊 世の罪を取り除く神の子羊だということを悟って
そして多くの人々がイエス様を信じたということなんですね でここから何が言えるか
ヨハネの証言が真実だったといって多くの人々が信じました ヨハネは
最後の預言者と言われていますね救い主が来るにあたって最後の預言者 旧約の最後のマラキに書いてありますね
で預言者っていうのを今まで見てきましたけれども モーセとかエリアが出てきましたどういう人たちでした
彼らの神の から使わされた神性性を証しするものは何だったか覚えてます
なぜ人々が尊敬したそれは 奇跡を行ったからですよね
奇跡モーセはパンを降らせ水を与える 例えばそしてエリアやエリシャは死んだ人を蘇らせと
著しい奇跡をした神の人だったから尊敬されていましたがじゃあヨハネはどんな 奇跡を行いましたか
全く行わなかったわけですね奇跡を行わないどころか 食べも飲みもしなければ
気が触れているという人々にバカにされ そして最後どなかったかというとヘロデ王に捉えられて首を切られて準拠したわけです
どんな奇跡も行わなかっ でも彼は彼の残した言葉によってイエス様の救い主であることが証しされた
そして多くの人々がヨハネを信じたわけですね このようにですね
ヨハネは言葉ヨハネは死んでしまったけれども時が来て身を結んで多くの人々がイエス様を 信じた
されているところに意味があるわけです まあ
信仰の忍耐
私たちに当てはめて考えるならこういうことも言えるんではないかと思うんですね まあ私たちもですねヨハネのようにすぐに結果が見えないやったことに結果が見えないって
ことがあるかもしれん あるいは人からの評価を得ることがないという経験があるかもしれないですね
でも少なくともイエス様を証言することについて言えば時が経てばその真実味が明らかになって まあ身を結ぶ時が来る
ことです そしてこのヨハネの生き様自体もですね
今を生きる私たちにとって希望になるのではないかなということで最後紹介いたしました そのような忍耐と信仰を励ます言葉を最後に
パウロの言葉から見て終わりにしたいと思います 第一コリントの15章の58節を読みましょう
はいですから私の愛する兄弟たち 固くたって動かされることなくいつも主の技に励みなさい
あなた方は自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのです お祈りしましょう
天の父なる神様 あなたが御子イエス様を聖別しこのように遣わしててくださいました
私たちが見ることも触れることもできないそのような神様ご自身をイエス様を通して明らかにし そして私たちが今聖書を通して日々の生活を通して
イエス様の救い神ご自身のみわざを知ることができる体験をすることができる幸いを感謝いたします どうか私たちが日々歩む中で
そのあなたの宮座を見ることができるように知ることができますように また願わくはヨハネのようにあなたの時にあなたにあって身を結ぶことができますようどうか
導いてください この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それで1分ほど御言葉に応えてお祈りする時間を持ちましょう