神様の愛と温かさ
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、今日も私たちを、死の御前へと招いてくださって、ありがとうございます。
季節の変わり目で祈っていただきましたが、本当に心も体も霊も、落ち着かないような中にあっても、
しかし、主が私たちといつも共にいてくださり、慰め励まし、今日また死の御前へと来させていただけたことを、心からありがとうございます。
神様、あなたは私たちを心から愛し抜いてくださいました。
巫女イエス様の流された血汁によって、私たちの罪を完全に許し、それだけではなく三日目に甦えられた命、復活の命、永遠の命、
永遠なる死と共に生き続けるその命を与えてくださり、私たちを、もはやあなたの力ではない、私の恵みによって歩みなさいという、あなたの御恵みの世界へと招き入れてくださったことを、ありがとうございます。
そして、死と共にこの御国を築きなさいと、あなたが共に私たちに使命を与え、用いてくださることも、ありがとうございます。
神様どうか、私たちに今日も命の糧が必要ですから、御言葉を開いてください。
精霊様が一人一人に届いてくださいますように、そしてあなたの命の言葉によって、私たちが今日も力を得て立ち上がることができますように、帰りに来てください。お願いいたします。
ここに来れないお一人一人、施設におられる方、ご自宅で礼拝を守っておられる方、
心がこちらに向かない方、傷んでおられる方、お一人一人がいらっしゃいます。
どうか主が慰め励まし、あなたをその場で仰ぐことができますよう助けてください。
特に今朝は日本の国においては衆院選が持たれています。
どうか主よ、あなたの本当に知恵と、あなたを恐れる指導者が立てられますように、どうかこの時もあなたが働いてください。お願いいたします。
また、今日は宗教改革記念日です。
500年前にあなたの恵みを発見した、本当にそのルターの系譜に私たちもいますが、
どうか主の恵み、そしてまたあなたを信頼することの大切さをまた覚えさせてくださいますように、お願いいたします。
これからの時を未定に委ねます。
どうか主が御言葉を開き、私たちに語りかけてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
教会のコミュニティ
今朝は午後に秋のコンサートが今日はあります。
昨日から千穂子さんたちが来てくださってね、セッティングもしてくださいました。
午後のコンサート、私も楽しみにしていますし、また関西ツアーの最後ですよね。
本当によくここまでいろいろと待ってくださって、主の和尚になってこられたことを、主を褒めています。
こういう教会のコンサートっていいなぁと思うんです。
私は母教会で毎年クリスマスコンサートをしていましたけれども、その時毎回友達を誘ってたんですね。何人も友達が来てくれました。
でもその時に思っていたのは、何か神様を信じて救われますようにということよりも、むしろ教会っていいところだからおいでよって思ってたんですね。
私は小さい頃から教会でずっと育ってきたんです。素朴に思っていました。教会ってこんなにいいところなのに、なんでみんな来ないんだろうということです。
何がいいと思っていたのかというと、あえて言葉にするならば、教会はなんとなく漂う温かさがあると思うんですよ。温かさがある。
教会の人は優しかったですし、単純に私は居心地がすごく良かったんですね。
そして牧師になって思うんですけれども、その教会に漂う温かさっていうのは、教会にいい人がたくさん揃ってたからというわけではなくて、
どちらかというと、教会が信じている神様って温かいお方なんだなということ、そこから来てるんだなと単純に思いました。
今の時代はよく宗教が警戒される時代になって久しい、そう思います。無理もありません。人を恐怖で縛り付ける宗教があります。多額のお金を無心して人の人生を潰す宗教があります。
でも覚えていただきたいのは、本物の神様っていうのは温かいんですよ。温度のない、そんな冷たい神ではないはずですね。
で、今朝ご一緒に一つの歌詞を読みたいのは、11節なんですね。
今日読んでいただいたヨハネの十章の11節。
私たちの強さと弱さ
私は良い牧者です。良い牧者は、羊のために命を捨てますという言葉があります。
ここは実に、私たちが信じる神様、もしくはイエス様という方が、どれほど温かいかということを語っている、そのような言葉だと思います。
少しこの歌詞に注目をしながら、その温かさをご一緒に今朝感じられたらいいなと思っております。
さて、今日読んでいただいたこの十章の7節から15節というのは、イエス様の例え話なんです。
例え話というのは、イエス様と私たち人間の関係を分かりやすくすっきり説明してくれているのが、例え話と思っていただいたらいいです。
イエス様は言われるわけです。
私とあなたの関係というのは、私イエスが牧者、羊飼いであるならば、あなたたちは羊のようですよね、という話をされるんです。
私が羊飼いであるならば、あなたたちは羊のようですよね、と。
あなたたちは羊によく似ている。
そのことは聖書の中で、いくつかそういう比喩が伝われますね。
人間というのは羊によく例えられます。
例えば、聖書で言えば四編の23編というのは有名ですし、そしてもう一つ有名なのはおそらく、
イザヤ書の53章という箇所です。
その中にこういう言葉があります。有名なのでお聞きくださればと思いますが、
イザヤ書53章の6節というところに、
私たちは皆羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行ったという言葉があるんです。
私たちは皆羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
人間というのは羊のようにさまよいと言いますけれども、道に迷うものなのだということです。
羊という生き物はよく道に迷います。
前も話しましたが、羊というのは目が悪いんですね。近くのものしか見ることができません。
だから遠くを見渡せないがために、自分が今どこにいるのかということがよくわからなくなります。
そして性格は臆病で頑固だと言われます。臆病なのでよくビビってしまうんですね。
本来歩むべき道から何かがあると、ポーンとすぐ外れてしまうということがありますし、
けれども同時に頑固なので、そのポーンと外れた道でも、ここが私の道として正しいはずなんだと、
頑固にその道を突き進んでしまう。
自分勝手な道を突き進んでしまうということ。
その結果、さまよってしまうということがある。
本来自分の歩むべき場所、自分のいるべき場所から遠く離れていってしまって、
そして自力では本来いるべき場所に戻ることができなくなっていく。
実はそれが羊という姿であり、さまよっているという状況です。
でも羊というのは頑固なので、実はそういう自分がさまよっているとは自覚は決してしないんですね。
私は自分のいるべき場所にいるんだ。もうそれでいいんだと落ち着いてしまうということがある。
聖書は言うんです。この羊の姿というのは、あなたに似ていませんかということです。
あなたに似ていませんか。皆さんどう思われるでしょうかね。
ああそうだなと思う人もいるかもしれませんし、
それともそれは聖書の言うことで、私は私のいたい場所にいれればいいと思います。
そういう方もいらっしゃるかもしれません。
私自身思うんですけれども、おそらく自分のことが強いと思って生きている人というのはあんまり多くないですよね。
どちらかというと私たちは、自分は何と弱いのか、あのことこのことが起きたときにすごく揺れてしまう、
私は何と弱いのかということを痛感をしている私たちの方が多いのではないか。
しかし同時に歯を食いしばりながら、それでも覚悟を決めながら生きているということが私たちはある。
その中で徐々にその人なりの強さというのが培われていくわけですよね。
そしてその強さが人に対する優しさになったりしている。
そしてそういう培われた強さというのは尊いものですし、
そしてそういう自分が培ってきた強さをある種自分の人生の土台として、言い方を変えるならば私の居場所として、
私たちは自分の強さであったり、人生で培ってきたものを私の土台に据えて生きていくということが多いんじゃないかなと思うんです。
私はそういう生き方は軽蔑されるべきではないと思います。尊敬されるべきだし、私もそういう生き方に共感をいたします。
ただ、ただですね、時折実感することは、それにもまして人生には苦難が多いということです。
端的に申し上げるならば、私たちは不意に死というものに直面させられることが多くあります。
その時、本当に死というものを前にした時に、これまで私が培ってきた強さという土台では、
もうその苦難を、その苦難が襲ってくる揺らぎを抑えることができないということが、私たちは往々にしてあると思うんですね。
苦難の揺らぎに耐えられないことがある。そしてその苦難に自分の存在自体を揺さぶられて、いろんなことで気を紛らわすんですけれども、
心の奥底には拭いきれない不安というものを常に抱えながら生きるということが、私たちにはあるんじゃないかなと思うんです。私自身にもあります。
そういう時に気づかされることは、私たちの培ってきた強さ、私の強さというのは、尊いものだけれども万能ではないということです。
誇れるものです。尊敬されるべきものです。けれども万能ではない。
そうであるならば、私たちはおそらく、自分では抑えきれないこの揺らぎをどう抑えるのか、ある種それは、誰か私ではない何かに守られて生きていくということであったり、
いや、本来の道から離れてグラグラしているんです。本来の歩むべき道に戻るということが大切になるのではないかなと思うんです。
そういう時に思います。ああ、私って羊だな。
イエス様は言われるのです。今日の箇所に戻りますけれども、10章の11節でこう言います。
私は良い牧者です。良い牧者は羊たちのために命を捨てますというのですね。
ここには神様、そしてイエス様の温かさが現れていると言いました。
羊界であるイエス様は、羊を水場へと導き、羊を豊かな食物で養い、そして羊が本来いるべきであろう囲いの中に、羊を戻して守って生きていかれるお方なんだということが言われるのです。
そしてこの箇所で言うのは、その羊を満たすためであるならば、私は命を捨てても惜しくないと言われているのですね。
なぜでしょうか。それはそこに伏している羊一匹一匹のことを知っていて、その羊一匹一匹のことを自分の命のように、
いや言い換えるならば、自分の命以上にそこにいる羊、そこにいる一人一人に価値があると思い、その羊を心から愛しておられるから。
なかなか愛とか温かさというのは、数値化することができませんね。
あなたは愛が100で、あなたは愛が70なんてなかなか言えないと思いますけれども、けれどももしも愛情や温かさというものを測るものさしがあるとするならば、それはきっと、その人が私を愛して何を犠牲にしてくれたかということが、愛情を測るものさしになり得る、そう思います。
一個だけ私の経験を話すならば、私が人生で一番温かさを感じた経験は、
実は私は東北に3年いたんですけれども、東北にいたときに事故を起こしました。
止まっている車にコツンとぶつかったんですね。
すると前にいた人たちが揉み切り怒ってきてですね、「お前どうしてくれねん!」って言ってきて、警察の現場検証が起きたときに、私初めての事故でもあったのでショックで気を失いかけたんですね。
その時期にちょうど辛いことがいくつも重なって、私はその後北方に帰ったときに、街道で大声で泣き崩れたことがあります。
心が折れてしまうと言いますか、神様もう無理ですと叫んだことがありました。
イエス様の無償の愛
ただその私の状況を聞きつけてですね、ある先生が大阪から福島県までやってきてくれたんですね。
その先生は、ミッチー出てこれるかって言って、その先生は私を励ますためにご飯をご馳走してくれて、温泉にも連れて行ってくれて、しかもホテルで一泊お部屋もとってくれて。
そしてその一晩中、自分が事故した経験をずっと分かち合ってくれたんですよ。
こんな事故したで。でもその先生がこういう風に励ましてくれたんですね。
ミッチー、俺たちは失敗するんやと。我らは必ず失敗するんやと。
けれどもどれほど失敗したとしても、神様のミッチーへの愛も飯も変わらんからなと。
だから大丈夫やで、大丈夫やでってことを一晩中ずっと励ましてくださったんですね。
で、私は頭の中でカチカチカチっと計算してました。大阪から福島、新幹線の往復代、このご飯、お風呂、一泊の費用、いくらかなって。
ただいなくですよ。でもそれを私のために払ってくれたことが分かったときに、謝るしかなかったですけれども、
同時に、この人は本当に私のことを愛してくれてるんだなってことを感謝したことを覚えています。
イエス様も言われたのは、良い牧者は羊たちのために命を捨てますってここで語られるんです。命を捨てます。
相手に払う犠牲の大きさが、愛や温かさの大きさだとするならば、イエス様はご自身の命を私たちを救うために捨てられたと言われるのです。
それはこの上ない犠牲ですよね。命というのは。しかしそれは言い換えるならば、この上ない愛、この上ない温かさをもって、私は羊を愛しているということを言っているのです。
そしてそれが表されているのが十字架という場所ですね。羊飼いであるイエス様は、愛する羊をご自身のもとへと導こうとされるわけです。
そっちじゃないよ、そっちじゃないよって。でも羊は一向に言うことを聞かない。ましてや羊はイエス様の羊であるはずなのに、その羊たちはあろうことか、羊飼いであるイエス様を十字架にかけてしまった。
羊は自分自身の勝手な方向に進みますし、羊は自分が何をしているのかがわからない。本来の場所から離れて、自分は自分の場所でいいと言いながら、自分は何をしているのかがわからない。それが羊の姿である。
けれども、イエス様はそういう羊を心から愛されたのです。イエス様はそういう羊を愛し、そういう羊が滅んでしまわないために、イエス様はご自身は十字架で捧げられたのです。
あなたのその私の愛を拒んでしまうという罪も、自分がどこにいるかわからなくていろんなことをやってしまう罪も、でも私は全てを引き受けて、あの十字架で私の命をあなたのために捧げた。それほどまでに私はあなたを愛しているのだと私たちに語られる。
信仰の土台を変える
私たちの培ってきた強さは尊いのです。しかし万能ではありません。
けれども聖書が語るのは、あなたが強いのはわかる。でもあなたがそれだけで乗り越えられないのであるならば、あなたのために命を捨てるほどにあなたを守ろうとしている羊がいる。
そのあなたが土台に据えているあなたの強さを、あなたの強さを土台にするんじゃなくて、私の愛、私の強さというものを土台に据えるように変えませんかというのが、実は聖書の招きです。
イエス様は私たちの罪の全てを引き受けて十字架に命を捨てられた。そして三日目に復活されたイエス様は今も生きておられます。そして私たちにその愛を語り続けておられる。
今日の箇所の9節というところには、私は門です。誰でも私を通って入るなら救われますと語られています。イエス様は門だと言われるとイメージしづらいですけれども、ただイエス様を通るというのは言わば、イエス様を信じるということと全く同じ意味です。
今朝はキリスト教の小読みでは宗教改革記念日と言うんですけれども、宗教改革を先導したマルチン・ルターという人がいました。彼は信じるということは、戸敷の手だと表現したんです。戸敷の手だ。
戸敷の手。それは信じるというのは、神様が私たちに注いでくださっている愛も恵みも、その十字架の犠牲も、ただ受け取るだけなんですよ。それは他の誰かのためではなくて、私のためだったんですね。私に向けられているんですねということを、ありがとうございますと受け取るだけですよということを言いました。
それでもう終わりますけれども、十四節というところにもこういう言葉があります。
私は良い牧者です。私は私のものを知っており、私のものは私を知っています。良い牧者であるイエス様は、私たちのことを知っていると言ってくださいます。知っている。
それはきっと、私たちの培ってきた強さも、けれどもその培ってきた強さのもとにある本来の私たちの弱さも、イエス様はよく知っておられる。ただ同時にこう言われると思うのです。
もう十分ではないでしょうか。あなたはこれまで十分、自分の強さで立ってきたじゃないですか。けれども、これから後は私に任せなさい。私の囲いの中で休んじなさい。私があなたを守り、あなたを決して手放さないのだから、だからもう自分の力だけで立とうとする歩みはもう十分じゃないか。
私はあなたを救い、あなたをこの囲いに迎え入れるために、私は命を捨てたのだ。そう今朝私たちに語られるのですよ。
で、もう終わりますけれども。私たちはこのイエス様にどうお答えできるかなと思います。でも願わけば、イエス様にこう答えるというよりかは、シンプルにこじきの手だと思います。こじきの手です。
与えられるをすべてそのまま受け止めるということ。これは聞くけどこれは違うじゃなくて、すべてをそのまま受け止めるということ。そしてあなたが私を愛してくださっているのですね、というその愛のすべてをそのまま受け取るということ。
それがイエス様という門を通るということであり、それが信じるということであり、それがあなたの人生の土台をキリストに据えるということなんです。私は良い牧者です。良い牧者は羊たちのために命を捨てます。
教会には十字架が掲げられていますが、教会に十字架が掲げられるのは、この神様の愛が絶え間ないその温かさが決してここからは尽きないということを言っているんです。教会の真ん中に私たちはいつも十字架が立っているようにと願いますし、そして十字架に表されたイエス様の愛の温かさに温められながら、
でもその温かさがなんとなくここに漂うようなそういう群れでありたいし、そして願わくば土台を私の強さに置いているのであれば、この方が私たちにキリストが私があなたを担うよと言ってくれているその言葉を素直に受け止めていただけたら嬉しいなと思っております。一言お祈りをしてメッセージを終わります。