2023-01-15 31:15

#成熟した人は 23/1/15

ピリピ3.15-19からの礼拝説教。2023年1月15日録音。昨日1月14日と今日1月15日の2日間にわたり大学共通テストが行われています。受験生は合格目指して勉強しますが、ゴールは大学卒業ですのでこの試験は通過点に過ぎないでしょう。一方、信仰のゴールを目指すパウロは、先週取り上げた箇所で自分の信仰の信念を語りました。それを受けて今日の箇所でピリピ教会の人々に成熟した人としての考え方や態度、行動指針を語っています。それを元に1.キリストの似姿へ形作られていると考える、2.ゴールの栄冠を見失わないように、3.今到達しているところを基準とする、の3つの点から学びましょう。

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ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。
もしも、あなた方が何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなた方に明らかにしてくださいます。
ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
兄弟たち、私に習うものとなってください。
また、あなた方と同じように、私たちを手本として歩んでいる人たちに目を止めてください。
というのは、私はたびたびあなた方に言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、
多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
その人たちの最後は滅びです。
彼らは欲望を神とし、はずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
以上です。
今日はこのところから、成熟した人は、成熟した人は、と題して手紙言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。
昨日、京都、日本では大学の共通テストというものが行われています。
昔は国庫率だけの大学受験をテストで受けたのですが、私立の学校も採用するようになりまして、
ほぼ全ての受験生が受けるとも言っても過言ではない。
大学生を目指して一生懸命勉強する一つの通過点であって、それはゴールではない。
大学に入ったとしても、それもゴールではなくて、おそらく人生の通過点に過ぎないわけです。
同じようにパウロも、自分の信仰がまだ完成していない、ゴールに達していないということを、
先週の取り上げた見言葉で告白しています。
12節でこう言っています。
私は既に得たのでもなく、既に完全にされているのでもありません。
ただ捉えようとして追求しているのです。
そしてそれを得るようにと、キリストイエスが私を捉えてくださったのです。
この自分の信仰の信念を語るパウロですけれども、それを受けて、
今日の箇所で彼は私たちクリスチャン、ピリピリの教会の人に向けて、
そして私たちに向けて、成熟した人、大人のクリスチャンの考え方や態度、
その行動指針のようなものを教えているのです。
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それらをもとに、3つの答から今日学んでいきましょう。
まず最初は、キリストのに姿へ形作られていると考えなさいということです。
今日の一番最初の見事を読んでみましょうか。
ですから、大人である人は皆、このように考えましょう。
もしもあなた方が何か違う考え方をしているなら、
そのことも神があなた方に明らかにしてくださいます。
特に大人である人は皆、このように考えましょう。
このようにというのは、これまでパウロが語ってきた、
それと同じような考え方、視点を持って成熟したクリスチャンは考えるべきだ。
今、私も説教の中ではからずも、2つの言葉を入れ替えて使っていますが、
この3章15節の大人である人、それは成熟した人という意味です。
実はこれは非常に興味深い言葉です。
なぜかそれは、3章12節の完全にされているのではありませんの、
完全にされると同じ言葉なんですね。
日本語では違って訳されていますが、もともとの言葉で見ると、
同じ言葉だということがわかるんです。
ここで、わざわざパウロがこの2つの言葉を使っていることに大きな意味があるんですね。
ちなみに日本語でも、完全や完成という言葉と成熟には、
どちらも成るという文字が使われていますが、
この完成と成熟という2つの言葉を正確に見ていきますが、
3章12節の完全にされているのではありませんという言葉のもともとは、正確には動詞なんですね。
ちょっと今日、1回難しい話をしますが、
イリシタ語でてれいようという、完成するという動詞なんです。
この完全となっている、完成するという言葉は、他に終点にたどり着くという意味があるんです。
終着点にたどり着く。
仕事が終わったとか、
イエス様を十字架の上で完了した、
終点にたどり着くという意味があるんですね。
ですから、私たちはこのパウロに習って、
自分の信仰生活について、こう考えるべきだとパウロに勧められています。
それは、私たちはまだ信仰の旅路の終点にたどり着いていない。
それゆえ完成していないと。
成熟したクリスチャンは、そう考えなさいとパウロは、
今日の箇所で具体的に教えているわけです。
先週も見ましたけれども、
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このクリスチャンの成熟というのは、
自分がまだ不完全であるということを認めることが、
クリスチャンの成熟だとあるパウロ心学の専門家が言っているように、
成熟は自分の未完成であることを認めることなんですね。
ちょうどですね、
いつもマラソンの話になってしまいますけれども、失礼しました。
実はですね、15節の言葉は、今度は、
てれいおいという言葉が使われています。
大人であるという言葉、成熟という言葉のもともとの意味は、
てれいおいという言葉で、見ると動詞と同じ形をしてますね。
それは成熟した人という意味です。繰り返しているように。
そこから私たちは、自分についてこう考えることができるんですね。
私たちはクリスチャンとして完成していないが、
終着点にまだ達していないが、成熟することができるということなんです。
先ほども言いましたけれども、
クリスチャンの成熟とは、自分がまだ未完成であることを認めることにあるということなんです。
これなぜ大事か?
ちょっとはいつも通り、この液電のランナー、マラソンランナーを例えて答えますけれども、
マラソンランナーというのは、自分の目標のタイムを設定して、
それを達成できるように一生懸命練習するんですね。
練習を積んでも、この目標のタイムに達しないということがあるわけじゃないですか。
高い基準のゴールを設定するわけですから。
それでも、1回、2回の練習で自分の目標タイムに到達しないからといって、
決して諦めることはしないですよね。
自分がまだ目標のタイムまで到達していないということをしっかり認めて、
さらなる練習に励んでいくわけですよね。
タイムに達しないからといって、諦めない。
これをクリスチャンライフに例えるならば、
私たちはですね、いつも言ってますが、
自分がクリスチャンとして生きていても、自分の罪に気づいたり、
あるいはいろんな意味でイエス様の生き様になぞらえることができなかった、
そういうある面、自分の未熟さの現実を知るわけです。
その時に、タイムに到達しないから練習をやめてしまうというランナーのようにですね、
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信仰生活を諦めてしまう必要はないということなんです。
なかなか自分の罪がやめられないとか、イエス様の生き様にならえない、
そういう現実に気づいた時に諦めてしまう必要はない。
また、自分がダメなクリスチャンだと言って、自分を責めることも控えるべきなんですね。
パウロが言うように成熟したクリスチャンとしてですね、こう考えなさい。
つまり、自分はまだ完成途上にある目標のタイムに向かって練習しているランナーのように、
まだ自分は完成途上にあるんだということを、そこで認めるということなんです。
考え方を変えるとパウロは実は言っているんです。こういう考えでいなさいとパウロは言っているんです。
自分はダメだ、もう失格だという考えではなくて、まだ完成途上にあると考えなさい。
それが成熟したクリスチャンのものの考え方ですよとパウロは言っているんですね。
そしてもちろん、自分の罪とかクリスチャンとしての未熟さということに限らずですね、
私たちが日々の生活の中で様々な苦しみを体験します。
健康のこと、病気に悩むことがあるかもしれません。
自分がそうなる場合があるだろうし、家族がそうなる場合があるだろうし、
あるいはペットがそうなってしまう場合があるかもしれません。
あるいは人間関係とか、仕事や学業の悩みが尽きないということがあるかもしれません。
私は皆さんに報告していませんでしたけど、皆さんにお祈り課題でですね、
仕事で事故を起こさないようにと祈ってもらってましたけど、
昨年の12月20日に事故を起こしてしまって、ちっちゃい事故だったんですけども、
私の仕事からしたらすごい大騒ぎになるんですね。
本当にちょっと再訓練をし直しして、そういう意味ではいい時間を過ごしているんですけれども、
いろんな仕事上の悩みとか、学業の上での悩みということは、生きていく上で尽きないわけです。
そしてですね、そのような、さっき言った自分の罪の問題とか未熟さの問題、
あるいは生活の悩みというものを簡単に解決する道というのはないんですね。
いつも言ってますが、このフィリピン教会に迫ってきた偽の教師たちはですね、
ほらあなたたちだから不完全な神の民だからこういうことになるんだよ。
だから滑稽を受けなさい。立法を全部守りなさいと言って近づいてきたんです。
それは後で言う十字架の敵なんです。
私たちは自分の罪や未熟さの解決としてイエス様の十字架があるんだというところに立ち帰るわけですよね。
それだけではなくて、この自分の尽きない悩みや苦しみを体験するときに、
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私たちは成熟したクリシャンとして、次にこう考えるべきだとパワロは言うんですね。
それは自分がイエス様のに姿に変えられる途上にあるんだということなんです。
イエス様のに姿に変えられる途上にあるんだということなんですね。
よく言うのはですね、聖書にもありますが、神様が粘土で、この陶器師が粘土を強い力でねじ曲げてですね、
ふさわしい形にするように神様は、私たちクリシャンを時に試練を通してもですね、この理想の姿に変えていく。
この観難が忍耐を生み出し、忍耐が狙えた瀕死を生むというように、私たちはその苦しみにあるときにですね、こう考える。
それは今自分はイエス様のに姿に変えられる途上にあるんだと、そのように自分の試練を受け止めていく。
そういうことも成熟したクリシャンとして持つべき考え方だとパワロは言うんです。
そんな中で、そして第2コリントの3章18節で、パワロはこのような素晴らしい約束を語っていますね。
読んでみましょうか。
私たちは皆、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられていきます。
これはまさに、精霊なる、御霊なる主の働きによるのです。
私たちは様々な試練や困難を通してですね、イエス様がゲステマネで祈っているように、イエス様の苦しみに預かっている。
そしてイエス様のに姿にそのような中で私たちは変えられていき、そしてやがて人の痛みがわかり、人に仕えていくものと成熟していく。
そのように私たちは自分の試練の中でですね、これはイエス様に姿に変えられていく、その途上にあるんだ、そう考えていく。それが成熟した人の歩みだということです。
2番目、その中でゴールの栄光、ゴールの栄冠を見失わないようにということなんですね。
3章17節でパワロはこう言っています。読んでみましょう。
パワロはこれまで語ってきた自分の生き様に、信仰の態度に見習うように進めています。
そしてピリピの人たちにですね、ピリピの兄弟姉妹と同じくパワロたちを手本としている、他の教会の信者の人たちを手本としている彼らを見据えてですね、歩んでいきなさい。
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見習うものになりなさいと進めているんですね。
漫画とですね、テレビ番組で孤独のグルメっていうのがね、やってますね今ね。
余談ですが、昨年の10月、私が仕事でいつも行く近所のですね、埼玉県新座市のですね、このお店が取り上げられてですね、私がいつも通る道を松茂豊さんが通っているとかなんかも出てましたけれども、
孤独のグルメというのが少し流行っていますけれども、私たちクリスチャンはですね、クリスチャンとして孤独であると進行のレースを最後までたどり着くことができない、終えられない、続けられないというのです。
私たちは良い模範を見続けることも必要です。
あるいは、共に戦ったり共に走っている仲間の存在ということが必要なんですね。
ファーロンにとって、実はフィリピン教会の人々は、自分が生んで教えた人だけども、それだけじゃなくて、進行の友であり、進行の仲間なんですね。
同じようにおそらくファーロンにとっても、私たちは進行の友であり仲間だと、今もし生きていたら見なしてもらえると思うわけです。
私たち先ほども言いましたが、自分の人間として、あるいはクリスチャンとしての未熟さに気が付くことがあるかもしれない。
それでもファーロンは、共にゴールを目指す進行の友であり仲間だよ、そういう視点で、このフィリピンの手紙でフィリピンの兄弟姉妹に、そして私たちに語りかけているんですね。
そして聖書にはその進行の仲間について、このような言及があります。
ヘブル人の手紙12章の1節。ちょっと長いかもしれませんが、読めるか読んでみましょう。
3、こういうわけで、このように多くの商人たちが雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも一切の重りとまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている狂騒を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
ヘブル人の手紙12章の1。皆さん機会があれば、こういうわけで、このようにというヘブル人の手紙の11章に、アブラハムから始まって、えのくからでしたかね、始まって、多くの信仰の旧約聖書の先人たちの、こういう苦労をしたけれども、こうやって神様を信じたんだよという素晴らしい証が書かれています。
すごく読むと励まされるんですね。このヘブル人の手紙11章、もしよかったら読んでみてください。
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このようにですね、私たちは当然同じ教会に属するこの兄弟姉妹はもちろん、そのもっと広がりがある、要するに教会や世界的な信仰の兄弟姉妹とのつながり、その中で生きている、それを知るときに励まされるわけです。
ところで皆さんね、明日1月16日はアメリカの休日だって知ってます?何の休日か知ってますか?成人の日ではありません。
それはですね、マルチン・ルサー・キング・ボクシーの記念日なんです。誕生日がですね、1月15日、今日がキング・ボクシーの誕生日で、1月15日付近の、特に1月の第3日曜日がこのキング・ボクシーのこの記念日として、アメリカは休みになります。
ニュースなんか見てるとわかりますよ。アメリカの例えば株式市場は、キング・ボクシーの記念日でお休みだから動きませんとか言うと思います。何が言いたいかというと、このように、例えばキング・ボクシーのようにですね、私たちの信仰の先達の、例えば電気を読んだり物語に触れることによって、私たちはこの信仰の励ましを受けることができる。
私たちよりも先に、この信仰のマラソンを走り続けた人たち。そして、こういう信仰の偉人と言えるような人でさえもですね、自分のことで悩んだり、いろんな困難の中で悩んでいるということを、それらの物語を通して触れることができます。
そうすると、こういう偉人でさえ、このような弱さや辛さがあって守られているんだなってことを知ってですね、私たちも励まされるわけです。そして当然ですね、まあ共に走る、ゴールを目指す仲間をそのように見ていくことも必要ですけれども、そのゴールを見据える仲間だけではなくてですね、私たちはやはりゴールを見据える仲間だけではなくてですね、私たちはやはりゴールを見据える仲間だけではなくてですね、私たちはやはりゴールを見据える仲間だけではなくてですね、私たちはやはりゴールを見据える仲間だけではなくてですね、私たちはやはりゴールを見据える仲間だけではなくてですね、私たちはやはりゴールを見
自らから 目を離さないようにってことが大切なのであります。
まあ今日は 詳しく触れませんでしたけれども
ピリピ38-18-19説にはですね物語の hu10であるウォールを認識しなくて
Spicy ウォールだという人たち
写 Bryce はですね パワー ノ 侵攻 の仲間ではなくて
どうしてか分からないそうなんですけど guru tan
クリスチャンを責めるためではなくてそういう否定的な事例を挙げることによって ピリピの教会の人たち仲間である
新婚友である私たちを正しい方に持ってこうとしたわけです そのようにですね私たちはこの目の前にあるこの困難に
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とらわれてしまったりあるいは自分自身の至らずさに とらわれてしまってですね
この先にある 信仰のゴールや神様が用意した栄冠からお目をそらしてはいけないということなん
ですね パウロもですね
実はこの自分 パウロもですねこの
自分が 目指しているように
この 賞をいただくために目標を目指して進んでいると言っているようにですね
信仰の困難の中にあるピリピの教会の人々や私たちにですね 目の前の困難に目を奪われて神の栄光
メーカーを見失っていけません そして
自分は 信仰のゴールに向かっているというその目標を見失わないことが必要だって言うんです
繰り返しになりますが信仰の成熟者として私たちはですね 困難に直面しますがそのような中でも上にある
栄冠を目指していく そういう目をですね横にある兄弟姉妹に向けると同時に前にあるゴールやこの
上にある神の栄冠を目指していく そこに目を
目を止めていくということが必要だということなんです 先ほどのピリピリとヘブルビートの手紙の続き
12章2節でこういう御言葉があるんですね 読めるかで読んでみましょうかさんはい信仰の創始者であり
完成者であるイエスから目を離さないでいなさい この方はご自分の前に置かれた喜びのために恥ずかし目をものともせずに十字架を
忍び神のみに着座されたのです 神の溝の右に着座されたのです
まさにイエス様が私たちの信仰を作り完成させてくださる方だ その方にから目を離すなと言っています
そのイエスさんは自身も地上の苦しみを 十字架をですね
忍んだそれはご自分の前に置かれた喜びを見据えとそして それを通ってですね今神の右の座に着座しておられるそのイエス様を
この私たちを同じ苦しみ味わったお方としてそして天の溝に出しておられる方として 見据えていくそれが2つ目の大事なことでもあります
3番目最後簡単にですけれどもそんな中でもですね私たちはゴールを目指して館目指して 前進しますけども今到達しているところを基準とするということが大事です
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3章16節読んでみましょう3回 ただし私たちは到達したところを基準にして進むべきです
この私たちはですね先ほども言いましたからずっと言っているようにこの完成を目指して 成熟し続けることが求められている
でも背伸びする必要がないわけですね 現時点でこう知っていること
できることを基準に前進すればいいんですね
先日ですねあの言ってもいいかな スポーツライターの行く島純さんという方がいて非常に駅でに詳しいんですね
彼が言うんですけどこの陸上のランニングの世界ではですね 完全にタイムが優先なんです
で例えば駅伝チームとかを写真撮ったときに必ず真ん中にいる選手が一番早い人だ そうです
真ん中に映っている人が一番早いかキャプテンだ 完全にタイムで序列が決まっているって言ってるんですね
まあそのようにですねタイムによって差が出るのがその世界かもしれませんしかし 私たちの信仰神様の目から見たら私たちはそれぞれ足しているところ
今ある状態をこのなんでしょうかね 神様を認めてくださっている
その上でさらに成熟するようにイエス様が期待してくださっているということが大事だ ということなんですね
私はの30年以上進行生活続けるよう導かれてますけど このような長さをですね減れば減るこそですね
信仰の旅路はですね長距離レースだっていうことがわかるんですね その中でやはりうよ曲折があったあるわけです
最初から飛ばしたら このレース長距離は持たないですね
よく駅伝で最初にバーって出てた選手がですね 抜かれていくよう
私たちもですねこの進行のレースは長距離レースだってことを忘れないってことなんです 達成したところを基準に歩んでいかなくていくってことなんですね
いつもこれまでお知らせしてきましたように今日の午後はですね 私たちの日本バブティスト協会連合の東京地区の成人式があります
まあ成人年齢が引き下げられて18歳になりました でも考えてみてくださいこの人が成人するまでに
2年短くなったとしても 18年かかるんです
でよく言われるのはですねクリッシャーのなんて言ったらいいんでしょうかね 政治軍関わる本なんかに書いたんですけど
大予算ですねある人がバブティスマを受けますよね でそのバブティスマを受けた時の年齢と同じ分の年数がクリッシャーのなんてでしょうかね
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成熟に あの要する時間だって言うんです
簡単に言うとその 30歳でバブティスマけどならばその後やはり30年はですね
自分のクリッシャー生活を気長に見ていく必要がある それぐらい自分に対して忍耐深く見ていく必要があるわけです
まだバブティスマ受けて10年だから10歳だなぁとか 3年だから3歳だな
人間の3歳の子ってどういうふうに歩んでるかなぁみたいですね そうやって3歳なら3歳として10歳なら10歳として20歳なら20歳として
足しているところ基準に進むべきだって言うんですね またパウロはこのようにも言っています
3章15節もしもあなた方が何か違う考え方をしているなら そのことも神があなた方に明らかにしてくださいます
まあ例えばピリピの教会の人たち私たちがですね パウロの言葉を正しく理解するために神様が
この違いだけじゃなくてですね何が本当かということを教えてくださいますよと パウロはこっつけ加えているんですね
そのような中でですね私たちは 見言葉によって日々神様の言葉に聖書を通して触れず触れ続けてですね
そして祈りと精霊によって神様と交わることによって祈りとのうちに精霊によって 神様と交わることの中でですね
私たちの考えもですね新たにされ続けていくわけです そしてそのような神様との交わりや日々の生活を通して私たちがクリシアンとして
成熟し続けるということですね 時間がかかりますけれども必ず私たちはイエス様のに姿へと完成する
栄光に必ずたどり着くというそういう約束があることもあり忘れてはならないわけです パウロそのことをですねこの手紙の冒頭でこのように述べています
ビリビリとの手紙の一章の6節をとみましょう あなた方の間で良い働きを始められた方は
リスイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると私は確信しています お祈りしましょう
天の神様皆を賛美いたします パウロが
成熟した大人のクリシアンとしての考え方また 歩み方をこのように教えていることを今日学びました
どうぞ私たちが自分の未熟さあるいはまた信仰の試練の中にあるときにこのように あなたにある考え方
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イエス様の十字架に 預かりまた
成熟に 預かる
そのような イエス様とともにある歩みを歩んでいるということを
悟ることができるようにどうぞ 自分の視点ではなくて神様の視点から自分自身やまた自分のクリシアンの人生を見る
ことができるようにどうか導いてください この中でどうぞ私たちが日々の生活を通して見言葉に触れ
祈りの中でイエス様のに姿へと変えられ続けることができますことを感謝いたします これらの祈りを
兄弟姉妹の祈りに合わせ私たちの救い主 主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それでは1分ほど見言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう
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