2023-01-22 27:11

#天の国籍 23/1/22

ピリピ-21からの礼拝説教。2023年1月22日録音。今日の箇所でパウロは、天に国籍がある者としての自覚を持つよう強く教えています。それに加えて、私たちが希望をもってこの地上を歩むために必要なことにも言及してます。これらのことを踏まえて、1.天に国籍を持つ者としての自覚、2.私たちが変えられる日を待ち望む、3.イエス様の支配が実現する日を待ち望む、3つの点から学びましょう。私たちにはどうすることもできない世界の情勢の中で何を望みとし、どう祈るのか…

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00:04
新約聖書、フィリピ、3章、20節、21節。
しかし、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは万物を御自分に従わせることさえできる道からによって、
私たちの癒やしい体を、御自分の栄光に輝く体と同じ姿に変えてくださいます。
それでは、このところから、
天の国籍、天の国籍と題して御言葉を取り付けます。
皆さま、おはようございます。
今朝は寒い1日になりました。
ニュースでも大胆言われておりますが、
今週は寒さが厳しくなって、
今日あたりは関西地方などでも雪が積もるのではないかとも言われています。
また、この新座でも東京地方でも、
今度の水曜日は最低気温がマイナス4度、
私たちの日々の生活からしたら、
とても寒い朝になりそうですね。
そんな中、寒い週始まりましたけれども、
共に礼拝ができる幸いを感謝しています。
さて、今日のところでパウルは、
フィリピンの人々に、天の国籍を持っている、
そのことを自覚するように、はっきりと強く教えています。
それに加えて、私たちがそれを含めた希望を持って、
この地上を歩んでいくために、
これまでのパウルの言葉を借りれば、
走り続けるために、マラソンランナーとして、
走り続けるために必要なことが2つあるんですけれども、
そのことも含め、3つの点から、
天の国籍ということを考えながら、今日学んでみましょう。
まず最初の点。
まず私たち必要なこと、それは、
天に国籍を持つ者としての自覚、それを持つということです。
繰り返しになりますが、3の20、読める方は一緒に読んでみましょう。
しかし、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、
私たちは待ち望んでいます。
03:01
私たちはですね、ピリピの人々と同じように、
試練に直面すると、その中で、
目の前のことに囚われてしまいますが、
そんな時に、実は目に見えない現実に目が開かれる時に、
希望が与えられて、前進することができるのではないでしょうか。
3の20節でパウロは、このピリピの人たちが、
後でも見ますが、またいつも言っていますが、
目の前に直面している困難、
それからですね、おそらく迫り来る偽教師の危機に直面している中で、
このピリピのクリスチャーの人たちにですね、
今気がついていない現実の希望を見るように呼びかけている。
そういう強い呼びかけです。
パウロは私たちは、自分も含めてピリピの人たちを仲間として呼びかけているのが、
元の答えを見るとわかります。
実はご存知のように、彼らが住んでいる町はですね、
ピリピと言って、ちょっとこれ現在の地図なんですけれども、
拡大図なくてちょっと恐縮なんですが、
これイタリア半島ですね、長靴。
これ今のギリシャで、ここがピリピというところです。
実はここ約ですね、1200キロ離れてですね、この間が。
今ちょっとGoogleでわかるんですけど、歩くとですね、216時間かかるそうです、歩いて。
216時間、寝ずに歩くと。
これだけの距離が離れていてもですね、実はいわゆるローマの植民都市だったんです、特別区。
このローマと同じ憲法法律がピリピでは適用されていました。
ですからピリピの市民の人たちは、自分はローマ帝国のローマ市民である、
ローマの憲法に従って歩んでいるということを誇りに思っていたんですね。
そのことと今日の言葉は関係しています。
ちょっとわかりやすい例で言うと、この方はどなたか知っていますか?
先週話題になりましたね。ニュージーランドの女性の首相。
37歳で首相になって、女性の首相として初めて産休を取った人です。
燃え尽きて辞任すると、この間言って話題になりました。
この彼女のいる、このニュージーランドのすぐ隣のオーストラリア。
実はこの2つの国は旧イギリス連邦ですね。
イギリス1901年だったかな?イギリスの中に投稿された。
実は隣のオーストラリアの人、今でも自分たちがイギリス連邦に属していたということを非常に誇りに思っているんです。
この2つの国の国旗にイギリスの旗がちょっと、ユニオンジャックなんかもあしらわれているようにですね。
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とにかくこのフィリピンの市民がローマ市民であることを誇りとしているように、
今オーストラリア人の多くの人がですね、自分たちはイギリスとつながっているんだということを誇りとしていたわけです。
そんなようなフィリピンの教会が存在していたフィリピンの街ですけれども、
このフィリピンの人たち、実はクリスチャンもなんとなくローマ市民であることを誇りとしていました。
しかしいつも言っていますが、彼ら彼女らはクリスチャンであるがゆえにまたローマ帝国から苦しみを受けていたわけですよね。
その誇りを持ちながら同じ帝国から苦しめられているという板挟みとかですね、また先のようなこのジレンマが彼ら彼女らにはあったようです。
そのことですね、1章でこう指摘されているんですね。パウロが言っています。27節、28節。
ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば私が言って、あなた方に会うにしても、離れているにしても、あなた方についてこう聞くことができるでしょう。
読めるかで読んでみましょう。3、あなた方は霊を一つにして固く立ち、福音の信仰のために心を一つにして、
共に戦っていて、どんなことがあっても反対者たちに脅かされることはない。この最後の部分ですね。反対者たちに脅かされることはない。
福音の信仰のために戦っていて、これはですね、そういう戦いがあった、そういう迫害というか反対者たちがいたということが裏返してわかるわけです。
そのようなローマ帝国の市民、ローマ市民である誇りを持ちながらも、ローマ帝国から苦しめられていた、戦っていた彼ら彼女らに対してパーロはこう進めているんです。
実はこの福音にふさわしく生活しなさい、この言葉、皆さん覚えてますか。
これはポリテウオマイという動詞なんです。つまり、生活するというのはですね、市民として暮らしなさいよ、ニーザ市民として暮らしなさい、
埼玉県民としてふさわしく暮らしなさいなんてですね、コロナの制約で言われるかもしれません。
その言葉がここで動詞として使われているんですが、今日見た3章20節で天の国籍の国籍ということはですね、そのポリテウオマイの名詞形でポリテウマという市民だ、
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そういうことはおそらくあえてパールは両方使っているんだと思います。
だからあなた方は他でもない本当は福音のそして天国の市民、国籍が天国にある人としてそこに目を止めていきなさいよ、その自覚と誇りを持って今歩み進みなさい、
そうパールは進めているわけです。
それはひるがえというとですね、今この先週見た十字架の敵という言い方をしています。
十字架の敵がたくさんいるとしても、福音に従わない人たちが周りにいたとしても、あなた方は天国の市民として福音の市民としてふさわしく、
そしてパウロ、私を手本として歩んでください、十七節と言っていました。
その市民、福音の市民を天国の市民として私を見本として歩んでくださいよ、そして同じように私を手本としているあなた方と同じ仲間に目を止めて今いきなさいよ、ということをここで教えているわけです。
ですから私たちもですね、フィリピンの人たちと同じように、日本人でしょうか、ニーザー市民でしょうか、埼玉県民でしょうか、四季市民でしょうか、
そういうところに属しながら私たちは天に国籍があるんだ、天国の市民としてふさわしく歩むんだ、そのことを自覚する必要がまずあるわけです。
2番目、そんな中で私たちは天に国籍を持つ者として、私たちが変えられる日を待ち望むんだ、ということが2番目です。
ちょっと読んでみますね。
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエスキリストが救い主として来られるのを私たちは待ち望んでいます。
キリストは、ここから読んでみましょうか。
キリストは三回、私たちの癒やしい体をご自分の栄光に輝く体と同じ姿に変えてくださいます。
使徒の働きの一章のところで、イエス様が弟子たちが見ている目の前で天に挙げられていく場面がありました。
天に挙げられているイエス様のことを見上げて、弟子たちがおかーんと口を開けていたかわかりませんが、見つかりが現れて彼らにこう言いました。
ガリレアの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか?
あなた方を離れて天に挙げられたこのイエスは、天に昇っていくのを、あなた方が見たのと同じありさまでまたおいでになります。
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いわゆる再臨の約束をすぐ告げられたわけです。
パウロは今日の箇所でこのことに触れているんですね。
同じく私たちもこの天の国民として天を見上げて来なさい。
そしてその天からイエス様が帰ってくる。
そのイエス様を待ち望んでこの地上を歩み走っていくんですよという教えです。
その理由、なぜイエス様の再臨を待ち望み天を見上げていくのか。
それはその時イエス様が帰ってくる時、私たちの救いが完成するからだということですね。
先ほどの歌詞で見たようにクリスチャンは外との戦いがありましたね。
イギリスの人で言えばローマ帝国との戦い。
同時に私たちには内なる葛藤があるわけですよね。
内なる葛藤、それは罪との戦いとか、また罪が私たちに働く場であるこの肉の重いとの戦いがあるわけです。
それをパウロはローマの7章19-20節で告白して、
自分は自分の中に住む罪があるゆえに、自分のしたい善ではなく、自分がしたくない悪を行っているとパウロは言っています。
それを今日の3章21節ではパウロは癒やしい体と表現しているんですね。
私たちはもう救いが始まりました。でもまだ救いが完成していないので、そのような内なる葛藤を体験するわけですね。
そして、これまで話してきましたように、パウロを見習う私たちはですね、自分の救いはもう始まったけどまだ完成していない。
そういう完成していない自分を自覚することが、実は成熟した大人の信仰だということなんですね。
そのことがここにも反映されています。
そして繰り返しになりますけれども、イエス様がもう一度帰って来られるときに、イエス様と私たちが会うときに、私たちの救いが完成する。
その希望を胸に抱いて、私たちはこの地上の旅路を進んでいくということですよね。
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実はですね、パウロはことを希望としてですね、21節でこう宣言していますよね。
イエスが再び来るときに救いが完成するという希望をですね、3章20節でこう表現しています。
キリストは私たちの癒やしい体を、ご自分の栄光に輝く体と同じ姿に変えてくださいます。
と、今日のところで告白しているわけです。
実はですね、この希望を元に私たちはある祈りをおそらく毎週繰り返していると思います。
それは主の祈りのこの部分ではないかなと、私は今日思い至ったわけなんですね。
我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ。我らに罪を犯す者を我らが許すごとく、我らの罪をも許したまえ。
逆になりましたけども、まさにですね、ここに罪に誘惑され、そしてこの地上を戦いながら歩んでいく私たちのこの祈りがですね、
イエス様によって変えられていくことを希望にした祈りが、この主の祈りに表されているのではないかなと思うわけです。
それはそれとしまして、パウロは実は最後のイエス様と出会った時の希望を別の聖書の箇所でこう教えています。
ちょっと長いんですが、第一コリント15章の40から43を抜粋していました。
読んでみますね。
天上の身体の輝きと地上の身体の輝きは異なります。死者の復活もこれと同じです。
朽ちる者でまかれ、朽ちない者によみがえらされ。
癒やしい者でまかれ、栄光ある者によみがえらされ。
弱い者でまかれ、力ある者によみがえらされ。
血肉の身体でまかれ、身霊に属する身体によみがえらされるのです。
このようにパウロは新しい身体について種まきのたとえなどを用いながら教えていたということです。
2番目は、私たちはやがてイエス様の栄光の姿に変えられるその希望を抱いてこの地を歩み続けるということです。
それが天国の国籍を持つ者としての歩みですね。
最後ですね。
天の国籍を持つ者として私たちは3番目。
イエス様の支配が実現する日を待ち望む。
3章21節もう一回言いますが、キリストは万物をご自分に従わせることさえできる道からによって、
私たちの癒やしい身体をご自分の栄光に輝く身体と同じ姿に変えてくださいます。
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ちょっとややこしい話になるんですけども、もともとのギリシャ語で見るとですね、
ここが一番最初にですね、キリストは私たちの癒やしい身体をご自分の栄光に輝く身体と同じ姿に変えてくださいます。
そしてその力によって、というところでこの最初の万物が出てきます。
まず、イエス様はこの私たちの身体をですね、偉大な力によって変えてください。
だから私たちのこの朽ちる身体、罪に誘われてしまう癒やしい身体がその偉大な力によって、
イエス様と同じような栄光輝く姿に変えられるということなんです。
そして元のギリシャ語の公文を見ると、その力によってイエス様は万物を従わせ、
イエス様の足元に入れ伏させる、そんな時代がやってくるんですよ、パオロはこの最後で述べているんですね。
先ほどから何度も言っていますが、
フィリピのクリスチャンがフィリピの街でローマ帝国の中で苦しんだ理由の主な理由の一つ、それは皇帝の存在です。
実はローマの皇帝のことを当時は救い主と言っていました。イエス様と同じ。そしてもちろん神とされていました。
そしてもちろん皇帝は主であるとされていたんです。だから折に触れてその皇帝に対する忠誠や礼拝がですね、
この街々で施行されていて、それに従わないこのフィリピの人たちは苦しめられていた。
なぜなら私たちの本当の救い主はイエス様である。そういう葛藤の中にいたんです。
特にですね、書説でありますが、ユダヤ教徒ですね。ユダヤ人はですね、まだローマ帝国の中でそこそこ権力があって認められていたんです。
イエス様十字架にかけた人たちもそうでしたよね。そのユダヤ教の一派であったクリスチャンはですね、いわゆるマイノリティ中のマイノリ。
だから本当にですね、ローマ帝国に対して何の力、影響力もなかったんです。
そういうローマ帝国や皇帝の支配下の中で、クリスチャンたちはもちろんなす術がなく、耐え忍ばなければいけなかったわけなんですね。
そこまで極端ではないかもしれませんが、今の私たちも今生きている社会の中で、世界情勢の中で自分ではどうすることもできない力が働いて、何とも言えないこの気持ちになる。
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何とかしてほしいけどどうにもならないという思いを抱くかもしれません。私はそういう思いがあるんです。
何かを変える政治的な力なんか全然持っていない。しかし、そんな政治的なあるいは国家的な権力も、やがてですね、イエス様が怒られると、イエス様の偉大な力の下でひれ伏す時が来る。
どのような異性者もイエス様の前でですね、跪く日が必ずやってくる、そういうことを言ってるんですね。
これわかります?何か。これね、ウクライナ聖教の教会です。多分これ、KFの町にある教会じゃないかな。
このですね、ウクライナ聖教、英語でオーソドックスチャーチですね。実はロシアにもロシア聖教オーソドックスチャーチというのがあります。
両方の国に、そのキリスト教の信仰は根付いているんですね。
そして、真摯な、いわゆるクリスチャンは、ウクライナであろうが、ロシアであろうが、まことの神に祈ってるんです。イエス様に祈ってる。
このようにね、これ日本での絵らしいです。
今のまさにどうしようもできない状況の中で、この2つの、ウクライナだけじゃなくてロシアのクリスチャンも祈ってるかと思います。
そしてそんな中で、自分の無力を嘆いているかもしれません。
一説によるとですね、ロシアの権力者は、自分を皇帝の再来だと考えている。
人々に思わせたい。ザーって英語で言うんですけどね。
そういう説もあります。
そんな中で、ロシアもウクライナもクリスチャンたちは、無力さを、どうにもならない無力さを感じ、祈っていることかと思います。
まさにこの御言葉にあるように、イエスの支配が実現する日を待ち望んでいるに違いないんですね。
私たちは、私今日の説教を準備しながら、日本にいながら、本当にそのことを自分ごととして受け止めることが難しい。
自分の目の前のことに、やはり自分がそうですけど、かまけてしまって、そこまで思いを、気持ちを寄り添えない、そういう弱さ、自分がいることを思いましたけども、
改めて、これらの兄弟姉妹たちが、まさに今日の御言葉にあるイエスの支配と平和を願って、今祈っているんだということを思い出せることができました。
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ですから、少なくとも私たちは、これらの兄弟姉妹の心に寄り添い、この祈りに合わせて、
イエス様がその権力者たちを足元に従わせる日が来ることを待ち望みながら、このイエス様の支配が実現する日を祈る、平和を祈る、そのことが必要なのではないかと思いました。
実は、主の祈りの中で、「みくにを来たらせたまえ。」と祈っていますよね。
このみくにというのは、芸者語でバシレイヤといって、実はそれは支配、支配ということも言います。支配力。
ですから、神の支配が実現しますようにという祈りがここに込められている。
そして、神の支配が完成するのはまさに、天においてであり、イエス様が再び来られる時ですよね。
神の御心が天になるように、地にもなさせたまえと祈ります。
それはまさに、天で神様の支配が実現しているように。
そして、まだその時は来ないかもしれませんけど、せめて今、あなたの御支配が、あなたの御心が、あなたの哀れみによってこの地にも訪れますように。
そのような願いが主の祈りにも込められているかと思います。
そのように私たちは、イエス様が訪れ来てくださる日を、自分の救いの完成のために待ち望みながら、
この真のイエス様の支配と平和が訪れることを待ち望み、祈るものでありたいと思います。
主ともに祈りましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちの国籍は天にあります。
そこから主、救い主、主イエスキリストが来られるのを待ち望んでいます。
私たちが日々の生活の中で、なかなかその思いを実感すること、そのような切なる祈りが生まれることが少ないかもしれません。
でもどうか私たちがその世界で、この祈りを真実に祈っている兄弟姉妹の祈りに合わせることができますように。
またどうぞ、私たちも日々の生活の中で、天を見上げ空を見上げ、あなたの来臨を待ち望みながら、
目の前の困難に立ち向かい、またこの地をあなたにあって進んでいくことができるようにどうか導いてください。
この言い尽くせない思いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
27:00
それではしばらく、それぞれ1分ほど死に応えて祈ってください。
27:11

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