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2025-11-30 27:07

#302 よみがえりの叫び~試練の中の復活信仰 25/11/30

ヨハネー45からの礼拝メッセージ。2025年11月30日録音。(聖書朗読は()まで、導入は()までです)今回は、ヨハネの福音書中の中の「イエス様のしるし=証拠としての奇跡」のクライマックスの「ラザロの蘇り」の箇所から、まず信仰の試練の中でイエス様に信頼することを取り上げます(1.神の栄光を見る())。次に祈りの生活について特に「絶えず祈りなさい」の聖書の言葉と関わることを取り上げます(2.イエス様の祈り())。最後にラザロを墓から呼び出したイエス様の大きな声について取り上げ復活の希望について考えます(3.よみがえりの叫び声の())。

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よみがえりの叫び~祈りと復活の希望が示す神の栄光:ヨハネの福音書11章38-45節|Kishio

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サマリー

このエピソードでは、イエスがラザロをよみがえらせる奇跡と、それに続く信仰の教えが語られています。特に、神の栄光を見ることや、イエスの祈り、よみがえりの叫びの重要性が強調されています。また、イエスによるラザロのよみがえりの奇跡を通じて、信仰における祈りの重要性と永遠のいのちの希望が探られています。パウロの言葉が引用され、クリスチャンとしての祈りの生活の意義について考察されています。

ラザロのよみがえりの奇跡
イエスは再び心の内に行き通りを覚えながら墓に来られた。
墓は掘ら穴で石が置かれて塞がれていた。
イエスは言われた。
その石を取り除けなさい。
死んだラザロの姉妹マルタは言った。
主よ、もう臭くなっています。
四日になりますから。
イエスは彼女に言われた。
信じるなら神の栄光を見るとあなた方に言ったではありませんか。
そこで彼らは石を取り除けた。
イエスは目を上げて言われた。
父よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝します。
あなたはいつでも私の願いを聞いてくださると私は知っておりましたが、
周りにいる人たちのためにこう申し上げました。
あなた方が私を使わされたことを彼らが信じるようになるために。
そう言ってからイエスは大声で叫ばれた。
ラザロよ、出て来なさい。
すると死んでいた人が手と足を長い布でまかれたまま出てきた。
彼の顔は布で包まれていた。
イエスは彼らに言われた。
解いてやって帰らせなさい。
マリアのところに来ていてイエスがなさったことを見た
ユダヤ人の多くがイエスを信じた。
以上です。
イエスの祈りの意味
今日はこのところから、
よみがえりの叫びと題して御言葉からお話をいたします。
みなさんおはようございます。
教会歴というのがありまして、
今日からアドベントといって待降節になります。
ご存知の方もいるかと思いますが、
クリスマスまでの4週間を準備の週として、
予想以上にクリスマスのようになったりしています。
私たちの教会ではクリスマス礼拝以外は、
通常を見ている福音書、聖書の箇所から御言葉を取り継ぎますので、
今日も先週までの続きの、
ヨハネ11章からのお話といたします。
ヨハネ11章のこのところは、
ラザロのよみがえりの奇跡といって、
とても有名なところです。
そして、このように死人がよみがえらされるという奇跡です。
今日はこのところから、3つの点をお話しいたします。
1つはイエス様のとても特徴的なお言葉、
神の栄光を見るという言葉から、その意味を考えて、
私たちの信仰生活も考えていきます。
2番目はイエス様の祈り、
そのイエス様の祈りから、私たちの祈りについて学べることを考えてみたいと思います。
そして3番目は、よみがえりの叫び声といって、
イエス様がラザロを呼び出した声から、取り上げていきたいと思います。
1番最初は、神の栄光を見るという言葉を取り上げていきましょう。
11章40節です。
イエスは彼女に言われた、ここから読めるかと読んでみましょうか。
もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見ると私は言ったではありませんか。
初めてお聞く方のために背景を説明しますと、
マルタとマリアという姉妹がいて、その兄弟のラザロが亡くなったんですね。
そしてイエス様に使いを、ベーゾンの場所にいたイエス様に使いを送って、
イエス様来てくださいと言って、
そしてイエス様がラザロが死なないうちに病気を治してくれるのではないかと期待したんですけれども、
簡単に言いますと、ラザロが死後4日経ってからイエス様が来たという場面です。
なぜ4日というかというと、当時の言い伝えではですね、
死者の霊や魂は3日間元に戻ろうとするけれども、
いつもおぞましいと言うんですけれども、4日目には腐敗が進んでいて、
その状態や顔を見て、そこから遠ざかっていくから、4日以降はもう完全に死んだ。
当時は医学の進歩もなかったからかもしれませんが、1日2日で蘇生する人もいたそうなんですね。
ですから誰が見ても明らかにここでラザロが死んでいるという状態だったんです。
そしてイエス様は、だけども信じるなら神の栄光を見ると言ってですね、
そしてラザロの姉妹のマルタ・マリアとそのラザラが葬られている墓に行ったんですね。
埼玉県には吉見百血というのがありましてね、この界隈の小学校は遠足に行ったりね、
私も遠足に行ったことありますけど、そういうような当時は横穴式のお墓だったんですね。
そしてイエス様がこの石を取り除けてなさいと言ったら、
姉妹ラザラですね、マルタは4日も経って臭くなっているでしょうと、当時の習慣通りのことを言ったわけなんですね。
その時にイエス様は、この有名な御言葉、信じるなら神の栄光を見ると言ったんですね。
この神の栄光を見るという言葉の、神の栄光とは神様の活動を表しているんですね。
言い換えれば、神様が御業を成してくださるという意味なんです。
これまで見てきましたように、例えばですね、
神様が成してくださったことですが、ここではイエス様がラザラを蘇らせたという時に人々は、
いける誠の神がその力ある技を成してくださったというところを目撃するということを文字通りは意味しているわけなんです。
実はこの神の御業、それを見るというのは、ヨハネの福音書の中でしるしという言葉で言い表されているんですね。
このしるしというのは何かというと、証拠としての奇跡です。
そして7つの奇跡しるしが記されている最後がラザラの復活、蘇りでしたけど、一番最初が2章のカナの婚礼の水が葡萄酒に変わるというところですね。
そこから始まって7番目のしるしとして、最大のしるしとしてこれがなされている。
このしるしというのは、奇跡を起こすこと以上に大事な意味があって、
それはですね、証拠としての奇跡でイエス様を通して生ける神が働いているという、そういう証拠としての奇跡です。
そしてもっと言うならば、その証拠は何の証拠かというと、イエス様が誠の神様であって、
死なる神様から使わされたメシア、救い主であるということを表す証拠としての奇跡がこのしるしだったんですね。
そしてそのクライマックスとして、このラザロのよみがえのしるし、奇跡が起こるわけです。
そして大事なことはですね、ここでしるし、奇跡が行われても、2通りの人に分かれるというところなんですね。
それは信じる人と信じない。
その2つ、証拠を見ても2つに分かれるって言うんです。
今日の締めくりの45節では、多くの人がイエスを信じたって言ってますが、来週取り上げますが、次のところの読書借りではですね、
何人かはイエス様の敵のところに行って、告げ口したって言ってるんです。
これが遠回しに書いてありますけど、奇跡を見てもイエス様のことをですね、こんなどこの馬の骨かわからない男がメシアのはずがないと言って、
イエス様を殺そうとしていた当時のリーダーたちに訴えに行ったっていうのがその場面なんですね。
そのようにですね、ある学者はこう言ってるんですね。
群衆はその奇跡を見るが、信じる者のみがその奇跡の誠の意味、つなわち神の栄光を見るであろうと言ってるんです。
同じものを目にしても2つに分かれていて、信じる人だけがそこに神の栄光、神が働いたっていうことを見出すことができる、信じることができるとも言えるかな、そういうふうに分かれるって言うんですね。
で、そのように分かれてしまいますけれども、このイエス様の言葉、信じる者は神の栄光を見るという言葉、
信じるなら神の栄光を見る、このマルタに対する問いかけによってイエス様はこういうことを言おうとしている、問いかけている、あるいは私たちにこういうことを問うているとある学者は言ってるんですね。
何を言ってるか、それはイエス様がこうマルタや私たちに問いかけているというんですね。
私イエスがメシアであり、復活といのちであるなら、この死に直面しても彼に信頼すべきであり、私は神の栄光、すなわち神の宮座を示すこと以外は何もしないと言ってるんです。
分かりやすく言うと、このような危機的な状況に、危機に瀕していて、絶望に思えるかもしれない。
けれども、私がメシアであり、復活といのちであるならば、そのような絶望的な状況の中にあっても、私は神の宮座を示すこと以外は何もしないんですよ、そのことを信じますかと問いかけているんですね。
私たちの人生や生活においても、もちろん死という、あるいは病という深刻な問題に直面することがあるでしょう。
アカシアさんまさんの娘さんが、いまるというのね、由来分かります?いまるさん。
生きてるだけで丸儲けという意味だそうなんです。
生きてるだけで丸儲けということを私たちは知っていても、それでも、ささいな試練に直面するときに絶望してしまうというのが、私たちの弱さやサガではないのかなと私は思うわけなんですね。
そんな私たちでありますけれども、まさにこのイエス様の問いかけから私たちは、試練の中にあっても神様に信頼して歩むということを、現実の生活の中で身につけていく。
信じる者の挑戦
そういうチャレンジを受けているというかですね、そういう試練の中でも現実的な中で神様に信頼していく。そのような歩みをしていくお互いであり、教会でありたいと思うわけですね。それが最終のポイントです。
2番目、イエス様の祈りに注目してみましょう。イエス様の祈り。
イエスは目をあげて言われた。ちょっと長いんですけど読んでみましょうか。
父よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝いたします。私はあなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました。
はい、じゃあ後、私読みますね。しかし私は、周りにいる群衆のためにこの人々が、あなたが私をおつかわしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。と言っているんですね。
これは何を言っているかというと、簡単に言うとですね、私は行為に出して祈らなくてもいいんだけども、周りの人のために行為に出して祈りますよって言ってるんです。
周りの人に聞こえるように祈りますって言ってるんです。簡単に言うとですよ。それをある人はですね、偽善じゃないかと、人に聞かせるための祈りは偽善じゃないかっていう、そんなささやかな批判があるんですけども、皆さんもご存知のようにそうじゃないわけですよね。
ある学者も言ってますけど、これはイエス様が見せかけの祈りをしたわけじゃないって言うんですね。なぜ行為に出して祈ったのか、こういう言い方をしたのかというと、それは11章15節でイエス様が言われたように、ラーザのよみがえりの奇跡を見た人たちが、信じるためにあえて行為に出して祈りますと言ったんですね。
はい。
ところでですね、先週大きなニュースがありましたね。
大谷翔平選手が、大谷翔平選手がWPCに出るというニュースが駆け巡りました。
そして大谷翔平が出るとなったときに、ある解説者がこう言ったんですね。大谷が出るといったことによって、日本人選手の中で、怪我するから行きたくないとか言ってた人たちとか、体が疲れるから行きたくないって言ってた人たちも、たくさん行くようになるだろうって言ってます。
なぜか、だって、この世界の大谷選手と一緒のチームでプレーできるとなると、親しく会話をしたりですね、指南を受けることができる。だから、多くの参加をためらっていた選手が行くだろうと言っているんですね。
つまり、同じチームで親密な関わりができる大谷選手と、だから行くっていう人が増えるって言ってるんですね。何が言いたいかと言いますと、実はこの大谷選手とWPCじゃないんですけれども、この大谷選手との特別な関わり以上に、このヨハネの福音書では、イエス様と父なる神様の特別な関わりや親密な交わりということが取り上げられてきていましたね。
それはなぜかというと、父なる神様と御子イエス様が神様として親密な関係にあるんだということが、ヨハネに描かれてきているわけです。
それは別のことを言うと、人間には理解できないし、私たち人間ではそこに入り込むことができないような神様同士の父なる神と御子イエス様の関わり交わりが、ヨハネの福音書に描かれてきているということなんですね。
実は、父と御子の関係は、イエス様は人となってこの地上に歩まれたんですけど、人となって歩まれたイエス様と父なる神様との関わりや、祈りの生活との関係があると言われているんですね。
イエス様はこの地上の生涯を歩んだ時に、やはり人として父なる神様に祈ってきたんですね。その祈りの生活から私たちも学ぶことができるんですね。
ある学者がこう言っているんですね。地上の生涯を人として歩まれたイエス様は、こうやって過ごされていたと。イエスはいつも父なる神との祈りと交わりの中に生きています。
このように出して祈る時も、祈っていない状態から祈りに入るのではなくて、既に続いている祈りを外に、言葉に表しているだけです。ラザロを蘇らせる場面で言葉にしたのは、その力が神の賜物であることを周囲の人々に示すためでしたと言っているんですね。
ここで大事なことは、イエス様はいつも神様との祈りと交わりの中に生きていた。こういうふうに出していなくても、簡単に言うと祈りの中で生きていたというわけです。
祈りの重要性
皆さんも少し、特にクリスチャンの方なら経験あると思いますけれども、何かしている時に神様を助けてと言いながらしたことはないですか?私はそっかしいから、しょっちゅうそんなことを神様を助けてください、イエス様を助けてくださいと言いながら、
例えばね、国書の夏でしたよね。会うときに外で作業するときに、イエス様は大変だと言いながら作業してたんですけど、そういう経験皆さんもあると思うんですよね。
まさにイエス様がそのように、この地上の生涯で、声に出さずとも常に父なる神様と交わりをしていたように、私たちは声に出そうか出す前が、聖霊なる神様、イエス様、父なる神様と祈りのうちに生活しているし、することができるし、それが祈りの生活の醍醐味と言いますか、クリスチャン生活の醍醐味ではあるのではないでしょうか。
そのような祈りについて、
使徒パウロはですね、新約聖書の第一テサノニケの5章の16、18からこう言ってるんですね。皆さんのレジ目のですね、2ページ目の真ん中の上に書いてあります。
3番目の呼び合いの叫び声の真上ですね。2ページ目の真ん中のちょっと上。第一テサノニケ5の16から18という言葉が書いてありますね。それを読んでいますね。パウロの祈りの教えの言葉です。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリストイエスにあって神があなた方に臨んでおられることです。私たちはイエス様のように、声に出そうか出すまいが神様との交わりの中に来ていく。
その中で絶えず祈りながら歩んでいける。そういうものを与えられている。それが私たちの幸いであり、もしかしたらそれを永遠のいのちの歩みとも言うのかなと思うわけですね。それが2番目。最後3番目。
3番目。よみがえりの叫び声というところを見ていきましょう。これも最初からしばらく読んでみましょうか。そしてイエスはそう言われると大声で叫ばれた。ラザロよ出てきなさい。いいですよ。
すると死んでいた人が手と足を長い布で曲がれたままで出てきた。彼の皮は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。ほどいてやって帰らせなさい。11章33節から34節ですね。
日本の映画やアニメで透明人間というのが出てくるんですね。その時に透明人間ってわからないですから包帯でぐるぐる巻きにして透明人間だ。それが撮れたら透明だみたいな描写がありますけれども。ここではラザロが当時の埋葬されたままの姿で出てきた様子が描かれているんですね。
体は歩けるような巻き方をしているそうです。顔も布が被っているだけだったかもしれません。そんなことは去っておきましてですね。この場面からまさに生き生きした様子を見て取ることができますよね。墓の中からラザロが出てくる様子。
そしてイエス様が大きな声で叫んだその声が耳に届くような描写ですよね。
実はこれはイエス様が以前宣言した御言葉の常珠でもあるわけですね。
5章29節でイエス様はこんなことを言っているんですね。
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者が御名、この声、御子イエス様の声を聞く時が来るのです。その時善を行った者は蘇っていのちを受けるために、悪を行った者は蘇って裁きを受けるために出てきます。
墓の中にいる者が御名、御子の声を聞く時が来る。その時、墓から出てくる。これが実現しているわけなんですね。
このイエス様がラザロを呼びかけた時、その言葉がここにありますけれども、
そう言われると大声で叫ばれたという言葉は、元のギリシャ語で見ると、大きな声で叫んでいったというのが直訳というか訳なんですが、
イエス様の声とか大きさが強調されているんですね。ギリシャ語で難しく書いてありますけれども、
エイポン、ユッタ、フォネというのは声で、メガレイというのはメガマックのメガで、大きなエクラウゼン、叫んだ。
イエスはユッタ、大きな声で叫んだ。
そういうイエス様の大きな声が響き渡ったことが強調されている。
ある学者は雷鳴のようにイエス様の声が轟いた、響き渡ったと言っているんですね。
それは罪の死を打ち砕く雷鳴であったというようなことを言う学者もいるんですね。
何が言いたいかと言いますと、実はこれはですね、創世紀1章の言葉を連想させます。
以前も話しましたが、ヨハネの冒頭の1章1節からの描写はですね、
イエス様が世界の創造の時に、父なる神様と一緒にいた誠の神であり、いのちの光であった。
そしてその光をあれといった言葉そのものがイエス様でもあった。
そういうことを連想させるような書き出しで、ヨハネの福音書は始まっています。
そしてその創造の大きな御声、いのちの御声がですね、ここで響き渡ってラザロを墓から呼び戻したと言えるわけですね。
そのことをある学者はですね、こんなことを言って表現しているんですね。
世界の創造とラザロのよみがえりとリンクさせながら。
混沌を打ち破り、天地を創造したその御声が墓の腐敗をも貫いて、よみがえりのいのちを呼び出した。
混沌を打ち破り、天地を創造したその御声が墓の腐敗をも貫いて、よみがえりのいのちを呼び出した。
イエス様がこの前の11章の24、25節で言われたように、イエス様を信じる者は死んでも生きるということですよね。
私たちはこの地上の生涯を終えて、この地上のいのちが途絶えたとしても、私たちはよみがえりの希望がある。
死んだときに、その後イエス様の声を聞いて、私たちもよみがえるんですね。
希望のメッセージ
私たちがやがて墓の中にいたとしても、イエス様の声を聞いてよみがえる、その希望についてですね、
パウロが先ほどと同じテサノニケの手紙の中でこう言っている御言葉を読んで終わりにしたいと思います。
第一テサノニケの4章の16節から18節ですね。
ちょっとカギカッコでマスと書いてありますけど、カギカッコを無視してマスと読んでいきましょうか。
ちょっと長いですけど頑張って読んでみましょうか。
合礼と密会の頭の声と神のラッパの響きと共に主が、ご自身が天から下ってこられます。
そしてまずキリストにある使者がよみがえります。
こうして私たちはいつまでも一共にいることになります。
ですからこれらの言葉をもって互いに励まし合いなさい。
私たちがやがてイエス様の声を聞いてよみがえるその時が来ることをですね、
希望としながらこの地上の生涯も歩んでいくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
イエス様はおっしゃいました。私はよみがえりでありいのちである。私を信じる者は神殿を生きるのです。
そのあなたの御言葉通りに、あなたはその御声をもってラザロー氏から呼び出してくださいました。
私たちがこの地上の生涯を終えたとしても、あなたはやがて私たちを呼び出し、新しい体へと復活させてくださるその希望を覚えて、あなたに感謝いたします。
しかし私たちはこの地上の歩みの中で心くじけたり悩んだりすることも多くございます。
どうかその時にあなたが御業を行ってくださること、あなたの栄光を見ることができる、そのことを信頼し、イエス様を信頼して歩んでいく、そのようなお互いでありますように、
どうか弱い私たちを御聖霊によって慰め強め導いてくださるようにお願いいたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではそのまま黙祷の姿勢でですね、一分ほど二言葉に応える祈りの時間を一分ほど持ちましょう。黙祷しましょう。
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