2023-09-03 28:03

#恐れず、ただ信じ続けよ 23/9/3

マルコ-43からの礼拝説教。2023年9月3日録音。 8/13の4章35節の嵐を静めた奇跡からの説教から新しい段階に入ったと繰り返してきました。今日の箇所はそのクライマックスです。「神の御子であるイエス様はいのちを支配し死に打ち勝つことさえできる救い主である」。福音書の著者マルコは今日の箇所でそのことを訴えています。そしてこれはのちに明らかになるイエス様の復活に繋がりキリスト教信仰の本質である「復活信仰」の前触れとなっているのです。イエス様の言葉は、私たちが大なり小なり試練に直面したり、踏み出したものの壁にぶつかったりする私たちにとっても支えとなるでしょう。1.イエス様の配慮、2.増し加わる危機、3.「恐れずただ信じ続けなさい」の3つの点から今日の箇所を取り上げます。

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00:06
マルコ5章35節から43節をお読みします。
イエスがまだ話しておられるとき、カイドオツカサの家から人々が来ていった。
お嬢さんは亡くなりました。これ以上先生を煩わすことがあるでしょうか?
イエスはその話をそばで聞き、カイドオツカサに言われた。
恐れないで、ただ信じていなさい。
イエスはペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、誰も自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
彼らはカイドオツカサの家に着いた。
イエスは人々が取り乱して、大声で泣いたり喚えたりしているのを見て、中に入って彼らにこう言われた。
どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか?
その子は死んだのではありません。眠っているのです。
人々はイエスを嘲笑った。しかしイエスは皆を外に出し、子供の父と母とご自分の友の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。
そして子供の手を取って言われた。
タリタクム、訳すと、少女よ、あなたに言う、起きなさい、という意味である。
すると少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。
彼女は十二歳であった。
それを見るや、人々は口も聞けないほどに驚いた。
イエスは、このことを誰にも知らせないようにと厳しくお命じになり、また少女に食べ物を与えるように言われた。
以上です。
今日はこのところから、「恐れず、ただ信じ続けよ。」と題して見言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
早いもので9月に入りました。暑い日が続いておりますが、なんとなく朝夕の日が短くなって、少し風が涼しく感じるようになったかもしれません。
そして、日本では9月1日が関東大震災から100年目ということで、いろいろニュースでも、今もいろいろな報道がされたり、番組が流されています。
そんな中ですけれども、今日も共に礼拝を守れていることを感謝します。
今日の歌唱ですけれども、8月13日の礼拝から、イエス様の嵐を沈めたという奇跡から、新しいフェーズに入った、この新しい段階に奇跡物語が入ったということを繰り返してきました。
今日の歌唱はそのクライマックスですね。
03:01
先週のところからの続きで、カイドウ、ユダヤ人の当時の礼拝堂の責任者、その娘、12歳と後でありますが、娘が死にそうです。イエス様助けてください。手を置いてくだされば救われます。という男が、ヤイロというカイドウ管理者がやってきて。
そしてその癒しに向かう途上ですね。先週見た12年間長地を患った女性の癒しという、ある意味邪魔が入りました。
しかし、そんな中ですけれども、これからイエス様が娘を癒しに行く、救いに行くという場面です。
今日の箇所でイエス様がこう言っている、いろんな絵が出ているんですけれども、鍵はイエス様は命を支配し、死に打ち勝つことさえできる救い主である。
そのことを、この著者ルカ、マルコは訴えようとしているわけなんですね。
そしてこの命に、このイエス様の、この今日の奇跡はですね、この後出てくるイエス様の十字架と復活、復活の奇跡につながっていきます。
そしてさらには今の私たちまで至る、キリスト教の信仰の一番大事な復活、私たちは地上の命を終えても、どういう形かもはっきりはちょっとわからないんですけれども、
地上の命を終えても、新しく生まれ変わることができる。
そういう死を恐れなくて良いという復活信仰につながっていく、その前触れが今日のこの奇跡です。
いつものように、この3つの点から見ていきましょう。まず最初ですね、
イエス様の配慮というのが第一の点です。今日の話の最後に出てくるところを最初に取り上げますが、
この女の子が生き返ってみんな驚いている中、イエス様はこう言いました。
イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しくお命じになり、また少女に食べ物を与えるように言われた。
ここから何がわかるか。ここではイエス様がこの生き返った12歳の女の子に食べ物を与えるように命じた。
ここでですね、どんな状況かというと、もう死んだと思ったこの女の子が生き返っているわけですから、
そこに居合わせた両親、弟子たちもですね、びっくりしてまたたくさんの人がいましたが、歓喜の声を上げて大騒ぎしている。
そういう中でイエス様は冷静に、この子何日か食べてないから食べ物をあげなさいと言ったわけです。
これはですね、ある学者はこういうイエス様の様子が描かれていると言ってですね、温かい人間的なイエスを暗示しています。
イエス様というのは厳しい断罪するようなイメージだかもしれませんが、そうではない。
06:03
このイエス様の人への優しい眼差し、また弱い人や小さい者への憐れみの心、
それは先週の12年間長寿を患った女性に対するイエス様の言葉や態度からもわかります。
それはですね、偉大な権威を宿した人に見つかわしくない態度かもしれません。
皆さんね、いろんなイメージしてください。
偉い地位にある人、あるいはいろんな経済的に豊かな人かもしれません。
権力を持っている人、そういう人はですね、近づきがたい、もしかしたら近づいてヘマをしたら叱られるという怖いイメージがあるかもしれません。
でもですね、よく欧米人に見られるんですが、
まあわかりやすく言うと資産家、大金持ちの人はですね、チャリティーを必ずするんですね。
ビル・ゲイツという人も何億何兆という人を、お金をアメリカのために捧げていますね。
そういう、まあ私もアメリカ人であったことありますけれども、クリスチャンの方。
権力とか地位とかお金のある人、本当にその人はですね、優しい、憐れみの手を持って、
例えば教会の給食サービスに出てですね、ホームレスの人に食事配ったりしたり、そういう人がアメリカ、
ヨーロッパなどでは普通に見られるわけです。
で、そんなイエス様はその中でもまさにその頂点、神の救い主であられます。
こういうイエス様の言葉があります。
マタイの11章28節から29節、読んでいますね。
全て疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい。
私はあなた方を休ませてあげます。
ちょっと難しいかもしれません。ここから読んでみましょう。私がから3、はい。
私は心が乳和で減り下っているから、あなた方も私の首輝を追って、私から学びなさい。
そうすれば魂に安らぎを得ます。
まあ、このような憐れみ深いイエス様、そのイエス様についてイエス様から学ぶと、
魂に安らぎが来ますよ、とイエス様おっしゃっています。
ですから私たちもですね、先週見た12年間病気で困ってた女性のように、そして今日のこのやいろのようにですね、
苦しい時です。ピンチの時に安心してイエス様に助けを求めることができる。
まあ今で言えば祈る。助けてくださいと祈ることができるわけです。
2番目。しかしその中で増しくはある危機、危険が増しくなった。ある面、絶望が訪れました。
5章35節。イエスがまだ、この12年間長中を患った女性が癒された後ですね、イエスがまだ話しておられる時に安心していきなさい、
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健やかでいなさいとイエス様は言葉をかけている時、カイドウ塚さんの家から人々が来ていった。
お嬢さんは亡くなりました。これ以上先生を煩わすことがあるでしょうか。
カイドウ塚さん、カイドウ管理人は、イエス様がですね、自分の娘を癒しに来てくれ、急いでいる途中に先週見た女性の奇跡に出くわした。
それは一種の足止めでした。でもその奇跡を見てですね、私の娘も助かるという希望を抱いてですね、
いよいよ瀕死の渋滞の中にある娘のところにイエス様と共に行こうと思った。
その矢先にですね、バッドニュースですね、最悪の知らせが届いたわけです。これはですね、私たちもよく経験するかもしれません。
この中でですね、私たちもですね、このやいろのように
一大決心をして一歩踏み出した。その時に何かつまづいてしまうことがあるかもしれません。
あるいはクリスチャンの方であれば、イエス様を信じて課題に取り組もう、試練に立ち向かっていこう、耐えていこうと思った時に状況が変わらない、なかなか。
あるいは悪化してしまうなど、そういうマシックがある危機ということを直面するかもしれません。
しかしそんな時イエス様は、このやいろにすぐさま語りかけて言われたわけです。
それが次の言葉。 恐れずただ信じ続けなさい。
5章36節。イエスはその話を側で聞き、娘の不法を側で聞き、カイドウツカさんに言われた。ここだけ読んでみましょうか。
恐れないでただ信じていなさい。 イエス様はそう語られたわけです。
実はですね、この言葉、物議をかもすわけですけども、
普通の人であれば、やいろが、娘が死んだというのであればですね、気落ちしないように慰める。
まあ私たちよく寄り添うというかね、遺族に寄り添う言葉をかけるかもしれません。
でもイエス様は、死んだって聞いても、いやいや恐れないでただただ信じていなさいって命令したんです。
それはまさにですね、自らが十字架から死に至り、そして復活して救いのしてある、そういうお方であるからこそ
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かけることができる力強い言葉だったんですね。 恐れずただ信じていなさい。
そしてやいろの家に着くと何が起こっていたか。 やいろの家に着くと
たくさんですね、当時の習慣通りですね、たくさんの人が弔いに訪れていたんです。
どんな習慣があったかというと、 家族が死んだ場合その矢主はですね、
主は亡き女、弔いの一軍一団を雇わなきゃいけないと言われたんです。
どんなに貧しくても2人もしくは3人の亡き女とか、踊る人がいたそうです、この悲しみを表す。
そういう亡き女や踊りを披露する女性の一軍を雇わなきゃいけなかった。
それが習慣だったんですね。日本で言えば、日本で言えば葬式でしょうか。 で、やいろは地位が高い財力もあった人ですから本当に多くの人がいたようですね。
で、そんな中で面白い、興味深いこと、よく読むと興味深いことが5章の38から40に書いてあります。
イエス様との寄りと。彼らはヨハネとペテロとヤコブとイエス様、そしてカイド管理者たちが家に着いた。
イエスは人々が取り乱して大声で泣いたり喚いたりしているのを見て、中に入ってこう言われた。
ここから読んでみましょうか。どうしてからイエス様の言葉から3、どうして取り乱したり泣いたりしているのですか。
その子は死んだのではありません。眠っているのです。人々はイエスを嘲笑った。
大声で泣き喚いている人たちにイエス様は、なぜそんなことをしているんだ。この子は死んだのじゃないんだよ。眠っているんだよ。
そうすると、人々はイエスを嘲笑ったんですね。バカにした。
この出来事から、泣き喚いている人たちは単なる商売人であったということがわかる。
全然悲しんでいない。ちょっと考えてみてください。本当にこの少女の死を悲しんでいるのであれば、イエス様がこう言った。
この子は寝てるんじゃないよ。死んだんじゃないよ。寝てるんだよって聞いたら、どういう反応します。
本当に悲しんでいる。どうします。
喜ぶとか、喜ばなくても怒るでしょ。何を言っているんだ。こんな大事な時に。それが普通の反応です。
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しかし、ここの人たちは直ちに嘲笑ったんです。ということは、もう泣いたりはめいたりしていますけど、純粋に商売としてやっていたということが、ここで明らかになるわけです。
まあ、それはそれとしまして、イエス様はその者たちを外に追い出したと書いてあります。
そういう商売人たちを追い出して、そしてその女の子の両親と3人の弟子とイエス様ご自身だけで、その少女がいる家に入っていった。
真剣にこの女の子のことを案じている人たち、そしてイエス様と弟子たちだけを、その女の子の枕元に伴っていったわけです。
そして、たりたくみ、たりたくむって言って、その子に少女よ起きなさいという意味の言葉をかけました。
これはですね、書いたマルコという人が、ライブ感を演出しているんです。難しいこと言います。
学校で言うとちょっと鼻高になります。新約聖書は元々ギリシャ語で書いてあるんです。当時のローマ帝国の公用語。
でもイエス様は土着の人としてですね、アラム語を喋りました。もっと余計なことを言うと、そしてアラム語というのは旧約聖書のヘブライ語から派生した喋り言葉です。
宗教的な言葉はヘブライ語を喋っていたんですけど、日常会話はアラム語です。
だからそのライブ感を表すために、この彼はですね、マルコはアラム語をイエス様に語らせたというかね、それをそのまま記しているわけです。
そして女の子が起き上がって歩き始めたら12歳だったから、それを見た人々は口も聞けないほど驚いたと書いてありますね。
この人々の反応の、人々は口も聞けないほどに驚いたという言葉も、興味深い表現なんです。
今言った元のギリシャ語では、人々は驚きに驚いたと書いてあります。驚き驚いた、文字通り。
同じ言葉が名詞と動詞で繰り返されて、とんでもない驚きだったということが強調されています。
そして驚くという言葉は、ギリシャ語で英語のエクスタシーの言語となったエクスタシスという言葉なんです。
驚くという普通はタウマゾウというギリシャ語を使うんです。それよりももっといわゆるエクスタシーという言葉でわかるほどの言葉を2回も繰り返して使っている人々がどれほどそのイエス様の奇跡に女の子の蘇りに驚いたということが伝わってきます。
まあ、読み込むならばですね、この少女の蘇りは本当に起こったということが、こういう言葉遣いからもわからないとも言えないですね。わかるって言ってもいいと思います。
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さあ、そんな中ですけれども、驚き驚いた、無理もないと思います。死んだと思っていた少女が蘇ったからです。
私、現役じゃないんですけどね、これ聞くと死んだはずだよ、乙美さんという歌を思い出してしまうんですけれども、それはそれとしまして、死んだと思っていた女の子が蘇ったから、それだけ驚くのも当たり前だ。
で、そういう意味からも先ほど話しましたように、これまでお伝えした奇跡の中でもクライマックスです。
クライマックス。まさにエクスタシー。イエス様は死をも克服する、
命をも支配する神の救い主であるということが、ここで明かしされた。
そのようなクライマックスですね。そして先ほど言いました、これはやがてイエス様の従事家から復活へとつながっていき、
キリスト教の本質である復活信仰、今の私たちに至る復活信仰へと至ってくるわけです。
こういう結末をイエス様は知っていたので、ヤイロンに対して恐れず、ただ信じ続けなさいと明示を励ますことができたわけですね。
恐れず、ただ信じなさい。 このような結末を知っていたので、絶望と思えたヤイロンに恐れず、ただ信じ続けなさいと
命じて励ますことができたわけです。 この恐れず、ただ信じ続けなさいという言葉を
私たちも聞いていきたいと思います。 状況がこの試練の中で変わらず、時にそれが悪化すると思われる状況の中でも、
このヤイロンの家族のように、あるいは誰かが体験している命の危険とか、そういういわゆるシリアスな状況でなくても、
もしかしたら、些細なことで私たちの心は揺れ動いてしまうかもしれません。 私自身がそうなんですけれども、
本当にですね、仕事でも人間関係でも、 実際の現場や状況に直面した時に、神様信じているから大丈夫だと言っても、
いろんな現実の生活の中で、
些細なことがですね、 ネガティブな考えが頭から離れないと、不安でしょうがない。
そういうことがあるわけですね。皆さんどうかわかりません。 けれども、そんな私たちをイエス様はですね、
この12歳の娘に食事を取らせなさいという温かい配慮を見せたり、 そして12年間長地で患っていた孤独な女性にですね、
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恐れないで健やかでいて、もう病気にならずに生きなさいという、 花向けの言葉を述べたように、そのようにイエス様は弱く恐れる
人たちは私たちを見捨てたり、切り捨てたりしない。 その祈りを聞いてくださる。恐れないで死に続けなさいと励まし続けてくださるんです。
で、この見捨てられない、必ず救われるということが希望なんですね。
で、実はこの
希望、それはですね、たとえ命を失っても復活するという復活信仰と結びついている。 どうですか?実はイエス様の奇跡で癒された人もやがて死を迎えるんです。
でもイエス様は死んで蘇って、死ななかった。 そういうイエス様を信じているのであれば、私たちたとえこの地上の命を失ったとしても、
イエス様のように、繰り返しますがどういう形かわかりませんが、やがて
新しい命、永遠の命をもって蘇らせていただけるという希望があるわけですね。 そういう希望があるから、例えば皆さんホスピスって知ってます?
ホスピス。
病気で助かる見込みがない人が行く病院ですね。
で、そこに入る人、今はだいぶ患悪ケア病と違うんですけど、できた当初はそういう人が入る専門の病院があったんです。
それは治療しないで痛みを和らげて安らかに人生の終わりを迎えるような、そういう病院です。
で、それを一番最初に日本でそのシステムを導入した人の一人が柏木先生といってね、 クリスチャンの先生なんです。
言い方ちょっとアレかもしれませんが、精神科医の中でトップクラスの先生。 その先生はクリスチャンです。
彼はこの死後の希望ということを信じていましたから、キリスト教のベースの淀川キリスト教病院というのを大阪で作ったんです。
日本で初めてと言われるそういうシステムを導入した人が、そういうクリスチャンのお医者さん。
そのことはこういう復活信仰とあまり 結びついていると言えなくもないわけですね。
油断になりましたけど。 こういう
見捨てられず必ず救われるという希望。 そして復活の希望があるから私たちは
今困難な状況にあってもイエス様を信頼し続けることができる。 これがキリスト教信仰なんですね。
そしてその 信頼が信仰とつながる。
24:00
信頼と信仰と希望という関係があるんですね。 実は旧約聖書の祈りの書物と言われる詩編にですね、そのような
希望と信頼についてたくさん語っています。 今日ギリシャ語の話がいっぱい出てきましたけど、
ギリシャ語で書かれた詩編というのがあるんですね。 そこの中でですね
信頼するとか待ち望むという言葉があるんです。 それは実は
希望を抱くという言葉と同じ言葉や入れ替え可能の言葉が作られています。 ギリシャ語で言うとエルピスとかエルピゾーという
カルピスではありません。 エルピスという希望、エルピゾー、希望を持つ、その言葉が信頼するとか
困難の中で待ち望むという言葉と同じ言葉として、入れ替え可能な言葉としてギリシャ語の詩編の中で使われている
学者も注目しています。このようにですね
信頼するということ、神様に自らを 神に信頼して自分自身を神様に委ねることと
救いの希望を抱くということが、切っても切れない縁である、関係である、そういう思想や信仰が
旧約聖書からあってですね、それが詩編の根底にある。 まあそれが興味深いので紹介したんです。
ですからこの矢色のように 絶望を止める中でも、恐れないただ信頼し続ける、希望を持ち続ける
神の救いを待ち望み続ける そのですね
信頼と希望 その意味をですね、関係をよく考えながら今日からの1週間
お互い歩いて参りたいと思います。最後にそのことを示した 詩編の顕著な言葉一つ
紹介しましょう 詩編の31編
5節、14節、24節から抜粋しました 私の霊をあなたの御手に委ねます
誠の神主よ、あなたは私を贖い出してくださいます ちょっとここから読んでみましょうか
主よ もう一回ね、せーの
主よ、私はあなたに信頼します 私は告白します
あなたこそ私の神です。大しくあれ 心を強くせよ、すべて主を待ち望む者よ
お祈りしましょう 天の神様皆を賛美いたします
イエス様を通して 蘇りの希望
そのような 救いのメッセージを与えてくださったことを感謝いたします
私たちの日々の生活の中で 発泡ふさがりになり
あるいは本当に些細なことでつまずいてしまう そのような私たちでありますけれども
27:06
あなたに希望があり救いがあるということ 必ず救いが訪れるということ
そのことを知り、あなたを信頼し 希望を持ってあなたを待ち望むことができますように
どうか導いてください 日々の生活の中で具体的な出来事に直面した時に
どうぞあなたの救い、あなたの真実さ あなたの眼差しを思い出すことができるように
そしてイエス様が救い主だ そのような経験、確信を抱き
またあなたに感謝し あなたを信頼していくことができるように導いてください
この願いと感謝を私たちの救い主 主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それでは1分ほどそれぞれ御言葉に応答して
黙祷の時間を持ちましょう
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