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  2. #303祭司と神の民 25/12/7
2025-12-07 27:41

#303祭司と神の民 25/12/7

ヨハネ—57からの礼拝メッセージ。2025年12月7日録音。

サマリー

このエピソードでは、イエスの奇跡に対するユダヤの祭司やパリサイ人たちの反応が取り上げられ、サンヘドリンの構成や大祭司カヤパの発言など、彼らの権力や動機が深く掘り下げられています。最終的に、彼らの自己保身やイエスに対する敵対心が描かれています。また、イエスの贖いに関する深い洞察やスケープゴートの概念も取り上げられています。特に、カヤパの言葉が神の業として示されることに焦点を当て、神の民の重要性が探求されています。

サンヘドリンの議会召集
それではお読みします。
ヨハネの福音書、十一章四十五節から五十七節
マリアのところに来ていてイエスがなさったことを見たユダヤ人の多くがイエスを信じた。
しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行ってイエスがなさったことを伝えた。
祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を招集して行った。
我々は何をしているのか、あの者が多くの証を行っているというのに、
あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。
そうなるとローマ人がやってきて、我々の土地も国民も取り上げてしまうだろう。
しかし彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが彼らに言った。
あなた方は何もわかっていない。
一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないで済む方が、自分たちにとって得策だということを考えてもいない。
このことは彼が自分から言ったのではなかった。
彼らはその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけではなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを預言したのである。
その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。
そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を好然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちと共にそこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた。
多くの人々が身を極めるため、過越の祭りの前に、地方からエルサレムに上ってきた。
彼らはイエスを探し、宮の中に立って互いに話していた。
どう思うか、あの方は祭りに来られないのだろうか。
祭司長たち、パレサイ人たちは、イエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、といういのち令を出していた。
以上です。
大祭司カヤパの発言
今日はこのところから、祭司と神の民、祭司と神の民となり、という言葉からお送りいたします。
みなさん、おはようございます。
早いもので、もう12月になりましたですね。
ところでですね、これ、あ、ちょっとうまく見えないかな。
実はここに富士山があったんですけれども、これは新座市から見た富士山の写真だそうです。
もうお気づきになると思いますけど、もう寒くなるとですね、空気が済んで、新座市からも富士山が見えますね。
夏の間は水蒸気の影響とか、空気が済まないので、この辺からあまり富士山を見ることができない。
みなさんもね、富士山スポットなんかあって、ここから見えるというのもあるかと思いますけれども。
実はですね、なんでこんな話をしたかと言いますと、
今日のところがそうなんですが、なんとなくぼんやりとわかっている聖書の言葉とか、意味がありますけれども、
それがはっきりわかると、その視界がこの富士山がはっきり見えるように、聖書のことがはっきりわかるようになります。
今日はそのところでですね、一番最初はサン・ヘドリン最高議員、最高議会の議員たちの構成員たちをですね、どんな人たちかということをそれぞれ説明していきます。
それが一番目のサン・ヘドリンのパリサイビトの祭司たちというところです。
そして2番目はですね、その中で大祭司カヤバが語った発言から、政治的なスケープゴートロンということを、ほんとさらっと触れていきます。
そして最後に彼の口から出た言葉が、3番目、人間の悪意を超えているということを見ていきたいと思います。
それでは一番最初、サン・ヘドリンのパリサイビトの祭司たちというところで、当該の聖句を読んでいきます。
11章の47から48節。イエス様のラザロの復活の奇跡を、悪意を持って告げ口した人たちを受けてですね、こういうことが行われました。
そこで祭司長とパリサイビトたちは議会を招集していった。我々は何をしているのか。
あの人が多くのしるしを行っているというのに、もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。
じゃあそうなるとからだけ読んでみましょうか。
そうなるとローマ人がやってきて、我々の土地も国民も奪い取ることになる。この言葉ですね。
ここでいう議会とはですね、皆さんの新海約聖書の脚注にありますように、サンヘドリンという当時のユダヤの最高議会、また裁判所ですね、最高法院とも言われています。
それはですね、今まで申し上げてきましたように最高裁判所のようなところであり、あるいは宗教的だけではなく国会のような政治的な議会だということですよね。
実はローマの支配下の中にあったこのイスラエルでしたけれども、この国としてのありようが認められていて、そしてこの最高議会の人たちは国を治める権限を依頼されていたわけですね。
そういう背景皆さんもご存知だと思います。しかしこのサンヘドリンがイエス様の迫害と殺害に大きく関わっていた。
構成要素は大祭司と祭司長と律法学者、その多くはパリ祭派なんですね。そしてほんの少し旅の長老たちが構成員なんですね。
ちなみに皆さん、大祭司と祭司長の違いってわかりますか。あるいは律法学者とパリ祭派の違い、ちょっと言ってきましたけど覚えてます?ぼんやりしてますよね。
これの人たちがどんな人たちかっていうことがはっきりすると視界がクリアになって、そして単なるイエス様を恨んで殺そうとしたということ以上に、富士山のようにはっきりとその背景がわかってきますから、
少し勉強的な要素になりますけれども、それぞれの人たちについて説明していきます。大きく分けると2通りに分かれて、大祭司と祭司長は神殿で祭儀を行う。
生贄を捧げたり祈りを捧げたり光沢人たちです。そして律法学者とパリ祭人はよく出てきましたけども、律法の学問的そして実践的な専門家ですね。そういう違いがありました。
もう少し詳しく見ていきます。まずパリ祭人と律法学者の方を見ていきますが、パリ祭人が祭司長と議会を招集したと言ったんですけども、議員を構成しているパリ祭派、総勢71人の中の大体パリ祭人と律法学者は議員の中で20人から30人いたそうです。
そしてこの2人はパリ祭人と律法学者というのは違いがありまして、律法学者というのは律法の学者です。研究をする人です。そしてパリ祭人はその実践者です。
前よく出てくるイエス様がどうして清めの儀式をしないんだとかですね。そういうことで非難したり。そして自分たちが700以上あるいわゆる戒律を実践して、そしてそれを人々に教える、そういう人たちがパリ祭人です。
実は律法学者の中にパリ祭人という学者の中に実践する人たちがいた。そういうことをまず覚えておいてください。彼らがこんな様子をしてましたけれども、まずサンヘドリン議会の主なる構成要因のグループだったんですね。
次、今日はよく見ていきたいのは祭祀のグループです。大祭祀というのが出てきます。今日言葉を発した大祭祀がカヤパという人で、いわゆる議長さんです。今衆議院議長は誰かちょっと分からないんですけれども、議長。一人なんです。一番偉いサンヘドリン。こんなような格好をしていますね、大祭祀。
そして、繰り返しますが、ユダヤ教の最高位の祭祀。祭祀の中のトップ。そして神殿儀式の中心を担っていながら、議会の議長も務めた人です。
ローマ支配の中では、実はパリサイ人以上に政治的な権力とローマと結びついていた人たちです。そして実は彼らが大祭祀の務めを任いのちされたり、批判されるのもローマの影響を受けていたんですね。
イエスへの敵対心
簡単に言うと、極めて宗教的でありながら、より政治的なローマとの関わりが強い人たち。強い人たちですね。でも、とにかく一人なんです。
その下に、祭祀長たち。この祭祀の神殿儀式を行うリーダーたちがいて、その中の約二、三十人が神殿に仕える祭祀の中なんですけども、やはりサンヘドリンの議員だったんですね。
だからさっきの律法学者たちが三十人程度、祭祀長たちが三十人程度ということで、この二大勢力なんですね。国会の二大勢力みたいな。全部与党なんですけど。
それで、ちょっと余談ですけども、長老たちっていうのが一桁。本当に長老ですから、ちょろちょろいたわけですね。七、八人とか。笑ってる人いましたけど、ありがとうございます。
今日祭祀の方をよく見るんですけども、祭祀長は神殿に仕える中での有力な家計や上層部の人々。アロンとかレビビトとか、旧約聖書に出てくる人たち。そして大祭祀を助けて、議員の主要メンバーとして権威を持っていました。
実はイエス様の裁判では、律法学者とパリ裁人以上に、この祭祀長と大祭祀が決定権を持っていたわけなんですね。注意深く見ると、これから特にヨハネでは、祭祀長かやぱ、そして大祭祀かやぱと祭祀長たちがイエス様の裁判に関わってきます。
もうちょっと難しいというか、加えて言うと、実は佐渡会派というのがいたんです。佐渡会派。佐渡市までいたわけじゃないですよね。佐渡会派。これどういう人か。佐渡会派っていうのは、実は祭祀のグループは佐渡会派ほぼ全員だったんです。全員と言ってもいいんですけども。
この人たちはですね、ある神学的な思想を持っていました。彼らは天使を信じていなかったし、復活も信じていなかったんです。祭祀なのに復活信じていなかった。
ちょっと皆さん覚えてると思いますけども、マルコの福音書の中でとか、共感福音書の中でイエス様が神殿で論争しますね。いろんな論争。その中の一つに、復活は信じていない佐渡会派たちがイエス様に論争を仕掛けた。どんな論争か覚えてます?
ある男の人が一人の女の人と結婚したけども、子供を設けずに死にました。そして弟がその後を継いで結婚しました。弟も死にました。そして結果、7人の兄弟全員がその女の人と結婚したけども、復活した時に誰がその女の夫になるんですかって質問した。
それを質問したのが佐渡会派の人たち。祭祀の人たちで、そうやってイエス様に難しい質問をして、復活はないでしょってことを迫った背景があるわけです。ちょっとそういう難しい話をしましたけども、このような律法学者たちのグループと祭祀たちのグループがイエス様に敵対していた。
じゃあ彼らはどんな人たちだったかってことをもう少し詳しく見ていきますと、実は彼らはイエス様のしるしのことを分かっていたんです。見たり聞いて。それを知っていたけれども、それでもイエス様が神から作らされた方だってことを信じてこなかったわけですね。同じことをこの間も言いましたが、見ても信じない人たちの代表でした。
それ以上に、この我々は何をしているのかというところには焦りがあって、イエス様の影響力を弱めようとしても全く何もできていないということを、彼らはここでジタンナを踏んでいるわけですね。
そしてここでローマ人が攻めてきて云々というのは、先ほど言いました国の権威を異常されていますけれども、イエス様がそうしなくても、民衆がダビデの再来の救い主がやってきたということで、ローマに反旗を翻す。
今でもいろんな国々がですね、植民地化みたいに抑え込まれているその中で内戦が起こったり、世界中でしてますよね。そんな感じでですね、民衆が放棄してローマに歯向かって、そして下手をしたら暴動が起こってしまう。
するとどうなるかというと、ローマ軍がやってきて民を鎮圧しますけれども、その抑えきれなかったサンヘドリの議員たちの責任を追求して彼らを失職させる。ひいては国が潰される。江戸時代じゃないですけど、お国取り潰しみたいな形でですね、イスラエル国家も潰されるということをここで言っているんですね。
たださらにあえて言うと、あくどいのはですね、実はこの議員たちは国の心配以上に自分たちの立場を心配していたんです。
いわゆる特権階級でしたから、自分たちが持っている権益がローマによって奪い取られてしまうということを最も恐れていた。ですから国のことを言いながらも、自分たちの権益を守るためにどうしようかということで、国のことよりも民のことよりも、自己保身ということが最も深い彼らの動機だったということが、学者たちの間でも言われているんですね。
そのようなことを知るとですね、この言葉の背景をさらに深く知ることもできますし、どうして彼らがこれほどまでにイエス様に敵対したのかという背景も、よりはっきりと見えるのではないか。
現実的な問題として彼らが考えていたことがわかるのではないかなということで、ちょっと難しい話ですけども、紹介しました。
2番目、政治的なスケープ強盗論ということで考えていきましょう。
その49,50節で大祭司かやぱがこのように言いました。しかし彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったかやぱ、議長が彼らに言った。
3番目、あなた方は全然何もわかっていない。一人の人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びない方が、あなた方にとって特撮だということも考えに入れていない。
これは日本語で上品に訳していますけども、学者たちに言わせると、とても粗暴な物言いが特徴だったそうなんです、この祭司長や里会議員たちって。
ですから、本当に、あえて言っちゃいますけど、乱暴な政治家さんいますよね、言葉遣いが。
そういうような言い方で、お前たち何もわかってないなということで、議長がその下の議員たちをバカにしている。そういう口調で話していたそうです。
で、スケープゴートですね。スケープゴートって、実は由来が聖書の言葉なんですね。
スケープゴートの概念
今日は詳しく見ません。レジュメに書いてありますけども、旧約聖書レビキの16章8節などに書いてある、この贖えの柳を放つという言葉なんですけども、そのことから生まれた言葉です。
そして、このスケープゴートを皆さんもご存知のように、その意味は、責任を一人の人になすりつけて、そしてその責任を回避する。
それがこのスケープゴートですね。
集団や社会の不満、問題を特定の人や集団に押しつけて、そしてその不満や問題をなしにする。
今でも行われているかもわからないんですけども、その最たる言葉でもあったわけです。
実はその後、53節でありますように、この大災死の言葉を受けて、そこで彼らは、議会はですね、その日からイエスを殺すための計画を立てたと書かれていて、
まさにイエス様の受難がここから始まるという転換点になったわけなんですね。
しかしですね、この大災死の言葉、一人の人が民の代わりに死んで国民全体が滅びないという極めて政治的な発言が、神様の大いなるあがないのみやぞを予見していたわけですよね、イエス様のみやぞ。
そして最後の点ですね、3番目。
人間の悪意を超えてというところに行ってみましょう。
その解説を、著者であろうヨハネがこう付け加えています。
ところでこの言葉、彼が自分から言ったのではなくて、その年の大災死であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、
焦らされている神の子たちを一つ一つに集めるためにも死のうとしておられることを預言したのである。
実は当時のユダヤ人の人たち、また伝統的にも預言についてこう考えていたそうなんです。
神の民としての召し
それは、意識しないで語られた言葉の中に預言の言葉があるとユダヤ人たちは考えていたそうなんですね。
旧約聖書では、災死は純粋には預言者ではないですけれども、旧約聖書の中に災死が先見者、予見者と呼ばれているところもあるように、
災死も起こるべきことを神の御業をあらかじめ告げる預言者的な役割も見直されていたことがわかるわけなんです。
このように悪意を込めたカヤパの言葉、しかし大災死は神様の召しですから、
それが神様の召しの言葉としてイエス様の世界の贖いの業が意図せず語られたということがわかるわけです。
ここに神様の御業の不思議さが見て取れるわけなんですね。
実はこの知らされている神の子たちが一つに集められるというのは、旧約聖書のいくつかある神の民がもう一回集められるという預言の成就なんですね。
その一つの約束の言葉、預言の言葉を引用しますが、ゼッケエル書の34章1節にこういう言葉があるんです。
牧者が昼間散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、私は私の羊を雲と暗闇の日に散らされたすべてのところから救い出して世話をする。
このような旧約聖書の約束、羊を神の民に例えて利産の民を集めるという約束の成就の言葉になっていたわけなんですね。
さらにイエス様の十字架の贖いがここに預言されていましたけれども、もっと深い言葉がここに意図されていたわけなんですね。
実はそれは私たちの救いと深い関わりのある言葉、イエス様の贖いの先を見越した私たちと深い関わりのある言葉がここに込められていたわけなんです。
つまり、この散らされていた神の民の中には、実はやがてイエス様を信じて救われる私たちも含まれていたんですね。
自分たちの権益のことしか考えなかったこのかやぱの言葉であったにも関わらず、実はここには、やがて救われる神の民である私たちのことも示唆されていた。
まさにイエス様の贖いの宮座だけではなくて、私たちもここに含まれているという不思議さに、私たちが神の民とされていることの恐れと言いますか、異風の念を抱かざるを得ないのではないかと思うわけなんですね。
そして私たちが神様の民にされるということを、イエス様の弟子のペテロがこのような御言葉によって告げているわけです。
第一ペテロの2章の9節ですね。
ちょっと長いですけど読んでみましょうか。
しかし、あなた方は選ばれた種族、王である祭祀、聖なる国民、神の所有とされた民です。
それは、あなた方を闇の中からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の素晴らしい御業をあなた方が述べ伝えるためなのです。
ここで言うあなた方、ペテロが言うあなた方は、イエス様が天に帰られた後に神の民に加わった当時の教会であり、そして今の私たちを指した言葉なんです。
そしてそこで言うあなた方、私たちは神に選ばれた種族、まさに聖なる国民、神の所有の民ということですね。
罪ある私たちがイエス様の贖いによって神様の前で罪のない神の民とされているということがここに示唆されているわけです。
さらに気がついたと思いますけども、驚くべきことというか幸いなことはですね、私たちは王である祭祀、
今日出てきましたね、祭祀。どんな人でした?大祭祀、カヤパ。権力にまみれてですね、自己保身しか考えない。
そういう粗暴な政治家でしたよね。でも彼は祭祀だった。
そのようなカヤパがいたけれども、私たちもですね、今イエス様に会って、
大なる祭祀、これは難しい言葉なんですけど、イエス様と共に王とされた祭祀、あるいは王に仕える祭祀とされているという言葉なんですね。
カヤパ側のようなものでありましたけれども、今新しい時代に生きる私たちはイエス様によって大なる祭祀として召されている。
これは驚くべき特権ではないでしょうか。
私たちも神の聖なる国民、また大なる祭祀にふさわしくですね、歩んでいくお互いであり、教会でありたい。
そのために祭祀として人々のために取りなし、祈り、また神の救いを証していくお互いであり、教会でありたいと思います。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様が捉えられる計画がまさに実現に至る、実現に歩み出す、そのようなきっかけの御言葉から今日学んできました。
計らずも語られた大祭祀の言葉がイエス様の贖いの大いなる約束となっていること、そして私たちをあなたの神とし、あなたの祭祀とするそのような約束に連なっている、その不思議さを覚えてあなたに感謝いたします。
どうぞ、私たち幼き者、足りない者でございますけれども、このあなたの召しにふさわしく、あなたの民として、あなたの祭祀として、この地の上を歩んでいくお互いでありますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、黙祷して御言葉に応える時間を持ちましょう。
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