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2025-11-23 28:00

#301 イエス様の憤りと涙~罪と悲しみを抱く愛 25/11/23

ヨハネ-37からの礼拝メッセージ。2025年11月23日録音。(聖書朗読は’()まで、導入は()までです)今回はイエス様の憤りと涙について取り上げます。「泣いているマリアたちを見たイエス様が憤りを覚えた」ということをどう理解すべきかについて2つのことをお話しし(1.罪と死への憤り()、2.不信仰への憤り())、最後に「イエス様が涙を流された」ということを取り上げます(3.イエス様の涙())。

原稿を読むイエス様の憤りと涙~罪と悲しみを抱く愛:ヨハネの福音書11章28—37節|Kishio

文字起こしが不正確なので原稿は↑をご覧ください。

サマリー

このエピソードでは、イエス様がマリアやユダヤ人の悲しみを目にして涙を流し、罪や死に対する憤りを示す場面が描かれています。特に、イエス様の怒りの背景について考察されています。また、イエス様の憤りや涙を通じて、人間の悲しみや苦しみを理解する神としての面が語られています。信仰の重要性やイエス様への信頼を深めるメッセージも伝わっています。

イエス様の呼びかけ
ヨハネの福音書、十一章、二十八節から三十七節をお読みします。
マルタはこう言ってから帰って行って、姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。
先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。
マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がってイエスのところに行った。
イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
マリアと共に家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思いついて行った。
マリアはイエスがおられるところに来た。
そしてイエスを見ると、足元にひれ伏して行った。
主よ、もしここに行ってくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。
そして霊に息通りを覚え、心を騒がせて、彼をどこに置きましたかと言われた。
彼らはイエスに、主よ、来てご覧くださいと言った。
イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは言った。
ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか。
しかし彼らのうちのある者たちは、見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのかと言った。
以上です。
涙と憤りの理由
今日はこのところから、イエスの息通りと涙となりして見事を取り付けます。
皆さんおはようございます。
しばらく前からですね、11章から学んでいます。
ここはイエス竿のしるしのクライマックス、ラザロのよみがえりの奇跡が起こっているところです。
そしてですね、
すみません。
ここの箇所は生き生きと描かれている場所ですので、
今日のところでもあえて場面描写はいたしません。
簡単に言うと、先週はイエス様とマルタが出会ったところ、
そして今日のところでは、マルタがイエス様が来ているということをですね、
マリアに耳打ちして、
そしてマリアはイエス様がいたところまで走っていって、イエス様とお会いした。
そしてマリアについていた、一緒に泣いていたユダヤ人たちがですね、
イエス様と共にラザロが葬られている場所へ向かう。
その途中でイエス様が涙を流されたという場面です。
実は今日の部分もですね、難しい、解釈が難しい部分があるんですね。
それはですね、33節でイエス様がですね、霊に気通りを覚えたという言葉なんです。
これは文字通り読むと、イカイカッタということなんです。
もともとの言葉は、今、競馬もブームだったりテレビ番組もありますけど、
馬がいななくヒヒーンという声を表していて、文字通り怒ったという意味なんです。
じゃあイエス様が怒ったって一体どんなことだという、
そのことがですね、学者たちの間でいろいろ言われていて、
それを最初の2つの点として、イエス様の2種類の息取りということを取り上げます。
そして最後にですね、もう一つこの場面でしるし象的なのは、
イエス様が涙を流されたという場面です。
そこから学んでいきたいと思います。
そういうことで3つの点を取り上げますが、
まず最初はイエス様の怒りは、罪と支援の息取りだったということなんですね。
ちょっと長いんですが、もう一回読んでみましょうか。
イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。
そして霊に息取りを覚え、心を騒がせて、彼をどこに置きましたかと言われた。
ちょっと端休め的な話しますけれども、
私が中学3年生の時にですね、社会の時間があったんですね。
私の当時は社会の時間だと3年になると、世界親も入ってきていたわけです。
そしてそこで世界の3大宗教のうちのキリスト教についても取り上げられました。
担任がですね、そこの単元を紹介するときに、教科書にあったタイトルを読んだんですね。
それがキリスト教が始まったという意味を込めて、
その冒頭のタイトルがキリストの怒りって書いてあったんです。
でもその先生は少し場を盛り上げようとして、キリストって怒るのか?って言って、
それで会場、私たちもイエス様って怒るの?みたいな、
そういう反応を覚えたのを思い出すんですけど、
イエス様が生きどおるというのは意外なわけですね。
ですからなぜイエス様は生きどおったのかということで、
実はこの部分で議論が行われている。
その最初の理由が、罪と死への生きどおりだということを見ていきましょう。
ここでですね、霊に生きどおりを覚えたの霊にというのは、
聖霊とかではなくて、日本風に言うと心の中でとか、そういう意味です。
だから心の中でイエス様が怒りを覚えたとも読み取れるわけですね。
では何に対して怒っていたか。
その一つ目はですね、それは人間を苦しめる罪や病、
この死という現実こそがイエス様の怒りを呼び起こしたということなんですね。
それはですね、つまりイエス様は人々が、
ここではマリアとその取り巻きの人たちが泣いているのを見て、
彼らを泣かせている、その深い悲しみを目にして心を痛めて、
その背後にある死をもたらしたこの世を支配する罪や病、
そして死の力に対して生きどおりを覚えたということなんです。
今世界中で戦争が起こっていて、大きな戦争、2つよく取り上げられますが、
一月ほど前にですね、NHKで、ある地域の現地で、
まさに空爆が起こっている現地でレポートをずっと続けている、
2年以上続けている人のことを番組で取り上げていたんですね。
そして本当に間近に爆弾が落ちた。
その中である建物の中、建物が爆撃されてそこに住んでいた、
あるいはそこに避難していた小学生ぐらいの男の子が、
まさに既得になったところが映りました。
そして父親はですね、それを本当に息子が亡くなりそうなところ、
生きていそうなところをですね、会話している場面も映ったんです。
そしてさすがにその場面はカットされましたけど、
ついにその息子さんが事切れたんですね。
そしてもうその男性は取り乱して、まさに道国したわけです。
すると周りの人たちは励ましたり慰めたりして、神様のもとに行くんだと。
文字通り遺体を運ぶと同時に倒れ込む父親を抱えて、
一緒に連れ出したところが生々しい場面が映りました。
私はそれを見て本当に悲しかったんですが、
そのような幼い子供のいのちを奪い、私も父親の立場ですから、
父親を悲しみに至らせる戦争とかその背後にある、
おそらく人間の思惑というものを持ってやはり生きどおりを覚えたわけなんです。
皆さんも似たようなことがあるかもしれません。
ましてやイエス様がこの死に対して悲しむ人々を見て、
どれほど死や罪に生きどおりを覚えたかということが想像するにあまりあることなんですね。
不信仰への怒り
まずイエス様はヨハネの一生にありますように、
天地万物を作られた時にいのちの光としてその場に立ち会われたし、
その御業を行われた神なる救い主ですね。いのちの光で。
そしてまさに天地万物を作られた中で、
創世紀1章の締めくくりで何て書いてあるか覚えています?
全ての想像が終わった時に神様は、それは非常に良かったと言っているんです。
罪がない、本当に完璧な良いという状況だったわけですよね。
でもご存知のようにその御言葉によればアダムによって罪が入って、
そして罪によって死が入ったわけです。
それをパウロはローマの5章の12節でこのように表現していますね。
ちょっと読めるかで読んでみましょうか。
こういうわけでちょうど一人の人によって罪が世界に入り、
罪によって死が入り、こうして全ての人が罪を犯したので、
死が全ての人に広がった。
このようなことが起こったわけですが、繰り返しますが、
まさに罪も死もない非常に良い人間の状態を知っていたイエス様、神なるイエス様ですね。
マリアとその周りの人々がその罪の結果であるラザロの死に苦しみ、泣いている姿。
それを見てですね、その死とそれをもたらした罪ということに
生きどおりを覚えたということが当然のことかと言えるかと思います。
ある学者はですね、この罪によって堕落した世界で人々を打ち砕いている罪と死の悲惨な状況を見て、
イエス様は深い怒りに駆られたと言われているんですね。
それがまず最初の点です。イエス様は罪と死への生きどおりをここで覚えられた。
2番目、実はそれだけではなくて不信仰への生きどおりもあったとも言われています。
じゃあちょっと読んでみますね。
イエスはこれを聞いて言われた。
ここからアメリカで読んでみましょうか。
この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。
神の子がそれによって栄光を受けるためです。
ヨハネ11-4、この出来事の冒頭の箇所でイエス様がラザロの死を受けていった言葉。
その時は愛する者が病気ですと使いによって聞かせられたんですけども、
イエス様は病気と死がそこで起こっていることを知って、このことを述べられたわけですね。
ただイエス様が不信仰を生きどおられたということなんですが、
私たちは大事な前提を捉えておかなきゃいけないんです。
いくつかありますけど、まずですね、怒りイコール罪ではないということなんです。
それはパウロがこういうふうな言葉を述べている、興味深い言い方をしているんですね。
エペソビトの手紙4章26節でパウロはこう言っているんですね。
怒っても罪を犯してはなりません。
生きどおったままで日が暮れるようであってはいけません。
ここのですね、怒ってもというのは、もともとのギリシャ語では短いいのち令形で、
怒れって言ってるんです。怒りなさい。
その後、そして罪を犯してはいけませんって言ってるんです。
だからここから、怒る怒りと罪が単純にイコールではないということがわかるんです。
で、よく言われる義憤ですね。義という字に生きどおる。
その義憤と言葉が言われますけど、人間が言うとね、それは奇弁になって義憤として八つ当たりしてギャフンと言われるみたいな。
それはつまんないあれなんですけど。
人間はそういう奇弁として義憤と言いますけど、
罪がない完全なお方、愛なる神イエス様の怒りは義憤ということがあり得るわけですよね。
それがまず一つです。
そして先ほども言いましたが、霊において生きどったというのは心の中で起こったと思って、怒りが見えなかった。
あるいは、怒っているのがわかったとしても、その感情を少なくともぶつけなかった。
怒りにかまけて人を罵倒する人とかいるわけですけれども、そういうこともなかったわけです。
だからそういう意味で、イエス様の怒りは罪ではないということがわかるわけです。
ですから繰り返しますけど、この怒りはですね、イエス様の怒りは表面に出ない怒りであった可能性がありますし、当然罪ではない怒りだった。
そして自分勝手な理由で怒ったのではないわけです。
そして繰り返しますが、怒りの感情を爆発させて相手を傷つける、そのような怒りでもありませんでした。
実はですね、少し別の話をしますけど、最近ですね、切り抜き動画って聞いたことあります?
ネットでも、最近はテレビでもあるようで、ある人の言動を自分の都合がいいように切り抜いてそれを使って広める。
それによってその人のことを貶めるという意図がある切り抜き動画があって、それを使うことが問題されています。
ついこの間も、ある有名な某ヨーロッパの放送局の会長が、それによって辞任したというニュースがありました。
切り抜き動画の問題と似ていると思うんですけども、実はそれと似たことに気をつけながら、このイエス様の不信仰の憤りということを考えるということかというと、
今日の舞台の文脈の中で、イエス様がどうして彼ら彼女らに行かったかということを考えていく必要があるわけですね。
実は、今日の37節で周りの人々はこう言っているわけですよね。
目の見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか。
これは、当惑もあったけれども、ここには不信仰が見え隠れしている。
おそらく、この前の9章にありました、目の見えない人が癒された奇跡から、これらの方々、人たちはイエス様について何ら学んでいないということさえできるわけですね。
また、もっと言えることは、彼ら彼女らにとっては、イエス様の直接の証言があったわけですね。
そして、彼らは直接イエス様から、今と来るべき世に約束された永遠のいのちという希望を聞いていました。
そして彼ら彼女らは、この盲人の目が開かれるという奇跡を見た方もいたと思いますし、今日の奇跡に至るまでたくさんのイエス様のしるしを見聞きしてきたに違いないんですね。
イエス様の不信仰への憤り
そういう、まさにイエス様が神から使わされた救い主であるという証拠を間近に見て聞いたにもかかわらず、そしてイエス様から永遠のいのちの希望を聞いたにもかかわらず、ここでイエス様のことを信じきれなかった。
繰り返しますが、実はこの14章4節でイエス様は、こう語っているわけですよね。この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためですという言葉が、盲人の奇跡とともに、の時と同じように語られたにもかかわらず、彼らはそのイエス様を信頼できなかったという問題。
そういう文脈の中でイエス様が不信仰に怒られた。だから単にですね、身内の者が死んで、友人が死んで、悲しんでいる人をイエス様は不信仰だと断罪したわけではないということを覚えていただきたいですね。
ちょっと余談になりますけど、その部分だけを切り取って、この死別の悲しみにある人をですね、安易にこの聖書の言葉から励ますということは、私の立場としては慎むべきことだと思うんですね。文脈が違います。
もうちょっと脱線すると、いわゆるカルトというのはですね、文脈を無視して聖書の言葉を切り抜いて、人を責めたり、そして人に在籍権を与えて、その教団の言うなりに操作するというのがカルトの手法なんです。
だからこのイエス様が不信仰に挑んだということに関しても、きちんと文脈から捉えてですね、単なる遺族を不信仰だと断罪したのではなくて、これまでイエス様のことを見て聞いてきたにもかかわらず、ここに立っている人たちを見て、その不信仰を嘆き怒られたということで、私たちは知るべきなんですね。
そのような文脈の中で、私たちが学ぶべきこと、やはり受け取るべきこと、それは私たちの目の前の状況が、いのちにかかわる状況だったら大変だと思いますけれども、目の前の状況が悲惨であったり、あるいは自分にとっては、
悲しみや絶望的なことが訪れることがあるかと思うんですね。しかしその時にでも、悲しみに押しつぶされそうになっても、押しつぶされてもいいかもしれません。
でも、私たちはその中で、イエス様にある復活、復活のイエス様に信頼して、その希望を抱き続けていく。悲しんでもいいけれども、その中で復活のイエス様に対する信仰、それに基づく希望ということを抱いて、イエス様を信頼し続けていくということが、ここからあえて言えば、私たちが受け取るべきことだと思います。
そのような信仰の本質とか、信じることの大切さを、その希望を伝える新約聖書の有名な言葉を、2番目の区切りとして紹介いたします。
ヘブル人の手紙の11章の1節ですね。さてとありますけれども、読んでみましょうか。さて、信仰は望んでいることを保障し、目に見えないものを確信させるものです。望んでいることを保障する、目に見えないものを確信させるという、それが信仰の本質である。
時間がある方は、ぜひヘブル人の11章1節以下を読んでいくと、その実例が旧約聖書からとうとうと語られて、私たちの信仰を励ますものとなっておりますので、ぜひ見てみてください。これが2番目です。
最後、イエス様の涙ということですね。では、ヨハネの11章35節を読んでみましょうか。イエスは涙を流された。マリアたちの不信仰に、イエス様は息通りを覚えました。さりとて、皆さんご存知のように、単なる冷たいよう、鉄面皮の救い主ではないということなんですね。
忘れてはならないことを見ていきたいと思います。このイエス様が力あるお方であってもですね、そのイエス様の力は、私たち人間の痛みを遠ざけるものではないんですね。
イエス様の涙と人間性
力があるからといって、私たち個人個人が苦しむ、その苦しみの細かい部分に触れないようにする、そんなようなものではないんです。神様だから、お前の悩みは些細なものだと言って、遠ざけるようなお方でもないわけですね。
実は涙を流されたというところには、イエス様は、死と悲しみの感情を実は余すところなく担われたということが現れているわけですね。加えて言えば、イエス様が涙を流されたというのは、イエス様が神であられると同時に完全な人でもあったということのしるしなんですね。
この涙を流すようなイエス様の人間性を認めるということ、それはですね、もう一つイエス様の神性イエス様が、私はよみがえありいのちであるというイエス様の神性神たるところをですね、信じることと同じほど大事だということなんですね。
だから、人としても神としても、完全なキリストイエス様に私たちが応えるためには、その両方を理解しなければならない。2番目のところから言うには、私たちは復活の神なるイエス様に応答するという、そういう信仰についてもらいましたけれども、今のところから見ると、実はそれだけじゃなくて、私たちの悲しみとは無関係ではないという、人間イエス様ということを知り信じていく、その両方が必要だということなんですね。
実はこの神なるイエス様が、人間の苦しみをご存知だということを、やはり先ほどのヘブルビトの手紙の4章の15、16でこのように述べているんですね。
私たちの大才子イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように心身に憐れたのです。
ですから私たちは、憐れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
私の悲しみ、何かわからないと言って物を失うのではなくて、イエス様はそのことを我がこととして理解してくださるんだということを信じて、大胆に恵みの御座に近づいていく。
一説によると、当時のユダヤ人の人たちの泣き方は、まさに同国した。感情を隠さずに泣く。それが当時のなりわいであった。
習慣だった。
ですから、私たち日本人は控えがちですが、あるいは神様だと遠慮しがちですが、私たちの悲しみや負の感情を正直に祈りの中でイエス様にぶつけて、私を救ってくださいと祈ることができる。
そうやって大胆の恵みの御座に近づくことができる。それが私たちの特権ですね。
ある牧師であり信学者が、これらのこととか御言葉に応答して祈る祈りを紹介していますので、それを最後に皆さんにお知らせしておりたいと思います。
主よ、私が経験することはあなたにとって外のものではなく、私が感じることもあなたにとって奇妙なものではありません。だからこそ私は大胆に恵みの御座に近づき、憐れみを受け、必要なときに恵みを見出すことができます。
復活なさる、私たちを産み上げらせる完全な神なる救い主、そして私たちの痛みや悲しみを完全に理解することができる人間なるイエス様のことを覚えてですね、イエス様を信じ、またイエス様に近づくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、あなたはいのちの君であり、罪のないお方であることを覚え、あなたを褒めたたえます。
そのような神なるあなたは、私たちの不信仰を悲しまれ、時に嘆かれ怒りを覚え、しかし私たちの苦しみを存じ上げ、存じて下さり、痛みを抱えて下さる救い主なることを覚えて感謝いたします。
どうぞ私たちが自分たちの弱さを知りながらも、あなたに信頼し、そして大胆にあなたの恵みの座に近づいていく、そのようなお互いであり、教会でありますよう、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、見事に答えて黙祷する時間を持ちましょう。
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