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#332 聖別された者 26/6/21
2026-06-21 28:33

#332 聖別された者 26/6/21

ヨハネ-19からの礼拝メッセージ。2026年6月21日録音。イエス様はキリスト者が慣れ親しんでいる「聖別する」「きよめる」という言葉を頻繁に使っています。それは何を意味しているのでしょうか。その意味を知る時に私たちの気づかなかった面が見えてくるかもしれません。その意味していることは私たちのキリスト者としてのあり方にとても大事な意味を持っているのです。次の3つの点から考えて行きましょう。(1.神のために選り分けられる、2.神の使命のために聖別する、3.神のことばによって聖別される)

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サマリー

本メッセージは、ヨハネ17章11-19節に基づき、「聖別された者」というテーマで、キリスト者が「聖別する」「清める」という言葉の意味を深く掘り下げています。第一に、聖別とは「神のために特別に選び分けられる」ことであり、単に罪がない状態に留まらないと説明されます。第二に、それは「神の使命のために聖別される」ことであり、祭司や預言者のように神の特別な働きのために分けられることを意味します。第三に、聖別は「神の言葉(真理)によって聖別される」ことであり、私たちの思考や価値観が御言葉によって変えられることで、神の愛と救いの証人として生きることができると結んでいます。

はじめに:聖別という言葉の意味
それではお読みします。ヨハネの福音書17章。 これちょっと誤植ですね。11節から19節をお読みします。
私はもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、私はあなたのもとに参ります。 聖なる父よ、私にくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください。
私たちと同じように、彼らが一つになるためです。 彼らと共にいたとき、私はあなたがくださったあなたの御名によって、彼らを守りました。
私が彼らを保ったので、彼らのうち誰も滅びたものはなく、ただ滅びの子が滅びました。 それは聖書が成就するためでした。
私は今、あなたのもとに参ります。 世にあって、これらのことを話しているのは、私の喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。
私は彼らにあなたの御言葉を与えました。 世は彼らを憎みました。
私がこの世の者でないように、彼らもこの世の者ではないからです。 私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
私がこの世の者でないように、彼らもこの世の者ではありません。 真理によって、彼らを聖別してください。
あなたの御言葉は真理です。 あなたが私を世に使わされたように、私も彼らを世に使わしました。
私は彼らのため、私自身を聖別します。 彼ら自身も真理によって聖別されるためです。
以上です。 今日はこのところから、聖別された者と題して御言葉からお話しいたします。 皆さんおはようございます。
6月の第3日曜日ですが、やはり梅雨に入って不安定な気候が続いておりましてね、先週前半ぐらいは少し雨で涼しかったんですけど、
寒いぐらいの時もありましたが、金曜日にね、夏日になりました。と思ったら昨日涼しくて、今日もまた少し暑くなるようですね。
そんな中ですけれども、引き続き17章のイエス様の祈りから学べることを感謝しています。
さて、今日のところはですね、イエス様の祈りの中でもですね、特に後半の部分で、私たちが慣れ親しんでいる
聖別するという、その言葉から学んでいきたいと思います。 私たち、聖別するとか清めるってね、頻繁に使ったり耳にします。
でもその意味が一体どんな意味があるのか。 その今日イエス様のこの御言葉、祈りからですね、その意味を深めることによって、もしかしたら私たちの皆さんが知らなかったその清めるとか、
聖別する面について発見することになるかもしれません。 その意味しているところを私たちが知るとですね、私たちのクリスチャン生活、単に罪を犯さないということじゃなくてですね、
もう少し積極的な部分が見えてくるんじゃないかと思います。 それではそんなことを考えながら、3つのことからお話ししていきましょう。
第一の点:神のために選び分けられる
まず最初はですね、聖別とはですね、神のために得分けられるという意味があるんですね。 今日は後半の部分から読んで、後半の部分を主に取り上げます。
イエス様の祈りの17章の19節のところを一緒に読んでみましょうか。 私は彼らのため、私自身を聖別します。
彼ら自身も真理によって聖別されるためです。 聖別される、聖別するとはですね、単に罪がないとか、清い状態にするということだけではないんですね。
それはここにありますが、今日特に知っていただきたいのは、特別な用途のために得分けるという意味があるんです。
よくこのことをですね、私が昔関わっていたアメリカ人のですね、団体の中の専教師がこういう教え方をするんですね。
聖別するというのは、例えば歯ブラシをあなたのためだけに使う。 それ、この歯ブラシはあなたのために聖別されているという意味なんですよ。
ですから、単に罪がないということではなくて、特別な、あるいは誰かのためだけに取り分けられている、得分けられているという意味が聖別ということの本来の意味だということを覚えておいてください。
それは旧約聖書で使われた言葉なんですね。 神様の絵の捧げ物と関係した言葉です。
その一例はですね、新明紀の15章の19、20に出てきます。 これちょっと見にくいんですが、羊をほぐっている場面ですけれども、こんな
捧げ物に関する規定があるんですね。 あなたの牛の群れや羊の群れに生まれたオスのウイゴは御名、あなたの神主に聖別しなければならない。
牛のウイゴを使って働いてはならない。 また、羊のウイゴの毛を飼ってはならない。
毎年あなたの神主の前で主が選ばれる場所で、あなたは家族とともにそれを食べなければならない。
少し長いんですけれども、ここの要点はですね、 まあ初めて生まれたオスの牛とかですね、
オスの羊、それをですね 神に捧げるために聖別しなさい。そしてそれがよくわかるのは、皆さんね
父の日の話に出ましたけどね、父の日で 食べる方が主だって言うからね、ビーフステーキ食べさせたりするかもわかりませんけども、
この家畜の牛は みんなでただ食べるためだけに
使ってはいけない。 あるいはですね、よく
労働ですよね、牛で働けを耕すとか、そのために使われたりとか、それはダメですよ。 あるいは羊の毛を飼って洋服にするために、その捧げるべき
羊を洋服や糸にするために、毛を飼ってはいけませんよ。 つまり人間が使うために、その家畜を
使うんじゃなくて、神様に捧げるためだけに 耕したり毛を飼うこともさせないで、神様に捧げることのためだけに、この牛や羊を特別にとっておきなさい。
それで、ほぐった後に食べると言っているんですけども、そういう意味が、この聖別するということ。 特に神様のために特別に得り分けるという意味があります。
はい、そういうことで繰り返してお話しすることになりますが、最初に皆さんに、これからのことを理解する上で、ぜひ知っていただきたいことは、
聖別するというのは単に罪がないってことではないんです。 それも大事ですけど。
それは神様のために特別得り分けるという意味ですね。 そして
その中では、このイエス様はですね、 父なる神様のために罪のあがないの子羊として、自らを聖別したと言っているんですね。
それは、十字架の上で自らを捧げてですね、罪から私たちを清めるため。
さらにそれだけではなくて、今日の祈りから見えてくることは、 自分を聖別し、十字架の上で死に、そして信じる人を清めて、
弟子たちを私たちを、新たな使いのちのために使わせたい。 そのために任いのちしていくところまでですね、イエス様は目指していたわけです。
第二の点:神の使命のために聖別される
それが次の点と関わってきます。 聖別することにはですね、2番目、それは神の使いのちのために聖別するという意味があるんです。
今日のところの17章18節のイエス様の祈りを読んでみましょうか。
あなたが私を世に使わされたように、私も彼らを世に使わしました。
この派遣する、神のイエス様の使いのちのために弟子たちを、私たちを聖別して派遣するという、そういう意味があるんですね。
で、これもですね、旧約聖書に由来した言葉なんですね。 その2つ目の点としてどのように由来しているか、それはですね、
もう少し踏み込んで、神様の神性な働きのために特別にその人を得り分けるという意味があるんです。
その典型が祭司や預言者ですよね。 これはエレミアの絵をどこかから見つけてきたんですけども、
祭司や預言者は神様の特別な使いのちのために、 聖別されていた、得り分けられていたということで、この使いのち感と関係するわけです。
で、ちょっとレジュメにないんですけども、であるから神の聖別、 清い神の使いのちに生きるからこそ、神が清いようにその人も罪から身を清めなさい。
そういうところにつながっていくわけです。 けれどもここでは、その神の使いのちのために得り分けられたという提案をちょっと覚えておいていただきたいですね。
このエレミアを神様が選び出した時の、この神様のエレミアにかけた言葉をその参考として紹介いたします。
読んでみましょうか。神の御言葉として。
私はあなたを胎内に形作る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。
ここにいる私たちはみんな母から生まれましたし、この中のどなたかはですね、母親としてお子さんを見ごもりました。
そんな、胎内にできる前から聖別されていた。
選ばれていた。それは預言者と定めていたからだ。
それをすなわち、神の特別なメッセージを伝えるべく使いのちを受けて、このエレミアは神に生まれる前から聖別されて、得り分けられていた。そういうことになるわけですね。
実は、この聖別されたためにですね、預言者、そしてイエス様の聖別とイエス様が世に使わされたということを、
ここからですね、派遣されて、今度は、ここでイエス様は弟子たちを聖別に使わせた。
そして、その弟子たちを使わせただけではなくて、今度はイエス様が私たちを、弟子たちを、
イエス様の働きを担うものとして、この世に使わせたということなんですね。
神が預言者を使わせたように、そして神様がイエス様を使わせたように、今度は弟子たち、私たちがイエス様によって聖別され、この世に使わされているという点なんですね。
そしてその使いのちとは何か。 その使いのちとは、イエス様の救いを証しすることなんだ。
今日のところから、後から出てきます。ただ、私たちの特別な使いのちと役割が、イエス様の救いを証しすることというと、行々しく聞こえるかもしれません。
それを言い換えると、こんなふうに言えるかと思うんですね。 私たち一人一人が、神様の救いの愛が、今も働いているという、そういう証しになっているということです。
そしてもう少し言い換えますと、私たちの人生や生活そのものが、神が今も愛を持って人を救っているんだ、そのことを示す証しとなっているということなんです。
神様は目に見えません。 けれども、私たちの生き様や私たちの生活が、
存在自体が、神様は愛の神である。そして、罪人を救ってくださって、尊い者として用いてくださるということの証しになっている。
そのことを覚えていただければと思います。 繰り返しますが、2番目は、
聖別には、神の使いのちのために聖別されている。 そして私たちはイエス様を証しする。私たちの生き様存在そのものが、神の愛とイエス様の救いが、今も働いているということの証しであるということです。
第三の点:神の言葉によって聖別される
そして3番目ですね。実は今日3番目が一番長いんですので、少し難しいことも言うんですけど、大事なことですので、ゆっくり聞いてください。
3番目では、どういうことなのか。私たちがそんな尊い使いのちを受けていると言うと、
やはりそれでも私の生き様は証しになるのかなと、憶することがあるかもしれませんが、そんな私たちのために、さらにイエス様を祈っているんですね。
3番目。神の言葉によって聖別されるという点です。 17章17節のイエス様の祈りを読んでみましょうか。
3番目。真理によって彼らを聖別してください。あなたの御言葉は真理です。
この真理によって、御言葉によって聖別するということなんですけれども、先ほど申しましたが、私たちの人生や生活、存在そのものが、神の救いの愛を証しするものになっている。
そういう使いのちを帯びていますけれども、皆さん気が付いているかもしれませんが、私たちは自分の力ではその生活を全うできないし、送ることもできないわけですよね。
結論から言うと、私たちがそのような生き様が、神の愛と救いの証しとなるためには、私たちは変えられなきゃいけない。
どう変わるか。今日は具体的なことを言いますが、それは私たちの頭の中が変わらなきゃいけないのです。
心が変え、私たちの頭の中が真理の御言葉によって変えられていかなければ、私たちはその使いのちに生きることができないということを最後に覚えておいていただきたいのです。
別の言い方をすると、聖書の御言葉によって私たちの頭の中、考え方や価値観が変えられなければ、どんなに行動を変えようとしても、クリスチャンらしく証しい人として生きようとしても、上滑りしてしまう。
中身が空っぽで疲れてしまう。そういうことが起こるわけですよね。
じゃあ、どうすればいいか。それが今からずっと詳しく見ていくんですけれども。
どうでしょうかね。私たちは、皆さんは、真理の御言葉によって自分の価値観や考え方が変えられたという経験をしたことはありますかね。
私の考えは間違っていた後までいかなくても、そうか、こうやって生きるべきなんだ。
聖書の御言葉から価値観や考え方が変えられたという経験があるでしょうかね。
繰り返しになりますが、私たちが生き方を変えるために、神の言葉によって私たちの思考と価値観が変えられていくという必要があるんですね。
つまり、聖別されていくためには、聖書によって私たちの中身が変えられていく。
もっと言うと、聖別されていくためには、聖書の価値観によって私たちの頭の中が変えられていくということが必要なわけです。
この聖書と神の御言葉と聖別の関係について、
使徒パウロがこんなことを言っているんですね。
ローマ書の12章の1節2節から抜粋した言葉なんですが、
あなた方に勧めます。あなた方の体を神に喜ばれる、聖なる生きた捧げ物として捧げなさい。
これ、1番目や2番目で言ったような、神のための特別な捧げ物として自分を聖別しなさいとパウロが言っています。
ここからが大事なんですね。読んでみましょうか。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ心を新たにすることで自分を変えていただきなさい。
この世と調子を合わせないで、心を新たにすることで自分を変えていただきなさいということなんですね。
神に委ねられた、イエスさんに委ねられた証の使いのちを生きる。
自分の存在が神の愛と救いの証となった生活、生き方になっていくためには、パウロは心を変えてもらいなさい。
実はですね、興味深いことがあるんですが、この心っていう言葉は、元の聖書の言葉、ギリシャ語では、心っていうギリシャ語はカルディアって言葉なんですね。
心はカルディアって覚えてます。心ではなくてヌースといってですね、知性という意味なんです。
だから、この世と調子を合わせてはいけません。
イエス様はさっきの祈りの中で、弟子たちはこの世から取り去られないように祈ったじゃないですか。
現実的にこの世に生きる。神に敵対するこの世に生き続ける。悪いものから守ってくださいって祈っただけじゃなくて、その中でこの世に生きながらも彼らを聖別してくださいって祈ってるわけでしょ。
その中で、この世にあって調子を合わせない聖別して生きるために、心というか思考や価値観を神によって変えていただいて、そして自分を神によって変えてもらいなさいとパウロは言っているんですね。
つまり、この世と調子を合わせないで、聖別されたものとして私たちが生きるためには、考え方や価値観を聖書の御言葉、イエス様が言うところの神の言葉の真理によって価値観や考え方を新たに変えていただく必要があるということなんですね。
ですから繰り返しますが、イエス様はこう祈ってるわけじゃないですか。
真理によって彼らを聖別してください。その真理とは何ぞや。それはあなたの御言葉は真理です。
これよく読むと、神の御言葉の真理によって彼らを聖別してください。
それはパウロは言うのは、神の御言葉の真理によって心、考え方、価値観を新しくしてもらって、自分を変えてもらいなさい。そして、聖なる生きた備え物として自分を捧げなさいと教えているんですね。
このように考え方や価値観を新しくするために、私たちは神の御言葉、そして今日あまり言いませんでしたが、それとともに働く聖霊の働きを必要とするわけですね。
ですから、自分の生き様によって神の愛と、そして神の救いが今この世界で起きているということを証しする。そういう使いのちは重いかもしれませんが、御言葉によって考えが変えられ、御言葉によって価値観が変えられ、聖霊によって私たちが変えられていくときに、私たちの生き様が変わってですね。
そして神の証人として歩めるわけです。
ちょっとこれどこまで合う話かわからないんですけど、今ね、日本中サッカーブームですよね。
今日もディスカウントショップの前に通ったら1時からの試合を前に、みんなもう早く買い物したくならないんですよ、車。
で、今聞いているのは日本のサッカーチームすごく強くなったっていう曲じゃないですか。
前回大会から優勝経験があるスペインとかドイツに勝ってるんですよね。
私はあの時どうせ負けると思って見なかったんです。
でも何が違うかというと、彼ら選手たちのマインド、考え方や価値観が変わっているって言うんですよ。
今までは格上相手に勝てない、勝てない。
だけど森安監督は、いや勝てるんだ。勝つんだ。今回は優勝するんだ。
ということで頭の中、思考を変えられているわけです。
ですからこの間のオランダ戦もね、1対0から1対1に追いついて、2対1から2対2に追いついて同点にした。
である、なるほどと思ったのはゴール決めた選手が、昔だったら1対0になった段階でそのままみんなシュンとなってですね、3対0で負けていた。
過去、この間の前までは2敗1分けしかしてないわけですね。
でも今回は、ゴール宣誓されても勝てるぞ。で追いついた。
2点目入れられても、前だったらシュンとなって4対1で負けたかもしれないけど、それでもですね、2対1になっても絶対勝てるんだって考えたらですね、追いついたわけじゃないですか。
私あの時見てたんですけど、どっちの時もですね、料理してて、ちょっと目離した間にゴールになってるんですよね。面白いですよね。
それはそれとしてですね、とにかく、作家の例ですけど、私たちの行動や生き様が変わるためには、マインドが変わらなきゃいけない。
そしてクリスチャンはどうやってマインド、思考や価値観が変わるかというと、神の御言葉によって価値観や考え方が変わる。
私はダメだ。できない。価値がない。ではなくて、神は世を愛された。御子を使わすほどに愛された。
そうだ私は神に愛された存在なんだ。私は神に選ばれた存在なんだっていう価値観ですね。
前後しますけど、用意してた話はですね、例を挙げると、この世の価値観というのは、神様なんかいないし、前話した、神の栄光を表して神を知る、そんなのが人生の目的なんてことは考えられないわけじゃないですか。
アホらしいと思うんでしょ。でも真理は、いや私たちの人生の目的は神を知ることであり、神の栄光を表すことだということが御言葉から私たちが学ぶ真理です。
その自分の人生の目的を神の御言葉によって変えていくときにですね、私たちの生き様も変えられていくということが起こるわけですね。
はい。
結論と祈り
このようにですね、私たちが、ごめんなさい、用意したので読みますけど、心をあなたにして自分を神に変えてもらう必要があると考えています。
心と訳されている単語はもとより、心よりも知性に関する言葉、思考や考え方を示す。このハート、心よりも考え方のことを表す言葉で、それで思考は私たちの価値観とも関わる問題です。
そして、考え方や価値観を新たにしていき、私たちは神様に自分を変えてもらいなさいとパウロは教えているわけです。
このようにですね、私たちが神様の言葉と見た目の働きによって、新しい考え方や価値観をもとにですね、自分を、新しい価値観や考え方のもとに生活するときに、私たちの生き様そのものが生きた神の証になり、神の救いの証になっていく。
神が今も愛をもって私たち人を救ってくださって、許してくださっていることを示す証となっていくわけですね。
今日もありますが、私たちはこのイエス様の祈りに支えられて、そして神の御言葉によって私たちの頭の中が変えられていく。
それによって神によって変えられていき、イエス様の特別な使いのちのために整備された道を歩んでいく、そのようなものと変えられ続けていくのではないでしょうか。
最後に先ほど紹介したパウロの言葉の全文を皆さんにお伝えして終わりにしたいと思います。
ちょっと長いので途中まで読んでいますね。
ですから兄弟たち、私は神の憐れみによってあなた方に進めます。
あなた方の体を神に喜ばれる聖なる生きた捧げ物として捧げなさい。
それこそあなた方にふたわしい礼拝です。
ちょっと長いんですが2節読んでみましょう。
お祈りしましょう。
天の神様御名を賛美いたします。イエス様は私たちをあなたの尊い使いのちのために選んで私たちをこの世に使わせて下さいました。
私たちは自分自身を変えりみるときにあなたの救いと愛を証しするそのような存在として歩めるかどうかそのことに不安を覚えることがあります。
しかし御言葉によって私たちが変えられていくときに私たちの生き様があなたの救いと愛を証しするそのような存在となることを信じて感謝いたします。
どうぞ神様私たちがあなたの御言葉をさらによりよく知ることができますように。
聖霊によってどうか御言葉を通して私たちの考え方価値観を新たにして下さい。
そしてどうぞ私たちをあなたの救いと愛を証しするそのようなあなたの弟子としてこの世において用いて下さい。
この願いと感謝を私たちの救い主シュージェス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど黙祷して神様に答える時間を持ちましょう。
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