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2026/08/02:使徒信条(10)聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じる
2026-08-02 33:50

2026/08/02:使徒信条(10)聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じる

2026/08/02 聖日礼拝

加藤満牧師

エペソ人への手紙 -16


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サマリー

この礼拝では、使徒信条の「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」という箇所について、加藤満牧師が解説しました。まず、最近の熊本での地震に触れ、災害支援における教会のあり方について問いかけました。教会は「聖なる公同の教会」として、キリストの愛をもって地域を愛し、宣教を行うべきだと述べました。次に、「聖なる」とは「異なっている、区別されている」という意味であり、神の聖さに倣って、人々も憐れみ深く、恵み深く、隣人と共に生きる愛を持つ民となるべきだと説明しました。イエス・キリストの生き様そのものが聖であり、その十字架の愛によって神と和解し、人々は神の愛と聖さを学ぶことができると語りました。さらに、「公同の教会」とは、年齢、性別、教養、財産、国家、民族といった人間の違いによる障壁を打ち破り、一つとなる教会であると定義しました。キリストが壊した隔ての壁を再び築かない教会こそが公同の教会であり、互いの違いを認め合い、キリストの愛によって支え合いながら成長していくことの重要性を強調しました。最後に、教会が命を失うのは、イエス・キリストを礼拝しなくなった時であり、教会は常に教会であり続けること、すなわち聖なる公同の教会として、イエスに従っていくことが大切だと締めくくりました。

祈りと近況報告
お祈りをいたします。
天の父なる神様、今朝も私たち一人一人を 死の御前へと招いてくださり、
あなた仰ぎ礼拝ができますことを感謝をいたします。
暑い日が続いております。どうか主よ、 ご一人一人の体調を支え、
またあなたの永遠の身腕をもって確かに 倒れることのないようにお守りくださいますよう、
お願いいたします。
特にこの暑さを思う時に祈られたように、
熊本で今、国書の中で耐えておられる 方々のことも覚えます。
どうか主はお一人一人の体を支え、 命を守ってくださり、
適切な支えが与えられますように、 どうか助けてください。
お願いいたします。
私たちは改めて、この場所で主を仰ぎます。
あなたが私たちを愛し、
御子イエス様の十字架の父様により、 私たちを神の子としてくださり、
永遠の命を与え、永遠なる死と共に切り離されない 命を今生きていることを覚えて、
神様どうか、豊かな恵みのうちに今あるということを この礼拝のうちにも確かに覚えながら、
あなたと共に歩むことを得させてくださいますよう、 御言葉を開いてください。
お願いいたします。
あなたの御手に委ねます。
特にここに来たくても来れない方々、
御支度で礼拝を守っておられる方々の上にも、
あなたの支えをお与えくださいますように、 お願いいたします。
イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
本当に暑くなってきました。
身体ご無理のないように水分補給は 自由にしていただけたらと思いますので、
よろしくお願いいたします。
でも皆さんに言うまでもありませんが、
先週の火曜日に熊本で地震がありました。
皆様の中にも関係者がいらっしゃるかもしれませんし、
心揺れていらっしゃる方もいるかもしれません。
10年前にも熊本では大きな震災がありました。
その時に熊本ではキリスト教の災害ネットワークとして、
九州キリスト教災害ネットワークというものが設立されました。
いわゆる旧機体とよく呼ばれますが、
実は10年をめどに解散の方向に進んでいたのです。
ただ今回のことを受けて限定的にまた活動を再開するということを今、
今朝連絡が入ってきました。
協会間でも協力をしながら被災地支援に今、当たろうとしております。
被災地支援は計画的に段階的に進んでいきますから、
私たちは向こうが必要としていることを聞いた段階で、
必要としていることを支援させていただくということを大事にしたいと願っております。
こういう災害に出会う時につくづくいつも問われることは、
教会のあり方と「聖なる」の意味
境界はどうあるべきかということです。
それは阪神淡路大震災もそうだったでしょうし、
東日本大震災の時もそうでした。九州の震災でもそうです。
境界はどうあるべきなんでしょうか。
実は旧記載の活動についてまとめられた、
このキリストさんと呼ばれてという本が2018年に出されましたから、
今から8年ほど前に出されました。
熊本の復興支援のことを現場から、もしくは進学的にまとめているとても良い本ですけれども、
その中でこういうことが言われていました。
被災すると境界は揺れます。
その中で境界がどうあるべきかということは、
さまざまな意見が出てまいります。
みんな愛と善意から意見がぶつかっていきます。
そういう中だからこそ、しかし境界が大切にしたこと、
実践的に大事にしたことは何か。
2つです。
1つは境界はそれでも主を礼拝することから始めるということ。
境界は主を礼拝することから始める。
そして第2に、境界はキリストの愛をもって地域を愛することで宣教をするということ。
宣教というのは聖書を片手にではなくて、愛することから始めていく。
その姿勢は多団体の支援が次々と打ち切られる中でも、
キリスト教の支援というのは長く続いたんです。
そのことを受けて地域の人たちからは親しみを込めて、
キリストさんと境界のボランティアは呼ばれるようになりました。
そのことを明かししている本ですけれども、
とても素晴らしいなと思うのです。
私たちは危機の中でいつも、それは震災に限らずですが、
危機の中でいつも問われる問いです。
境界とは何なのか。
ただ、今朝ご一緒に見てまいります使徒信条は、
その境界のあるべき姿、境界とはこれだということを
端的に二つのことでまとめてくれています。
それは、聖なる行動の境界。
聖との交わりを信ず。
特に前半に目を向けます。
境界は、聖なる行動の境界である。
これは使徒信条の告白ですが、
私たちは聖なる行動の境界を信ずと告白をいたします。
使徒信条の告白は、境界を信じると告白するのです。
境界を信じる。
境界は信じる対象です。
それは境界というのが、人間が集まってただ単に始めたものではないからです。
境界は神様が人を救い、神様が人を集め、
神様がこの場所に立てた神様の御業に他ならないからです。
だから私たちは境界を信じるし、境界は何であるかというときに
やはりそれは神の業であるという側面から考えなければならない。
私たちは境界を何だと信じるのか、
二つのポイントで御言葉から教えられたいと願っております。
説教用紙にも書きましたが、
二つのポイント、一つ目は
境界は聖なるキリストが頭であると信ずるという、
そのことを告白するのです。
境界は聖なるキリストが頭であると信じるのです。
実は使徒信条の中では
聖霊を信ず、聖なる行動の境界、聖との交わりというように
聖という言葉が3回続いて出てまいります。
これ厳密には結びついているとも思いますが、
しかしここでポイントは聖という言葉、聖なるという言葉です。
聖なるとは一体どういう意味なんでしょうか。
言葉からすると私たちは何か清らかなという印象を持ちますが、
何度か申し上げますが、
聖という言葉のもともとの意味、これは
異なっている、区別されている、分離されているという意味です。
例えば私たちが毎週祈る主の祈り、
皆が崇められますようにと私たちは祈りますが、
あれは言語は皆が聖とされますようにという言葉です。
皆というのは神様の存在自身ですから、
いわば神様が区別されますように、
神様がこの世のもの、何者とも横並びにされませんように、
神が神と一緒にいるという意味です。
神として礼拝されますように。
そのことを祈っているのがあの言葉ですね。
もうちょっと聖であるということを言葉にして歌っている
聖書の言葉がありますが、
ちょっとだけ開ける方だけで結構ですが、
出エジプト記の15章の11節というところに、
この聖という特徴がよく分かる歌の1節があります。
出エジプト記15章の11節。
旧約聖書の126ページの上の段にございますが、
出エジプト記15章の11節を読みするとこういう歌です。
主よ、神々のうちに誰かあなたのような方がいるでしょうか。
誰があなたのように聖であって輝き、
称えられつつ恐れられ、
屈辱しい業を行う方がいるでしょうか。
聖であるというのはこういうことなんですよ。
神様、聖なる神様、あなたみたいな方がいるでしょうか。
いや、いない。
あなたしかこういう方はいらっしゃらない。
それが聖であるという言葉の意味ですね。
神様はそのようにこの世の何者とも異なるお方です。
その力においても、そのご人格においても、
横並びにできるお方ではありません。
そして同時に私たちはよく知っています。
この聖なる神は、私が聖であるから、
あなた方も聖でありなさいと
イスラエルのために求める神様でしたね。
それも見ますとレビキの19章の2節というところに、
これも有名ですが、書いてある言葉です。
レビキの19章の2節というところ。
よく聖会で開かれますが、19章の2節。
イスラエルの前回収に告げよ。
あなた方は聖なる者でなければならない。
あなた方の神、主である私が聖だからである。
あなた方は聖なる者でありなさい。
私が聖だから。
聖なる神の聖なる民になりなさい。
そういうことを神様は言われるのです。
いわば神様がこの世と分離して、
この世とは全く異なっているように、
あなた方もこの世から分離して、
この世から救い出されて、
この世とは異なる者として生きなさいということを言われる。
でも私たちはふと止まるのです。
この世と異なるってどういう意味ですか。
神様のようになれってどういう意味ですか。
神様がこの世と異なっているように、
一体何が異なればよいのでしょうか。
神様は全能の力の持ち主ですから、
私たちも全能の力を持って神様のようになればいい。
そういうことではないでしょう。
私たちは神にはなれません。
むしろここで言われる、
聖でありなさい、異なりなさいと言われるのは、
いろいろな意味があるのですが、
これは旧約聖書の立法にその内容が記されているように、
むしろ人格的な要素なんです。
異なれというのは人格的な要素。
厳密に言うと人格だけじゃないのですが、
しかし人格的な要素が大いに大きいのです。
ちょっと旧約の話ばかりしてすみませんが、
神様はイスラエルの民を救い出したときに、
ご自身の宝とし、祭祀の王国とし、
聖なる国民とするということを、
出世時の19章で言いました。
あなた方を救い出して、
私はあなた方を聖なる国民にする。
その聖なる国民にするために神様が与えたのは、
実戒をはじめとする立法です。
立法を守るならば、
あなたたちは聖を学ぶし、
異なる民になれると神様は教えられる。
実戒に書いてあったのは、
聖なる神様を愛すると同時に、
隣人を愛する術でしたね。
親を敬え、殺すな、盗むな、
関与するな、偽装するな、欲しがるな。
でもそれは、当時人を殺して当然、
侵略して当然だった社会からするならば、
かなり異なる価値観です。
そして私が好きなのは、新明紀の15章です。
新明紀15章、また読んでいただけたらと思いますが、
書いてあるのは、困っている人がいるならば、
必ず手を開きなさいって書いてます。
困っている人がいるなら、
あなたの手を引っ込めちゃいけない。
手を差し出して助けてあげなさい。
その手を神は祝福なさるからだ、
ということが書いてあります。
これは、自分のこと、自国ばかりを優先する、
それは現在においても、昔の時代においてもそうですが、
それはこの世とはかなり異なる価値観、異なる意識ですね。
このように、聖であるというのは、聖なる神様のご人格、
いわばエジプトからイスラエルの民を一方的な哀れみを持って救い出した、
あの哀れみ深い神様、恵み深い神様、
この世の神々とは全く異なる神様、
その神様のご人格に倣って、
あなた方も哀れみ深く、恵み深く、
隣人と共に生きる愛を持つ民になりなさい。
この要素が実は、聖という言葉の意味です。
異なっていると何に異なるのか。
神の人格に倣って、あなた方も、
哀れみ深く、恵み深くありなさい。
ただ皆さんご存知の通り、
イエス・キリストと教会の誕生
イスラエルの民はそのようにはいきませんでした。
エレミア書を見るならば、
や、イスラエルの民は立法を捨て、
まつしい人々から搾取をし、
偶像神、彼らは自分の都を築き、
結果的に滅亡へと向かっていきました。
しかし面白いのは、
新約の時代になりました。
イエス様がやってきたのです。
イエス様はどういうお方でしょうか。
イエス様は誠の聖なる神の子なんですよ。
イエス様を見るときに、
私たちは何を知るのでしょうか。
イエス様を見ると、
私たちは聖がわかるんです。
清い、聖なるお方、
聖なるというのはどういうことかということが、
イエス様を見ればわかる。
イエス様の生き様は、
聖そのものでした。
神様を愛し、
罪人や貧しい者、
その子供や病む者を隣人として愛しました。
人々がそんなところにも行くのって言っても、
イエス様は行きました。
様有り屋人と口を聞くんですか、あなた。
イエス様は口を聞きました。
それは、イエス様が聖なる方だからです。
神の憐れみを生きておられる方だからです。
この世とは異なるからです。
イエス様を通して、
弟子と子をはじめ、
この世の人々は、
神の憐れみ深さ、
恵みの豊かさ、
いや何よりも、
誠意を学んだんですよ。
誠意であるとは一体どういうことなのか。
そしてその聖なるの誠意の極みは、
まさに十字架でしたね。
神様の憐れみの深さは、
罪のない御子イエスキリストを、
罪人が受けるべき裁きの身代わりとして、
あの十字架に捧げてしまわれた。
それによって罪人を救うほどに、
神様の憐れみは深かった。
聖書はこの十字架を通して、
御子が与えられて御子御自身を捧げられた、
その姿を通して、
愛を知らない者は、
神の愛を知るんだと、
第一ヨハネの四書の9節に書いてますね。
十字架を見るときに、
神の愛がわかり、
神のせいがわかる。
神のすべてが見えてくる。
そして三日目に復活されたイエス様は、
天に登り、
その代わりに地上に立つ犬主である
聖霊様が使わされました。
ペンテコステの日に、
聖霊様が弟子たちの上に下って、
教会が誕生しました。
なんで聖霊降臨が、
教会の誕生日と一緒なんでしょうか。
それは、
聖霊様が、
人の心にイエス様御自身を
明かしされるからですよね。
ヨハネの十五章の26節に書いてあります。
聖霊は私について明かしをする。
聖霊様は私たちに、
イエス様の聖なる生き様を
明かししてくださる。
イエス様はどういうお方か教えてくださる。
それは言葉を変えるならば、
エレミア書に書かれていたように、
聖なる立法を心に刻む。
聖霊様によって、
それが始まったんです。
今、私たちのうちに起きているんですよ。
聖なるイエス様はどういうお方で、
聖とはどういう歩みか。
私たちの中に刻まれ、
聖霊様がそこに押し出しておられる。
そのように教会は生み出され、
2000年間続いているんですね。
ですから、
教会が聖であるというのは、
教会のアイデンティティそのものです。
聖でなくなれば、
教会は教会ではありません。
聖霊様は、
聖なる御子イエス様の生き様を、
私たちのうちに刻み、
それに習いなさいと促します。
私たちはそういう経験をしますよね。
聖なる教会と宣教
ああ、これはでも、
イエス様の道からずれている。
罪悪感を覚えて、
悔い改めるわけです。
そして、
数年前に鎌野直人先生がここに来て、
記念講演なさったときに、
お聞きになられたでしょう。
この聖として生きることそのものが、
宣教なんですよ。
聖と宣は結びついているって話を
お聞きになられなかったでしょうか。
宣教というのは、
聖なるキリストの愛によって、
世界を、家族を、地域を、
愛することが宣教です。
愛するんですよ。
だから宣教において、
いつも大事なのは、
そこにキリストの愛があるかないかです。
キリストの愛がなくて、
正しいことばかりを伝えているならば、
その宣教はキリストを述べ
伝えていることにはならないのかもしれません。
今朝読んでいただいた、
エペソビトへの手紙の4章の15節というところに、
こういう言葉がございます。
皆さんよくご存知の言葉でしょう。
エペソビトへの手紙の4章の15節。
むしろ、
愛をもって真理を語り、
あらゆる点において、
柱であるキリストに向かって成長するのですと、
パウロは教会を指して語りました。
私たちは愛によって真理を語り、
正しいことも語るけれども、
愛をもって互いに語り合う。
それは、キリストに向かって成長していく。
なぜキリストなのか。
キリストは聖だから。
聖なるお方だから。
そしてそのキリストに向かって成長していくときに、
私たちは神様に似ていく。
キリストに似ていく。
聖なるものとなって生きていく。
全部結びついています。
私はその意味でも、先ほど紹介しました
公同の教会と壁の打破
キリストさんと呼ばれたというのは素晴らしいなと
つくづく思います。
この本の中で一つだけ紹介されていた話。
災害支援当初、
教会の中には葛藤があったことが描かれています。
教会も被災地、教会も被災者なんです。
しかしその中に、よくあるんですが、
教会が被災したら、その教会がベースキャンプみたいになるんですね。
それを受けて、ある教会員の方がこう言いました。
教会は礼拝屋を守る聖なる場所なんだから、
被災地支援は他に任せればいい。
教会は聖なる場所として空けとこう。
ここは被災地支援の場所にしちゃダメだ、
ということを言った教会員の方がいます。
一方で、いや、教会だからこそ、
この地域の人々を愛するために、
今こそ教会を開放するべきではないか、
と言った人もいます。
どっちの意見もよくわかります。
ただ、そのことがきっかけで、
教会では争いが起きて分裂の危機に陥った。
タタンの策略ですよ、こんなのは。
だいたい教会が分裂するのは、
間違っているから分裂するんじゃない。
正しさがぶつかって分裂するんじゃない。
愛に対する純粋さがぶつかって分裂するんじゃない。
でも、そのとき教会は何をしたか、
この本に書いていたのは、
みんなで主を礼拝することから始めようとなった。
主を礼拝することから始めよう。
主の御前に膝を折ろう。
自分はこうしたい。あの人はこう思っている。
そのことは一回横に置いて、
イエス・キリストを礼拝しよう。
そしてその中で冷静さを取り戻し、
祈り合い、みんなで共通理解したことは、
イエス・キリストがここにいたら何をなさるだろうかということ。
ただ一つ確かなことは、
ここで私たちが分裂するのは主の御心ではない。
その中で一歩一歩支援の方向が見えた、
ということを明かしなさっています。
向かう方向はキリストだからですよ。
向かう方向はキリストです。
そのことを改めて覚える。
聖なる行動の教会、聖とは、
キリストをあがめ、キリストに従っていく、
その教会であるということです。
そして二つ目です。
教会はキリストの愛のうちに立て上げられる行動性を信じると書きました。
聖なる御方に従うからこそ、
行動の教会になっていくと言えるのかもしれません。
行動の教会と聞きますが、
私たちは行動というのはなかなか使わない言葉かもしれません。
これはラテン語ではカトリックスという言葉で、
これはカトリック教会に由来している言葉です。
行動というのは言い換えれば、
それは普遍的、正当的、
もしくは普遍であるがゆえに、
一つであるという意味です。
一つであるという意味です。
この行動について説明している、
オランダの神学者のファンデューラーという神学者がいますが、
彼の説明がわかりやすかったので紹介します。
彼は行動をこのように説明します。
行動の最も単純な意味は、
教会においては人間の違い、
例えば年齢や性別や教養や財産や国家や民族といった、
そういう違いは何ら本質的かつ決定的な役割を演じることはないということである。
教会はそのような相違によって、
人間の間に生じる障壁を繰り返し打破するのである。
それが行動の意味だということを書きました。
私はとてもわかりやすい説明だなと思って見ていました。
教会はあらゆる違いがある。
あらゆる違いがあるんだけれども、
それは決定的な理由にはならない。
むしろ教会が教会であるというのは、
その違いを打破し続けるという行動においてこそ、
教会の境界性がある。
行動とは、人と人との間に作ってしまう隔ての壁を
繰り返し打破することであるという説明はなるほどと思います。
それはまさにイエス様がなさったことでしたね。
隔てられた人々、罪人、サマリア人、
一般的に築かれた社会的、民族的な壁を越えて愛していかれた。
そして十字架こそが隔ての壁を壊したというのは
エペソ人の有名な言葉ですね。
ちょっとだけ読みますと、
エペソの2章の、すみません、
説教由事に4章と書いてあるかもしれませんが、
2章の14節から16節です。
壁を壊したというのはとても大事なことですね。
エペソの2章の14節から16節。
読みますと、こういう言葉です。
実にキリストこそ私たちの平和です。
キリストは私たちの二つのものを一つにし、
ご自分の肉において隔ての壁である敵を打ち壊し、
様々な規定からなる今しめの立法を廃棄されました。
こうしてキリストはこの二つをご自分において
新しい一人の人に作り上げて平和を実現し、
二つのものを一つの体として十字架によって神と和解させ、
敵を十字架によって滅ぼされました。
と書きます。
キリストは十字架によって一人の人、
それは愛し合う一つですね。
一つへと結びつけていかれる技もなかった。
行動の教会というのは、言葉を変えれば、
キリストが壊した壁を再び築き直さない教会であると
言えるのかもしれませんね。
どうでしょうか。
キリストの愛による成長と教会の本質
宮谷教会には壁がないでしょうか。
そうは言いつつも、私はつくづく別にこの教会に限らずですが、
現実の教会には目に見えない壁がたくさんあるなあと思うことがあります。
年代の壁というのがあります。
年代の壁。
教団の壁。
違う教団は仲間でしょうか。
神学的立場の壁。
福音派と主流派は仲間になれるでしょうか。
人種的な壁。
どこどこの国の人が嫌い、
そういうところはありますよね、私たちもね。
教会は、そしていろんな人がいるのです。
性別も違えば、いろんな、みんな同じ人は一人もいません。
違いがあって当然です。
ただ、その違う者同士が手をつなぐには、
キリストの愛によって繰り返し壁を打破するという動きが必要不可欠なんです。
必要不可欠です。
そしてそれは、自分自身を変えることに他なりません。
ただ、自分自身を変えるというのは労力のかかることです。
だから私たちはそれを疎んじて、人が変わればいいなと思います。
あの人が変われば、まだ手が出せるんだけどと私たちは思う。
しかし、今日のエペソビトへの4章の16節に進みますと、
こういうことをパウロは語ります。
4章の16節。
キリストによって、体全体はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、
繋ぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、
愛の内に立てられることになりますと語ります。
キリストによって、イエス様がそこに働いて私たちをどのようにしてくださるのか。
イエス様は、キリストの体である境界を、いろんな違いがある境界を、
しかしそれを組み合わせ、繋ぎ合わせ、自分の分に応じてですね、
それぞれできる分も違います。違っていいんです。
でもその分に応じて働くことによって成長し、
愛の内にキリストの体、境界を立て上げていくんだとパウロは語ります。
自分だけが優れている。
自分だけが物事をわかっている。そんなわけがないですね。
私たちは互いに賭けもあり限界もあり、
私これしかできへん、だから他の人助けて、それでいいわけです。それでいいんです。
私たちはそれぞれに役割がある、分もある、
でもその役割を私の分はこれだと受け止めながら仲間と手を取り合っていく。
仲間と手を取り合いながら果たす。
その単純なことがなかなかできない私たちだからこそ、
教会の頭である聖なるイエス様を、
聖霊様は今も私たちの中に築き続けてくださっている。
隔ての壁を越えて、行動の境界を立て上げようとしている。
すべてキリストに向かい、キリストの愛によって今その技が始められて進められている。
だから私たちは主にチャレンジを受けながらこの壁を一歩でも越えよう、
そのことに取り組んでいくわけじゃないでしょうか。
教会が命を失うのはということを時々考えます。
教会が命を失うのは別に、街道が崩れても教会は倒れません。
街道がなくてもやっている教会はあります。
牧師がいなくなっても教会は倒れません。
牧師がいなくても教会がやっている教会はあります。
しかし教会がイエス・キリストを本当に礼拝しなくなった時に、
教会は命を失います。
教会の頭がイエス様でなくなった時に、
この方を頭としてこの方の前に膝を負って、
この方に従っていきたいということをやめた時に、
教会は教会ではなくなります。
だからこそ大切なことは、
教会は教会であり続けることが大切なんです。
何か特別なものになろう、
この世の何かああいう企業みたいになろう、
違う、教会は教会になり続けるんです。
誠意なる行動の教会であること、
そこにイエス様を主として仰ぎながら、
イエス様に従っていこうと互いに苦闘しながら、
しかしそこで喜ばしい愛による聖徒の交わりが築かれていくこと、
今も事実、教会は神の御業奇跡なんですよ。
キリストによってと書いてあります。
神の御業奇跡です、教会は。
事実、イエス様は教会の頭なんです。
事実、教会は精霊様がいぶいて、
今もキリストの御姿を私たちに築いてくださっている、
その御業の中に住んでいるんです。
しかし私たちの中でそれを信じられない、
もしくはそうは見えない現実があるならば、
悔い改めなければなりません。
報告をイエス様に定め続けなければなりません。
イエス様ならどうなさるだろうか。
私たちはイエスを主とするというのはそういうことです。
未曾有の出来事が起こる世界において、
今なお困窮の中にある熊本の教会のために祈りを合わせつつ、
私たち自身もこの地において、
聖なる教会、公道の教会であり続けることを願いたい。
私たちはまず死をお礼拝しましょう。
そしてそこでイエス様にならうものとならせていただきたいので、
一言お祈りをいたします。
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