00:01
それでは一言お祈りをさせていただきます。お祈りをいたしましょう。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今日も私たちを御言葉によってこの礼拝へと招いてくださり、
あなたご自身が恵みをもって待ち構え、私たちを恵もうとここにご臨在くださることを心から感謝をいたします。
神様、あなたは私たちへの限りない愛を、いやこの世界への限りない愛を示してくださいました。
ニコイエスキリストの十字架へと架け、そして十字架の使徒復活により新たな命をこの世界に表し、
その使徒の命によって私たちも使徒ともに歩む人生を、
使徒ともに永遠の命と永遠の命の人生を与えてくださったことをありがとうございます。
神様、先週私たちはペンテコステを覚えました。
今なお、本当に吹き続けておられる聖霊様のそのお働きに、その風に、
私たちも押し出されながらこの日々一つ一つを歩めていることを感謝をいたします。
しかし本当に、私たちの病みには様々な戦いがあることを覚えます。
言葉にできること、できないこと、抱えていても分かち合うことが難しいこと、私たちにはたくさんあります。
神様どうか、私たちは憐れんでください。
あなたの命の言葉によって勇気と慰めと力を与えてくださって、
ここからまた立ち上がることができるよう、あなたがこのひとときを導き、
お一人一人にあなたの御言葉を開いてくださいますようにお願いいたします。
今、施設におられて、共に集いたくても集えない方々、
心が向かなくてここに来れない方々、
その他にも様々な痛みを抱えて家で礼拝をされておられる方々、
神様どうか、あなたはお一人一人のことを愛し、憐れんで、その場所にも共にいてくださいます。
どうか神様がお一人一人の魂を慰めてくださいますようにお願いいたします。
特に続いているウクライナの戦争のうちに、
死をまた平和の解決を与えてくださいますように、
ウクライナの地で傷んでいる死にある兄弟姉妹に、
主がどうか慰めとまた励ましを与えてくださいますようにお願いいたします。
語る者の唇を開いてくださり、
どうか主御自身が今日もまた必要なことを語らしめてください、お願いいたします。
これからの時を見てにゆだねます。主が導いてください。
イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。アーメン。
03:05
今朝はキリスト教の教会歴というもので見ますと、
実は三味一体主実と呼ばれる日なんですね。
聖霊降臨祭、ペンテコステを先週私たちは祝いました。
教会歴の考え方でいうならば、ペンテコステで一つ、
抗端とイエス様の復活と、そして聖霊降臨がなされたというところで、
一区切りがなされると言いますか、そこから翌週は、
その救いの御業をなされた三味一体の神様の御業、救いの業、
そこにもう少し目を止めよう、そのような機会が定められているわけです。
あまり日本イエスで言われるところは少ないかもしれませんが、
私は大事だなと思って、こういうことをさせていただくことがあります。
私たちは三味一体の神様を信じているわけです。
このことを覚える機会として、この主実があるわけです。
教会歴はよく、イエス様がなされた何かということに目が止められることが多いのですが、
珍しくこれは三味一体という距離に目を止めるという機会です。
さて皆さん、三味一体はどのように説明をなさるでしょうか。
実にこれは難しい、本当に難しい問題です。
初期のキリスト教の距離形成というところにおいては、
実は最も困難で難解なこの距離の形成でした。
三味一体の距離というのはよく、神は三つの威嚇を持ち、本質において一つであるという表現がよくなされます。
神は三つの威嚇を持ちつつ、しかし本質において一つである。
しかしまたこれには言葉を理解するための言葉が必要みたいな、そういう世界になってきます。
この言葉をしっかりと理解しようとしても、実は考えれば考えるほどわかってくるのは、
論理的に破綻しているということです。
よく水と水蒸気と氷という説明がされますが、あれも実はちょっとずれているのです。
論理的に実は筋が通らない、それだけ難解な議論です。
今朝はこの議論を一つ一つ追っていくことはやめて、
ただ、この三味一体の距離を形成するにおいて、
最も重要とされる一つのポイントに目を止めながら、今日は御言葉に聞いていきたいと思います。
それは何かと言いますと、キリストとは何者かということです。
キリストとは何者なのか。
イエス様って何者なのかということです。
06:04
神学的に言えばキリスト論と呼ばれるものです。
神は三味一体であるということは、キリスト、イエス様とは何者であるかという問題が深く関わっています。
実はこの問題は意外と私たちと遠い問題じゃなくて、結構身近な問題でもあると思うんですね。
なぜなら、最近世間を騒がしています、いわゆるキリスト教異端と呼ばれるグループは、
まさにこの三味一体、そしてキリスト論という教理から逸脱しているがために、
実に破壊的になっていくということがあるからです。
少しだけそのお話をさせていただきます。
昨年7月に安倍元首相が銃撃で命を失ったという事件がありましたね。
犯人は40歳代の青年ですけれども、ニュースで明らかになったのは、お母様が統一教会の信者であって、
高額献金を請求されて、それによって家計が破綻しかけて、そのようなことから恨みがあって、
それが正当なものかどうかわかりませんが、安倍首相を襲ったという、そのような悲しい事件がありました。
私自身があのニュースを見ていて、すごく心が痛んだのは、事件後にそのお母さんへのインタビューがニュースでされていたんですね。
親戚の方がお母さんに聞くんですよ。
息子に言いたいことはないかと。
聞くとお母さんがボソボソと、申し訳ないと言ったんですね。申し訳ないと。
ただ、その申し訳ないと言った対象は、安倍元首相のご遺族の方であったりだとか、
息子に対してではなくて、統一教会のメンバーに対してです。
申し訳ない。統一教会に息子がご迷惑をかけた。申し訳ない。申し訳ないと。
私、あのニュースを見ながら本当にマインドコントロールの恐ろしさだなぁとも思わされましたし、
犯罪は決して容認できることではありませんが、その青年の心を想像すると何ともやりきれない思いになりました。
統一教会であったり、エホバの承認、実は私も宮谷駅付近でよくそういう方々、立っている方々を見ます。
共通するのは何かと言いますと、過剰な法事と高額な献金です。
なぜそんなことをするのでしょうか。なぜそこまで献金を払うのでしょうか。
いくつか要因がありますが、根底にあるのは、実はイエス・キリストの十字架の贖いは不完全であったという理解です。
イエス・キリストの十字架の贖いは不完全であった。
09:03
そして不完全な救いだからこそ、それを完全にするために、95%はキリストが成し遂げてくださいました。
しかし5%は、あなた方の法事と献金によって、それがなければ、ここまでキリストはしてくれたのに、あなた方は救われない。
だから一生懸命やる。とても大雑把な説明になりましたけれども、しかしそういうことです。
これは、正当的なキリスト教信仰からは、明らかに完全に逸脱をしています。
しかし何が逸脱し問題なのか、やっぱり焦点はキリスト論なんですね。
イエス・キリストは何者であるのか、何を成し遂げたのか。
今朝はこのことに焦点を置きながら、三味一体の神様のご愛ということを、ご一緒に聞きたいと願っているわけです。
さて、さっきから話になっていますが、イエス様とは何者なのでしょうか。
そのことを語っているのは、実は今朝のヨハネの3章の言葉です。
1節、2節をお読みしますと、こういう舞台設定ですね。
さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。
エデイ人の議員であった。
この人が夜、イエスのもとに来て言った。
先生、私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神が共におられなければ、あなたがなさっているこのような印は、誰も行うことができません。
この人は真夜中に、ニコデモは真夜中にイエス様のもとにやってきました。
彼はユデイ人の議員であるということでした。
これは、夜に会いに来たということは、こっそり会いに来たということです。
ヨハネの福音書は、イエス様が様々な印を行ったということがよく書かれている書簡です。
その印という、まさにイエス様の奇跡が伴うような、そのような活動というのは、
すでに一部のユデイ人指導者たちから警戒されていました。
彼は一体何者なのか。
しかし、まさにその人々が怪しむのですが、
おそらく一部の人たちには、そのイエス様がなされる技の人柄であったりだとか、
言葉に何か惹かれるものがあったのでしょう。ニコデモもそういう人でした。
二人は出会って会話を始めるわけです。
しかし、先ほど聖書朗読で一応続けて読んでいただいてお分かりかもしれませんが、
実はこの二人の会話というのは、あまりかみ合っていないんですね。
12:00
なぜなら、ニコデモはイエス様とは何者かということを誤解しているからです。
二節にありましたが、ニコデモはイエス様のことを神のもとから来られた教師であると考えて、
イエス様に教えをこうてきたわけです。
しかし、うやうやしく説明を、挨拶を始めるニコデモに対して、
イエス様はいきなり話題の核心と言いますかね、
本論にいきなり近づいてきます。
そしてここで表されるイエス様の姿というのは、
まさに神のもとから来られた教師という枠では収まりきらないイエス様の姿を示しているわけです。
少し二人の会話に注目をしていきたいと思いますが、
二人は何について語っていたのでしょうか。
端的に言うならばそれは、どうすれば神の国を見、またそこに入ることができるかということです。
3節5節に書いてあります。
イエス様が言われましたが、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないと書かれています。
5節も見ますと、
人は水と水玉によって生まれなければ、神の国に入ることはできませんとここで言われます。
神の国に入るということで、どういうイメージをなさるでしょうか。
私たちはおそらく、天国に行くという理解に近いところでこれを捉えるかもしれませんが、
当時のユダヤ人にとっては、実はちょっとだけニュアンスが違います。
当時のユダヤ人にとって、神の国に入るということが意味をするのは、天国に入るということではなくて、
彼らを支配している諸外国の支配からの解放です。
彼らが理解をしているのは、諸外国の支配からの解放であり、
いつまさにダビデのような王様が建てられて、この地に神様の国、神様の王が建てた支配が実現するんですか、という理解です。
これは、鬼頭会でエレミア賞をやっているので、それに参加されている方はイメージがつくかもしれませんが、
ユダヤ人という方々は、かつて北イスラエルと南ユダという祖国が崩壊しました。
その後、一時を除いて、ずっと諸外国の支配下に何百年も置かれ続けました。
彼らは、祖国が崩壊した原因が何かと問うたときに、思ったことが一つあるんです。
ああ、神の立法に不従順だったな。
神の立法に逆らい続けたから、神の言葉に逆らい続けたから、この国は破壊されたんだと、
その裁きを聞いた後の人たちは考えました。
だから、彼らがまさに再び、神の国の到来を早めるためには何が必要かと考えたのかというと、立法の実践です。
15:08
とにかく立法をしっかりと守ろう。
それが何百年も歴史をかけて、そういうことに意識を傾けて、その旧戦法として活動してきたのは何かというと、
実はパリサイ派と呼ばれる人たちです。
このニコデモも属するパリサイ派というグループです。
ちなみにイエス様の弟子たちもこれと似たような感覚を持っていたわけです。
使徒の一生六説を見るとそういうことがわかります。
ですから、この箇所で神はないのはなぜかと言いますと、神の国に入ることについて議論するならば、
ニコデモたちがしたい議論というのは何かと言いますと、いかに立法を実践するかなんです。
どうやって、どういうふうに立法を実践していくかということが、彼らの議論にとっては大事なことだったわけです。
それによって神の国はやってくるんだと。
でもイエス様は全く違う角度の話をされるわけです。
もう一度三説から五説を読みますと、イエスは答えられた。
まことにまことにあなたに言います。
人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
ニコデモはイエスに言った。
人は老いていながら、どうやって生まれることができますか。
もう一度母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。
イエスは答えられた。
まことにまことにあなたに言います。
人は水と水玉によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
イエス様がここで言われたのは、神の国に入るために必要なことは、立法の実践というものではない。
むしろ必要なことは、新しく生まれることなんだと言ったんです。
新しく生まれることが必要なんだと。
そして新しく生まれるということは、まさに水と水玉ですね。
水というのはバプティスマだと思いますが、水玉というのは、
聖霊なる神様の働きが必要であると言われた。
特に重要なのは、この八説の言葉ですね、とても不思議な言葉ですが、
八説の言葉を読みますと、
風は思いのままに吹きます。
その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかわかりません。
水玉によって生まれたものも皆、それと同じです。
聖霊なる神様が風のようであるという意味は、先週確認をしました。
それは、目には見えないのだけれども、人の心を動かす力がある。
いえ、ここでは、人の心を動かした先に、
18:02
新しく人を生まれ返させるというところまで、人の心を押し出される、
聖霊なる神様の働きがある。
実に、新しく生まれるということは不思議なことです。
この箇所を見ていただいてもわかりますが、ニコデモも理解できていないわけです。
新しく生まれるってどういうことですかと。
これは、何と言ったらいいんですかね、
経験した人にとっては明確なことなのですが、
言葉では説明しづらいという、本当にそういう世界の言葉だと思います。
でも、そうなんですね。
三味一体の神様、なんでそんな論理破綻した内容を私たちは、
いえ、2000年の教会は信じ続けることができるのでしょうか。
実に不思議なことなんです。
しかし、一つ説明できるとするならば、
私たちの信仰というのは、先週もお話ししましたが、頭だけじゃない。
私たちの信仰というのは、理性において、頭において、
神ってこういうお方だということが、
わかったから信じれるというだけではなくて、
わからせてくださる、聖霊なる神様の働きがあるから信じれる。
聖霊なる神様が心を動かし、信じさせてくださるから信じることができる。
おそらくここに集っておられるキリスト社の方々も、そうだと思うんです。
いざ考えてみれば、実に不思議なことを信じている。
しかし、どこかで、聖霊様が働かれたときに、心が動いた。
牧師として病床の方々の訪問に伺うことがあります。
そのときに、聖書の御言葉を読んで祈ることがありますが、
目の色が変わるという場面に出会わすことがよくあります。
言葉はもう交わせないわけです。
しかし、そこに聖霊なる神様が働かれている。
それが鮮やかに見えるときがあります。
そのときにやっぱり牧師は感動します。
ああ、神様ってこんなに働かれるのだと。
主はその魂をも見捨てずにご存知でいてくださる。
ああ、この方を新しく生まれさせてくださったのだと。
そこで感動を受け止めることがあります。
ニコデモにとって、話を戻しますが、
ニコデモにとってイエス様の話は、あまりにも荒唐無稽だったようです。
何を言っているのですか、イエス様。
旧説にもありますが、ニコデモは答えました。
どうしてそのようなことがありましょうかと。
どうしてそのようなことがあり得るでしょうかと。
イエス様、あなたはなぜ人が新しく生まれることなど、そんなことを言い切れるのですか。
21:03
なぜ聖霊なる神様がそのように働かれると断言することができるのでしょうか。
イエス様は混乱をしているニコデモに対して、このように続けて答えられるわけです。
ちょっと10節から13節をお読みしますと、こう言います。
イエスは答えられた。
あなたはイスラエルの教師なのに、そのことがわからないのですか。
誠に誠にあなたに言います。
私たちは知っていることを話し、見たことを証しているのに、
あなた方は私たちの証を受け入れません。
私はあなた方に地上のことを話しましたが、あなた方は信じません。
それなら天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
誰も天に登った者はいません。しかし天から下ってきた者、人の子は別です。
イエス様が言われることというのは、ニコデモにとっては実に口頭向け、
わけがわからない言葉のように聞こえました。
しかしこれは真実なんですね。
なぜかと言いますと、それは新しく生まれること、
それによって神の国に入るということは、
この地上の中で考えられたことではないと言っているんです。
この地上で考えられた計画でも知恵でもなくて、
それは天から来た、天におられる神の計画と知恵であるとここでイエス様は言われているわけです。
そしてそれを語っている私自身も、天から下ってきた人の子であるとイエス様はここで言われるわけです。
ちょっと最初の話に戻しますと、イエス様とは何者かということに、ここでようやく行き着くわけです。
ニコデモはイエス様は神から使わされた偉大な教師だと考えました。
こういう人は当時たくさんいるんです、立法に精通した。
だから議論ができる立法学者だと思ってきたのでしょう。
しかしイエス様はそうではない、それにとどまらない。
私は天から下ってきた人の子なのだとご自身を紹介をされた。
ちょっとだけこの言葉に注目をするならば、イエス様はご自身を人の子だと表現をいたしました。
人の子という表現は、ご存知の方も多いかもしれませんが、これはダニエル書という旧約の言葉に書いてある
終わりの日に、まさに終わりの日が始まるときに現れるであろうものに対して与えられた称号です。
これはダニエル書の7章の13節から14節というところに書いてあります。
しかしそれだけではありません。イエス様がご自身を人の子だと言われたのは、
24:04
きっとそれはイエス様は完全な人間だということを言っているわけです。
イエスキリストは完全な人間である。
精霊様によって見込もりましたが、人間マリアが生んだ子供です。
完全な人間であるからこそ、イエス様は人の心を持つお方です。
完全な人間だからこそ、イエス様は人々の痛みに寄り添い、共に苦しむことができるお方です。
完全な人間だからこそ、神に近づけば人は死んでしまいますが、イエスキリストは人に近づくことをなさったお方です。
しかし同時にここで言われているのは、天から下ってきたとご自身のことを言っておられるわけです。
私は天から下ってきた。
いえ、もうちょっと如実な表現が16節にあります。
16節の表現を借りるならば、イエス様は神の独り子であると、ご自身のことを指して言われているわけです。
この2つの言葉を合わせますと、実はイエス様はここで、完全に私は神だとも言っているんです。
並べていますと、イエス様は完全な人間だなだけではなくて、完全に神であるとこの言葉で言っているんです。
キリストは完全に人間であり、完全に神である。
これは伝統的な神学の言葉で言うならば、キリストの二世一人格という教理です。
これも論理的に破綻をしていますと、完全に人間であって、完全に神である。
どういうこと? 完全ってことはどっちかなんでしょう? これも論理的に破綻しているんです。
しかし、2000年の教会はこれを堅持してきました。
なぜなら、イエス様が完全な人間であり、完全な神でなければ、救いは成し遂げられないからです。
イエス・キリストがもしも人間でないのであれば、人の罪も苦しみも寄り添うことはできません。
その罪も痛みも担うことができません。
しかし一方で、イエス様が神ではなくて単なる人であるならば、
歴史上の十字架でのイエス・キリストの死というのは、単なる歴史上の死です。
しかし、イエス・キリストが完全な神であるからこそ、十字架の死に意味があったんです。
完全に清い神であるからこそ、そのお方が私たちのためにご自身を捧げられたからこそ、
27:07
キリストの十字架の上がらないというのは、完全である。
そういうことができる。そのように神学が形成されてきました。
14節から15節の続けての言葉を読みしますと、こういうことが書いてあります。
「モーセがアラノで蛇をあげたように、人の子もあげられなければなりません。
それは信じる者が皆、人の子にあって永遠の命を持つためです。」
この14節のお言葉、モーセがアラノで蛇をあげたようにということは、
まさにエジプトから脱出してきたイスラエルの民が、アレノで神様に不平を言って起こしてしまった事件です。
その裁きによって炎の蛇に襲われるという事件が、
民数記の21章の4節から9節というところに書かれています。
民数記で神様はモーセに対してこういう言葉を言うんですね。
民数記の21章の8節というところをちょっとだけお読みしますけれども、
こういう言葉がモーセに書けられています。
「あなたは燃える蛇を作り、それを旗顔の上につけよ。
かまれた者は皆、それを仰ぎ見れば生きる。」という言葉があります。
民数記の21章の8節というところです。
かまれた者は皆、それを仰ぎ見れば生きる。
イエス様は旧約聖書に精通なさっていました。
そして、ご自身の使命を覚え、
ああ、私がこれからなるのはあれなんだということを覚えたわけです。
それは何か、まさにイエス様は
ご自身がこの挙げられた聖堂の蛇になると言われる。
それは十字架に掲げられるイエス様ですよね。
蛇にかまれて、
ちょっと象徴的に広い意味で考えてみてもいいかもしれませんが、
蛇にかまれて、蛇の毒に苦しんで、
さくらんしている人たちがそこにいるわけです。
自分で何をしているかわからない。
自分がどこに立っているかもわからない。
自分がどのように人と共に生きているのかもわからない。
そのようにさくらんする人々よ、
聖堂の蛇を仰ぎなさいと神がかつてイスラエルの民に語ったように、
十字架に掲げられる私を仰ぎなさいとここで招かれるわけです。
いろいろわからないことがあるでしょう。
十字架に掲げられる私を仰げと。
そしてミンスーキが語る言葉がまさにイエス様の十字架の背景で鳴り響いているような言葉ですよね。
それを仰ぎみれば生きる。
それを仰ぎみれば生きる。
30:03
で、聖霊なる神様の風はここに私たちや人々を押し出していくわけですね。
イエス・キリストを仰ぎなさい。
イエスこそあなたの主であるということを知りなさい。
そこへと私たちを押し出していく。
そうすればその人はまさに新しく生まれることができる。
あなたの中に新しい創造が始まってくる。
それだけではなくて、神の国に入ることができる。
神様の恵みの支配に、神と共に生きるものとされていく。
これはあたかもニコデモと同じように、
荒唐無稽な救いの話ではないかと思われがちなものです。
しかしそうではない。
父なる神様の完全な御計画がここにあり、
そして完全に神である巫女イエス様が十字架で掲げられたからこそ、
イエスを主と告白するものは、すでにそして確かに新しく生まれたものであり、
確かに神の国を生きているものなんだと聖書は語るわけです。
16節、これは本当に聖書で一番有名な言葉、
私も一番最初に暗唱した言葉ですが、
お読みしますとこういうことが言われます。
神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。
それは巫女を信じる者が一人として滅びることなく、
永遠の命を持つためである。
これらの救いの一連の技を見ていきますと、
実に神様の愛がどのようなものかということがよくわかるわけです。
父なる神様が一人子を十字架に捧げられたと言われる。
一人子であるというのは、これは意味を変えるならばスペアがないということです。
替えがきかないということです。
ある先生が表現をされましたが、
イエス・キリストを地上に使わされた神は巫女が地上に使わされたことによって、
天国が空っぽになったという表現をした人がいました。
そういうことですね。
スペアがいない一人子を捧げられた。
父なる神様にとってはイエス様を地上に捧げるということは、
それほど大きなことであり、神にとってもそれは深い痛みであった。
そういうことができるでしょう。
しかし神はそうされてしまうわけです。
この世界を愛し一人も滅びず、永遠の命が得ることができるようにと、
父なる神はなさってしまわれる神である。
そして御子イエス様は神であることを捨てられないとは考えず、
御自身を全く虚しくして御自身を十字架にまで従わせられました。
33:02
ピリピリと絵の2章に書かれてあります。
そして御子は御父に十字架で捨てられるわけです。
我が神、我が神、どうして私をお見捨てになられるのですか。
三味一体の神が血を流して裂かれるのです。
それは御自身の存在を揺るがすほどの痛みでしょう。
三味一体の神が裂かれるわけですから。
しかしその痛みに御子イエス様は御自身を捧げられてしまいました。
なぜでしょうか。
それは世にいる罪人を見つめ、私たち一人一人を見つめ、
一人も滅びず、永遠の命を得ることができるようにと願われたからです。
聖書はそのことを指してこのように証をしています。
一箇所だけ違う歌詞を読みますと、
第一ヨハネの四章の十節、これも有名な言葉ですが、
読ませていただきますとこういう言葉です。
第一ヨハネの四章の十節。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のためになだめの捧げ者としての御子を使わされました。
ここに愛があるのです。
ここに愛があるのです。
実に聖書は荒唐無稽な物語を語ります。
世界を創造された神が、全知全能の神が、
御自身に逆らい続ける罪人のために、
ここまで痛みつつ御自身を捧げてしまわれる。
いいえ捧げ切って三味一体の身体までもが裂かれて、
御子は命までも捧げてしまわれる。
何でこんなことをなされるのでしょうか。
実に説明がつかないわけです。
説明がつかないからこそ、
実はキリスト教の異端というのは、
わかりやすく説明をするわけです。
いや、キリストは人間なんです。神ではないんです。
だから、神がキリストの死があったとしても、
満足するためにもっともっと捧げましょう。
異端はそういうんです。
その方が納得しやすいんです。
わかりやすいんです。
しかし真実というのは、より納得がいかないんです。
わからない。
罪人である私たちのために、
神が御子、御子が御自身を捧げてしまわれたということです。
なぜでしょうか。
理由はただ一つです。
それは、神が私たちを愛しておられるからです。
神が私たちを愛しておられるからです。
あなたが神を愛そうと愛すまいと、
36:07
神があなたを愛しておられるからです。
あなたが滅びずに、永遠の命を得るために、
神はここまでのものを捧げてしまわれた。
そして私たちには気づいておられるでしょうか。
聖霊なる神様が今も、
あなたに風を吹かせておられるんです。
イエスを仰ぎ救われよと、
イエスこそ主であることを知りなさい、
知り続けなさいと、
私たちにそのように風を吹かせ続けておられるんです。
今朝は生産式をこの後取り行います。
巫女イエス様の裂かれた体、流された血を、
そこに私たちは確かに、誰が叫んだではない、
神ご自身が嘆き叫ぶ声を聞くわけです。
その痛み叫ぶ声は、誰のものであったのか、
それは私のためだと気づくときなんです。
私のためだ。
私を限りなく永遠の愛で愛し、
私に命を与えてくださったためのものだと、
私たちは生産式の中で覚えます。
私たちはその種の愛を生きていきます。
それは強制でも脅迫でもありません。
私たちはこの神様の豊かすぎる、広すぎる愛を知り続け、
感動し、精霊様によって新しくされ続けていく身なんですね。
どうか、今朝も精霊なる神様の風が皆さんに豊かに吹きますようにと願います。
とらえきれないほどの大きな三味一体の神様の愛を、
なお深く知ることができますようにと願います。
神は実に、その一人ごをお与えになったほどに、
よう愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、
永遠の命を持つためである。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。