2025-02-16 28:33

#251永遠のいのちの泉~サマリアの女生と神の賜物 25/2/16

ヨハネ4:1-14からの礼拝メッセージ。2025年2月16日録音。(聖書朗読は()まで,本論は()から。))これまでのように、今日の箇所でも旧約聖書や歴史の背景を知って読む必要があります。それにより、その箇所についての理解が深まり聖書を読み学ぶ楽しさも体験することができます。その点をまず取り上げます(1.サマリアとサマリアの女性())。次に、神に受け入れられる清さと神の祝福を得する道について考えます(2.人力か救い主と神の賜物か())。最後に湧き水のたとえを使って教えているイエス様の言葉から永遠のいのちに関わることを取り上げます。(3.湧き出る永遠のいのちの水())。

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サマリー

このエピソードでは、イエスがサマリアの女性と出会い、永遠のいのちの水の意味を探求しています。サマリアの歴史的背景とユダヤ人との関係が浮き彫りになり、イエスのメッセージが差別を乗り越えるものであることが語られています。イエスとサマリアの女性との対話を通じて、清めと神の賜物の概念が探求されています。イエスは永遠のいのちの水を提供し、古い伝統やしきたりに頼らず、信じることの重要性を強調しています。聖霊がもたらす永遠のいのちについても語られ、サマリアの女性との会話を通じて聖霊の水の重要性が強調されています。

イエスとサマリアの出会い
1節から14節をお読みします。 聴いてくださるだけでも、備え付きの聖書をご覧くださっても結構です。
パリサイ人たちはイエスがヨハネよりも多くの弟子を作って、バブテスマを授けていると伝え聞いた。 それを知るとイエスは、
バブテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが、
ユダヤを去って、再びガリナヤへ向かわれた。 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
それでイエスは、ヤコブがその後、ヨセフに与えた辞書に近い、スカルというサマリアの町に来られた。 そこにはヤコブの井戸があった。
イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らにただ座っておられた。 時はおよそ第六の時であった。
一人のサマリアの女が水を汲みに来た。 イエスは彼女に、私に水を飲ませてくださいと言われた。
弟子たちは食物を買いに町へ出かけていた。 そのサマリアの女は言った。
あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に飲み水をお求めになるのですか。 ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
イエスは答えられた。 もしあなたが神の賜物を知り、また水を飲ませてくださいとあなたに言っているのが誰なのかを知っていたら、
あなたの方からその人に求めていたでしょう。 そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。
その女は言った。主よ、あなたは食物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。 その生ける水をどこから手に入れられるのでしょうか。
あなたは私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。 ヤコブは私たちにこの井戸をくださって、彼自身もその子たちも家畜もこの井戸から飲みました。
イエスは答えられた。 この水を飲む人はみなまた渇きます。 しかし私が与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがありません。
私が与える水はその人の家で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。 以上です。今日はこのところから永遠のいのちの水と題して見事がお届けしています。
聖書の背景と理解
皆さんおはようございます。 ここ数日は最高気温、埼玉では10℃を上回る14℃ぐらいで暖かな日が続いています。
今週火曜からまた寒波が襲来するということで、冬の戻りがありますけれども、今日もこのように礼拝できることを衆に感謝しましょう。
さて、これまでこのヨハネの福音書を理解する上で、聖書を広く深く読むということをお話ししてきました。
それは毎回見ている聖書の箇所を、旧約聖書や歴史の背景を知った上で読むということです。
そうすることによって、その箇所についての私たちの理解も深まります。 よく聖書を読むときに何が難しいかというと、言っている言葉面の意味はわかるんだけれども、
言っている内容はわかるんだけど、その意味がわからない。どうしてそういう発言が出ているのか。
そういう難しさがありますが、その聖書を広く深く読むことによって、その言葉の背景ややり取りの背景がわかって、聖書をよく理解することができます。
それこそ正に聖書を読む、学ぶ楽しさですよね。 今風に言えば、私はしたことないんですけれども、
VRゴーグルというゴーグルをつけると、まさにその場にいるような臨場感があるわけですけれども、
3次元で聖書を読むことと言えるかもしれません。今日はそんなことで、一番最初にこのサマリアという場所とその女性の背景について聖書からお話しします。
そして2番目にですね、まさに ヨハネのテーマである救いとかですね、そういうことを話しますが、2番目は人間による力か
あるいは神の賜物かという観点から、そして最後は今日のメインテーマである 湧き出る永遠のいのちの水ということ、永遠のいのちの水ということを取り上げていきます。
さて、サマリアとサマリアの女性というところですね。 ちょっといつも通りまず4章9節、最初にポイントとなる聖書の言葉を読んでみましょう。
私、まずここで読みますね、そのサマリアの女は言った。 ここから読みましょうか、3、あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に飲み水をお求めになるのですか。
ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。 レジュメに書いてないんですけども、問題に入る前にですね、この箇所も本当に多くの
何て言うんでしょうかね、内容が詰まっていていっぺんにお話しできないんですが、例えばイエス様が疲れて座っていた。
そして弟子たちだけが買い物に行った。それほどイエス様が疲れを覚えていたということが読んでわかるんです。
それはヨハネが言ってるようにイエス様は神様であったけれども、私たちと同じ肉体を持っておられたということが、ここで示唆されているということも覚えていてください。
まあそれは去っておきまして、今日のこの箇所の背景ですけれども、場所の舞台がサマリアです。 ちょっとこれ書いて見にくくなってしまいましたけれども
イエス様はこの前ですね、このユダヤ地方にいたようです。 ベズレヘムというのが下の方にありますけれども
イエス様のいたダビデの街、エルサレムがここにありますね。 先週まで見たバブテスマのヨハネとイエス様の一個のバブテスマの星が
おそらくこの南の地方だったんですけれども、今日の冒頭にありましたように パリサイ人たちがこのユダヤの宗教の中核にある人たちですけれども
バブテスマのヨハネだけじゃなくてイエス様が盛んになったことを知って、騒ぎが大きくなることをイエス様は避けて、そのためにこの
差別の問題とサマリア人の特徴
エルサレムに近いユダヤ地方から北の方に向かっていく、マルコで見たガリダヤ地方に向かっていったのかもしれません。
その時にこのサマリアを通らなければならなかったという話ですね。 今日の舞台、実際どこかあまりわからないんですけどスカルというのがこの辺ありますけれども
ここを通っていったわけです。 ここのサマリアという場所の歴史的な背景を知っておくことが大事なんですけど
サマリアってどんなところかわかります? どうしてサマリアという場所を通るということが問題なのか
何が起こったのか。 書いてありますけれども
ダビデ王、その息子のソロモンの後ですね 何が起こりました?そのユダヤの国に
分裂しましたよね。 南ユダ王国がこれからイエス様に続いていく正統なダビデの一族
それと北イスラエルというのができた。 その北イスラエルがそこも独自に王を立てたんですけども
サマリアを含む地域だったんです。 何が起こったかと言いますと一番大きな
出来事はですね、紀元前約8世紀722年と言われてますけれども アッシリア報酬ということが起こった。当時の大国であるアッシリアがこの
北イスラエルを攻め取って町が陥落します。 その時にですね
アッシリアが取った政策の一つは ある程度の民は残しながらも自分たちの民を含めた
いわゆる北イスラエル、当時のユダヤ人にとっては外国人を住まわせて、自分たちの民族を住まわせて、そしてそこで
ユダヤ民族と結婚させるんですね。そして民族的にもその地域を支配しようとしたように思われるんですね。
そこで、ちょっと乱暴な言葉ですけれどもユダヤ人からしたら雑婚が起こって、いわゆる彼らがいうとこの汚れた違法人との間に生まれてきた子孫がサマリア人だということなんです。
ずっと聖書の中で問題となっていた、汚れの問題ということから言うと、汚れているとされていた違法人と
の雑婚で生まれたサマリア人たちを
南ユダの人たち、彼らが言うところの純粋なユダヤ人は汚れた民だというふうに考えたんですね。
そしてそのことによって反目がお互いの間に、南ユダとサマリアの間に起こったわけです。
簡単に言いますと、それが800年近く経ったイエス様の時代も続いていたということなんですね。
皆さん常識あるからご存知と思いますけど、ただそういう聖書の背景を、あるいは言葉を特定の民族を差別したり、
正当化する理由に使ってはいけないということをあえて言っておきますね。
ただそのような歴史的な背景があったということは覚えておいてください。
そしてそのような反目とか差別や偏見がある中で、
今日のイエス様とサマリアの女性のやりとりが出てきたわけなんですね。
そしてもう一つ興味深いことはですね、このサマリア人、サマリアの女性が属していたとこの北イスラエルから走ったサマリア人は
雑婚したとはいえ、やはりアブラハムの子孫としての自負があったわけです。
そして聖書を守っていたんですが、特徴的なのは旧約聖書の孟聖五書だけしか
聖典にしなかったんです。孟聖五書は何ですか?
創世紀から新明紀までの孟聖が書いたとされるこの五書だけが彼らの聖書として信じられていた。
それがサマリア人の宗教的な特徴の一つだったわけなんですね。
ですから、そういう背景があってのイエス様とのやりとりだということを覚えておいてください。
そしてその言葉をもとに、このサマリアの女性のイエス様への問いかけを考えると見えてくることがあります。
ユダヤ人の男性にとって、汚れているとされているサマリア人の、しかも理由は言いませんが、女性から
水をくださいということ、それは何が問題か、そういう人との接することもそうなんですが、水を飲むときに何を使いますか?
イエスとサマリアの女性の対話
彼女は言ってましたけど、あなたは汲むものを持ってないでしょ? だからサマリア人の女性が持っているこのおけなり、汲むものを使ってしかイエス様は飲めなかったんです。
つまり純粋なというか、汚れを気にするユダヤ人からしたら、そんな器を使って飲んだら汚れるんです。
だから彼女はあえて、このような問いかけをイエス様にしたわけなんですね。
それを覚えておいてください。 そしてこの言葉を受けたイエス様の言葉から、第2の点を見ていきましょう。
第2の点は人力か救い主か、神の賜物かという点です。 イエスは答えられた。
もしあなたが神の賜物を知り、また水を飲ませてくださいと、あなたがあなたに言っているのが誰なのかを知っていたら、あなたの方からその人に求めていたでしょう。
そしてその人はあなたに行ける水を与えたことでしょう。 このイエス様の言葉から少し考えていきます。
ここで実は2つのことが対比されています。
それはイエス様は、ユダヤ人の清めの習慣と、救い主によって神様から賜物として与えられる清めというものを対比しているんですね。
実はここまでヨハネの福音書には隠れたテーマの一つとして、清めということが重層的に流れていました。
よく言いますよね、優れた小説にはいろんなモチーフが絡み合っている。 この間、芥川賞を取った小説にもいろんな要素が入っていて、ということを言っていますけれども、
その中で清めということが、例えば2章6説では、カナの婚礼の時には清めの水亀があったユダヤ人。
それは6つでユダヤ人の清めのしきたりが不十分だということを示唆していましたよね。
そしてしばらく前に見た3章25説で、バブテスマのヨハネの弟子たちとユダヤ人たちが清めについて議論していたと言っています。
さっき言ったこのサマリアの女の汚れということも繋がってくるわけです。
そしてその汚れと清めということの中で、今のイエス様の言葉を見ていくんですけれども、じゃあなぜですね、
旧約聖書からのしきたりを大事にしたユダヤ人たちやあるいはサマリア人は清めを大事にしたのか、逆に汚れを恐れたのか。
それはですね、私たちの日常生活から少しヒントがあると思うんですけれども、皆さんね、学校や会社に属したことあるかもしれませんが、ルールがありますよね。規則が書かれた規則。
校則や会社のルール、職場のルール。それと同時に暗黙のルールというのがありますよね。書かれてない。
それは暗黙のルールというのは家庭の中にあったり、あるいは友達関係の中にあったりするわけですよね。
そういうのが今SNSで絡んだりしてめんどくさくなっているんですけれども、そういうルールというものを守ると、そのグループというか共同体の中で自分の位置が守られたりとか、そこから受け入れられる何か恩恵があったり。
反対に守らないと極端な話、仲間外れにされてしまったり、ひどい仕打ちを受けるわけです。
そういうことはちょっと日常的なんですけれども、神様の民と当時の旧約聖書の教えやしきたりと関連づけて言いますと、
神様の律法、旧約聖書の清めの律法を守らないと、あるいはユダヤ人が言うとこのしきたりを守らないで汚れると何が起こるかというと、神の民として、神の契約から外れるわけです。
神の民として求めていた神様の祝福から漏れるわけです。ですから必死になって自分に汚れがないか、清め良い生活を送っているかということで、よく出てくるパリサイエピトルに代表される人は、
細かいしきたりをずっと守ってきたわけです。それは何かというと、自分の力で神様の前での自分の立場や清さを守るという、そういう行為なんですね。
このサマリア人も神の民を自負しながら、やはり
神の賜物の違い
孟聖御書なんかも大切にして、神の民としての契約や祝福ということを大事にしてきたようです。
とにかくこの律法やしきたりを守ることによって、自分の力によって清めを保つことによって、神からの祝福や契約に預かろうという、そういう努力と
神様の賜物、つまり
この語っている救い主イエス様によって与えられる清め、そしてイエス様の救いによって与えられる神様の祝福や契約の約束
この神の賜物、その違いをイエス様はここで語っておられるのではないかと言ったんですね。
裏を返すと、まだこの時正体は明らかになっていませんが、イエス様はこの女性にこういうことを示唆していたわけです。
この律法や契約のしきたり、そこから出たしきたりを守ることによってではない。
ユダヤ人の男性もそういうことをしていたと思っているわけですよね。そういうしきたりを守ること、ルールを守る、自分の努力ではなくて
イエス様を自分自身、イエス様救い主である自分を信じることによって
神の賜物としての清めや神の祝福を受けることが必要なんですよということをイエス様はこの女性に示唆していたわけなんですね。
それが分かればあなたが私に受ける水を求めたでしょう。 しかし彼女はそれを受けて
言い返したんですね。ごめんなさい、図が圧倒になってしまいましたけど、ペンタチフというね、猛瀬五書のことを英語でペンタチフという言い方をするんですけども、猛瀬五書だけを大事にしてきたサマリア人。
そのイエス様の言葉を受けてサマリアの女性はこんなことを言ったんですね。 ちょっとじゃあ
彼女になったつもりで読んでみましょうか。4章12節3、あなたは私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。
ヤコブは私たちにこの井戸をくださって、彼自身もその子たちも家畜もこの井戸から飲みました。
冗談じゃないよって意味があるんです。軽蔑の念がここに込められているんです。
あのね、よく
昨日もテレビで日光の特集やってましたけどね、徳川家康すごく尊敬されていますけども、徳川家康だけじゃなくてその孫の家光も尊敬されていますよね。
日本で。で、それと同じようにアブラハム
とその孫のヤコブというのがイスラエルの中で、あるいは神の旅の中で非常に尊敬されていました。 なぜヤコブが尊敬されていたか覚えてます?この間言った。
ヤコブ名前変わったでしょ?なんて名前になりましたっけ? イスラエルって名前になったです。そしてそのヤコブから十二部族が出てきたわけですから
神の旅の子孫ということでヤコブは非常に尊敬されていた。しかもそのヤコブは旧約聖書の時代、どこにあったかわからないんですけども、このサマリアの女とイエス様がいるこの宿を
ヤコブが掘り当てて、そして先祖から今に至るまで何千年にも渡って、この井戸から私たちはヤコブのおかげで飲んでいるんですよ。
それなのに、あえて言うとどこの馬の骨かわからない疲れてみすぼらしい男のあんたが、この先祖の
先祖の尊敬すべきヤコブより偉いんですか?と。 私たちにその水を飲ませることができるんですか?って言ってるんです。
日本語では湯水のようにって言いますよね。湯水のようにってどういうことですか?無駄遣いじゃないですか。
そんな言葉はこの地域にないんですね。雨なんかほとんど降りませんから。それほど水が貴重な中でのこのやり取りということの意味もわかってくるかと思います。
そのような軽蔑を込めたこの女性の言葉。 それに対してイエス様は答えられました。
3番目、湧き出る永遠のいのちの水ですね。イエスは答えられた。 この水を飲む人は皆また渇きます。しかし私が与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがありません。
最後だけ読んでみましょうか。私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
と言っているんですね。 実は先ほども言いましたが、あなた方が尊敬している役部、そして実は旧約聖書の
律法を守ることも不十分ですよ。先祖にすがることも不十分なんですよということがここで示唆されています。
そうじゃなくて、あなたが尊敬する民族に尊敬された役部が掘った井戸でさえ、
渇きを癒すことができません。どんな渇きですか。それは 神を求める永遠への上渇きを癒すことができないんですということをイエス様は示唆しているんですね。
実はこの いのちの水というのが何度も出てきます。
英語でリビングウォーターと言いますけどね。リビングウォーターという会社もありますけど、これは文字通り
普通に使われていたんです当時。どういう意味で使われていたかというと、流れがある水です。 湧き水とか川の水です。反対に死んだ水というのはこの
溜まった水を言うんですね。ご存知の方もいるかと思いますが、
これが死海ですね。なぜ死海というか、 これは水が入ってくるばっかりで出ていかない。
流れがなくて淀んでいるから塩分が強くなって、まさに死の海。 生物が生きることができない。
皆さんもね、私も子供の頃、近所の沼とか行くとね、汚いんですよね。臭く。 なぜかというと水が流れ出ないから臭くなる。
池の水全部抜きますなんてテレビ番組でやりますけども、流れがない水は
死んだような水。一方で流れる水、湧き水は生きた水だというのが、当時の
生ける水という言葉の意味だったんですね。 しかしイエス様はさらにそこから
飛躍させて、霊に生きる水ということをここでいのちの水ということで
表しているんですね。 それは皆さんご存知のように今まで見てきた
聖霊といのちの水
生ける水は何か。 聖霊ですね。
この前の ニコデモとイエス様の会話でもですね、人は
聖霊と水によらなければ神の国に入ることができない。 その水ということは聖霊がもたらす新しいいのちということを示唆していると
学びました。 ここでもイエス様は、イエス様を信じる人、その人の中で
淀んだ水ではなくて泉のようにいのちが湧き出る。 それは聖霊の働きであり、それは永遠のいのちに至る。
そしてその水は神に対する上渇きを完全に満たすことができる水なんだということが示唆されています。
これね私 湧き水の日本の湖というか、水っていろいろ思い出す中でね
これどこか分かります? 星の八海、山中湖の底。
富士山の麓からたくさんの水が出てきて、本当に水が澄んでてですね。 真っすぐ泳いであります。これは行ったことないですけども
サロマ湖ですね。ここも湧き水が豊富で生き物が豊富な水です。
非常に澄んでいる。このように泉、湧き水というのにはいのちが溢れています。
そしてここでイエス様が言うようにまさにですね、バイタル。 この
いのちが湧き出てくるよ、そういう 水がその人の
中から湧き出てくるんだということを語っているわけです。 このサマリアの女性にはその正解を
言わないでですね、示唆している。 私が与える水を飲めば、その人の中から生きる水が流れ出て、永遠のいのちに至るよという
聖霊の約束を示唆しています。 そしてその話がもっとこれ以降ですね、展開していきますから、そのことを来週以降
見ていきましょう。 そしてこの聖霊と水、いのちの水ということに対してたくさん旧約聖書に
約束がありますけれども、そのうちの一つですね、この間も見た 神殿から流れ出る水、それが
本当に豊かになって 足首から泳げるぐらいまで水量が豊富になったっていう、そういうエゼケール幻から出た
この聖書の言葉を最後に読んで終わりしたいと思います。 エゼケールの47章9節ですね。
この川が流れていくどこででも、そこに群がるあらゆる生き物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。
ここから読みましょうか。 この水が入ると、そこの水が良くなるからである。
この川が入るところでは、すべてのものが生きる。 私たちもですね、イエス様によって与えられる
聖霊のいのちの水をですね、飲みながら日々歩んでいく疑いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。 サマリアの女性とイエス様の会話から、あなたの賜物、救い主イエス様によって与えられる
清め、神様の祝福、いのちの水について学びました。 それは本当に広く深い、
私たちは知り尽くすことができない祝福です。 どうか私たちがそのあなたにある豊かな祝福を、いのちの水を、
聖書を通して、日々の生活を通して、体験を通して、より知ることができるように、どうか導いてください。
この御言葉の約束の通り、あなたにあるいのちに、本当に溢れて、この新しい週も歩んでいくことができますよう、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン
それでは1分ほど、聖書の言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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