さて、そのような大きな愛でこの世界を愛された神様は、まさにこの世界を回復させるためにイエス・キリストを通して新しいことをいくつも始めていかれたというのが、ヨハネの福音書で書いてあることでしたね。
暗闇の中に光としてイエス様は来られました。
そしてちょっと復讐みたいになりますが、2章から4章にかけて書かれていたことは、イエス・キリストこそが新しい立法であり、新たな神殿であり、そして契約共同体に入るために新しい生まれ方も指示し、
イエス・キリストを通して礼拝は新しいセクションに入った、新しい礼拝が始まっていった。
そして5章から10章では、そのイエス様のご自身の啓示はさらに加速しましたね。
イエス・キリストはエゴ・エイミーという言葉、私は何々であるという言葉を用いながら、ご自身を父なる神様と重ねながら、
あの杉越の祭り、狩猪王の祭り、宮城嫁の祭りが指し示すのは全て私のことであるとイエス様は言われました。
私こそが命のパン、私は杉越の子羊、私は生ける水であり、私は世の光であり、そして私は羊のために命を捨てる良い牧者であると、ご自身を表して来られました。
そして先週見た12章においては、まさに12章の24節にすることが言われましたが、
一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。しかし死ぬなら豊かな実を結びますとイエス様は言われ、
まさに神様がもたらすこの新しさの完成には、ご自身の死を通してなされなければならない技があるということを言われた。
しかしそれは豊かな実を結ぶことなのだとイエス様は言われたのです。
そういうことを予告されて今朝の13章ですね。
先ほども申し上げましたが、この13章から17章は国別説教なわけです。
そしてこの13章以降のいわば道筋を示している一つの箇所があります。
それは3節です。13章の3節を読みますと、イエス様は聖書はこう書きます。
イエスは父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て神に帰ろうとしていることを知っておられたと聖書は答える。
いわばこの5章からイエスキリストはどこから来たんだとずっと言われるのですが、イエスキリストは天から来られた。
そして天から来られたイエス様に父なる神様は万物を委ねられた。
罪に陥っている、サタンに支配されている万物を委ねられた。
今やイエスキリストの手に握られているのです。
そしてイエス様はサタンに支配された罪の奴隷の中にある万物を握り、その万物を引き連れてイエスキリストは再び神のもとへ帰る。
これは一体何のことを言っているのかというと、実は旧約聖書の一つの出来事と重ねながら書かれています。
出エジプトです。
ご存知のように、かつて神様がイスラエルの民を握りしめ、エジプトの支配から解放し、航海を渡り、約束の地へと導いていきましたよね。
同じように今やイエスキリストによって、12章の31節にありますが、この世の支配者は追い出されるのです。
そして追い出されて、罪の奴隷、罪の支配下にあった万物を握り、イエスキリストは神の国、神の支配へと彼らを引き出される。
十字架の見業というのは、そのような新しい出エジプトがここから起きるんですよということを描いている、そのような光景です。
そのことを頭に置きながら読むと、実は今朝の箇所は分かりやすいと思います。
三つのポイントでお話をさせていただきますが、一つ目は、新しい戒めとして与えられた愛だということです。
新しい戒めとして与えられた愛です。
もう少し出エジプト記の話を思い出したいと思いますけれども、
エジプトの奴隷であったイスラエルの民というのは、神様の一方的な道からと恵みによって奴隷から解放されますよね。ご存知かと思います。
その際に、そこから導き出された民、まさに神の民とされた彼らに対して与えられたものは何だったかというと、
市内産で与えられた立法でしたね。
言い換えるならば、戒めですよ。
戒めを与えた理由というのは、大事な箇所なので、出エジプト記の19章の4節から6節もこの箇所の重要性は言っても言い切れないですね。
何度も開いてますが、ここは大事な箇所です。
なぜ、主は奴隷から導き出した民をどうしたいのか。
19章の4節から6節、旧約聖書の133ページの上の段にございます。
上にしますと、19章の4節から6節。
あなた方は私がエジプトにしたこと、またあなた方をわしの翼に乗せて私のもとに連れてきたことを見た。
今、もしあなた方が確かに私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、あなた方はあらゆる民族の中にあって私の宝となる。
全世界は私のものであるから。
あなた方は私にとって最始の王国、聖なる国民となる。
これがイスラエルのコラにあなたが語るべき言葉であると言われます。
イスラエルの民は神様と契約をした。そして神の言葉を守るならば、あなた方はこの世界にあって私の宝となり、最始の王国、聖なる国民となると書いてますけれども、
この声を聞き守るというのは何かというと、立法を守るということです。
立法というのは、神を愛し隣人を愛する歩みが書かれているんです。
それを守るならば、あなたはこの世界でいかに神が恵み深く、いかに神が隣人に対する愛に生きているお方なのか、そのことが明かしされていくまで、
最始の王国として世界に神のことを仲介するというか、明かしする王国として生きていくんですよということを語られた。
立法が与えられたのは私たちを縛るためではありません。
立法が与えられたのは私たちが神様の愛の素晴らしさ、隣人を愛することの素晴らしさ、神の素晴らしさをこの世界に明かしするために立法を与えられたのですね。
さて、そして今朝の箇所に戻るならば、今朝のこの13章の、読んでいただきました34節から35節というのは、まさにこれと同じことをイエス様は弟子に語っているんです。
それは何かもう一度読みますが、13章の34節から、
私はあなた方に新しい今しめを与えます。
互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによってあなた方が私の弟子であることを全ての人が認めるようになります。
互いに愛し合いなさい。
これは新しい今しめとして与えられているとイエス様は言われます。
確かに教会では、互いに愛し合うことは大事ですねということは私たちは言わずもがな分かっているわけですけれども、
ただここでイエス様が言われたのはやはり、新しい今しめという言葉は重たいんですよ。
それは何なのか、単なる努力目標ではないんです。
互いに愛し合うというのは単なる努力目標ではなくて、これこそが教会が何であるのか、
いわば教会の標識、教会のアイデンティティ、そう言ってもいいかもしれません。
これがあるから教会だとわかる。
それは何か、立法だったものが今は互いに愛し合うという愛の中に現れているとイエス様は言われるのですね。
イエス様は立法を要約すれば、他の歌詞で言われました。
立法を要約すれば、あなたの全てを尽くして神様を愛し、そしてあなた自身のように隣人を愛しましょうと言われました。
しかしここではより鋭くなります。
自分自身を愛するように隣人を愛するだけではない。
キリストが愛したように互いに愛し合いなさいとここでは言われるのです。
キリストが愛したように互いに愛し合いなさい。
これが教会の根幹というかアイデンティティなのです。
教会って何かってこれがなかったら教会ですらないんです。
そしてイエス様は、じゃあ互いに愛し合うってどういうことなのかということの模範もここでちゃんと示してくれている。
2つ目のポイントです。
愛というのは、イエス様が愛されたように愛しなさいとここで言われているということです。
イエスが愛したように愛しなさい。
それは34節の後半に書いてますね。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさいというのです。
じゃあ、イエス・キリストが弟子たちをどのように愛されたか。
そのことは、象徴的にこの13章の前半に書いてあることです。
いわば、跪いて足を洗うということです。
13章の4節から6節をちょっとお読みしますと、イエス様が弟子たちになさったことが書いてあります。
お読みしますと、こういう言葉ですね。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いをとって腰にまとわれた。
それから皿に水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手拭いで拭き始められた。
こうしてイエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。
主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。
イエスは彼に答えられた。
私がしていることは今はわからなくても、後でわかるようになります。
主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。
ペテロは戸惑います。
当然のことかと思います。
足というのは当時の社会においては、体で一番汚いところです。
そしてそれを洗うというのは、いわば奴隷の仕事でした。
しかし先生であるイエス様がそれをされた。
イエス聖書が語るのは先生どころではない。
本当は万物の王であり、神であられるお方が人間の前にひざまずき、奴隷のようになってまで足を洗われたのですね。
そしてイエス様が言われたことは、12節から15節を読みしますとこういうことを言います。
イエスは彼らの足を洗うと上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。
私があなた方に何をしたのかわかりますか。
あなた方私を先生とか主とか呼んでいます。
そういうのは正しいことです。その通りなのですから。
主であり、師であるこの私があなた方の足を洗ったのであれば、
あなた方もまた互いに足を洗い合わなければなりません。
私があなた方にした通りにあなた方もするようにと、あなた方に模範を示したのですと言われるのです。
ここまで言われると私たちは逃れようがないですね。
イエス様がされたようにやる、やりなさいと言われるのは、教会に対して逃れようもなくイエス様が語られることです。
さて、あなた方も互いに足を洗い合いなさいというこの招き、私たちは果たして可能でしょうか。
いわばそれは言葉を変えるならば、相手のきれいなところではない。
汚いところ、普段は見せないところ、ちょっと目を逸らしたくなるようなこと。
それを互いに受け止め合いなさいということでしょうね。
しかも奴隷のようにひざまずいてです。
決して上から目線ではない。
その人の目線よりも低いところから、その人の汚れを、弱さを見て受け止めますかというチャレンジですね。
これは本当に簡単ではないです。
私自身もできているのかと言ったらそうでもないなと自分でも思います。
人の汚いところを見るときに私たちは、覆うよりもどちらかというと正義を振りかざしたくなります。
そしてどちらかというと、正義を振りかざして捌いて気持ちよくなるわけですね。
ああ、できていない。俺はできているけど、お前はできていない。
そういうことが言いたくなります。
相手の高さにまで膝を折らずに、上から目線で手を差し伸べることは、実に気持ちがいいことです。
ああ、助けてあげますよって手を差し伸べる。気持ちがいいですよ。
ただ、膝を折るというのはものすごく難しい。
私たちは互いに問われるので、そのときに私がこのように差し出した手、
私が何かの正義を振りかざしながら、相手の汚れに対してせめて気持ちよくなっているときに、
あなたが今していることは、私がしたことと同じか。
私はそのようにしたか。
あなたは私がしたように、相手の前にひざまずいたか。
あなたは私がしたように、一番汚いところを指差して批判するのではなく、
手を差し伸べて洗おうとしただろうか。
そこに触れて受け止めようとしただろうか。
私の模範はそんなものだったか。
と、イエス様に私たちは互いに言われるような気がします。
実は、人を愛するというところに、私たちの人間というのが如実に現れるなということをつくづく自分も思います。
そしてイエス様がここで模範を示されたというのは、ものすごく意義があるなと思います。
それは、私たちは結局自分がされたようにしか人にしてあげることができないんですよ。
だからイエス様はひざまずかれるんです。わざわざ。
だからイエス様は弟子たちの足を洗われました。
彼らが自分の一番汚い部分に触れてもらう経験。
それを清めてもらう経験。
そこに嫌がらずに手を差し伸べてもらったという経験。
それを彼らが受けなければできないからです。
でも時折これは私も時間を込めていますが、教会がきれいなものだけを見せる場所になったら危険ですね。
別に汚いものを出せって言ってるわけじゃないですが。
そうじゃないと入れないってなるのは、何かがずれてるんだと思います。
3つ目のポイントを見ていきます。
私たちはどうすれば本当に互いに愛し合っていけるのか。
キリストに足を洗っていただくがゆえに。
キリストに足を洗っていただくがゆえに。
私たちは互いに愛せるようになるのではないでしょうか。
私たちは互いに問われるような思いをいたします。
あなたはキリストに足を洗っていただいたでしょうか。
この先述の記事というのは十字架の余計です。
これは十字架の余計なんです。
イエス様はこの後に十字架にかかられます。
それは弟子たちをはじめ、すべての人々の穢れ、罪、呪い、それをすべて引き受けて奴隷から解放し、神の民とするためにイエス・キリストは十字架にかかられます。
イエス様、ご自身が最も汚い人間の穢れを引き受けて洗う水となられ、布となられた。
それは今もそうですね。
足を洗っていただくということは、私たち自身の内にある最も穢れた部分を主に差し出しましたかということだと思います。
主にそれを差し出しましたか。
ペテュロは、彼は人間だなと思います。
13章の8節を見るとペテュロはイエス様にこう言いました。
ペテュロはイエスに言った。
決して私の足を洗わないでくださいと言いました。
決して私の足を洗わないでください。
なんでこんなことを言ったんでしょう。
それは恐らくこういう思いでしょう。
いやいや先生、先生の今日患わさくとも、自分の足は自分で洗いますよ。
そこまで私の足は穢れていません。
神を跪かせるほど私は罪深くはないのです。
私は平気。私は大丈夫。
でもこれはご一緒に覚えなければならない。
私たちは誰しも大丈夫じゃないからイエス・キリストの十字架があったんです。
私たちは誰しも大丈夫じゃないんです。
人前に対して私たちは、私は大丈夫ですということは別にいいでしょう。
その人の生き方ですから。
でも私たちは密室の中でイエス様を前にしてまで、
私は大丈夫。私はあなたに洗っていただく必要がないと言い切ってしまうならば、
イエス様はその後言われました。
私があなたを洗わなければ、あなたは私と関係ないことになる。
大丈夫、大丈夫とイエス様にまで言い切ってしまうときに、その関係は上辺の関係に終わってしまいます。
本当に人を愛し、受け入れる人というのは、罪人でしかない私が、
ただただイエス・キリストの十字架の御業によって、
神に愛され、許され、受け入れられているということが、
腹に落ちている人がそれができるんじゃないでしょうか。
逆に、これは傷だと思います。
自分が愛されたいときに、愛されたいと思うときに、正しさを押し付けられてきた人というのは、
人の不十分さを見たときにどちらかというと、愛ではなくて裁きで接したくなるんですよ。
傷ですよね、それはね。
しかし、穢れある私を、傷ついている私を、
主にあって許していなければ、受け入れていなければ、
他人の穢れを許し、受け入れることは難しいんです。
私たちは、されたようにしかできない。
もしかしたら、教会の中では、互いに愛し合いなさいという言葉は留守されています。
しかし、その単純な一時を妨げるのは、そういうところにあるのかもしれません。
頑張って愛する。
いや、でも、まず、あなたは愛されていることが分かっていますか?
あなたは許されていることが分かっていますか?
キリストの十字架によって、神に本当に超えていますか?
私があなたを洗わなければ、あなたと私とは関係がないことになるとイエス様は言われました。
イエス様と罪人である私たちの関係が結ばれる場所というのは、
私たち自身のどうしようもない穢れ、傷、
それを主に差し出し、主に委ね、許される十字架という場所じゃないですか。
むしろ、私たちは互いに主を、私には傷があります。
自分ではもうどうしようもない罪があります。
醜い感情があります。
情けない弱さがあります。
許せてないあの人がいます。
どうか主よ、私を憐れんでくださいですよ。
私を憐れんでください。
その時に主は、私たちと共にそのことに向き合ってくださる。
主と共にその課題に私たちは当たっていくんですよね。
そうやって自分の最も汚い部分を十字架の愛によって洗っていただいたものだけが、
隣人の弱さに対して、
ああ、私も同じだと思えるんです。
ああ、私も同じだ。
でも主はこんな私を許してくださったのだから、
私もあの人と共に主の御前に出たい。
そう共感と愛をもって接することができるようになるのではないでしょうか。
私があなたを愛したように愛しなさいとイエス様は言われます。
これを怖い言葉として聞かないでいただきたいのです。
そうではない。
イエスキリストはこれから私はあなたを愛したという形を十字架という場所で実現をなさいます。
圧倒的に私たちは十字架によって愛されるのです。
そうであるときに私たちはその愛を喜んで平安をもって感謝して愛するのです。
聖書に愛せと言われているから、愛さないと裁かれるからという恐怖によって人を愛するのではない。
主に許されている平安と喜びのうちに私たちは愛へと一歩進んでいく。
どうか私たちが互いに豊かに許され、愛されている事実に憩うことができますように。
何かの恐れからではなく感謝と平安から人を愛することができますように。
神が今あなたを最後まで愛すると語っていてくださるのですから。