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ヨハネノフクインショー 十三章 一節から十一節 新改訳聖書でお読みします。
十三章 一節から
さて、過越の祭りの前のこと。イエスはこの世を去って、父のもとに行く御自分の時が来たことを知っておられた。
そして、世にいる御自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
夕食の間のこと、悪魔はすでに、シモンの子イス仮庵テのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
イエスは父が万物を御自分の手に委ねて下さったことを、また御自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子の足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで拭き始められた。
こうしてイエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。
主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか?
イエスは彼に答えられた。
私がしていることは、今はわからなくても、あとでわかるようになります。
ペテロはイエスに言った。
決して私の足を洗わないで下さい。
イエスは答えられた。
私があなたを洗わなければ、あなたは私と関係ないことになります。
シモン・ペテロは言った。
主よ、足だけではなく、手も頭も洗って下さい。
イエスは彼に言われた。
水浴した者は足以外は洗う必要がありません。
全身が清いのです。
あなた方は清いのですが、みなが清いわけではありません。
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。
それでみなが清いわけではないと言われたのである。
以上です。
今日はこのところから、
究極の愛としてと題して聖書からお話をいたします。
みなさん、改めておはようございます。
埼玉県新座市に私たちおりますけどね、
予報通り雪が降り、積雪も見られましたけど、
道路も車走れましたし、電車もそんなに遅れることなく、
礼拝に来れる方、みなさん集っておられる。
そんな中で感謝です。
また、国政選挙が今日行われていろいろ言われてますけども、
そんな寒い中ですけども、守られましてですね、
礼拝できることを本当に感謝しております。
さて、今日からヨハネ13章に入ります。
そして先週もお話ししましたように、
ここからイエス様の話す相手は弟子たちだけに限られます。
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それはつまりですね、
今、私たちの教会に勤っている方々は、
みなさんバブテスマも受けてですね、
クリスチャンになられますから、
今の私たちに向けて語られている。
そんなように受け取れると思うんですね。
これを記したとされるヨハネもですね、
そういう意図を持ってこの部分を書き記しているようです。
ですから、専門的なことでいうと時勢とかですね、
いつどんな時かってことが曖昧に語られていて、
触れた人が今自分の言葉として、
イエス様の言葉を聞けるようにという配慮がなされています。
そんな中ですからですね、
今日は三つの点を学びますが、
一番最初はですね、
イエス様がですね、
これから向かう十字架というのが、
敗北ではないということを知っておられたということですね。
最初は自分の時を知り十字架に向かうイエス様のことを考えていきます。
そして二番目はですね、
冒頭にもありますが、
弟子たちへの究極の愛を示す行為が、
今日のいわゆる先続のところに現れておりますし、
十字架にそれは至るんですけども、
その究極の愛ということを示されたイエス様のことを考えていきます。
そして最後はですね、
ペトロがですね、
手も足も頭も洗ってくださいという、
ダラッコのように言ったその答えに対して、
イエス様が、
水浴した者は足以外洗わなくてよいよと言ったところからですね、
生涯続く罪の許しということで、
私たちの日常生活と少し関わりになることに増えていきたいと思います。
では最初ですね、
自分の時を知り十字架へ向かうということを考えていきましょう。
三節をちょっと読めるかで読んでみましょうか。
イエスは父は万物をご自分の手に委ねてくださったこと、
またご自分が神から出て、
神に帰ろうとしていることを知っておられた。
知っておられたということが一つ鍵になるかと思います。
ヨハネナ福音書の特徴いくつかあるの皆さん覚えています?
私が最近よく引用する1章の1節から18節の部分、
あれはどういう部分かというと、
ヨハネナ全体のテーマをまとめた導入部分でしたね。
そこに大切な要素が導入として詰まっている。
実は今日のこの13章の1節から3節も同じようにですね、
大切な要素がギュッと詰まっている。
何のことに関わればというと、
13章から17章まで続くイエス様の弟子たちへのメッセージ。
あるいはそこで起こる出来事に関わる大事なことが3節にギュッと詰まっているわけなんですね。
そこからいくつかのことも取り上げていきます。
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その中の先ほど申し上げましたが、
最後の晩餐は私たちにも語られたメッセージということなんですけれども、
この主題の中からまず最初に見たいのはですね、
例えばですね、ここの13章3節の後半、
ご自分が神から出て神に帰ろうとしていることを知っておられたというところが一つ言えると思うんですね。
これはですね、簡単に言うと、
これからイエス様が十字架にかかってしまう。
それはイエス様がですね、敵の陰謀にはまった犠牲者ではないということを表しています。
十字架イコール敗北ではなくて、栄光だとこれまで繰り返されてきたことがわかります。
なぜか、それはですね、
イエス様はご自分の時が来たことを知っておられたって言ってるんですね。
ヨハネの福音書をこれまで学んできて知っている方はですね、
イエス様を捕らえようとしたという場面が何回か出てきます。神殿で教えるイエス様。
でも捕らえることができなかった、時が来てなかったからな、最低2回は出てましたよね。
その時というのはまさに十字架にかかる時です。
イエス様はそれがまさにご自分の時が今来たということを知っておられたということなので繰り返しますが、
これからイエス様が直面する弟子の裏切り、
そして敵の思惑通りに十字架にかけられるということは、
敗北でもなければ犠牲者でもなくて、まさに神の御心であった。
そして自分がそこに進んでいくんだというイエス様の意思もここで読み取れるわけなんですね。
犠牲者だ、いやいや行くんだじゃなくて、
時、神の御心を知って自ら進んで受難の道を歩んだというイエス様の決意がここからわかるわけですね。
さらにはこのご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられたというところですね。
ここでは十字架が終わりではないんだと。
先週も言いましたが神から使わされてきたというところが大事だったわけですよね、イエス様が。
その神から出てきたイエス様が今度は神のもとにこれから帰る。
つまり十字架復活を経て天に登られていよいよ神としてその御座に着座される。
これは神としての栄光を受ける時が来るとイエス様は知っていたわけです。
ここで大事なことはですね、言い換えると何回も言いますが、
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イエス様は十字架で犠牲、罪の贖いとしては死んだんですけども、
敵の陰謀に負けた犠牲者ではない。
そしてその十字架はですね、神として最高の天での栄光を受ける前に
十字架という恥ずかしみを通してその十字架の栄光も経ていかなければならないということがですね、ここでもわかるわけです。
まことの神としての栄光を得る前に、癒やしい十字架というそのような恥ずかしみとも見える、そのような栄光を得なければいけないということがここでわかるわけですね。
そして自ら進んでいった。
ちょっとあの褒め、あの発車休めで、これねわかるでしょ。
青西奇跡、2回連続で優勝した。
なるほどと思ったんですけども、この人気の大相撲なんですが、昨年の1月から1年6場所ありますよね。
今年の1月まで7場所、7場所中5場所がですね、全部優勝決定戦になったんです。
どの優勝力士もその本割での勝率は12勝3敗だったんですね。
何が言いたいかというと、優勝した力士の取り組みを時に再生して全部の取り組みをね、初日から見るわけじゃないですか。
3回も負けてるんですよ。3回も。
で、それをね、いわゆる今流行りの言葉で言うと、推しの不安が、この自分の推しの力士が負けたところを再生画像とはいえ見るとですね、悲しかったりがっかりするわけです。
でも、もう終わっているわけですから、勝つわけですね。
優勝は決まっているから、がっかりしながらも落ち着いて見ていられる。優勝したと見ていられる。
ちょっとそれと似ている、無理な例えかもしれませんが、それと似ているように、イエス様は十字架というところで敵の敗北になるんじゃないか。
わかんない人がいるような時にですね、弟子にこれから裏切られるってことも書いてありますから、イエス様が負けてしまうんではないか。
十字架は負けなんじゃないかと思いますけど、最初からこれから始まる受難劇というのは、天の平行につながっている。
優勝は決まっている。ビデオを見るようなもんだ。そういう確信をここの箇所から与えるような導入となっているわけですね。
今日いつも通り冒頭の部分では、見ている聖書箇所の聖書的な解説になりましたけど、そんなことを覚えておいてください。
2番目はそれと関係してくるんですが、2番目は究極の愛を示すためにということを見ていきましょう。
戻りますが13章冒頭の一節にこのようなことが書いてあるんですね。私読んでみますね。
さて過越の祭りの前のこと、イエスはこの世を去って地の庭に行くご自分の時が来たことを知っておられた。
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そしてから読んでみましょうか。
そして世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
この最後まで愛されたという言葉に注目していきたいんですね。
13章の一節から3節の冒頭で出てくる大事な要素、17章までに出てくる大事なテーマは愛なんです。アガペエルの愛。
その愛という言葉がどれくらいこの17章までの4章で大事かということは、言葉の頻度によってわかるんですね。
実は直前の1章から12章までは大事な言葉として覚えていると思いますけど、いのちとか光って言葉がたくさん出てきたんです。
大体合計80回くらい出ているんですね。
これからはあんまりこの言葉が出てこなくて、愛という言葉が頻度が多い言葉がとって変わるんですね。
大体4章の中に17回くらいかな。
とにかく愛という言葉がたくさん出てきて、これからのテーマイエス様がなさること、おっしゃることは烈士への愛が根本にあったということがここで見ておれるんです。
その証拠に冒頭の一節の中だけでも2回も愛という言葉、イエスが愛したという言葉が出てくるわけですね。
その上で大事な言葉は、最後まで愛されたという言葉です。13章一節の最後にある。
最後まで愛された。
この最後まで愛されたという言葉は、2つの意味があるとされています。
ちょっと脱線しますが、ヨハネのもう一つの特徴は、1つの言葉や出来事に2つ以上の意味が込められているということがあるんです。
ここの最後という言葉には2つの意味があって、1つ目は時間の経過を表すという最後の時まで弟子たちを愛した。
これは言い換えると、十字架に至ってこの世のいのちを終える時まで、最後の時までイエス様は弟子たちを愛したんだということがここでわかります。
そしてもう一つの最後までという言葉の意味には、程度を表す、極限までという意味なんですね。
たぶん皆さんの新海育成書の脚注にも、一節の脚注のアスタリックスク、星しるしのところにも、極限までと書いてあるじゃないですか。
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13章一節の下の脚注のところに、極限まで、本文では最後までですけど、脚注には極限までという言い方をしていますので、
時間の経過だけではなくて、程度として極限まで、極みまで、これ以上ないほどイエス様は弟子たちを愛したという。
地上の生涯でもそうだけども、こっから先、13章以降ですね、十段に至るまで、十字架に至るまで、最後まで、そして極限まで愛した。
まさに死ぬほど愛する。私ちょっと不謹慎ですけどね。骨まで愛してなんでね。歌がありましたけど。
死ぬほど愛するという言葉がある通り、イエス様の十字架の死、それは弟子に対する、そして私たちに対する、まさに究極の愛の現れですね。
当たり前のように私たちは思いますけども、今日の歌詞からそれが伝わってきます。
実はそのことを表すイエス様自身の言葉がこの後出てきます。
同じ国別説教の中の十五章の十三節に出てくるんですね。
ちょっと読める方読んでみましょうか。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。
No greater love than…というのが出てくるんですけどね。
このようにイエス様の十字架の死というのは弟子たちへの究極の愛の現れであったということがこの御言葉からもわかるわけです。
そして実はイエス様のこの究極の愛はですね、弟子たちの足を洗ったという実際の行為にも現れているんですね。
主よ、あなたが私の足を洗うんですかとペトロがびっくりして言った、ちょっと前後しますけどね。
これギリシャ語の原文で見るとキュリエというのは主、キリエレイソンのキリエというのは主よという意味なんですね。
キュリエ、主よ、スムーというのはあなたは私のというそういう意味なんです。
主よ、そのまま日本語の訳であっているんですけど、
主よ、あなたが私の足を洗うんですかと驚いているんです。
なんで驚いたかというと、実は足を洗うというのは奴隷の仕事です。
しかもおそらくなんですが当時ユダヤ人の奴隷さえしなかった癒やしい行為が主人の足を洗うということなんですね。
一説によるとだから足を洗うという行為は違法人の奴隷にしかさせなかったという説もあります。
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それから今の時代では本当はあってはいけないんですけど、当時の文化として成人男性の奴隷には足を洗わせなかった。
ごめんなさいね。女性とか子供の奴隷だったら足を洗わせてもいいけど、
当時の文化として成人男性がそんな癒やしいことはしていけないという、そういうしきたりがあったわけです。
ですからこの主である、後で出てきますが教師であるイエス様が足を洗ったということにフェテルはびっくりしたんですね。
しかも今日のところで出てきますけれども、イエス様の一教授一等足が細かく書いてありますね。
四節から五節まで夕食の席から立ち上がって、当時は利き腕じゃない左手を下にして横になってですね、
低いアイロン台ぐらいの高さのテーブルに食事を並べて、それで横たわってみんなご飯食べてたんですね。
そこからまず立ち上がった。上着を脱いで手ぬぐいを取って腰にまとったというのはまさに奴隷の装いなんです。
上着を脱いで腰に手ぬぐいを巻く。長い手ぬぐいでですね、そこから余った部分で水を浸して足を洗ったそうなんですね。
しかもですね、普通食事の前に、食事中に足なんか洗わないじゃないですか。
だいたいゲストが来たらそこで洗うんです。当時サンドルだったから。だから食事中にわざわざ足を洗うっていうのはありえないことなんですね。
しかもそれがイエス様が奴隷の装いをして繰り返しますが、最も癒やしい行為である弟子の足を洗うという行為をされたわけです。
そしてもう一つですね、私たち注意深く見ると見えてくる対比があるんですね。先ほど見ましたが、イエス様は十字架の後、天に帰るって言ってたじゃないですか。
それは何ですか。神として最高の栄光をこれから受けるってことじゃないですか。
一方この奴隷として足を洗うっていうのは奴隷の中でも最も癒やしい行為なんです。
ですから最も高いところから最も低い人間であっても最も低いところにイエス様が降りてこられたっていうことがここでコントラスト対比されてるんですね。
そこからイエス様がそのような人間的に癒やしい行為姿をとることによって弟子たちへの究極な愛を態度を持って示されたわけなんですね。
そして簡単に触れますが実はそういう最も癒やしい姿で弟子たちに仕えたというのは最も癒やしい死に方をする十字架の死をも示唆していたんですね。
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そういう二重三重の要素がこのイエス様の先続の行為に現れている。その最も大事な要素が究極の愛を実際の行為をもって弟子たちに触れて示されたということが伝わってきます。
このような難しい言葉で言うとキリストの顕微というんですけどね。
使徒パウロがこのような美しい死を引用あるいは彼が撮影して言われたんですね。
キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、御自分をもなしくして、下辺の姿をとり、人間と同じようになられました。
最後は人としてから読んでみましょうか。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
十字架の死がみじめな死で私たちの究極の愛ということは私たちは知っているつもりかもしれません。
しかしこの奴隷の最も癒やしい行為をしたという姿から、もう一度イエス様の愛、究極の愛の姿、十字架の尊さ、そこに現れている愛の深さということを再確認できればと思います。
この行為において、私たちもその行為に預かるものなので、日々の生活の中でイエス様、私たちに仕えてくださるイエス様に信頼して、イエス様の愛を、救いを素直に受けたい、素直に助けてくださいと言い合えるお互いやりたいと思います。
3番目、そこから続きますが、生涯続く罪の許しということですね。
そしてペトロがですね、足を洗わなければあなたと私に何の関わりもないと言われて、こう答えたんですね。
私の頭も足も手も足だけじゃなくて洗ってください。それに対してこう答えました。読んでみましょうか。
イエスは彼に言われた。
水浴した者は足以外は洗う必要がありません。全身が清いのです。あなた方は清いのですが、御名が清いわけではありません。
アメリカにちょっと行ったことがあるんですね、知り合いを訪ねて。
大谷翔平がいるロサンゼルスの辺り、西海岸ですから海が近いんですね。
友人の家に泊まってですね、人の家に夕食に呼ばれると。
アメリカ人の人はオシャレだからシャワー浴びていくんですよ、行く前に。
なぜか髪の毛乾かさないで濡れたままで串で溶かしてね、行くんですけどね。
アメリカだからカジュアルにビーチサンダルで行くわけですね。
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浜辺ですから歩いて行くと足に砂がつくじゃないですか。
すると人の家に着いて、日本の文化に馴染んでいるかどうかですね、
中国系のアメリカ人なんかを見てですね、
割と普通のアメリカ人と違って玄関で靴を脱ぐわけです。
その時もですね、ビーチサンダル脱いで家に上がろうとするわけですよね。
足に砂がつくじゃないですか。
どうします?
じゃあ、もう一回シャワー入れてください。
シャワーに行かないじゃないですか。
玄関で雑巾だけもらって拭くみたいな。
そんなことをイエスさんもここで言ってるんですけども、
これ当時の習慣でゲストは家に来たら足だけ洗う。
清めとして足だけ清めるということがあったんですね。
それはそういうとしまして、実はですね、
イエス様が足を洗ったこの行為は、
十字架による罪の許しを示しているんです。
先ほども言いましたけども、
ヨハネの福音書の特徴の一つに、
目に見えない神様の祝福や恵みを、
私たちに馴染む深いものや出来事に例えるということがあるんですね。
いろんなヨハネの福音書のもう一つの特徴がここにあります。
例えばどんなこともよくありますか。
生産意識の由来のあったパンを食べた。
パンを与えることによって、私の肉を食べ、
私の血を飲む者は永遠のいのちを持つといって、
この永遠のいのちを持つということを、
イエス様を信じて永遠のいのちを持つということを、
パンを食べることに例えて教えていますね。
あるいはサマリアの女性との会話の中で、
あの時のテーマは何ですか。
水ですよね。
喉の渇きと霊の渇きを、この生ける水を例えて話しています。
注意深くイエス様の奇跡を見ると、
全部そういう目に見えない真理を、
私たちが分かる出来事やものを通して教えるというのがあるんです。
実はここでもイエス様が足を洗ったという行為は、
十字架による罪の許しを指し示しているわけなんですね。
その中で、私があなたの足を洗わなければ、
あなたは私と関係のないことになりますと、
ペトロが拒否した時に言った言葉、
それにこんな意味があるんですね。
十字架による贖いを受け入れなければ、
罪の許しにも永遠のいのちにも預かれませんよということを言っています。
これは実はペトロの傲慢でもあるんですね。
ある解説者が言うには、私は十分だからということと、
イエス様に洗わないでくださいといのち令しているんです。
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そして2回目は、頭も手も洗ってくださいと2回いのち令しているんです。
そういう意味で、ペトロの傲慢さの罪ということが、
この出来事に見え隠れしています。
でも、このイエス様の専属の行為を受け入れるということは、
何かも言いますが、十字架による贖いを受け入れる。
それによって、罪の許しと永遠のいのちを受け入れることになるんだ、
ということを示唆しているわけなんです。
そしてそのことが、全身が清い、追慮したものは全身が清いということが、
イエス様を信じれば、罪の許しと贖いを受けて、
永遠のいのちを受けることができるということと関係しているわけです。
皆さんお探しになったと思いますけれども、
私たちはイエス様を救いの人質で信じますと、
一回だけの、本来は決断をすれば、
罪許される、永遠のいのちを得る、
そういう立場に置かれているわけなんですね。
しかし、よくパウロが憎くと言っていますが、
罪の性質がそれでも天国に行くまでというか、
ミクリに行くまで残ってしまうので、
神に喜ばれないことを考えたり、
そういう行為に及んだりしてしまう。
広く言うと、罪を犯してしまうことがあるわけですよね。
その時に、イエス様が言うところの、
足を洗っていく。
別に悪い世界から足を洗うのではなくて、
足を洗うということは、
日々の罪に、神様によって傷がされた時に、
足を洗いなさいという、そういう意味があるんです。
それは、たとえ私たちが小さな、
イエス様の弟子となった後、
罪を犯したとしても、
永遠のいのちは失われないし、
神の前で、立場としては、
清いものであり、神のことをされている、
という立場的なものと、
約束的に完全であるということが、
水浴したもの全身の清い。
日々の罪に気がついた時に、どうするか。
それは、サンダルで外出した時に、
汚れた足を洗うようにすればいいわけですね。
それは、その罪を神様に、イエス様に告白して、
許しを願う許しを確認するということなんですね。
ここに書いてありましたね。
水浴したものの足以外は洗う必要がありません。
全身の清いのですの意味は、
イエス様の十字架を受け入れ、
罪が許され、永遠のいのちを得た人。
そして一度だけ、
イエスを受け入れたと決断すれば、
永遠のいのちを得る、イエスの弟子となるということですね。
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そして、その葦の汚れに気がついたら、
日々の生活の中で、
神様に聖書を通して、
罪を示されたらどうするか。
実は、そのことを、
同じヨハネが教会にあてた手紙の中で言っています。
よく知られた約束、
すすめの言葉ですね。
第一ヨハネの手紙、一章九節です。
じゃあ読んでみましょうか。
もし私たちが、自分の罪を告白するなら、
神は真実で正しい方ですから、
その罪を許し、
私たちを全ての不義から清めて下さいます。
これはですね、
別の言い方をすれば、
私たちの感情とかですね、
良心の咎めを解消する、
感情の問題や、
良心の清めといった感覚的な問題とも言えるかもしれません。
またこのように、
祈りの中でしょうけども、
イエス様に罪を告白して、
神に罪を告白して、
イエス様の十字架によって、
あがないによって許されているということを確認する。
それはその都度ですね、
神様の愛をですね、確認したり実感する。
そのような機会とも言えるかもしれません。
私たちはですね、
そのような責感や罪悪感からですね、
解放されて、
良い行いに歩むようにされていくわけですね。
そのように祈りの中で罪を告白しながら、
イエス様の十字架を見上げてですね、
イエス様の弟子として歩んでいく。
そのようなお互いであり、
教会でありたいと思うわけです。
お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様、あなたが弟子たちに対して、
私たちに対して究極の愛を示して下さいました。
どうぞご聖霊の導きによって、
そのイエス様の愛の極みを私たちが知ることができるように、
どうか導いて下さい。
また私たちが自分の罪に、
あなたによって気付かされるとき、
どうぞあなたの御前に、
祈りにおいてその罪を言い表し、
あなたの許しと清めを確認して歩むことができるように、
どうか導いて下さい。
そのようなことを通して、
あなたの聖なる光の中を、
またあなたの愛の地を歩んでいく、
お互いであり、教会でありますように、
どうか導いて下さい。
このあなたが示して下さった、
愛と許しの導きを感謝して、
私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは、御言葉イエス様にお答えして、
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一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。