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2018-04-01 34:54

2018/04/01:信仰による希望と栄光


2018/04/01 聖日礼拝
尹善鎬牧師
マルコの福音書 16:1~8
00:00
それでは周りの方とですね、イースターおめでとうございますと、挨拶を交わしませんか。
よくいらっしゃいました。
感謝します。一言お祈りします。
今も生きておられ、私たちと、この全ての非造物をすべおさめられる天皇、父なる神様、
このイースター復活をお迎えし、
私たちが主の教会に集まり、共にイースキリストの復活をお祝いし、感謝し、喜びの礼拝を捧げられることを、主よ感謝いたします。
この礼拝が、神の心にかなった礼拝となりますように、
神の栄光があらわされ、神のみにあがめられる礼拝となりますように、神様、祝してください。
私たちは、神の御前にあって、御子どもをいただき、本当に真理を見つけ、命に生きるものとしてください。
どうか、一人一人を豊かに祝してください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、先ほど朗読していただきました、マルコノン君遺書、十六章の一節から八節の御言葉を中心にして、
復活による希望と栄光、復活による希望と栄光という題にして、御言葉のおめぐみを共にしたいと思います。
今日ですね、教会の方々、あるいはその家族の方々、久しぶりの兄弟姉妹の方々、救助者の方々がおいでになりまして、本当に心から感謝いたします。
願わくは、今日の礼拝を通して、皆さんが、このイエス・キリストによる、復活による希望と栄光を見つけていただいて、
そしてそれを握りしめてですね、自分のものにしていただいて、この回路からお帰りになられたらいいなと、そういうふうに切に願っております。
03:08
キリスト教信仰において、最も大事な二つの真理、キーワードを言うならば、それは十字架と復活だと考えます。
唯一の神様、その一人ご、イエス・キリストが、人間となられて、おおよそ二千年前、エルサレムの地にお生まれになりました。
そして、すべての人々の、人間の罪、恥、呪い、苦しみ、死の恐れ、すべてを背負ってくださって、あの十字架に釘付けられて、死なれて、
そして、よみがえられて、そのすべての呪い、恐怖、死、罪のすべての代価から、私たちをあがなってくださいました。
代価を代わりに支払ってくださいました。
実は私たちが支払うべき代価でした。
人に何か害をしたり、人のものを壊したりしたら、それを弁証しなければならないです。
聖書は、罪の報酬は死であると、はっきりと宣言しています。
罪の代価は死である、その死を支払わないと、代価は済まないということであります。
ですから、イエス・キリストの復活とその真理を信じる者は永遠の命に預かり、そうでない者は滅ぼされ、永遠の命から除外されるということであります。
まず、今日の聖書のところからストーリーをお話をしたいと思います。
イエス様は無実でした。何の罪もない、完全に聖なる、清いお方でした。
しかし、その何の罪もない神なるイエス様が、極度の苦しみを受けられ、罵られ、
06:05
聖書を見たら、つばきを掛けられて、殴られて、持ち打たれて、極度の苦しみの中におられました。
何より、先ほど共々兄弟が祈ってくださいましたように、
罪人である私たちが受けるべき神様からの拒絶を代わりに受けてくださいました。
そして十字架に掛けられたまま死なれました。
そして、お墓に埋葬されました。
これが簡単なイエス様の死、十字架のストーリーですけれども、
先ほど申しましたように、聖書は罪の報酬は死である、罪の代価は死である。
だから、聖なる、儀なる神様は、罪を裁くお方であります。
見ないふりをしないお方です。
ところが、裁くだけではなく、同時に愛の神様であって、完全な愛の神様でありますから、私たちを愛することにしました。
しかし、罪は裁かなければならない。
そのまるで矛盾しているようなことを上手にするために、罪のないイエス様が私たちの代わりに死んでくださりました。
そして、三日目に、墓からよみがえられました。
聖書はこのように語っています。
私がお読みいたします聖書をお持ちの方は、左手も結構だと思います。
ローマ人への手紙五書八説でございます。
お持ちのない方は、お引きになってください。
ローマ人への手紙五書八説です。
私がお読みいたします。
ローマ書五書八説。
しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する御自身の愛を明らかにしておられます。
皆さん、私たちが皆罪人であった時です。
他の言葉によりますと、不経験なものでした。
神の敵でした。
皆さんどうでしょう。
自分に悪いことをしてくれたその人をですね。
09:00
もう最初から愛することは、許すことは、憐れることは、人間には到底なかなかできないことではないでしょうか。
ところが、罪人であった私たち、敵であった私たち、一緒にいられない私たちのために、代わりに死んでくださった。
それは、愛を明らかにするため、愛を示すため、私があなたを愛してますよ、死ぬほど愛してますよ、という神のメッセージであります。
そのためにイエス様は死なれました。
そしてイエス様は死なれた三日目に、三日後に、この日曜日の朝、よみがえられたんですね。
普段イエス様によくついていた女の人たちが香油を持ってですね、イエス様のお墓に行って、そのイエス様に香油を塗るために、
日曜日の朝、皆さんが教会に向かうように、マリアたちはイエス様のお墓に向かっていました。
ところが、イスラエルのお墓はですね、こういう、何と言うんですかね、ちょっとした丘みたいなところに、横に穴をね、大きい穴をあけて、
小さい穴もあったり、大きい穴もありますけど、穴をあけてですね、そこに、このね、体をそこに置くわけなんですよね。
だからその前には、大きな丸い、うすみたいな石で、それを放置るわけなんですね。
だから、女性何人でもそれをね、転がすことはできないわけなんです。
だから今日の御言葉を見るとですね、そのマリアたちが、お墓に行きながら、重たい入口の石をどうするんだろう、転がしてくれる人がいるかしら、
まあそういう風にね、話し合いながら向かいました。
ところが、四節、目を上げてみると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでに転がしてありました。
びっくりしたことでしょう、皆さん。ねえ、上げ放しなんですよ。
上げ放しで、なんと、あの大きな石をね、普通の男性だったら、何人もいないとそれを転がすことができないのに、誰がそれを転がしてやったんだろうと、不思議に思ったことなんですよね。
それでですね、たぶんおそろおそろ近づいて行ってみたら、五節、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えた。
彼女たちは驚いた。びっくりしたわけなんですよね。墓の中に白い衣を着た青年がここにいた。
12:01
彼は天使なんですよね。そして彼女たちはその天使から神の見告げを聞きました。六節。聖書をお持ちの方は一緒に読みませんか。六節。
一緒に、三杯。青年は言った。驚いてはいけません。あなた方は十字架につけられたナザレー人イエスを探しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められたところです。アーメン。
びっくりしました。しかもあのね、その天使青年がイエス様はここにおられない。そしたら盗まれただろうか。そうではない。イエス様はよみがえられた。そしてここにいないのです。
お墓は死んだ者がいる場所である。しかしイエス様はよみがえられたからこの墓にはこれ以上いないということでありました。そのマリアたちはイエス様はよみがえられました。あの方はよみがえられましたと。
よきお知らせをね、その時聞いたのであれば、私たちは今日この明太に教会においてイエスキリストは私たちを生かすために復活の希望と喜びと栄光を与えるために死と闇と絶望を打ち勝ってよみがえられましたという。
よきお知らせを聞いていただきたい。そして信じていただきたいと説に描いております。
イギリスにリトルストーンという人とギルバート・ウエスコという本当に強い虫忍者がいました。
彼らはその虫忍者クラブの会員でした。彼らそのクラブの人々はね、よく調査して研究して調べて、神はいない、それを証明し続けてきたそのクラブのメンバーでした。
そしてそのクラブの中でこの二人に課題が与えられました。そのお二人にイエスキリストは復活したということは偽りであること、それはもうそもそもそんなことがないんだと、ただの神話に過ぎないんだと、それを証明してくれと課題が与えられました。
そしてこのリトルさんとギルバートさんが何年もかけていろんな古代の文献を収集して調べて調べて、研究して、研究して、そして数年後、そのクラブの中でこの二人が結果を発表することになりました。
15:19
その場でこのリトルストーンとギルバート、ウエストという人はその場でこういうふうに発表しました。
私たち二人はこの何年間イエスキリストが復活したというキリスト教徒のその主張は偽りであることを証明するために様々な文献や文章を探し続けて調査して調べてきました。
その結果を申します。私たち二人はこれ以上無神論者ではありません。復活が偽りであることを主張するために数年間研究して調査してきましたけれども、研究をすればするほど、調べれば調べるほど、イエスという人は本当の神であって本当に復活したことを信じるようになります。
そして私たちは罪人であることを分かりました。そしてイエスキリストを受け入れるようになりましたと、あの無神論者のクラブで発表したのです。そこにいた多くの無神論者たちはびっくりしました。
皆さん、聖書を読めば読むほど、キリスト教を知れば知るほど、イエスキリスト復活を信じざるを得ない。そしてキリスト教が真の宗教であり真に語っていることを皆が信じるようになるのです。
ところがその事実を聞いても知っても信じない人がもしもいるならば、その人々の終わりは聖書は滅びであると、そこから間抜かれることはできないと聖書は語っています。
まるで自分の手で目を隠して対応はない対応はないということと同じであり。聖書にはこういう風に語っています。私がお読みいたします。ローマ人への手紙、十書、九節と十節です。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを使者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、信じるなら、あなたは救われるからです。
18:09
人は心に信じて、義と認められ、口で告白して救われるのです。と、明白です。イエス、キリストの復活を信じる者は救われ、イエス様と同じくよみがえります。
もう一箇所、ここは一緒に開きたいと思いますけれども、新約聖書の中でヘブロビテの手紙という聖書があります。ヘブロビテの手紙、二書、十五節。聖書をお持ちの方はお開きください。ヘブロビテの手紙、二書、十五節です。
人間の最も根本的な悩み、恐れがここに書かれています。ヘブロビテの手紙、二書、十五節。聖書をお持ちの方はご一緒にお読みしましょう。
一生死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
イエス様が十字架で死なれて三日目によみがえられたことは、我々人間は一生死の恐怖につながれている。しかしその恐怖から皆を解放してくださるためにイエス様が十字架で死んでくださってよみがえられました。それが真理であります。
だからイエスキリストの十字架と復活を信じる者には、神の頼ものとして、プレゼントとして、本当の希望と本当の栄光が与えられるんですよ。何が本当の希望なんでしょうか。先週買った宝くじが当たることなんでしょうか。そうではない。
死をこれ以上恐れない。復活を信じて、そしてそれを待ち望むことこそ本当の希望ではないでしょうか。
なぜなら、大金持ちであろうが誰であろうが、皆死ぬからなんです。病気が癒されても皆死ぬからです。九十歳二百歳生きていても皆死ぬからです。
皆さん、人間が持っている最も大きな恐怖は、さっきの御言葉のように死ということであります。ところが皆さん考えていただきましょう。人間が死を恐れる恐怖にする理由は何でしょうか。
21:09
自分の命がなくなるからでしょうか。あるいは生きているうちにおいしいものを食べていいところに行って、そういう人生の楽しみをこれ以上味わえなくなるからなんでしょうか。
いや、そうではない。人間が死を恐れる最も根本的な、自分も気づいていようがいないが最も根本的な恐れの理由は、本来的に死の後に侵犯があって滅びがあることを人間は本能的に本来的に知っているからなんです。
しかし死は終わりではありません。お別れでもありません。むしろ死は新しいスタート、復活をつけ知らせるスタインであって、完全な希望に至るそのプロセスの旅のスタートであること。それがキリスト教の希望であります。それが福音の真理であります。
だからこれを知っている人は、信じている人は、よみがえりの希望を持っている人なんです。だから死を恐れません。
昔の人ですけれども、インド人の中でサンダーシングという人がいました。1880年代から1900年代頃インドでいて、最も徹底的なヒンズ教となったんです。ところが彼がクリシャになりました。
あのヒンズ教、インドのヒンズ教を捨ててしまいました。そしてそのクリシャになったサンダーシングがあるときイギリスに訪問をしました。大学で講演があって講演をしました。その後クリシャンである同じクリシャンの教授がサンダーシングに聞きました。
あなたはね、家族も後にして、インド人として長い間信じてきた、あなたの国の国教のヒンズ教をなんで捨てて、キリスト教徒になったんでしょうか。その理由はなんでしょうかと教授が聞きました。
そしたらそのサンダーシングはこう答えました。ぜひ聞いていただきたい。その理由は簡単です。イエス様だけが唯一に死なれて蘇られた、蘇られた方である、そして今も生きておられる方だから、私はヒンズ教を捨てて、キリスト教を信じるようになりました。
皆さん、イエス様の蘇りがなぜ私たちに希望と喜びをもたらしてくれるんでしょうか。それは偽物を捨てて本物のものを持てるからなんです。持つようになるからです。復活を知る前には。
24:17
イエス、キリストを救い討ちとして信じて救われる前には、実は心の中に闇がある、不安がある、狂騒や傷や憎しみや恐怖に実はその中で過ごしているに違いないと思います。
そしてそれを私たちは自分の都合のいいように考えるんです。それは人間だから当然でしょう。仕方がないのよ。自分で自分をそういうふうに誤魔化して慰めようとして生きているんです、私たち人間は。
みんなこういうふうに生きるんだから、というふうに考えたいんです。しかし、あのさっきの無心論者たちのように、いや、遠くまで行かなくていい。ここにいる口さんたちが、イエス、キリストに出会って真理を分かった後、永遠の命をいただいた後、
私たちはすべての闇や不安や狂騒や傷や憎しみから、もう自由にフリーになるのです。自由にしてくださる。今まで握りしめていたすべては偽物であると、それを捨てるんです。そして本物の命を、希望を握りしめるんです。これがキリスト教であります。
今まで握りしめていて大事にしていた世のものは偽物なんだと、それを目が開かれて分かるようになるのです。そしてイエス様に出会えさえすれば、本当の幸せな人生が、まことの神のうちに生きているようになり、その方を礼拝し、神を愛して隣人を愛するこの人生こそ本物の人生であることを分かったから、
復活の進行は我々に希望をもたらしてくれるのです。二番目として、復活がなぜ希望をもたらしてくれるのでしょうか。
それは、この地上の物に、物質に執着せずに、そこから解放されるからです。皆さん、人間はこの世のものにどれだけ愛着・執着を持っているのでしょうか。
皆さんも、何かにとても愛着して、何かを持っているものがあるかもしれません。目に見えない何かがあります。これは絶対に譲れない。あげられない。そういうものがあるかもしれません。
27:17
皆さんも信じる前には、復活を知る前には、お金に執着していたかもしれません。あるいは、自分の仕事に執着していたかもしれません。あるいは、家族に執着していたかもしれません。
あるいは、名誉に、あるいは、成功に、あるいは、もう平凡な日々に執着していたかもしれません。あるいは、身体の満足に、あるいは、家、車、服、食べ物、いろんなものに、人はどれだけ執着しているのでしょうか。
その結果、何が起こるのでしょうか、皆さん。考えてみてください。心の中に病気が起こる、不安が起こる、心配になる、競争する、争う、傷つける、傷つけられる。自分が成功するためには、他の人を潰さなくてはならないんですよ。自分が昇進するためには、他の人が落ちなければならないんです。
だから、不安がある、ストレスがある。これが世の中の人生なんですよ、皆さん。このような人生の最後には何が残るのでしょうか。何がもたらされると思いますか、皆さん。心の病気であって、精神は荒廃になるしか。
しかし、よみがえられた全ての呪い、死、恐怖に打ち勝って、よみがえられたイエスキリストを信じて、その方にお会いさえすれば、この地上のものは本物ではない。この地上の家は本当の家ではない。
あの天国に私の本当のふるさとがある。そこが本当のふるさとである。そこに私の住まいがある。そして、そこに帰って永遠に生きることを知っていて、信じているから、この地上の物質に対する執着が、愛着がなくなるのです。なくなるのです。聖書を語っています。
私たちの市民権は天にある。私たちの本当のふるさとは天国であると聖書は語る。
3番目、復活が希望である理由は、イエス様を救いの地として信じる私たちも、イエス様のように死からよみがえることを信じるからです。まだ見ていないから、まだ経験していないから、信じがたいんですね。いや、信じませんと考えておられる方がおられるかもしれない。
30:22
イエス様は十字架に降りつけられて、死なれて、3日目によみがえられました。このように復活の初穂になったイエス様は、それは私たちもイエス・キリストを信じる者は、みなよみがえることを証拠として、お手本として見せてくださったのです。
1箇所、聖書を開けたいと思います。ユファネノ君書11章25節26節です。聖書をお持ちの方は開いていただけでしょうか。ユファネノ君書第11章25節26節です。聖書をお持ちの方はご一緒にお見せしたいと思います。お持ちの方はそのまま聞いていてください。
ユファネノ君書11章25節26節、ご一緒に。
イエスは言われた。私はよみがえりです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。アーメン。
イエス様は宣言しました。私はよみがえりです。私は信じる者は、死んでも生きるのです。そして、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。つまり、よみがえりますよ。イエス様はよみがえりました。復活の初王となられました。
同じく、全く同じく、私たちもイエスを信じる私たちも皆、よみがえります。だから、希望がある。だから、栄光があるのです。希望栄光がある程度じゃなくて、その希望に満ちているのです。いかがでしょうか。
最後に一つお話したいと思います。イギリスのマイヤーという牧先生がおられますけれども、その先生が天にされる何日か前に、親友のピンドリンという先生に手紙を書きました。
33:00
その中にこういう内容がありました。ピンドリン、私の命が幾日しか残っていないことを、今、医師から聞きました。
多分、この手紙があなたのもとに届く前に、私は天国に行っているかもしれません。だから、お返事は送らなくていいんですよ。復活の新しい朝、天国でお会いしましょう、という手紙でした。
皆さん、イエス・キリストはよみがえられました。聖書は、神は天と地をお作りになったと宣言しているよう如く、イエス・キリストはよみがえられたと宣言しています。
イエス・キリスト様の復活は、それを信じる者は、永遠に朽ちることなく、永遠に罪を犯すことなく、永遠に苦労することなく、呪われることなく、恐怖に覆われることなく、永遠に幸せに、永遠に神だけを礼拝し、主にあって、愛のうちに生きることを、イエス・キリスト様がこのイースターの朝、よみがえられて、
私たちにお見せして下さいました。どうか、この明太の教会のイースター礼拝にお出になったお一人お一人、皆さん方が、この復活の信仰を信じていただき、あことの幸せを、人生を味わっていただきたいと切にお祈り申し上げます。イエス・キリストはよみがえられました。お祈りします。
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