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それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、今朝もまた私たちをあなたの御前へと招いてくださり、
生ける主が語られるあなた御自身の御言葉に聞かせていただける災害を心から感謝を致します。
あなたが私たちへの限りない愛を示してくださり、
あなたのその御子の十字架のその流された血をにより、
雪のように白くなると賛美をしましたが、
あなたのその父親が私たちの罪を完全に許し、
清め続けてくださり、
それだけではなく三日目に甦えられた主の命、
永遠の命を私たちに与え、
永遠なる主と結びつき、
切り離されないそのような愛みへと私たちを招き入れてくださったことを感謝を致します。
十分な喜びが、祝福がそこにあることを覚えて、
神のことされているその歩みの幸いを心から感謝を致します。
神様どうか、
今朝も私たちは本当にあなたへと焦点を当てて歩んでいきたいと願っています。
主を仰がしてください。
あなたの御言葉に聞かせてください。
心を開き、
しもべや聞きます主をお語りくださいと、
あなたに聞くことができますように帰りみてください。
特に神様、ここ数日、中学受験の中で一生懸命それに取り組んだ中学生たちがいます。
今日も試験を受けている方もいらっしゃいます。
神様どうかお一人一人のうちに、あなたが道からお注いでください。
そしてまた開かれた道こそ、あなたが開かれた最善の道であることを覚えることができますようにお導きください。
お願いいたします。
そしてまた本当に今朝もニュースを見ながら、神様、世界の戦争のことを覚えます。
震災のことを覚えます。
多くの方々が痛みの中にありますが、主をどうかお一人一人のその命にあなたが寄り添ってください。
異性者たちの本当に考えをあなたが本当にさばき導いてください。
そして本当に世界に平和が築かれますようにお導きください。
地域の小さなところで平和のために使えている本当に主の器たちを、
そしてまた多くの本当に支えとなろうとしている人たちの心をあなたが持ち、その手の技を支えてください。
お願いいたします。
あなたへと期待をいたします。
特に施設でもまたご家庭でも礼拝を守っておられる方がいらっしゃることを覚えますから、
その一人一人のうちにも主が届いてくださり、慰めを与えてください。
主がこれからの時を導いてくださいますように、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
自分が困っているとき、
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自分のその重荷を誰かに担ってもらったり、
もしくは誰かのその重荷を共に担うことによって、
仲良くなった、関係が深くなったという経験は終わりでしょうか。
余談かもしれませんが、私は小学生の頃、給食で一つだけどうしても食べれないものがあったんです。
それは魚の頭でした。
若さぎの唐揚げって小学生の給食で出てくるんです。
あれも小さい、このぐらいの小魚なんですけれども、
頭がついて揚げられているんです。
それが出てくると私はいつも困って、
こっそり袋に入れて持ち帰っていたんですね。
ただ、あるとき先生に見つかって怒られてしまいまして、
カド君だけそれを食べ終わるまで昼休みに遊びに行ってはいけませんと言われまして、
私は昼休みずっとその若さぎとにらめっこをしながら過ごしたことがありました。
友達が月々と遊びに行くんですけれども、
ありがたいことにそのとき3人の友達が私の周りに来てくれて励ましてくれました。
鼻つまんで目閉じて食べてみんやとか、
もう死んでいないから何も怖ないわとかいろんなことを言って、
20分間の昼休みを時間いっぱいかけて付き合ってくれたんですね。
彼らのおかげで私は3匹の若さぎを食べきることができました。
友達は昼休みを犠牲にしてまで私に付き合ってくれたのです。
それのときにすごく私にとっては親近感が、彼らに対するものが深くなりました。
仲のいい友達でしたけれども、
なんかこいつらの友情は本物なんやなっていうことを思って、
すごく嬉しくなったことを覚えています。
何が言いたいかというとですね、
自分が困っているときそこにいて自分の重荷を分かち合ってくれた人、
支えあえて、支えてくれた人、支えあえた人というのは本当にありがたい存在です。
そしてそういう重荷をある種分かち合う経験こそが、
その人とのつながりを深くする、ある種豊かなものにするということがあるのではないでしょうか。
私たちは自分が重荷を抱えることというのは何か悪いことのばかりに思うわけです。
こんなことがあった、こういうことがあった、もうだめだ、だめだ。
でも必ずしも悪いことばかりではないのだと思います。
私たちの重荷は誰かと分かち合われるときに、そして共に担い合われるときに、
その人とのつながりであったり、その人との交わりというものを深く、より豊かにするものである。
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弱さということとも一緒だと思います。
人の弱さというのは悪いことばかりではないんです。
弱さがあるから私たちはつながり合うことができるとも言えます。
何よりも聖書が語らんとしているのは、
神様は私たちが重荷を負うときに、それを分かち合い担いたいと願われる神であるということです。
重荷を私たちがもしも神様に分かち合うときに、重荷と共に主がになってくださり、
そしてそれはおそらく神様と私の関係というところにおいても、
深くそして豊かにする、そのような要因になるのではないか、そう思うのです。
そういうことを今朝の歌唱、この今朝の前後を見てもそうですけれども、
そういうことが語られていると思うんですね。
少しだけこの聖書の歌詞に入っていきたいと思いますが、
私たちは先週、ヨルダン川で洗礼を授けられたイエス様のお姿というものを見ました。
洗礼の中でまさに鳩のような姿をした精霊様がイエス様に下ってきて、
あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶという御声を聞いたわけです。
イエス様はそこで、父なる神様は私のことを子、子供だ、私の子供だと呼んでくださり、
私を愛すると言ってくださり、あなたを喜んでいると言ってくださるお方だ、
そうなんだということをイエス様は深く自覚なさったのだと思います。
このような自覚は、神の子とされた私たち一人一人が持っていいものなんですよ、
ということをお話をさせていただきました。その通りだと思います。
そして公に活動し始めたイエス様のお働きがその後書かれていきますけれども、
本当に目を見張るようなものばかりでした。
イエス様は流れで語った後、カペナウムというガリレア広範の町に行かれました。
そこでは汚れた悪霊を言葉で叱りつけて追い出されました。4章あたりに書いてあります。
イエス様のもとに様々な病で苦しむ人たち、そのような人々に対してイエス様は、
当時の病というのは汚れなので、触れたら汚れるんですよ。
でも聖書はイエスは手を触れて彼らを癒されたと書いてある。
汚れにあえて手を触れて一番痛む、一番恥ずかしいところに、
主は手を触れて癒してくださったということが書いてあります。
そして5章に入っていきますと有名な漁師志門、後のペテロですけれども、
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ペテロの船に乗り魚が一匹も獲れなかった湖に、漁に出かけて行きなさい。
熟練した漁師がここでは魚は獲れないと言っていたのに、
そのようにイエス様が行って網を下ろしたら、
2艘の船が沈まんばかりの大量が与えられたということが書いてあります。
そして5章の12節からは、当時まさに不治の病と考えられていたサラート、
これは雷病と昔訳されていました。これ雷病とは違います。雷病じゃないんです。
でもこのサラートという、この肌の病気が癒されました。
まさに目まぐるしい活躍をイエス様はなさっていかれたわけです。
私たちはこのようなイエス様を見るときに、さすが救い主だなと、
王であり救い主であるお方だからこういうことができるんだなと思うわけですけれども、
今朝の17節を見ていただきたいのです。5章の17節。
ある日のこと、イエスが教えておられると、
パリサイ人たちと立法の教師たちがそこに座っていた。
彼らはガリレーとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。
イエスは主の御力によって病気を治しておられたと書いてあります。
主の御力によってと。
この前半を見ますと、イエス様のさまざまな目まぐるしいお働きを見て、
パリサイ人や立法の教師たち、ガリレーやユダヤというのは、
その当時の北と南の地方のことを指しますが、
エルサレムというのは当時神様が住んでいると思われていた宗教の中心です。
そこからも人がやってきた。
地方の方で何か大きな働きをしている人がいるんだな、
そこで本部から何か人がやってきたということです。
そういう人まで見てきた。
そのところでイエス様は主の御力によって病気を治しておられたとあります。
イエス様は主の御力によって病気を治しておられた。
これは言い換えるならば、
イエス様の目まぐるしい御活躍は、
父なる神様の御力によるものだったということが書かれているわけです。
イエス様は神様の子供です。
しかし私たちは部下の福音書を見てきて知っていますが、
同時にイエス様は人間、人の子なのです。
あの会場桶に大村になられた姿は、
まさに人間の弱さの極みにまで下られた救い主の姿ですね。
言い換えればイエス様は私たちと同じになられたのです。
同じようになられた。
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もしも私たちの前に急に穢れた悪霊が現れたら、
不治の病の人が救いを求めてきたら、
私たちはどう思うでしょうか。
きっと焦るのではないでしょうか。
抱えきれない、そんな問題をこっちに持ち込まれても困ると、
私たちは思うのではないでしょうか。
いや、そんな人が来るわけでもなく、
そういう問題が私たち自身に襲いかかってくるというときに、
私たちは焦り、戸惑い、抱えきれないと思います。
イエス様ももしかしたらそうだったのかもしれないと私は思うんです。
だからこそ、4章の42節というところにありますけれども、
イエス様は朝になってイエスは寂しいところに出て行かれたと書かれてある。
寂しいところというのは、人のいないところ、いわば神がおられるところです。
神ご自身との交わりを常に持っておられた。
イエス様は抱えきれない重荷を毎朝寂しいところへ行き、
父なる神様に分かち合っていたのではないでしょうか。
そして目の前のことには常に主の御力によってそのことを取り組んでおられた。
しかしそのような父なる神様に分かち合い、
また祈り主の御力により頼みながら、主を助けてくださいと言いながら、
そのことを行っていく、そのような歩みの中にこそ、
何かこの父なる神様と子なるイエス様の交わりの深まり、
交わりの豊かさというものがあるような、あったのではないかと思うのです。
今日の箇所を見ていただくならば、イエス様の言葉には力がある。
そのようなことが、これは今日の箇所に限らず前からありますが、
この権威あるイエスの言葉は何なのかということをいろんな人が言います。
今朝読んでいただいた箇所でも24節に、
人の子が地上で罪を許す権威を持っていることをあなた方が知るためにと語られます。
聖書は丁寧です。ちゃんとパリサイ人たちが言っているんですね、21節に。
神への冒涜を口にするこの人は一体何者だ。
神を一人の他に誰が罪を許すことができるのだろうか。まさにその通りです。
罪を許すことのできる権威、王としての権威というのは、
本来天におられる神様しか持っていません。
でもイエスマーが語られたのは、天におられて神が天において権威を行使するように、
人の子である私はこの地上において神の権威を行使することができる、
そのことを言っているわけです。
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それは言い換えるならば、私の言葉の背後の権威は天の父の神の権威であり、
それと私は切り離しがたく同じなんだということを言っているわけです。
そのような言葉によって、中部で苦しむ人を癒されます。
言葉に力があるのは天におられる父なる神様の権威が、
人の子イエス様を通して地上で表されているからですね。
ここでパリ裁判や立法学者の人たちは、増やしがあるわけですけれども、
ここで彼らが知らなければならなかったのは、
イエス様ってすごいなということだけではないのです。
これ17節にエルサレムから人がやってきたということが結構大事なんですよ。
当時神がここにいると思われていたエルサレムからやってきた人たちが目の当たりにしたのは、
ガリダヤの辺境の地のイエスというお方にこそ共に神がおられるということを知らされたんです。
そこに生ける神の働きがあった。
唯一の生ける神様、父なる神様と共に歩む神の御子が、
ここにおられたんだということを彼らは知らされた。
さて、私たちが今朝の箇所で少し考えたいのは、
神の子は父なる神と共に歩む。
もしもそう言えるのであれば、
私たちは神の子とされているお互いであります。
私たちもまたこのイエス様を、
イエス様は何か特別だなという、何か別物として扱うのではなくて、
同じように父なる神様、そしてイエス様との親しい交わりに、
私たちも生きるお互いであるということです。
そしてその交わりがあるし深まっていくために大切なことは、
イエス様がそうなさったように、
私たちも私たちが抱える重荷を、
主と神様と分かち合うということではないかなと思うのです。
自分の持ち物を全て自分が持とうとしないということではないかな、
言い方を変えるならばそういうことだと思うのです。
私たちの持ち物、それは色々な具体的な持ち物だけではなくて、
人生で抱えている責任というものがあります。
お仕事において、家庭において。
そして重荷というものもあるでしょう。
なんでこんなことが、でも私が負わなければならないものというものがあるかもしれません。
でも聖書が語るのは、神のことされているあなたは、
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それをあなた一人で担うべきなのでしょうか。
いや、そうじゃないということを言っているわけです。そうではない。
私たちの責任であって、私たちの重荷というものは分かち合われるべきものです。
一人で担うべきものではないです。
分かち合われるべきものであり、そして分かち合われるときに
交わりが生まれ、交わりが深まり豊かにされている。
それは神様との交わりということもそうですし、
私たちのその自分が抱えている重荷に家族と分かち合う、
友人と分かち合うということもあるでしょうし、
何よりも神の家族とされている教会の兄弟姉妹と分かち合う。
私たち日本人は意外とこれが悪いことのように思うことが多いかもしれません。
でも覚えておきたいのは、私たちの責任や重荷というのは、
一人で抱えたら誰がその任を抱えきれようかということなんです。
そうじゃないんです。
分かち合われて共につながっていく、それが一つのきっかけになる。
そして神様と分かち合っていくときにもう一つ大事なことがあります。
それは信仰です。信仰です。
信じ、分かち合い、委ねる。
神様やイエス様というお方は、実は私たちが何ができるかというよりも、
信仰を見ておられるわけですね。
今日の歌詞を見ても5章の20節に、
イエス様は彼らの信仰を見てという言葉があります。
信仰というのは、何度かお話をしましたが、
強く信じる信心深さということとは、少し私はイメージが違うのだと思っています。
私は信仰深いということは、自分自身の無力さの告白ではないかなと思っているんです。
信仰深さというのは、自分自身の無力さの告白です。
今朝の歌唱の中で、皆さんよくご存知かと思います。
何人かの人々がこの中部の人をイエス様のもとに連れてくるわけですね。
この中部の人を運んでいくときに、彼らはある種、常識外れのことをしました。
他人の家の瓦を剥がしてまで、この中部の人をイエス様に会わせたかった。
友人でしょうか。本当にそこまでして。
この人々はイエス様にこの病人を会わせたかった、見せたかった。
それは何なのか。
彼らの中にはきっと、もうイエス様にしかこの人は癒せないと思っていたんだと思います。
切迫していたんです。
彼らがイエス様を信じたというのは、別にイエス様が救い主だとか、天から下れた神の子だとか、詳しい距離は信じていなかったでしょう。
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でも素朴に、シンプルに、このお方に寄らなければ救いがない。
そしてこのお方に救うことができる。私たちにはそれはもうできない。
だからイエス様、イエス様。
素朴にすがるように彼らは信じた。
イエス様は彼らのその信仰を見て、五章の二十節の言葉、私好きですね。
友よと言われるんです。
あなたの罪は許されたと。
友よと言われる。
なぜでしょうか。
それは彼らが自分の無力さをイエス様と分かち合ったからです。
私には無理です。
私には若咲きが食べれません。
でも片割れに、そこで共になってくれる友がいたように、私には無理です。
でも主よどうか、この友を救ってください。
主よどうか、私たちを憐れんでください。
おもにを共に分かち合い、共になっていただくとき、私たちは友になる。
そう言えるのではないでしょうか。
病が癒されることも大事なんです。
具体的に問題が解決することも大事です。
けれども、聖書を読んでいてよくお分かりかもしれませんが、
イエス様の願いは、それを通して、そのような奇跡を通して、
癒された一人一人が、神は良いお方であること、
神とのつながりが回復をすること、
神と共に生きるものになっていくこと、
それがイエス様の癒しの目的です。
神様が一番大事になさっていることは、
そしてきっと私たちにおいても大事なことは、
神様を愛し、神様に愛されるという関係なんです。
癒しの奇跡を通して、祈りに応えられたということを通して、
私たちが知らなければならないのは、
神は憐れみ深く良いお方なんだということを知る。
そのところで私たちは、
本当にそうですねということを教えられながら、
神様に愛し、神様につながっていく。
罪が赦され、父なる神様と結ばれ、
共に生きる神のことされていく。
この恵みに生きるようになっていく。
実は、私たち諸々の色々な問題がありますけれども、
聖書が語る良き知らせというのは、
あなたは神のことされているということで、
本当に豊かに、それで十分ですよね。
この豊かさを、私たちはもっともっと
味わっていかなければならないような気がするのです。
24:00
もう終わりますけれども、
今朝ご一緒に受け止めたい御言葉は、
十七節の言葉です。
短い言葉ですが、
イエスは主の御力によって病気を治しておられた。
特に私は今朝、
主の御力によってという言葉に
すごく心を励まされています。
私たちは自分の両の手に一体何を持っているでしょうか。
きっと抱えているものがお互いにあるのだと思います。
しかし今朝ご一緒に問われたいのは、
その両の手で持っているものは、
本当にあなただけで持つべきものなのでしょうかということです。
聖書が語るのは、イエス様はそうなさいませんでした。
主の御力によってです。
無力さを告白し、主になっていただいて、
主と共にこの業にあたり、神様と共にあたられた。
力ある神様に自分の御身を預け、
信じてその御業を行われました。
きっと今も生きておられる主は、
その片手でもいいから私に持たせてほしいと
そう言われるのではないでしょうか。
そうでなければ、ペテロが足を洗ってもらうときに、
あなたに足を洗われるなんてとんでもないと言ったときに、
あなたは私と何の関係もないとイエス様に言われましたよね。
私たちのある種、汚い部分も重荷も、
私たちは癒し、清め、救いになりたいと思っておられる。
そこに遠慮をするならば、
あなたと私の一体何の関係があるのですかと、
もしかしたら言われるのかもしれない。
になっていただいていいのだと思います。
私たちは手を開いて、持っているものの手を開いて、
主の御力によって互いに強められたいと思います。
私たちの主は悪いことばかりでは決してありません。
私たちの主が、誰かの主が、神様と分かち合われ、
そして私たちと共に分かち合われ、共に担われるならば、
それは神様とのつながり、そして私たち互いとのつながりを
深く豊かにするものであるのである。