1. 名谷教会
  2. 2022/10/02:望みえない時こそ
2022-10-02 35:46

2022/10/02:望みえない時こそ

2022/10/02:望みえない時こそ

2022/10/02 聖日礼拝

斎藤亘師

創世記 22:1-14


00:01
おはようございます。久しぶりにスーツを着まして、
今までは、いつもラフな格好で、先日、あの、イオンでのぶともさんにお会いしましたときに、
たぶん私の格好を見て、踊れたんじゃないかなと、最初、わらっという感じで、
近づいて、私たちのことを知ってから、ちょっとこう、言葉を交わすことができましたけども、
普段からも、そういう格好でおりますんで、けれども今日は、10月の最初の礼拝ということで、
特に清算式が行われるということで、気を引き締めて、今朝の御用に当たりたいと願っております。
一言を祈りいたします。
恵み深い御座いてのち、なるかぎさま、御指定、世界の激しい動きの中に、私たちも置かれておりますが、
けれども主よ、あなたに前に、主ごとに、御前に出て、礼拝を捧げるとき、
あなたは私たちに、心を騒がしてはならない、神を信じ、また私を信じなさいと、
親しく望んで、私ごに、あなたの平和をお与え下さっていることを感謝します。
けれども主よ、今なお戦火の止まない、そうした地域、あるいは国々があります。
あるいは民族同士の激しい戦いの中にあります。
主よ、どうぞあなたのまことの平和が、一日も早くこの地に訪れることができるように、
特にその犠牲者たちを懐み、我らがまことの死なる神を恐れて、与えられた自分の務めを果たすことができるように、
なお、かえりみ、あわれみ、我らの無知をお悟し下さって、あなたを恐れるところから、
まことの知恵をいただいて、国を治めることができるように、主よどうぞお願いいたします。
厳しい戦火の中にあっても、礼拝が行われようとしております。
どうぞそうした各地の礼拝を、あなたも覚えて下さい。
あるいは上と、あるいは厳しい厚さや、そうした戦いの中にある、そうした国々のひとりびとりを、特にこれを、あなたが守って下さい。
まことにあなたの大いなる偏ることを、すべてのことにおいて知ることができるように、今からのこの私たちの礼拝を、はじめから終わりまで守り道を下さい。
03:11
後に行われます聖三式の上に、あなたの豊かな恵みをあらわして下さい。
主耶穌キリストの皆によって、祈ります、アメン。
今朝は、創世紀の二章を、ご一緒に開いております。
この箇所は、皆さん方も、神話政界などで、政界の中で語られる大切なメッセージとして、礼拝をいただいておられると思います。
結果私は改めて、この二十二章からのあなたのお言葉を、共に開きながら、
アブラハムが使い取り扱いの中において、このところでなければ得られなかったこのお恵みを、私たちもまた共にお受けすることができるようにと願って、今開いております。
私は夏休みになりますと、八重崎に一週間ほど休暇をいただいたりして参りました。
そこに多教団の方ですけれども、三備草というペンションを開いて、そこでお世話になって参りました。
この三備草というのは、三備するというのではなく、山という字と、山の美しい麓でしたかね。
山に備えている、山草と言うんでしょうか、そういうところです。
最初は、そのペンションの方が三備草、三備草と言いますか、私は普通の三備もそういうことかなと。
クリシャの方ですから、そこで短い礼拝をしたりなんかして、おまじありを持ったのですが。
その由来は、実は今読みました、この最後の方の一箇所ですが、主の山に備えありという、そのところから名前を付けたということでした。
06:05
大変山深いところですので、その名前にもふさわしいし、またその国際が、そういう主の山に備えありという、その信仰に立たれてペンションを開かれて、
またいろんな教派や教会から、私ものような世話になる人たちとの交わりを大変楽しんで迎えてくださって、
夏になりますと、当時ひらがっていたので、暑いところからしばらくそこで涼しさを満喫しようということで世話になりましたが、
この山ということですけれども、私たちはそういう点で、それぞれの山がある。
今、プロ野球が最後の山を迎えて、そして最後の試合でパーリングの優勝になるかどうなるか、
まあ心情としては、できるだけオリックスに勝たせたいなという、そんな思いでもって言っておりますんですがね、半信を諦めておりますが、
どこかでまた盛り返してやるかもわかりませんが、種の山というのとはちょっと違いますけれども、それぞれ山がある。
私たちも美容研科を経験しますと、そういうことも含めて経験します。
この聖書を見てまいりますと、その山というのが非常に大切な場面、場面、あるいはその人その人に神様の深い取り扱いのあった場所として、それが記載されております。
御承知のように、孟瀬にとりましては、竹刀山ですよね。私は近くまで来ましたけれども、私のような心臓の弱さを持っているのはやはり止めた方がいいですと外人さんに言われて、下で待っておりましたけれども、
ですから、竹刀山を見ながら上には登らずにおりました。けれども、孟瀬は、その竹刀山で神様の深い取り扱いの中で十回をいただいた。
あるいは、エリアにとってもその山があります。カルメルダンですが、彼はそこでアガブとイゼベルに仕える450人のバール州の創有者からとそこで対峙しました。
どちらの神が本物の神かということで試されたという有名な出来事があります。神様はそこでもってエリアに勝利をもたらせたというカルメルダンの勝利。
09:14
そして、もう一つの山は、今読みましたこのアグラムにとりましての山ですが、このモリヤの山での出来事は、それまで順調に守られて、
そして神様がこのアグラムを通してその人たちを養われてきた。ただいろいろ問題もあるわけですが、そういう中で神様はこの都市に行かれたアグラムとサラのこの二人に遺作という格外のない、
これこそ神様が私たちに約束された多くのものの知識があるという、その最初の印がそこでもって果たされたということで、アグラムとサラは本当に大喜びをしてこの遺作を大事に大事に育てたでしょう。
ただ問題は、なかなか神様が約束を渡されるのにその時が来ないものですから、サラがきっとそれは年をいった私じゃなくて、別の女性を通してその約束をするのかもわからないということで、
エジプトの女性のハガルを自分のところで使っている彼女をアグラムに提供した。確かに彼女を通してしまえるというのが与えられましたけど、これは神様の約束のことではないんですね。
ですから、そういう人間の知恵が勝って、そして自分勝手な判断でそういうことをやりましたけれども、それだけにこのアグラムは、このサラを通してイシマエルがおり、自分たちの間にも遺作という格外のない人間が誕生した。
ところがどうしてもその時に気になるのが、エジプトの女性ハガルとの間に生まれたこのイシマエルの存在、その辺は女性特有のそういう気持ちが、感情が交差するのかわかりませんけれども、
いつまでもイシマエルが自分たちの間におっては、やがてその後に生まれた遺作は、私たちのそれを受け継ぐことができないかもしれない。
12:11
そういうことで、そしてサラがアグラムに行ったことは、ハガルとイシマエルはここにおってはまずいから、遺作のためにもよくないことだから、そしてこのベルシバの方にユナラがわずかな食べ物を与えて、そして遂行するわけですよ。
けど神様はね、そのハガルイシマエルも帰りみて、そして彼らはマブタ守られて、そこから新しい遺族が生まれてくるわけです。
ことはこの二十二章、そういう背景の下でもって、今はハガルイシマエルもいないし、アビガエルとの間も神話が結ばれて、そして自分たちはここに安住している、問題がない。
その時に神様からの思いがけない声がかかったわけですね。
この一節を見ますと、これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に合わせられたと書いてある。
まさにアブラハムの生涯において最大の試練がこの二十二章の出来事でしょう。
長いこと神様の約束を信じ続けてきたこのアブラハム・サラですけれども、そしてその結果一試作をお与えくださった。
なのに神様はどうしてせっかく神がお与えなさったこの人にも捧げようとおっしゃるんですかと言って、
あるにおいてアブラハムは最初は立てついた。
おそらくサラ様ならじゃいなかったともそういうことは書いていませんけどね。
それまでのここまでのサラとアブラハムの環境を見てまいりますとね、一言二言、
そのサラ様がアブラハムに申し出てくる様子が今のハガル・イシバルの問題もそうですしね、いろいろ口出しをしてきている。
そして最後には自分の子供を守るためにはと言って、彼女はそのアブラハムをある意味でそそのかしてね、遠く追放するわけですよ。
それぐらいの女性ですからね、神様がここでアブラハムに向けられたこの試練に対して、おそらくサラが黙っていなかったと思う。
しかし彼女のことは触れていないんですね、あまりね。
15:05
こうしたことになりますと、アブラハムは彼の信仰と言いましょうかね、力量と言いましょうか、サラさんにそれを黙らせて、
そして自分の家に秘めたそれを持って遺作を連れて、数人のこの若者と一緒に森山の山に登るわけです。
この辺りのアブラハムの信仰というのは、彼にとって長年の祈りの結果ですよ。
そして神様はそこから祝福を与えなさるということを自分は聞き、しかも自分の名前までも神様はね、
アブラムというところにハというですね、いろんな神の称号のような、そういうものを入れてアブラハムということを言って、
そしてそれは多くの者の知識があるという、そういう約束のもとでもってアブラハムはそのことを今自分の家にいただいたわけですよ。
なのにそのもととなる遺作を捧げなさい。
この時のアブラハムにとって彼の行動を見てまいりますと、犯罪として捧げる場合のそのやりようというのは、これしか考えられないわけですよね。
我が子に刃を向けて、そしてそこに築き上げた祭壇でその子を捧げるという、最大の試練。
ルターという人は、もし誰かに神が試練を与えていない場合があるとしたら、それは銃の試練よりももっと恐ろしいことだ。
そうまでルターは言いましたけれども、かえもいろんな場面の中でもって命を奪われそうなところまで行きましたけれども、その危機の中にも神様は守ってくださった。
この22章のアブラハムと遺作の様を見てまいりますと、私はその時のアブラハムの心境というのは想像もできない。
あるいは神様がね、私に同じことをお命じなさったなら、私はもうお手上げして、もうそれだけはお断りしますっていうような、そういう人間ですから。
18:09
神様が分威状の試みは、私には今のところは大抵くささっていないんじゃないかなと思います。
しかしな、また父王とあるならば、神はどういうものを自分に求めなさるのか。
ただ、ここに書いてある文字通りの出来事を見てまいりますとね、親が自分の勝手な思い出を持って子を殺す。
今日見るような、新聞で見るような、親が子を殺してしまうというような、そういう様子に展開してきそうな場面ですよ。
3日間を費やして、その山に登る途中のアブラハムの心境は、もう想像しても想像できない。
遺作から問われて、そして答えるぐらいのが、彼の口から出て精一杯の言葉だったんでしょう。
あとはもう沈黙のまま、彼はその若者たちをそこに置いて、そして今度は自分たちが祭壇で使う匠を背負いながら、そしてアブラハムは遺作を一緒に登っていくわけです。
とうとう遺作から、実際、他人が思った、何を準備した、肝心の戦勝の生き栄としてそれはどうしたらいい、何なんですかという問いかけに、彼は返答困ったと思います。
彼が言ったことは、神様が備えてくださるだろう、本当にこれは私たちの想像を超えた中での場面です。
そういう心の中でもって、アブラハムがここでもって、最後のことをしようとしてある。
その礼拝ですね。先ほどお見せしました中の御説に、私と子供はそこに行って、礼拝をする。
21:07
アブラハムにとってその礼拝は、我が子を捧げるという、ここまでではそういう神様から命じられた事柄を言葉にすることは、自分にとっても打撃ですし、それを聞いた遺作はどうだろうか。
力関係家と言ったら、おそらく遺作の方が勝てると思うんですよ。
お父さんなんでそんなことを言って、それこそお父さんの代わりになんて、こんな下手な想像ですけども、やったかもしれない。
人間的な力関係家で言ったならば、それこそ若い遺作の方に分があったでしょうけども、
遺作もまた父、アブラハムが言われる通り、黙々と共にこの三日間を過ごして、そして山に登って行った。
そして挙句の果ては、自分をロープで縛って、そしてその禅師様の意見として組んだその滝の上に遺作は乗せられていくわけですよ。
遺作という人もまたこれね、なんとこのおとなしいというか、従順というか、この遺作は、よその場面でも見ますけどもね、
井戸の問題があったときに、これは我々のところだと言ってやると、どうぞと言って別のところに行く。
そこでまた新しい路を見つける。またそこも取られる。そしてまた次、遺作の性格というのでしょうか、本当に温純なその遺作の姿がそこに場面場面に現れています。
ここでは自分が父アブラムの手によって犯罪として捧げられるという、これがアブラハムが森山の山に来て、そしてやろうとしている礼拝なんですね。
私はアブラハムがこの大きな大きな試練の中で我が子この遺作と一緒にやろうとした事柄は、そこで神様を礼拝する。そして礼拝するということは遺作を捧げるということ。
こんなにまで緊張して礼拝を捧げただろうかということを自分を見てこう思うんですね。まさか神様は私にはそんなことをおっしゃるはずがないし。
24:08
それで私の三人の子供もここまで無事に成長してまいりましたし、またそれぞれ子を持つようになりましたし。
もしそこでたった一人しかいない我が子を捧げなさいと言われたらどういうふうに神様に反抗するだろうか。
このアブラハムと遺作が捧げる礼拝はまさに遺作にとっては我が身を最大にアブラハムの手によってそこに置かれるということ。
それ以上にきつかったのはアブラハム自身でしょう。神様とのやり取りの中で。
もしできるならば遺作を残して年老いた私を反対として捧げてください、それを受け止めてくださいというのがアブラハムの心情ではなかっただろうか。
ということはアブラハムにとっては我が身を守るために遺作をというんじゃない。
この遺作のためならば自分の身をどんなに犠牲にしてでもいいから渡しようというのがアブラハムの思いであったと思う。
私は世界でよくこの歌唱が開かれるときに最後に求められることはあなたの遺作を捧げようというメッセージ何回も聞きました。教えられました。
そして色々な挑戦を受けました。
ゆうべ長くタルミ教会で放出された森文教先生、彼の遺行集展賞が出たものですから、それをずっと読んでまいりました。
私も先生との関わりの中で思い出があったら書いてくださいと言われて、そして書いたことを思い起こしながら読みました。
この森先生が検診されたときのことを今でも覚えております。
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万代政界というのがありましてね。森先生たちは元々日本国立教団の学院教会という、そこに大島先生もよく政界など御用に行かれたときに信仰が持たれて、万代政界のそれも聞かれて、
そして先生はこのお母さんと弟と妹と4人で東京から来られとった。
初めてのそこでの出会いなんですが、年齢も一つ違いですから、それでその政界の間も一緒に座って、そしてこうやっておりました。
その政界の中で、検診への説明がありました。
みんなこうして黙祷しながら、招きの声を聞いておったわけですが、そのときに森先生が立たれたんですよね。ほら、と思って。
私はもう少し前に自分の中でもって検診へのそれがありましたから、その招きにそして立ちました。
それ以来の交わりをずっと先生が召されるまで、いろんな形でもってやりました。
そのときにね、これは同じ部屋でもっていろいろ話をしているときに、
お母さんがね、よく長男の検診をしていくということに抵抗がなかったんだろうか。
いや、泣くはないけれども、しかし母親は母親で、もうそれこそ自分の子供ってみんな捧げてもいいようなそういう心情も持っていたかに聞いたことがあるということをおっしゃった。
で、私は、ああ、そんなもんかな、クリスチャン家庭ってのは、そういう点でいいね。
で、私は別にそういう家庭じゃありませんから、私がここで検診で立ち上がったと言ったって、親は何も知りませんし、言うこともありませんし、大変身軽な存在でしたんでね。
しかし私はね、その森先生が立ち上がったときのことを、いろいろこう、昨日も読みながら想像しておりました。
残念なことに、76歳でね、手に召されちゃったんですけれども、召されちゃったと言って済むわけじゃないんですが、まあ望みがあるわけです。また会えるなあって。
で、私はここにね、一枚の、いつも何気なくいつもここに挟んでいる先生との写真があるんですね。
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どこ行ったかな。あの、二人で何かこういう話をしているところを、誰かが撮って、そして、この、くださったこの写真なんですね。
これかな。あ、これ。こういう写真なんですよ。だから、あの、まあこんな二人で撮ったっていう写真は、そうないんですけどもね。
まあこれを見ながら、何を食べながら話をあげているんだろうか。私は何を見ながら先生のそれに答えようとしているんだろうか。
そんな想像しながら、またこういった日が来るんだろうなあと思っておりますけど。
まあ話がずいぶん横道に逸れちゃいましたけど。
親にとっても、我が子が献身していくっていうことは、それは自分自身を神様に捧げるところから始まらないとできないことだっていうことを、そこで教えられたわけですよ。
アブラハムがそうですよね。遺作を捧げるってことは、自分を捧げる以上の厳しい神様からのお求めです。
遺作を捧げていくことが終わるわけではない。
アブラハムにとっても遺作を捧げるってことは、自分自身を神様の前にお捧げするという、これが二人が言い合わせた、
言うならば次の場面が分からないままに彼らがやった礼拝なんですね。
私は本当にこの礼拝っていうことの大切さ、そして礼拝っていうことが私たちにもたらせるその呼びかけは、
あなたを求めてらっしゃるんだ、あなたを捧げなさいとそう求めてらっしゃるんだ、それが礼拝なんだっていう、礼拝の行為はそういうものだ。
私たちはここの出来事を結論を知って読んでおりますから、ことの流れというのをすっと読んでいくわけですが、
しかし黙想しながら読んでいきますとね、どんなに厳しい二人の前に置かれた試練であったか。
けれどもアブラハムは改めて最初に申し上げたようにね、神様が反災を備えなさる、死の山に備え合い、
アブラハムはそのことをここで経験しましたでしょう。
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年をいって与えられた我が子を捧げるという、それこそ非常な神様からの求めに対して、
しかし神様はそれをそのまま放っておきなさる方ではない。きちっと彼らの信仰がそこで持って表明されたように。
神様はそこで持って、神御自身が自ら反災の素材を用いてそれをそこに繋いでくださった。
神様からの全てがかかったから、私は安心してこう読めるわけです。
しかし、私はこのアブラハムの出来事を通して、どうしてもそこで見るのは、
父なる神が子なるシウエス・キリストを十字架に押せなさるというこの場面です。
この場面においては、誰もマッタをかけるその中退役はいないわけです。
それがヨハネ三章の十六節でしょう。
ヨハネ三章の十六節でしょう。
神はその一利ごともあったほどにという、もうこれがどれだけ大きな神様の痛みがそこに含まれての行為であったか。
その痛みを持って、私たちの今日の救いが成就されている。
ちょうどアブラハム遺作が自分たちを刺されたことによって、
神が彼らを通して約束された多くの国々の民の頭とするという、始めとするという、それがスタートするわけです。
父なる神とシウエス様との関係においては、神はそれこそ自らを犠牲にするということができないままに、
独りごとしてお与えなさったその方を、それこそまったなしで、他に何か別なものでというのではなくして、
選びなさったそれは、我が独りごを十字架に押してなさる。
この十字架の救いがあればこその、今日の私たちは、
私たちはアブラハムの出来事を通して、さらに勝される愛を我らに示しなさった神ご自身のそのご愛というものを深く受け止めて、
この礼拝という行為に臨んでいきたい。お祈りいたします。
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