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2021-09-05 34:51

2021/09/05:創世記(28)イサクとイエス・キリスト

2021/09/05:創世記(28)イサクとイエス・キリスト

2021/09/05 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 22:6-14


00:01
みなさん、おはようございます。
今日は創世記、28回目、イサクとイエス・キリストです。
先週、私たちは、試練にあったアブラハムの出来事を通して、その試練の意味、目的について学びました。
今日は、説教題からわかるように、イサクを通してはイエス・キリストを、そしてアブラハムを通しては神様を見出していきたいと思います。
イサクは、私たちをイエス・キリストに導く案内係です。
だからイサクは、イエス・キリストを表す方です。
また、アブラハムはどうでしょう。私たちを神様に導く案内係です。
聖書には、このように多くの方、あるいは余表とも言われますが、それが多くありますね。
最も代表的なものは、子羊ですね。
捧げ物として祭壇に捧げられる子羊は、言うまでもなく十字架で死なれたイエス・キリストを表す方です。
これは、今日のお話にもつながるものです。
では、前半は今日の話を中心にして見ていきましょう。
そして、これが神様とイエス様にどういうふうにつながるか、後半にお話をしていきたいと思います。
神様はアブラハムにイサクを捧げなさいと命じられました。
今日の2節をもう一度見ていきましょう。
字幕も出してくださいね。私がお呼びします。
あなたの子、あなたが愛している一人子、イサクを連れてモリアの地に来なさい。
そして私があなたにつける一つの山の上で、彼を全生の捧げ物として捧げなさいと、神様がアブラハムに命じられました。
ところがどうでしょうか。
アブラハムは、この神様のとんでもないような命令に、静かに何のためらいもなく従ったのです。
アブラハムは翌朝早く、その出発の捧げ物を捧げる支度をするのです。
ロバにクラをつけて、2人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行きました。
03:06
また彼は全生の捧げ物のための焚き木も割って持って行きます。
こうして彼らは神様がお付けになった場所へ向かって行きます。
さあ皆さんここでですね、この時のアブラハムの気持ちはどうだったんでしょうか。
感情移入みたいにしてですね、感じてみたいです。
自分の愛している一人子を、全生の捧げ物として捧げるために、
朝早く起きて、神様がお付けになった場所へ向かって行くアブラハム。
全生の受け入れは先週もお話したように、ほふる捌くわけなんですね。
自分の息子を殺すわけなんです。 そして焼いて捧げるわけなんです。
しかも3日かかっていくわけですから、
3日間という時間があるわけなんです。
神様はですね、今すぐに店舗に行って遺作を殺して捧げなさいとおっしゃってなかったんですね。
とんでもなく大きな辛さがアブラハムにあったでしょう。
愛している一人子を焼いて捧げなければならないからです。
しかし彼は、モリアの地へ向かって行きました。
こうして彼らは3日目に遠くの方にその場所が見えるところまで来ました。
そこでアブラハムは若い者たちにこう言いました。
お前たちはロバと一緒にここに残っていなさい。 その次のところが大事なところですよ。
ここにですね、実はアブラハムの素晴らしい信仰が含まれているんです。
私と息子はあそこに行き礼拝をしてお前たちのところに戻ってくると言いました。
アブラハムがですね、私と息子はあそこに行って礼拝してお前たちのところに戻ってくると言いましたね。
さあ、ではあそこに行くのは何人ですか。
2人ですね。 戻ってくるのは何人ですか。
実は2人なんですよ。 2人が行ってそして礼拝を捧げるのに
06:04
なぜ2人がまた戻ってくるんでしょうか。
注意深く読みたいところですね、ここは。 ですから今アブラハムは実はこの若者たちにこう言っているわけなんですよ。
ほら今からね私とイサクが向こうに行って捧げ物を捧げて礼拝してそして2人がお前たちのところに戻ってくるよという話なんですよ実は。
皆さん、アブラハムは一体どこからこんなに立派な信仰ができたんでしょうか。
アブラハムは自分の体がすでに死んだも同然であったんです。
またサラの体が死んでいるところから奇跡的にイサクが生まれたんでしょう。 それを体験できたわけなんです。
だからそのイサクが生まれたことはまさに死から命が生まれたこと。
死んだも同然であった夫婦のこの体から命が誕生したその経験からですね アブラハムはすでに蘇りと命を体験してそしてその種を信じることができたんです。
だからアブラハムはたとえイサクを今自分がほふって前生の捧げ物として捧げても神様はイサクを必ず蘇らせてくださると信じたんです。
だから2人が行って2人が戻ってくるよと宣言したんですね。
このアブラハムの信仰を新約聖書のヘブロビテの手紙11章19節にはこういうふうに話をしています。
前の字幕を出してください。私が読みます。
彼は神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。
それで彼は比喩的に言えばイサクを死者の中から取り戻したのですと死者の中からよみがえらせることもできると彼は考えたから2人が行って2人が戻ってくるよと言ったんです。
続けて見ていきましょう。いよいよアブラハムは前生の捧げ物のための滝木を取ってそれをイサクに背負わせますね。
本当に緊張が高まる瞬間です。そして2人は一緒に進んでいきます。
09:03
イサクは黙ってその滝木を背負って山に登っていきます。
その滝木を背負って登っていくそばに父アブラハムがいます。
皆さん何と切ない光景切ない父の気持ちでしょうか。
皆さんしかしここに素晴らしい2人の従順が書かれているんです。
アブラハムもイサクも従っているんです。
アブラハムは誰に従っているんでしょうか。神様に従っているんですね。
あなたの愛している子イサクを捧げなさいという前生の捧げ物として捧げなさいという神のお話に従っているアブラハム。
それから誰ですか。イサク。滝木を背負わせられてあそこに行って捧げましょうと言った父に従うイサクがここにいます。
だから皆さんこの光景は私たちに従順というものが何であるかを教えて思い浮かばせています。
ところがイサクは考えました。わけがわからないわけなんですけれども父アブラハムにこう聞きました。
お父さん火もあるし滝木もあるんだけれども捧げ物にする羊はどこにいるんですかと聞きましたね。
当然普段からイサクは父アブラハムが前生の生贄を捧げ物として羊を捧げることをたくさん見てきたことでしょう。
だからわかるわけなんですよ。前生の捧げ物としたら当然牛は高いからそれより安い。
羊があるはずなのに今ほかは全部あるんだけれども捧げ物の羊がないんですね。
だからそれは気になってお父さんに聞いたわけなんです。
羊はどこにいるんですかとするとそこにまたアブラハムの素晴らしい信仰がこの言葉に現れました。
こう答えましたねアブラハムは。
我が子よ神ご自身が前生の捧げ物の羊を備えてくださるのだと答えました。
神ご自身が前生の捧げ物の羊を備えてくださるのだ。
12:07
皆さん神様はアブラハムにあなたの一人ごイサクを捧げなさいと言われましたよ。
それでアブラハムはここに自分の子イサクを捧げるためにここに来ているわけなんですね。
しかし羊はどこにいますかと聞くイサクにアブラハムはまだ見ていない事実、
すなわち羊が今自分の目の前にいるかのように答えただけなんですよ。
神ご自身が前生の捧げ物の羊を備えてくださるのよ。
お前は心配しなくていいということです。
山頂に登っていく途中なんです。
祭壇もまだ作っていないんです。
イサクを縛ってもいないんです。
山に羊があるようと神様から告げられたことがないんです。
しかしどうですか。
まだ何もないのにアブラハムは心から信じていたんですよ。
神様がちゃんと捧げ物の羊を備えておいているはずなんだ。
彼は神様が備えられておいた羊を信仰の目で見たんですよ。
これが信仰なんです。
目に見えるものに縛られていない信仰。
まだ見ていない事実を確信して見ている事実、信仰。
皆さんどうでしょうか。
私たちも現実のさまざまなものに縛られていたら
霊の目が閉ざされて見えなくなる時があるかなと思います。
皆さん本当に私たちの霊の目が、信仰の目が開かれますようにお祈りします。
いよいよこのお話のクライマックスのシーンが始まります。
神様がお告げになった場所に二人が着きました。
アブラムは祭壇を築いて、その上に滝湯の木を並べました。
遺作を縛って、その祭壇の上に乗せました。
アブラムは刃物を取って息子をほふろしました。
15:00
その時でした。
主の使いが天から彼に呼びかけられました。
アブラム、アブラム。
だから皆さん、神様は最初から最後まで全てを見ておられるわけなんです。
見守っておられるわけなんですね。
アブラム、アブラム。
アブラムは答えました。
はい、ここにおります。
水貝はこう言いました。
その子に手を下してはならない。
その子に何もしてはならない。
今私は、あなたが神を恐れていることがよくわかった。
あなたは自分の子、自分の一人子さえ惜しむことがなかった。
あなたは自分の子、自分の一人子さえ惜しむことがなかった。
この部分はどこかでたくさん聞いたような気がしませんか、皆さん。
そうです。
アブラムは自分の一人子さえ惜しむことがなかったんです。
今、アブラムはほふるふりをしたわけじゃないんですよ。
彼は本気でした。
たとえ自分が自分の子、遺作をほふっても、そして捧げても、
神様がよみがえしてくださると彼は信じたんですね。
すごいと思うものです。
自分の一人子さえ惜しみなく、神の命令であれば惜しみなく捧げようとしたんです。
彼は本気でした。
皆さん、信徒は本気なんですよ。
我々の礼拝も、自分の人生を捧げることも、
あるいは献金であっても、奉仕であっても、本気で、
今、アブラムのように惜しみなく捧げる我々でありたいと願います。
ここに主の備えが現れます。
アブラムが目を上げてみたら、なんと先は先までなかったでしょう。
自分の息子遺作をほほろとする前までは、周りに羊はなかったんですよ。
しかしなぜか、あの声を聞いた後、目を上げてみたら、なんと一匹のお羊が、
角をなぜか矢部に引っ掛けて、そこにいるんじゃないでしょうか。
それでアブラムは行って、そのお羊をとって、
自分の息子の代わりに前生の捧げ物として捧げました。
18:02
皆さん、さっきアブラムが言ったでしょう。
前生の捧げ物の羊は、神様が羊を備えてくださるのよ、とアブラムが言ったでしょう。
どうでしたか。その通りでした。
皆さん、このつながりをよく読み取ってほしいんです。
神ご自身が前生の捧げ物の羊を備えてくださるんだ、とアブラムは言いました。
言葉に言いました。信仰を表しましたね、言葉に。
まだ羊を見ていないんですよ。予約していないんですよ。
アブラムは、この光景を全部演劇みたいに準備して、ちゃんとこんな声も出してね、と。
そしてその声を出したら、隠れて羊を矢部に掛けておいてね、と演出したわけじゃないんですね。
しかしどうでしょうか。アブラムが信仰通りに言葉を表した通りに、そこにちゃんと羊が備えておいてあったんですね。
信じて話した通りでした。
神ご自身が前生の捧げ物の羊を備えてくださるんだ、信仰による言葉がこんなにも重要なんです、皆さん。
信じて話すことです。
先週ですね、大阪からある先生がお見舞いに来てくださって、30分ほどお話をしました。
いろいろお話を話し合っているうちにですね、その先生を通して主が私に教えてくださったことがありました。
それはまさに今日のこのメッセージともうぴったりですね、よく練習をさせてくださったんですね、神様。
それは信じることを話すことです。信じることを言い表すことです。
例えて話をしましょう。
例えば、病気にかかった人がですね、いやぁ癒されたらいいなぁ、ではなくですね、私は癒されたと。
私の罪は罪の鎖から解き放たれた。私は救われた。主は助ける。
私の夫は、私の妻は、私の子供は救われると、信仰を言い表すことです。
こうなったらいいなぁ、じゃないことです。
信じることを言い表すことの重要さを教えてもらいました。
聖書に戻りますね。このように劇的にアブラウムは主が備えてくださった羊をイサクの代わりに捧げることができました。
21:07
それでですね、その場所の名前をアドナイイルエ、アドナイイルエと呼びました。
その意味は何ですか。主の山には備えがある。主の山には備えがある。
素晴らしい体験をアブラウムもイサクもできたわけなんです。
皆さん考えてみてください。もし神様がですね、アブラウムに捧げなさいと言ったときにですね、言われたときに
アブラウムがいや神様困りますよ、そんなとんでもないことを今するわけじゃないでしょう。
この子も神様、あなたがくださったんじゃないですか。
25年ぶりに生まれた子を捧げるなんて、いや私には牛もシチもたくさんいるから、代わりに牛を100匹捧げるからもう勘弁してくださいよと。
こんなことをしなかったならば、このときに主が備えてくださる、主の山には備えがあるアドナイイルエのこんなに素晴らしい信仰の経験はできなかったはずなんです。
皆さん信仰は従ってチャレンジするものに現れるものなんです。
信じても聞いても、頭にたくさんのことが入っても何もしない、チャレンジをしない、捧げるとしない、動かない、行わないならば何にも起こりません。
しかし小さなことであってもチャレンジをすれば、信じて踏み出していけば、
3日間歩いていけば、祭壇を築けば、縛ってほうろっとすれば、そこにアドナイイルエの神の恵みがあるんです。
だから皆さん、信仰はある意味で悪循環するか善循環するかということだと私は思うんですね。
信じて従えば従うほど、もっともっと素晴らしい体験を、アブラウムとイサクのように体験をさせていただき、
そして信仰がうがまれ、そしてもっと偉大なことを主にしていくことになります。
しかし、しなければしないほど、どんどんどんどん信仰は枯れて、枯れて、枯れて、小さくなって、小さくなって、小さくなって、小さくなって…。
さあ、父アブラウム、独り子イサク、捧げ者、捧げる、従順、惜しみなく、代わりの羊。
これからだいたいお分かりになったでしょうか。
24:02
最初にお話しましたように 父アブラムは神様を表す方であります
イザクはイエス様を表すものであります だから神様はご自分の愛している一人をイエスキリストを私たちの救いのために十字架にかけて
捧げてくださいました 今から3つの聖書箇所を見ていきたいと思います
前の字幕あるいは聖書を開いてください ユーハネの福音書3章16節
神は実に その次ですよ その独り子
イザクも独り子だったでしょう イエス様も神様にとっては独り子なんです
その独り子を綿になったほどに世を愛された それは御子を信じる者が信じる私たちがあなたが皆さんが
一人として滅びることなく 永遠の命を持つためである
もう一箇所 ユーハネの手紙第14章9節です
神はその独り子をここにもありますね その独り子を世に使わし
その方によって私たちに命を得させてくださいました それによって神の愛が私たちに示されたのです
皆さん 神様は私たちを愛して独り子を渡してくださったんですね
アブラムは神様を愛しました だから自分の独り子さえ惜しむことなく捧げようとしたんですね
両方に愛が現れているんです もう一箇所 ローマ人への手紙8章32節
私がお読みします 私たちすべてのためにご自分の御子さえも惜しむことなく
さっきとまったく一緒ですね 荘石の今日の箇所とですね
ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が どうして御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか
神様はご自分の独り子さえも惜しむことなく死に渡されました
これを表す方がアブラムの今日の出来事なんです どこにこんなに素晴らしい愛があるんでしょうか
ご自分の独り子さえ惜しむことなく死に渡されるほど 私たちを愛しておられる神様
そして私たちの救いを切に願っておられる神様 それでイエス様をこのうちにお使わしになりました
27:03
ここに神の愛があります だから今日のこの荘石の22章あたりを読んでですね
そうから神様へのアブラムの愛はもちろん 私たちへの人類への神の愛を見つけてほしいです
私たちが神様を先に愛したわけではありません 神様が私たちを愛して私たちの罪のために
なだめの捧げ者としての御子を使わされました この愛を知り受け取る私たちでありたいです
そしていつまでもこの愛にとどまっていてほしいんです
さて 遺作が滝木を背負って山に登ったんですよね
その光景はまさにイエス様が あなたのために私のためにあの十字架を背負って
カルバリの ゴルコタの丘へ登られたんですね
それがオーバーラップするわけなんです
ユーハネの福音書19章17節前の字幕を出してください 私がお読みします
イエスは自分で十字架を追って ここね自分で十字架を追って
ドクロの場所と呼ばれるところに出て行かれた そこはヘブル語ではゴルコタと呼ばれている
皆さん このエルサレムのこのカルバリ
ゴルコタのこの丘 そこが今日の22章に書かれている
森や山なんです ある意味で神様は
アブラムには一人後イエスキリストをお渡し になる神の心を体験させた
イサクには十字架を背負って人類のために 丘に登られるイエス様を体験させたというわけなんです
イサクが滝木を背負って山に登ったのは まさに
自分であの大きくて重い十字架を背負って 丘に登られたイエス様を指しているんですね
イエス様は 私たちを罪から救い
すべての呪いから解き放つために 自ら十字架を背負って登られました
30:02
イサクが森やの山に向かって登ったように イエス様はゴルコタの丘の方に向かって行かれました
このことを深く 目想してほしいです
もう一つお知られ事があります イサクの従順はイエス様の従順の方です
イエス様には十字架とその死を前にして 極度の涙が悩みがありました
それを最も表している聖書箇所は ルカノ福音書22章42節を見ていきたいと思います
前の字幕を出してください 私がお呼びします ルカノ福音書22章42節
父よ御心ならこの杯を私から取り去ってください しかし私の願いではなく御心がなりますように
イエス様は神様に
私の願いではなく御心がなりますようにと 祈られましたね
父なる神様に従う イエス様の従順が
書かれていました
イサクはその雛形でした イサクもですね
お父さんからさせられて あの滝木を背負って山に登っていくんですよ
あれ羊がないのにと思ったはずなんだけれども 登っていきます
アブラムが自分を
何かの紐でくぐって縛っているのに 何の抵抗もしないんですよ
お父さん何をするんですかと一言も言わない ただ従うんですよ
お父さんがそのままに身を任せるんですね
祭壇の上に横なのか縦なのか分かりませんけど 多分横でしょう
乗せられているのに そのままいるわけなんですよ
刃物でほうろとしただけですから 刃物を自分の父 アブラムが刃物を手に取っていることを
分かるのに 何の抵抗もしない
イサク まさに
私の願いではなく見心がなりますようにと祈られた イエス様の従順を表す雛形でした
しかし決定的な違いはあります イサクは主の備えの羊があって
自分ではなく自分の代わりに羊がほふられて 捧げられたんですね
33:05
しかしイエス様には代わりの捧げ物はありません
なぜならイエス様ご自身が私たちの身代わりだからなんです
私たちの身代わりとなられて 神の御心のままに十字架を背負って登られて
十字架で死なれました
信仰は何であるか 本当に探られる今日のメッセージだと思いますね
信仰はこのイエス・キリストに出会うことです
宗教活動を超えて キリスト教教養を学ぶことを超えて
生きる神主イエス・キリストに出会うことです そしてこの方こそ
私の唯一の救い主であることを認め信じ 聖なる方に触れて自分の罪を悔い改め
清められこの方と交わることです この方を礼拝することです 今日のアブラムのように
遺作のようにです これがキリスト教信仰なんです
メッセージを終わりたいと思います
イエス・キリストは 今日も私たちを呼んでおられます
神様は今日も深い交わりへ私たちを招いておられます
この方と共に歩み交わりを持ち その豊かな恵みの中にいつまでも
とどまらせていただきましょう お祈りします
34:51

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