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2021-07-18 36:15

2021/07/18:創世記(22)主を信じるとは

2021/07/18 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 15:1-6


00:01
おはようございます。
暑いですね。梅雨明けで、昨日から暑くなってきますけれども、
健康も主によって支えられて、何より私たちが主を礼拝することが妨げられることがないように、
それぞれ、心も体もあるいは精神も、主によって守られて、主を礼拝することに励んでいきたいと思います。
もちろん、人の体というものは、自分の思い通りにならないこともありますから、
それも主に委ねながら、主を何がどうあっても、月曜日から土曜日までは寝込んでいてもいいですから、
日曜日には主を起き上がらせてくださって、あなたを礼拝できるようにしてくださいと、そういうふうに祈っていきたいなと思っております。
私が小さいとき、今、母も寝込んで起き上がらないんですけど、ずっとそういうふうに祈っていました。
だから、平日に調子が悪くても、日曜日の朝はもう元気モリモリで教会に行くんですよ。
それもほぼ80年間守られましたから、それも不思議な神の恵みだなと思っております。
私も皆さんに祈っていただいて、小さなことはいろいろあったりしますけれども、主の力によって守られて、
今日もこの主の言葉を取り付かせていただけるこの恵みを、本当に感謝いたします。
私はそれをいちいち確認しているわけではありませんが、今、教会のホームページに、説教の音声がアップされています。
それから、教会のYouTubeチャンネルに、日曜日の夕方から説教だけアップしていますし、
今、ライブではFacebookのだいたい10時10分から、この光景が流れているんですけれども、
私も知らないうちに、多くの方が、明太子教会の礼拝を見ておられるんですね。あるいは説教を聞いておられるんですよ。
皆さんの中でも、ここに来ていらっしゃいますけれども、お帰りになって、主の仲間にもう一度聞かれる方もいらっしゃるようですし、
教区の中である先生方も聞いてくださったり、そういう先生方もおられますし、
全然違う教団、教会の、私よりはるかに年配の先生ですけれども、聞いて、月曜日、火曜日か、
03:06
毎週ではないんだけれども、ほぼ毎週みたいに、フィードバックのラインが来るんですね。
先生、今日も守られて、メッセージできてよかったですね、みたいな、そういったラインが、励ましの連絡が来たりして、
それに励まされて、また主に祈りつつ、この奉仕を主が許してくださる限り、やらせていただけないと、
そういうふうに願いながら、祈りながら、今日も立たせていただきました。
では一言、短くお祈りします。神様、感謝します。どうか、私たちにあなたの御言を聞くことのできる心を開いてくださいますように。
自分自身を顧み、真実の主の御言葉によって、また主に御愛して、どうか、私たちを引き上げて、主を変わらせてくださいますように、お願いをいたします。
主にいらねて、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
今日は葬式の22回目です。皆さんにこのような経験はありませんでしょうか。
例えば、祈ってもなかなか答えられなくて、神様を疑ったり、がっかりしたりしたことはないでしょうか。
祈っても現実は変わらなくて、神様に向かって、神様どうしてですかと文句をつけたことはありませんか。
今日、この葬式の第15章に、そのような文句をつけてもおかしくない一人の人が登場します。
アブラムです。今まで神様はアブラムに、2回子孫に対する約束をお与えになりました。
1回目は、彼がウルで召された時ですね。12条の2節。
私はあなたを大いなる国民とする、と神の言葉がありました。
2回目は、ロトがアブラムを離れた時です。13条16節。
私はあなたの子孫を地の塵のように増やす、と神の約束の御言葉が2回アブラムに語られました。
しかしどうですか皆さん。それでその通りにたくさんの子どもが生まれたのでしょうか。
子どもは一人も生まれていないんですよ。
06:04
約束を先になさったのは神様なのに、誰も生まれていない。何にも変わっていないんですね。
それで私がアブラムだったら、神様何とかしてくださいませんか、と言いたいところです。
ところで今日の御言葉を、よく皆さん観察して読んでいきますと、
このように文句をつけているアブラムの気持ちを、まず神様はわかっていないわけではないんです。
わかってくださるんですね。
神様はアブラムにどのように接してくださるかを見てみたいと思います。
一節を見ると、これらの出来事の後とあります。これらの出来事の後。これらの出来事の後はいつでしょうか。
それはアブラムがロトを救った後のことですね。
その連合軍と戦ってダンマでいて、この死兵たちを連れてロトとその家族財産を救出した後のことです。
その時ですね、主の言葉が幻のうちにアブラムに望まれました。
まず神様はアブラムが安心できる言葉をくださるんですね。
アブラムよ、恐れるな。私はあなたの盾である。恐れるな。私はあなたの盾である。
この古代の時代に、男性、息子という存在は力であり財産であり生活の基盤ですね。
しかしそれが今アブラムにはないんです。
そしてちょっと前まで同盟軍との戦いをしたわけですから、その後彼らから報復があるのではないかと恐れていたことでしょう。
今アブラムは恐れているんです。
そのようなアブラムに神様はまず彼が安心できるような見言葉をくださいました。
アブラムの恐れの気持ちもよくわかっておられる神様です。
神様は彼の気持ちが今どうなのかをわかってくださるんですね。
このような事実は私たちにも神のなぶさめになります。
09:04
人は誰かに自分の気持ちをわかってもらったり、ちょっとでも安心できるところがあるかなと思います。
気持ちを理解してもらったり聞いてもらったりすることで、その問題自体は解決されるわけではないかもしれませんが、ちょっと人安心できるでしょう。
ところで皆さん、神様こそとても良いカウンセラーなんですね。
アブラムの気持ちをわかっておられ、彼が安心できるようになぶさめの言葉をくださる神様がここにおられます。
アブラムがこの神様に出会ったように、この朝私たちもこの神にお会いしたいんです。
礼拝は何でしょうか。生ける主にお会いする時です。
そしてその方に栄光をおきしする時です。
どういうふうに神様は私たちのことを理解してくださるのでしょうか。
2カ所くらいお話したいと思います。
詩編の31編7節を見ると、
あなたは私の悩みをご覧になり、私の魂の苦しみをご存知です。とあります。
主は私たちの悩みをご覧になるということなんですね。悩む時です。
どうしたらいいのかわからない時。答えがわからない時。
頭の中が混乱している時でしょう。
そんな時の私たちの悩みを主はご覧になってご存知であるということなんですね。
また詩編34編18節を見ると、
主は心の打ち砕かれたものの近くにおられる。
心の打ち砕かれたものの近くにおられるという見言葉があります。
この心の打ち砕かれたというのは、傷つけられたという意味です。
何かのため、誰かのため、傷つけられた。心がつらい。落ち込んでいる。やる気がない。
主はそんな傷ついた私たちの近くにおられるということです。
12:01
そして癒してくださるということなんです。
ところがここまでは私たちの周りにいる人もそういうふうにしてくれることもできるんです。
私の話を聞いてくれたり、家族だったり友人だったりした人だったら近くにいてくれることもできるんですね。
あるいは共感してくれることもできるんです。
それもいいことです。
しかし神様と人との決定的な違いがあります。
神様は私たちの気持ちをわかってくださるだけではなく、その問題を解決してくださるお方なんです。
人は聞いてくれるだけでしょう。
同感してくれるだけかもしれません。
それもありがたいものですけれども、しかし全能なる神様、癒し主なる神様は聞いてくださりわかってくださるだけではなく、それを回復してくださる、その問題を解決して癒してくださることのできるお方なんです。
この方を信じることです。
だから私たちは終局的には神様に行かなければならないんです。
神様を礼拝しなければなりません。
何度もお話をしたことがありますが、神を礼拝することを代わりにできるものはことはありません。
人間は本性的に、本性的に堕落しているものですから、野のお花を見て、空の太陽を見て、神様今日もありがとう、それは決して礼拝に代わることはできません。
神を礼拝すること、それはもうイエス様以来、2000年間教会が信徒が守ってきた信仰なんです。
さて、アブラムはどうでしょうか。
子供のいないアブラムに子供を与えてくださったのは神様です。
恐れているアブラムの気持ちだけではなく、子供を預けてくださったのは神様です。
神様が幻のうちに、アブラムに今日15章で3回目の約束を与えようとしておられます。
しかしアブラムの最初の反応は冷たいんです。
15:01
とても冷たい。
15章の2節を見ると、神主よ、あなたは私に何をくださるのですか。
私は子供がないままで死のうとしています。
私の家の相続人はダマスコのエリエゼルなのでしょうか。
今、子供がいないんです。
自分はおじちゃんです。
妻のサラはおばあちゃんです。
ダマスコだから違法人です。
自分の子孫ではないんですね。
このエリエゼルという男の子、1人しかいないんです。
2回も神様の約束の御言葉があったのに、誰も生まれていない。
何にも変わっていない。
だからアブラムは、こういうふうに言うのも無理ではないかなと思います。
事実、彼は歳をとっていて、このままなら子供なしで死ぬでしょう。
自分はもうおじちゃんです。
妻のサラもおばあちゃんですから。
実際に目に見える現実はこの通りなんですね。
その後、3節を見ると、アブラムの感情はもっとエスカレートして激しくなっていきます。
神様にこう言うんですね。
ご覧ください。
神様、あなたが子孫を私にくださらなかったから、私の家のしもべが私の後取りになるでしょう。
もう神様のせいにしていますね。
あなたが子供をくださらないから、こうなってしまいましたよとね。
神に文句をつけているアブラムです。
信仰の父と言われるアブラムにも、このような苦労歴史があったんですね。
人間的に見ればアブラムはつらかったでしょう。
2回も約束してくださったのに、誰も生まれていないし、何も変わっていない現実にとても失望していて、
怒りさえも抱いていたんです。
ところが皆さん、この場面をよくご覧ください。
イメージしてみてください。
文句をつけるアブラムと、彼をなだめる神様が描かれています。
一つの絵をイメージしてみてください。
私たちにも時々このようなイメージがあるのではないかなと思います。
怒っている私。文句をつける私。
そんな私をなだめる父なる神様です。
しかし神様はどうでしょうか。
この文句をつけているアブラムをなだめてくださるように、
18:04
まず彼の気持ちを引き受けてくださるんですね。
そしてこういうふうに一種は言われました。
四節。
そのものがあなたの後をついではならない。
ただ、あなた自身から生まれ出てくるものがあなたの後をつかなければならないと言われました。
もう一度確かめてくださる御言葉ですね。
あなた自身から生まれ出てくるもの。他のものではない。
まるで必ず息子が生まれるよ。来年の今頃生まれるからね。
今は見えないが、見ていないものを見るようにしなさいと神様から言われます。
今はあなたに息子がいないが、見ていないものを、目に見えないものを見るようにしなさいという神の御言葉ではないでしょうか。
そして神様はそんなアブラウムを外に連れて、さあ、天を見上げなさい。
ちょうど夜だったでしょう。星を数えられるなら数えなさい。
あなたの子孫はこのようになる。神様はなんと実物教育までしてくださいました。
あなたの子孫はこのようになるよ。
夜空の星を数えられないようにあなたの子孫はこのようになるよと言われました。
三回目の御言葉が与えられました。
自身から生まれ出てくるものが後継者になる。
自分の子孫が夜空の星のように数えられないほどになる。
でもどうでしょう皆さん。
現実的に考えても信じがたいものです。
息子もいないし、自分と妻は老人だし、現実的に不可能のような話にしか聞こえないかもしれません。
現実を見れば、皆さんここでこのアブラウムの現実をもう少し掘り下げて考えていきたいと思います。
このアブラウムの状況は一言で言えるならば乏しさです。
欠乏、乏しさ。息子がいない。夫婦とも老人である。違法人のエリエジェルしかいない。
今アブラウムの現実は乏しさなんです。窮屈、欠乏なんです。
21:08
そこでこのアブラウムの乏しさを私たちに当てはめてみたいと思います。
アブラウムの乏しさは人の乏しさを象徴しているものだと言えます。
例えば、人の貧しさ、あるいは病気、体のハンディキャップ、死等々。乏しさです。
欠乏です。窮屈です。今アブラウムが置かれている状況がまさにそれを象徴しているんですよ皆さん。
実際にそのため苦しんでいる、つらい思いをしている人たちが多くいると思います。
病気という乏しさの中にいる方もおられるでしょう。金銭的に困っている方もおられるでしょう。
何かの乏しさがあります。
しかしアブラウムの乏しさをご存知の神様は、それを埋めてくださるばかりか、満たしてくださる神様なんです。
その乏しさを豊かさに変えることのできる神様、信じられますでしょうか皆さん。
乏しさを豊かさに変えてくださる、それがおできになる神様を、今アブラウムはここで出会っているわけなんです。
だからある意味、乏しさの中に人が落とされることも、主の恵みを存分に豊かに味わえるチャンスなんです。
だからイエス様も、金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の耳に通るより難しいと。
むしろラクダが針の耳を通るのが、金持ちが天国に行くより優しいんだとおっしゃられた通りなんです。
皆さん、今何かの乏しさの中に、欠乏、窮屈の中にいらっしゃるでしょうか。
その中で悩んでいるでしょうか。あるいはつらい思いをしているんでしょうか。困っているでしょうか。窮屈なんでしょうか。
皆さん、覚えていてください。
人の我らの乏しさは、神の豊かさを味わえるチャンスなんです。恵みを味わえるチャンスなんです。
24:07
昨日も夕方5時から約1時間、今、韓国に行けないし、釜山に行けないですから、
Zoomのネットで向こうの40代の青年たちとの1時間ほどミーティングを持ちました。
それでいろいろ分かっている中で、彼らから先生の選挙、あるいは投票で何か、
彼らもまだ未婚の40代以上の未婚ですけれども、一言何かお話したいことはないですかと最後に聞かれたんですね。
それでもう言いたいことはたくさんありますが、時間がないわけですから、最後にこういうふうにお話をさせてもらいました。
私は確かにこの体の病気を得ています。
薬を飲んでいるわけですから、細いものですけれども顔がまん丸になっているでしょう。
首も太くなって、これがゆるいんだけれども、今、もう首が締められるほどきついんですね。
これも薬のせいなんだけれども、それで彼らに言ったのは、私は確かに体の病気を得ている。
それで前のように元気ではない。
しょっちゅう足がつって温度に歩くのがしんどい。
そんな話をしましたけれども、でも私は今、私の人生51、52の人生の中で一番幸せである。
魂が清められていますし、神様に愛されていること。
そして本当に感謝して、感謝のうちに日々を送っていますと。
そんな話を彼らと分かち合いをしました。
皆さん、人の乏しさは、神の豊かさを豊かに経験できる、味わえるチャンスなんです。
今、アブラウムがそのときなんです。
私たちのどんな乏しさも、豊かさに変えることができる神様を信じることが信仰なんです。
だから皆さん、現実の乏しさって、神の助けを味わえるチャンスなんです。
明確じゃないですか、皆さん。
現実の乏しさって、神の助けを味わえるチャンス。
私の言葉です。
本当にそうなんです。
神を信じるとは、たとえ自分が今、乏しさの中にいても、
27:01
その乏しさの中で全能の神様を見上げて、この方は真実な方である。
そして、この方の御言葉も真実であると信じることです。
突然でもちろんつまずいたり、しかしもう一度立ち直ったらいいんです。
そして、天皇お父様を見上げて信じていけばいいんです。
つまづくことが決してない、完璧である、そういう話ではないんです。
もう16章から言って、また私たちはわかりますが、油もまたつまづくんですよ。
完璧なものになれないんです。
つまづいたり文句をつけたり、過ちをしちゃったりするのが私たちです。
人間くさいのが私たちです。
しかし皆さん、そこで止まってはいけません。
しかし、そのままずっととどまっていいよと聖書は話していません。
人は神様に出会った後、変えられていきます。
油も変えられていきます。これが大事です。
まことに神様に出会った人は、必ず変えられていきますよ。
つまづきが、過ちが、失敗が、時々あるかもしれませんが、
そこから清められていく、変えられていく神に出会った人には、必ずそれが現れるんです。
さて神様から、あなた自身から生まれるものが後をつかなきゃならないと言われたとき、
油もはどう応答したんでしょうか。
重古書の6節をご覧ください。
油もは主を信じた。それが彼の義と認められたとありました。
皆さん、油もは変わりましたね。変わりました。
先まで文句をつけていた彼なんですよ。
怒っていた彼なんですよ。神様は下さらないから誰もいないんじゃないですか。
このエレジェルしかいませんよと。
そんなふうに文句をつけて怒っていた神様に反抗的だった油もなのに、
3回目の約束の御言葉に触れた彼は、まるで一気に別人のように変わりましたね。
油もは主を信じたとあります。とてもシンプルです。
人は、まことに神様の御言葉に触れたら変えられますね。
文句をつける人も、怒っている人も、不信心の人も、疑いの人も、
30:02
乏しさの人も、徘徊する人も、まことに神に触れて、
この方の真実な御言葉に触れるならば、人は必ず変えられます。
アブラムのように。
アブラムは主を信じた。
この信仰が私たちにもあってほしいんです。
シンプルです。複雑ではありません。
現実を見ても子どもはいないんだけれども、
自分はおじちゃんで、皿もおばあちゃんですけれども、
もう妊娠できない年ですけれども、
でも主の言葉があるから、アブラムは主を信じた。
とてもシンプルで明快じゃないですか、皆さん。
ここには言い訳はないんですよ。弁明はないんですよ。
でもと付け足す言葉もないんです。
何も変わっていませんという、現実を見る目もありません。
アブラムは主を信じた。素晴らしいです。
アブラムは現実は乏しいですが、御言葉を信じました。
これをヘブロビテの手紙11章11節はこういうふうに解説しています。
アブラムはすでにその年を過ぎた身であり、
サナ自身も不妊の女であったのに、
信仰によってこう設ける力を得ました。
彼が約束してくださった方を真実な方と考えたからですとあります。
この考えたは信じたというふうな意味であります。
だからアブラムは年を過ぎている自分の体を見て、
サナも不妊の妻である。
しかし主からお空の星のようになるよと御言葉が3回語られたときに、
アブラムは信仰によってこう設ける力をいただいて、
そして1年後どうなりましたか。遺作が生まれたんですね。
約束してくださった方を真実な方と信じたからです。
これが信じるということなんです。
自分の信念を信じるんじゃないんですよ。
自分の能力を信じるんじゃないんですよ。
約束してくださった神は真実な方である。
神様が真実であり、真実な方の言葉だからその言葉も真実である。
約束も真実である。
33:00
だから真実だからその通りになると信じることが信仰なんです。
それでそれが彼の義と認められたとあります。
今までアブラムは複雑な気持ちだったと思うんです。
しかし真実な方の御言葉に彼の魂が触れたとき、
とてもシンプルに信じるようになりました。
アブラムは主を信じた。
こういう信仰者になりたいんですよ。
信じる者になりたいんです。
アブラムは今の自分を見たら信じがたい子孫に対する御言葉ですが、
遺作を見ているように信じました。
まだ見ていない息子が自分の目の前にいるように信じました。
善のの神、真実な神が言われたから信じました。
これが信じることの意味ではないでしょう。
最後にそれでそれが彼の義と認められたとありますが、
今日はここに重点を置いていないんですけれども、
この義というのは一番簡単に説明しますと正しい関係です。
ですから、彼の義と認められたというのをわかりやすく言うならば、
アブラムは神と正しい関係であったということなんです。
それを神に認められたという意味なんです。
だから他の旧約聖書は義という意味を正しいと日本語は訳されているんですね。
だから神様とアブラムの関係はその中に曇りがありません。
神を真実な方とも受け入れて正しく立っている関係を意味します。
それを神様が認めてくださったということなんです。
そして新約時代の私たちに当てはめるなら、ガラテア2書16節にこういう言葉があります。
キリストを信じることによって義と認められるとあります。
その通りです。信仰によって私たちは正しいと神様に認められます。
人によってあなたは正しい、あなたは正しくないとそういうふうに判断されるのではありません。
神様からそういうふうに認められます。
これも不思議な神の恵みだと信じます。
信じるとは何でしょうか。
神様を信じることであり、神様は真実な方だと信じることであり、
36:00
その神の御言葉は真実だと信じることです。
神様はこのように信じる信仰が与えられますようお祈りいたします。
お祈りしましょう。
36:15

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