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2024-03-03 28:56

2024/03/03:恐れることはありません

2024/03/03 聖日礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 -34

サマリー

このエピソードでは、「恐れることはありません」という御言葉について考えられます。イエス様は群衆の中に近づき、彼らを憐れみ深いお方だと語り、神を信じることの重要性を伝えます。食べることや着ることを心配するのはやめるようにと、イエス様は語りかけられます。恵みによって導かれる神の御国であることを信じ、自分の小ささに恐れずに神の支配を受け入れる、それが大切です。恐れずに主の御言葉をしっかりと受け止めることを願っています。

イエス様の群衆への憐れみ
それでは一言お祈りをいたします。
天の父なる神様、死の御前へと私たちを今日も招いてくださり、
あなたの御言葉によって命を得よと、あなた御自身の招きの中に、今日このところにいさせていただけることを感謝いたします。
気候が落ち着かない中で、朝は寒かったり、昼は暑かったりと、
私たちの体は本当に疲れを覚えているこのような季節ですけれども、
しかし主が本当にお一人一人の命を支えてくださり、このところで共にあなたをあげている栽培を感謝いたします。
どうか神様、あなたの御前にいます。
しもびは聞きます、どうか主をお語りくださいと、あなたに心を開いて御声を聞くことができますように、
私たちの耳を開いてください、お願いいたします。
何よりも、あなたは私たちのために御子をあの十字架へと捧げてくださいました。
主は福いたもうと先ほど賛美をいたしましたが、
私たちの中にある様々な異様もない憂きや苦しみをも、主は十字架において担ってくださり、
私たちの罪を許し、神のことし、永遠なる人と共に生きる永遠の命を与えてくださいました。
あなたの十字架とあなた御自身に私たちの希望があることを覚え感謝をいたします。
どうか今日も主よ、あなたを仰がしてくださいますように、そして復活し今も生きておられる主と共に歩む力を与えてください。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることを覚えます。
どうか神様が施設におられる方、御自宅で礼拝を守っておられる方、
また、今日は治療のためにここに来たくても来れないご夫妻がいることも聞いていますが、
神様がそれぞれのうちに働いてくださり、あなたの御恵みを注いでください。お願いをいたします。
これからの時を御手に委ねます御言葉を開いてくださいますように、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
今日は長めの歌詞を読んでいただきましたが、特に注目したいのは32節の言葉です。
小さな群れよ、恐れることはありません。あなた方の父は喜んであなた方に御国を与えてくださるのです。
この御言葉というのは実は私にとっては少し思い出深い御言葉です。
新学校の3年生の時に、私は神戸清泉教会という教会の実習でした。
ご存知の方も多いかもしれません。今はもう教会は閉鎖しまして、清泉の家という名前に変わっています。
私が行った10年前は、定住の先生がすでにいらっしゃらなくて、教会には6名の方々が毎週礼拝を守っておられました。
礼拝を守っているという表現が本当にふさわしいですね。
とにかくこの地で礼拝を続けていくために、静かにでも一生懸命戦っておられる方々でした。
その時の主管は神戸主要教会の川原崎先生で、その年の清泉教会に与えられた聖書の御言葉がこの12章の32節だったんです。
神戸役聖書でしたから、こういう言葉でした。
恐れるな小さい群れよ、御国を下さることは、あなた方の父の御心なのであるという言葉です。
恐れるな小さい群れよと言うんですね。
私はその言葉を聞いて、その時初めて意識的にその言葉を知ったんです。
こんな言葉が聖書にあったんだ。恐れるな小さい群れよ。
そう言われた時に、この清泉教会には本当にきっかしな慰めだなと思って聞きました。
しかしですね、私は同時にこうも思ってしまったことを覚えています。
恐れるな小さい群れよと言われるのだけど、主よどうして恐れずにいられるでしょうか。
もはやすでにこの教会には、あれもこれもないのですと思ったことを覚えています。
私は新学校を卒業してから、比較的小規模の教会で御奉仕をさせていただく機会が多かったです。
その都度それぞれの教会には、日曜日の礼拝を守り続けるという戦いがあるんです。
その中で恐れるな小さい群れよと言われたら、ああその通りだなと私はその度その度励ましを受けるのですが、
しかし同時に心の奥でどこかで思っているのです。主よ、けれども、けれどもです。
あれもこれもないのです。あれもこれももう足りないのです。
そして小さい群れや小さい私はあまりにも無力なのです。主よ私は疲れてしまうのです。
主よあなたはなおも私に恐れるなと言われるのですかと、まだあなたはそれでも恐れるなと私に言えるのですかと、
そのような葛藤を覚えていたことを何か思い出します。
でもこれって私たちよくある経験だと思うのです。見言葉はこう励ましてくれているけど、現実を見るならば、でも、ああないないない。
その中で疲れてしまうということがあるかもしれません。
ただ今朝私たちがこの箇所からある種を教えられるのは、なぜ主は私たちになおも恐れるなと言えるのかということです。
なぜ恐れるなと主は私たちに言われるのか、そのことをご一緒に今日読んでいただいた箇所から覚えたいと思います。
さて今朝はこの22節から読んでいただきましたけれども、ただこの時の状況を少しだけ確認するために、1節あたりからこの状況を確認したいと思います。
この時はどういう状況だったかというと、イエス様のもとに足の踏み場がないほどの群衆が殺到していたという状況です。
なぜでしょうか。読んでいったらわかるかもしれませんが、簡単に言うならば、ここに集っている群衆たちというのは、比較的貧しい人たち。
心身共に病を抱える人たち。穢れた罪人と呼ばれる人たちなのです。
いわば、渇いている人たちです。
当時、このような人々を助けてくれる場所も人もいませんでした。
この12章の1節には、パリサイ人のパンザネすなわち偽善には気をつけなさいと、ここら辺はもうパリサイ人に対するアシュ、イエス様の批判ということがあります。
パリサイ派などの宗教指導者たちは、こういう群衆たち、穢れて病を持っていて、傷んでいる群衆たちというのは、神様に喜ばれない呪われた人たちだと思って断罪していたのです。
あいつらはダメだ。神殿にも礼拝にも集えないと思っていました。
けれども、この12章を見ていくと、イエス様はこのような宗教指導者とは真逆だったわけです。
どうであったか。
12章の4節を見ますと、イエス様は、私の友であるあなた方に言いますと言われるのです。
私の友であるあなた方に言います。
イエス様はこのような群衆を見て断罪するんじゃなくて、あなたは私の友達だと言われました。
そして、6節、7節をちょっとお読みしますと、
5羽のスズメがニアサリオンで売られているではありませんか。
そんなスズメの一羽でも神の御前で忘れられてはいません。
それどころか、あなた方の髪の毛さえもすべて数えられています。
恐れることはありません。あなた方は多くのスズメよりも価値があるのですと、
貧しさや病や穢れや罪、そのようなところに陥っているものを、
神様は嫌っているのだと当時のパリサイハ達は言ったかもしれませんが、
イエス様はそうではないと言ったのです。
神を信じることの重要性
神様というお方は、むしろ貧しさであったり、病であったり、穢れであったり、罪にとらわれる一人一人の存在を大事に思っておられる。
それは、あなたの髪の毛一本一本ということ細かいところまで、あなたを知ってくださっているように。
あなたが知らないところ、あなたが自分自身の知らないところまで、神はあなたのことを知っているし、
あなたが自分で自分のことを大事にできなかろうとも、
神にとってあなたは大事な存在なんだということを、このところでイエス様は言われるのです。
貧しさや病や穢れや罪というのは、別にみんながなりたくて望んでなるわけではありません。
そうなりたくなくても、ならざるを得ない人間の痛みというものがあります。
けれども、神様というお方は、そこに、
あ、もうそんなところ汚いから嫌だわ、ではなくて、むしろそこに近づき、
暗闇の中にまで下り、心を震わせながら憐れむ神であるということを聖書は言うんです。
それはまさにこの群衆の中で、群衆を汚いと知りかけるのではなくて、群衆に近づき、
あなたは私の友だと呼ぶイエス様の姿を見れば一目瞭然なんだ。
神はこういうお方なんだということをイエス様は言われるのです。
だから群衆は殺到するんですね。
オアシスを見つけたからです。ここに私を潤す何かがあると思ったからです。
イエス様は、神様はこのように憐れみ深いお方なのだから、
神を信じイエス様ご自身を認めなさいということを、八節以降言います。
神様がイエス様が何者であるかということは、
精霊様が教えてくださるのですね。
だから精霊様の語りかけを拒むことだけは許されないということが十節に書いてあります。
精霊を拒むものは許されない。
なぜならそれは救いそのものを拒むことだからです。
群衆の中の一人の要求
どれほど明確に精霊様が語られても、
明確に救いを拒む人間を神様は救うことができないということです。
ここまでさらっと見てきましたけれども、
ただイエス様は本当にここで本当に大切なお話をたくさんされるわけです。
いわばイエス様にとっては伝道説教みたいなものですよ。
このような神なんだということを語っている。
けれどもそういう大切な話をする中で十三節からは、
群衆の中の一人がいちなりこういうことを言い始めるんです。
先生遺産を私と分けるように私の兄弟に言ってください。
何を言い出すかというと、遺産の分け前について仲介してくれと
いきなりイエス様に賛美始める人が出てくる。
この人はおそらくイエス様がこの時、
イエス様の語りかけってそうですけれども、
ある意味それはその人の永遠に関わる言葉ですよね。
その人が永遠の命に預かるのか、
その人が永遠の滅びに預かるのかを分けるような本当に大切な言葉。
イエス様の言葉です。
しかしそれを遮るかのように群衆の一人が遺産の分け前のことを言った。
なぜかおそらくこの人の心の中には遺産の分け前ということが占めていたからでしょう。
心配事が、遺産がどうなるかという心配事が彼の心の中を占めていた。
この人に限らず、おそらくここに集っていた群衆たちの中には、
それぞれ心の中を占めている心配事というものがあったのです。
それはイエス様が今日読んでいただいた22節から言っていますけれども、
イエス様は、
ですから私はあなた方に言います。
何を食べようかと命のことで心配したり、
何を着ようかと体のことで心配することはやめなさいと言われました。
群衆たちの心配というのは大まかに言えばまさに何を着ようか、何を食べようかです。
これは単純に今晩何を食べようかなとか、
明日どんな服を着ようかなという話ではないですね。
食べるものがないということです。
明日食べるものがない。
明日着るものがないということです。
そういうような心配事を持っている群衆がそこにいたということです。
明日私は生きられるのだろうか、明日私の生活は成立するのだろうか、
そのような心配事を持っている群衆がイエス様の前に来ていたということです。
それはまさに自分の命に関わる心配事ですよ。
それが恐れとしてその人の中にある。
私たちも、これは私自身も経験しますけれども、
見言葉が語られているのに素直に耳を傾けられないときが私たちにはあります。
主がここで何か大事なことを言っているんだけど、全然心に響かないということが。
でもそれはもしもそういうことが終わりでしたら、
おそらく心の中に心配事があるんです。
無視ができない恐れがあるんです。
それが心を締めて、どうなるんだろう、どうすればよいのだろうと思っているんです。
そしてそのような自問自答にある種、自分自身が閉じ込められてしまって、
精霊様がそこで私たちに導きを与えてくれているのに、
それに素直に聞けないということが、私たちは互いにあるのではないでしょうか。
ただ、今日の箇所を見ていきますと、神様は私たちの髪の毛一本一本までご存知の方なんです。
神様はそのような状態にある私たちをも知ってくださっているんですね。
そしてそのように悩む群衆に対して、まさに恐れにとらわれて、
神の言葉が聞けない彼らに対して、22節から30節の言葉が語られているんです。
ちょっと長いですが、もう一度しっかり読みたいと思います。
露華の勲章12章の22節から30節。
「ですから私はあなた方に言います。何を食べようかと命のことで心配したり、
何を着ようかと身体のことで心配するのはやめなさい。
命は食べ物以上のもの、身体は着るもの以上のものだからです。
カラスのことをよく考えなさい。種まきもせず、刈り入れもせず、苗も蔵もありません。
それでも神は養っていてくださいます。
あなた方にはその鳥よりもどんなに大きな価値があることでしょう。
あなた方のうち誰が心配したからといって、少しでも自分の命を延ばすことができるでしょうか。
こんな小さなことさえできないのなら、何で他のことまで心配するのですか。
草花がどのようにして育つのかよく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし私はあなた方に言います。映画を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。
今日は野にあって、明日は露に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、
あなた方にはどんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。
何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと心配するのをやめ、気を揉むのをやめなさい。
これらのものすべて、この世の違法人が切に求めているものです。
これらのものがあなた方に必要であることは、あなた方の父が知っておられます。
ちょっと長く読みましたけれど、お読みになられて気づかれたかもしれません。
繰り返されている言葉があるんです。
それは、心配するなです。心配するな。
これは、元の言葉を見ますと、命令形で、しかも現在形の継続の意味合いを持っている命令形です。
ですから、心配し続けるなということです。心配し続けるなということ。
心配ごとにばかり目を向けること、そこにある種注視し続けることをやめなさいと言われるのです。
私たち思います、そんな無茶なと思うかもしれません。
私がしなければ、誰がこの問題を解決するのですか。
結局私が、結局私がしなければいけないのではないのですか。
私たちはよくそのように思うかもしれません。
けれどもイエス様はこの箇所で、それは違うと言われるんです。それは違うよと言われるんです。
三十世と見ますと、これらのものがあなた方に必要であることは、あなた方の父が知っておられますと言われるのです。
神様は私を知っておられる。
これは先ほどの十二章の前半にもありましたが、ここで繰り返されていることなんです。
神はあなたを知っていると言うんです。神はあなたを知っておられる。
神様は髪の毛の一本一本に至るまで、こと細かにまで、あなたを私を知っていて下さる。
ましてや、今抱えている私たちの中にある痛み、心配事というものを、神様が知らないわけがない。確実に私たちのことを知っていて下さっている。
そしてこの書きを見るならば、神様は私たちのことを知っているだけではありません。
神様は私たちが抱えている痛みや心配事というものを、神が抱えて下さっていると言っている。
神が抱えて下さって。
二十二節、二十三節を見ますと、何度も今日も読んでしまいましたけれども、
ですから私はあなた方に言います。何を食べようかと命のことで心配して、何を着ようかと身体のことで心配したりするのをやめなさい。
命は食べ物以上のもの、身体は着るもの以上のものだからです。
何を着ようか、食べようか、これは命に関わる心配事だと申し上げました。
しかしそれを心配することをやめなさい。
なぜなら、神様は食べ物を自ら求めることのできないカラスであっても、神は養っていて下さるからです。
神は養われるお方。
草原の美しさを自らが紡ぐことができなかったとしても、美しい色がつくわけです。
なぜなら、今日は野にあって明日は野に投げ込まれる草さえも、神はこのように装って下さるからだというのです。
あなた方にはどんなに良くして下さることでしょう、信仰の薄い人たちよと言われますが。
この歌詞を見るときに、神様はご自身の子供を養い装い良いもので満たす、
これはいわば恵みの神だということを言っているのです。
恵みの神ご自身だということです。
神様はそのように、ご自身の子、ご自身の民を恵みによって支配し導かれるということを、これは聖書で一言で言えるのです。
それは何かというと、御国ということです。
御国って何なのか、神が神ご自身の民と神ご自身の子とした一人一人を恵みによって導くということです。
それが御国という言葉です。
神様の恵みの御支配
だから今日の32節の言葉を見たら、なんとなくその意味がわかります。
小さな群れよ、恐れることはありません。あなた方の父は喜んであなた方に御国を与えて下さるのです。
御国って何のことを言っているかというと、この前の歌詞を見たらいいのです。
御国って何、カラスを養う神。御国って何、草葉の与葬を神。それと同じようにあなた方にもして下さる。
それが御国ですよということです。
御国というのは、神様はどんな時でもあなたの心配事を知り、恵みを持って臨まれるということです。
ある種小さい群れよと、ここで語りかけました。
ガリラヤからエルサレムに向かう中で迫害が激しくなっていきます。
イエス様を信じる神というのはある種、だんだん厳しくなってくるんです。
この道のりの中で、あなた方狭い門から入りなさいということまでイエス様は言われましたから、だんだん大変になってくる。
でも、いかに小さかろうと、いかにそこにある自分自身が小さくて力がなかろうとも、
この神の恵みの御支配をあなたが持っているならば恐れるなと言っているんです。
あなたの小ささの問題ではない、群れの小ささの問題ではない。
神の御国がここに広げられているんだ。
そうであれならば恐れるなと言っているんです。
小さな群れのための勧め
32節の御言葉を言い換えれば、こう言えるのかもしれません。
恐れるな。私があなたの心配事のただ中にいる。
あなたの心配事は、あなたが全て背負っているのではない。
私が背負っているのだ。
私はあなた以上にあなたの必要を知っている。あなたが立つのではない。
私の恵みがあなたを立たせるのだと。
父は言われる。
私はこの恵みの支配という言葉を川原教授に教えられたんですけど、本当そうだなと思います。
聖書は神が恵みの御支配を広げていると語る。
それをある種、私たちの教団風に言い換えるならば、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているということですよ。
私が生きているのではない。神がキリストが私を生かすのだということを。
この主語の逆転とでも言いましょうかね。
私が、私が、私がこれを担わなければどうしようもないんでしょ。
そうじゃない。信仰の世界というのはそういうことではない。
神がキリストがあなたを愛しになっているという事実を信じなさいということです。
それゆえに私たちは神様に信仰の薄いものだと、そういう意味で言われないかなと、私自身も問われるような気がいたします。
人生の旅路というところにおいて、重荷を背負うのは私だけではない。
私と共に、私のうちにいますキリストが生きている。
私が永遠の滅びに陥らないために、ご自身を十字架にまで捧げているほど、私を愛してくださっているミコイエス様が、今も私の抱える痛みを抱えてくださり、それを背負い進んでくださっている。
そう言えるのだと思います。
そして、この33節34節というのは、「財産を売って施しなさい。」ですね。
心配事が、何を食べ、何を生きるかという事に囚われる時に、私たちはそれを守って生きようとします。
でもキリスト社の合意というのは、「いや、主が満たしてくださるのだから、私たちは人から奪い取るのではなくて、与える方向に行きましょう。」という事です。
これは旧約聖書の立法から変わりません。
主が満たしてくださるのだから、私たちはお互いに与え合って生きていきましょうという事ですね。
私たちは人生の中で貧しさも病も穢れも罪も経験し、ある種痛みながら生きていくお互いであるかと思います。
しかしイエス様は今朝、私たちにも手を差し伸ばしながら、
心配するな、恐れるな、私がここにいる。私はあなたがどれほど穢れていてもなおもあなたに近く、あなたに恵みをあらわすと言われるんです。
今朝私たちはこれから聖三式を取り行います。
聖三式という時は、十字架の流された血潮によって神のことされたことを覚えますけれども、それだけではありません。
愛する者共のために命を捨てるこれ以上の愛はないんです。
主が私たちを知ってくださっているということを、これがどれほど安心できることかなと思いながら、
そして私たちの心の奥底まで主がそれを知り、私がそれを支えているんだと言われる、あなたの神様の語りかけを受け止めて、
私ではない主が私を生かしてくださっているという事実をもう一度信じ直したいと思うのですね。
小さな群れよ、恐れることはありません。あなた方の父は喜んであなた方に憎みを与えてくださるのです。
どんなに小さかろうと、神が憎みがここにあるならば、主は言われな、恐れるな、恐れるな、大丈夫だ。
あなたの何かじゃなくて、私があなたを支えているという事実こそが真実なのだ、それを信じなさい。
そのように私たちに語られる、私たちは主の恐れるなという言葉をしっかりと受け止めさせていただきたいと思うのです。
一言は祈りをして、メッセージを終わります。
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