2023-12-03 28:37

#十字架を負って待ち望む 23/11/26

マルコ-9:1からの礼拝説教。2023年12月3月録音。先週に引き続き、イエス様はご自分の弟子たちが持っていた誤った考え方を正しています。「誤った弟子の在り方」を正しているのです。厳しい言葉ですが、1.12弟子たち、2.マルコの福音書が書かれ広まった時代の人々、3.現代の私たちに、の3種類の聞き手の視点から考えて行きましょう。


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00:07
丸子8章34節から9章1節です。
それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。
誰でも私に従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者は、それを失い、
私と福音のために命を失う者は、それを救うのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の益があるでしょうか。
自分の命を買い戻すのに、人は一体何を差し出せばよいのでしょうか。
誰でも、このような簡易と罪の時代にあって、私と私の言葉を恥じるなら、
人の子も父の栄光を帯びて、聖なる御使いたちと共に来るとき、その人を恥じます。
またイエスは彼らに言われた。
まことにあなた方に言います。
ここに立っている人たちの中には、神の国が力を持って到来しているのを見るまで、
決して死を味わわない人たちがいます。
以上です。
今日のところは、十字架を追って待ち望む、と題して御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
今日からですね、アドベントに入りました。
先週は、皆さんも注目していらっしゃるかもしれませんが、
ガザ地区の戦闘がですね、急戦になりまして、
しばらくですね、急戦が続いて延長もされ、
そしてそれがですね、本当はずっとそのままですね、終わってほしいと願った方もいらっしゃるかもしれません。
クリスマス急戦というのもね、ありますので、
そういうことにも望みを置きながら、
そのような世界の痛みに心を寄せるような時となればと思います。
そんな中でですね、平和を待ち望む。
キリスト教では、クリスマスを待ち望むという意味で、
今日から12月の第一聖日から、今年はですね、アドベント、待ち望むという対抗説に入りました。
その中で、今日はですね、今まで通りの順番で、
マルコの福音書の8章の34節から学んでいきます。
少しアドベントとも、後で関わりが出てくるかと思います。
今日の言葉についてですね、3種類の聞き手に分けて解説していきます。
実はそれは、私たちが、皆さんがご自分で聖書を読むときに、
そういう読み方ができる、そんなことで参考にしてもらえればと思っています。
その中で、まず一番最初ですね、まず最初の読み手、それは誰だったか。
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読み手と言いますか、このイエスタムの2言葉の第一の聞き手、それは12弟子たちです。
文字通りそのイエス様が言葉を発したときに聞いていた人たちです。
冒頭の見言葉を読める方、声に出して、8章34節を読んでみてください。
それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、
彼らに言われた、誰でも私に従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を追って、私に従ってきなさい。
この見言葉、直接は先週見たペテロの信仰告白、イエス様に対してあなたはキリストですという告白、
そしてその過ちとそれを正すというところから続いて、34節の見言葉の解説、見言葉が語られているわけです。
そのとき、おそらく最初は12弟子にイエス様はそのご自分の正体を救い主として表したと言いますかですね、
告白させたんでしょうけれども、その後、ペテロの間違いを正した後、12弟子以外の群衆といったときに、
誰を指すのかといういろんな説がありますが、少なくとも12弟子以外の、一説によれば70人ほどいた弟子たち、
そしてさらに、もしかしたらそのとき見言葉を聞いていた全ての人をご自分のもとに呼び寄せたと言われています。
その直接聞いた、特に12人やイエス様の弟子たちに、なぜこの言葉の意味があるか、どんな意味があるかということですが、
それはですね、ペテロをはじめ、特に12弟子たちは、イエス様がキリスト、救い主メシアであるということについて、誤解をしていたということと関係があります。
ペテロはイエス様のことを、あなたはキリストですと言い当てましたが、誤解があった。
それは、栄光のメシアとしてでしか理解しておらず、その後イエス様が告白した、いわゆる受難のメシアですね。
受難と逮捕、そして受難、そして復活、十字架復活ということをペテロは理解できずに、イエス様をある意味、叱りつけた。
そのペテロに対して、そしてそれを持っていた12弟子に対して、イエス様が叱って言われたのが先週の最後の言葉です。
あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。
で、今日のところに続きますけれども、このペテロはですね、イエス様の救い主であるというあり方だけじゃなくて、弟子のあり方も誤解をしていたということと、
今日からの、ここからの見言葉は関係しています。
ペテロをはじめとする群衆は、こう誤解していたんですね。
どういう誤解か。
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それは、救い主イエス様についていけば、この栄光のメシアであるイエス様についていけば、自分もその栄誉に預かることができるという。
今でもあるんでしょうか、権力の座にある人のそばに行けば、自分もその旨味に預かれるという、考える人がいたりするわけですよね。
あるいは、なんとなく自分も偉くなった気分になれると考えていたのかもしれません。
その中で、イエス様はその弟子たる者の生き様とか、心構えが間違っているよということで、正しい弟子の生き様を語った。
直接、まずペテロと十二弟子たち、その周りの弟子たちに語ったというわけです。
ここで興味深いことが、この使われた言葉です。
34節に今読んだ身言葉の、私に従ってきたければという言葉。
これは直訳すると、私イエス様の後についてきたければという言葉です。
この後という言葉は元々のギリシャ語では、オピソー、オピソームー、
ムーというのは英語のmeと同じで、私。私の後というのはafter、後ろ。
私の後についてきたければという言葉。弟子として私の後についてきたければという言葉なんですけど、
実はその言葉は、先週見た直前の33節でイエス様がペテロの間違いを指摘したときに言った言葉。
下がれサタンという言葉の下がれ、サタンの下がれは直訳すると、私の後ろに行きなさいという意味なんです。
その後ろに行けという言葉も同じく、オピソームーという全く同じ言葉が使われているということが、
実は興味深いことなんですね。実は先週見たこのペテロがイエス様を潜め始めたという言葉と、
イエス様がペテロを叱ったという言葉も同じだと見たんですが、それはペテロがどんな間違いを犯したかというと、
自分の方がイエス様よりも上の立場であって、イエス様の間違いを指摘する。
救い主が十字架にかけられる。同じイスラエルの神の民の指導者によって裏切られるなんてことがあっちゃいけませんと教えてやろうというペテロが、
イエス様の上の立場に立ったという間違いを見たわけです。
それは言い換えれば、このペテロがイエス様の先に行って歩んでいたとも言い換えられるわけです。
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繰り返し言いますけども、ペテロはイエス様の召し当たる姿だけでなく、自分たち弟子の姿においても十字架を避けて考えていたんですね。
それは神の立場ではなく、人間的、自分の立場や都合を優先的に考えた言葉なんです。
イエス様がここでペテロたち弟子たちに教えたのは、自分を優位に置くのではなくて、弟子としてあくまでもイエス様の後ろをついて歩んでいきなさい。
そして十字架を背負って私の後についてきなさいということなんです。
それにももっと深い願蓄がありますが、それを2番目のことと関連しながら見ていきましょう。
2番目の読者というか聞いて、それはマルコの福音書が書かれ広まった時代の人々という、そこをその人たちがどうやってこのマルコの福音書に触れたか。
当時、あまり紙って効果だったので、パピルスの名前に書かれたので読まれてみんなこの福音書を聞いてたんです。
当時の教会で、家の習慣の人が聞いたとき、どんなことを聞いたか。 ここでイエス様が言っています。
続けて8章35、36です。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私と福音のために命を失う者はそれを救うのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。
いろんな説があるんですけれども、おそらくマルコの福音書、絶対わかっていることはですね、マルコの福音書は4つの福音書の中で一番最初に書かれたということがわかっています。
そして、ヨハネ以外のですね、マタイの福音書やルカの福音書は、マルコの福音書をもとに他の資料を寄せ集めて書いたとも言われているんです。
それはそれとしまして、マルコの福音書はだいたい生歴50年前後に書かれたと言われているんですね。
そして教会や集会で巡回されて読まれた。そこから何がわかるか。
当時の一説によると、ローマ社会の中で生きるクリスチャンに向けて書かれたと言われています。
そこからですね、少なくとも2つのことがわかります。
まず、当時の人々や、特にユダヤ人もローマ人もですね、十字架を追ってきなさいと言った十字架についてどんなイメージを持っていたかということです。
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皆さんね、十字架というと今、アクセサリーでおしゃれなイメージがありますね。ラッパーとかですね、ミュージシャンがしていたり。
あるいは国旗にまでなっていて栄誉あるものと考えられています。
しかしご存知の方も多いと思いますけれども、ユダヤ人にとっては十字架は神の呪いであって、ローマ人にとっては見せしめの死刑の道具だったんですね。
地位が最も低い人たちが見せしめで殺される道具が十字架になったんですね。
今でも死刑って本当に残酷なものですけれども、文字通りそれを見せられたわけです。
いろんな話ありますけれども、例えばですね、当時西暦71年にこんなことがあったんですね。奴隷の反乱がよく起こったんです。
あるローマの将軍がその反乱軍を制圧したんです。そしてその頭とですね、その家来6,000人いたって言うんです。
それを当時のアッピア街道、日本で言えば東海道でしょうか、首都に続くローマに続くアッピア街道に全員6,000人を十字架に貼り付けにして見せしめにしたって言うんです。
そういうことをですね、この福音書を読んだ人たちは見ているわけですから、十字架を追って自分もイエス様の後に歩むということの生々しさというものが私たち以上に伝わってきたわけです。
あまりにもですね、この十字架系はむごいので、当時のローマではローマの死人権を持った人には禁止された死刑方法だったんですね。死ぬまで時間がかかるとかいろいろあったんです。
そのような衝撃的なものでありながらも、同時に彼らにとっては自分たちの救い主が十字架で死なれたということも栄誉でもあったわけです。
そういう中で、当時のクリスチャンがどんな経験をしていたかというとですね、この71年ローマのこの出来事の約100年後ですね、2世紀に入るとローマの悪名高い皇帝ネロがいますね。
ネロがクオバディスという小説にもありますけれども、自分が遊び半分でローマに火をつけて大火事を起こしました。そしてその攻めをですね、自分がやったという噂が広まったので、当時怪しまれていたキリスト教徒に追わせた。
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そしてまさにキリスト教徒を見せしめとしてコロセウムとか自分の宮殿でですね、自分の宮殿では火に破って十字架にかけてクリスチャンを殺した。そんなことが起こっていたわけです。
そういう時代の中で、実は徐々に当時のクリスチャンの迫害がひどくなっていったわけなんです。
そしてそういう迫害が広まっていった、こういうものを見聞きした前後にこのマルコの福音書が書かれ、広まっていって彼ら彼女らはそのような迫害や自分の命の危険の中でこの御言葉を読んだ。この御言葉に触れたわけです。
ですからまさにその当時のこの御言葉に触れたクリスチャンの中には、自分が裁判にかけられて信仰故に命を落とす危険を感じていたり、自分や自分の身近に文字通りクリスチャンとして裁判にかけられて、信仰告白させられて死刑にされたという人が少なからずいたというわけなんです。
自分も命の危険があった。信仰告白によって。
そのような状況の中にいたクリスチャンの人たちにとっては、このイエス様の御言葉が実は慰めとなり励ましとなったわけなんですね。なぜか。
実はその時にですね、35節36節の御言葉、この御言葉ですね、ここでいう自分の命を救うか失うかというのはどういうことかというと、信仰を告白することによって文字通り自分の命を失った人が想定されているんです。
でも、そういう人はたとえ信仰の上に命を失ったとしても、実はその人は本当の命、いろんな言い方できますけれども、神が約束された永遠の命に預かっているんですよという、そういう慰めになったわけです。
そして全世界を手に入れても云々というこの下りですね、それは反対にですね、信仰と関係なく生きている人たちは、この文字通り当時の世界を征服していたローマ帝国の中で暮らしていて、まさに全世界を手にしているように権力者なんかも見えるかもしれません。
でも、その人たちは実は誠の命を、自分の命を実は失っているんですよ。反対にこのローマ帝国の中で、片身の狭い思いをして、クリシアンとしてあなたが生きているならば、そのあなたは実は尊い命を得ることができますし、たとえ命を失ったとしても、復活の命に預かることができるんです。
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そしてその中で、イエス様が続けて言ってますね。
誰でも、このような寡陰と罪の時代にあって、私と私の言葉を恥じるなら、人の子も父の栄光を帯びて、聖なる御使い達と共に来るときに、その人を恥じます。
これは一種の警告の言葉でもあるんですけれども、もう一つ、このローマの社会の中で、クリシアンとして、片身の狭い思いをして生きている人にとって、あるいは命の危機が迫っている人にとって、
ああ、イエス様を信じている故に片身が狭い、自分の生き方を恥じるような思いであるならば、いや、そうではない。あなたはその信仰を貫いて生きるならば、イエス様が帰ってくる時に、その人を恥とせず、この栄光に迎え入れるよという、そういう希望の言葉。
片身の狭い思いをして、命の危機が迫るクリシアンに対して、実はこのイエス様の御言葉、イエス様の福音を恥としない人たちに対して、この胸を張るように、そのような後退する御言葉として響いてきたわけなんですね。
そんな中で最後に、今を生きる私たちにとって、この御言葉はどんな意味があるのかということを見ていきます。
ご存知のように、この今の日本を生きるクリシアンである私たちにとっては、当時のような迫害はありません。
詳しくは言いませんが、先日開かれたKDKセミナーに、あるクリシアンとして真っ直ぐに生きると、文字通り盗獄されたりする国の方も来ていました。
その人たちは、日本にいれば自由に福音を語れるということで、選挙をしているんですね。
でも最近は日本で、信教の自由がある日本でそういう活動をしていても、本国から目をつけられる人がいるという、そういうことを語る方が実際いました。詳しくは言えません。
幸いなことに、私たちはクリシアン信仰を持っているがゆえに、今は迫害を受けたり、命の危機に直面することはありません。
でも、もし私たちがイエスさんを信じる、あるいは福音を信じて生きているがゆえに、何か恥と感じさせるような、あるいは損をしたと感じるような場面に直面したときには、これらの御言葉が私たちにとっては励ましとなるわけです。
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シリアの中で、そのシリアに耐えるときに、イエスさんを信じるがゆえに、このシリアに耐えるときに、このイエス様の御言葉は、私たちの天での報いを保障して、私たちの信仰を後押しする御言葉になるわけなんです。
もしかしたら、キリスト信仰を持ちながら、公衆的な価値観を抱いたり、この世と迎合して生きていて得しているようなクリスチャンが万が一いると思うことがあるかもしれませんね。
でも、それはそれで、私たちはイエス様をまさに救い主として、イエス様の御言葉である福音を自分の信条として生きていくわけです。
興味深いことに、ここで、命という言葉が、今日の中で4回使われているんですね。そのうち3回は、自分の命と言って、この命という言葉は、ギリシャ語のプシュケイという言葉で、魂と訳せるんですね。
プシュケイムー、プシュケイアウトゥ、自分の魂と直接訳せるんですけども、言葉の広い意味を見ると、自分自身という、いわセルフとかですね、そういう意味にも訳せる、プシュケイという魂という言葉は、広い意味があるんです。
生きている命そのものとか、体そのものをも表す、広い意味がある言葉なんですけども、でもこれはもう一つ、その人の存在とか、なんか深いその人自身、深い命ありようみたいなことも表す、とにかく広くて深い言葉がプシュケイ命と訳されている言葉なんですね。
そこから何言ってるかというと、ある学者は、イエス様を救い主として告白し、福音を信じて生きる生き方、繰り返し言いますけど、損に感じたり、万が一命を失うことがあるかもしれません。
あるいは逆に、そういうものを否定して、この辺は悪くないんですけども、そういうものを損得感情を考えて、いや、キリスト教信仰を捨てて生きた方が得だと思う人がいるかもしれないと言うんです、学者は。
でも、そんな中でも、イエス様とイエス様の言葉福音を信じて、それを貫いて時に十字架を背負うような体験をするかもしれない。でも、その時こそ人は本当の意味で生きることができている。本当の命を味わうことができる、と解説する学者もいるわけなんですよね。
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まあちょっと一般論になりましたけど、それがどう意味を持つのか、皆さんがですね、それぞれの自分の生き様とかを中で考えていく、それがクリスチャンの成熟かと思いますけども。
そういう自分の命、プッシュケアという言葉の深い意味を捉えながらですね、本当に生きるとは福音を信じて、イエス様を救い主として信じて、時にイエス様の受難に預かりながら、本当の命を生きるということがどういうことなのかということを、今の私たち問われていると言いますか、通って生きていくことも必要なんではないか、弟子の道なんではないかということなんです。
で、最後に実はこの冒頭の言葉ですね。今日の締めの言葉。
ここの誠にあなた方に言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力を持って到来しているのを見るまで決して死を味わわない人たちがいます。
この謎めいた言葉は何だという。ここもやっぱり学者たちが解釈しているんですよ。いろいろ諸説ありますけども、少なくとも今この御言葉を読んでいる私たちにとってどういうふうに響いてくるか。
それは、私たちがこのクリスチャンとして生きていく中で、喜びもあれ苦労もある。そしてイエス様を信じ、福音を信じるが故に、十字架を似合うことになるかもしれない。
でも、これはイエス様がまさに再臨する。栄光のメシアとして再臨する時が来て、その時にもしかしたら私たちはこの地上の命を生きていて、この栄光のメシアと直接会える時が来るかもしれない。そういう人がいるという約束にも聞こえてくるわけなんです。
で、これクリスマスと関係してきます。アドベントというのは待ち望む対抗説で、最初のアドベントというのはまさに約束された救い主がやってくるという、そういう神の民の待ち望みの時が最初のアドベントです。
そして、このクリスマスのアドベントというのは、そのことを思いながらクリスマスの喜びを待ち望むアドベントでもあるんですけども、もう一つはイエス様がやがて帰ってきて、栄光のイエス様と私たちは見える。そしてすべてのロークがそこで贖われて、イエス様の栄光に預かれる。
そのイエス様のいわゆる再臨を待ち望むアドベントという意味も、今のクリスマス期間のアドベントにも込められているんですね。そういう中で、この九書一節の御言葉が私たちの希望、試練を絶えて十字架になって生きていく私たちへの希望の御言葉にもなると覚えておきたいものです。
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それでは最後に、この九書一節のイエス様の御言葉だけ一緒に読んでみたいと思います。またイエスは彼らに言われた、誠にから読みましょう。
誠にあなた方に言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力を持って到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。
お祈りしましょう。
救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。あなたは救い主として十字架の道を進んでまいりいらっしゃいました。
私たちは今、悪害や苦しみ、そのような苦しみはありませんけれども、日々の生活の中で十字架を担うようなその時があるかもしれません。
どうかその時に、このイエス様の御言葉を思い出しながら、また再びイエス様が来る時に、この世のものでは計り知れない栄光に預かることができる、そのことを幸いとしながら歩んでいくことができますように。
クリスマスを待ち望むこの時期、またイエス様の再び来られる時を待ち望むお互いでありますように。
これらの思いを私たちの救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは1分ほど黙祷してイエス様に答える時間を持ちましょう。
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