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2025-04-27 31:14

#261 聖書の中のキリスト〜聖書を知る楽しさ 25/4/27

ヨハネ-47からの礼拝説教。2025年4月27日録音。(聖書朗読はまで、メッセージの導入はからです)聖書を難しいと感じる理由には、聖書の言葉は読んだ瞬間に何となく理解できる気がするが、よく考えてみるとその真意や具体的な意味をつかむのが難しい、という点があるのです。今日の取り上げている箇所にもそれが当てはまるでしょう。

しかし、イエス様に敵対している人々の問題を知るとイエス様の言葉の意味も分かってきます。その点を最初に解説します(1.この箇所の背景()))、次にその問題を簡単ながらもさらに深く探りながら、律法本来の意図を取り上げます。(2.取り違えられた律法本来の意味() )、最後に私たちが聖書を読むための手がかりになることをいくつか提案します。(3.聖書の読み方の一提案())

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https://note.com/nsbc/n/n703494a46479?sub_rt=share_pb

サマリー

このエピソードでは、新約聖書のヨハネ5章に基づき、イエス様とパリサイ人との対話を通して立法の本来の意味や神からの栄誉と人間からの栄誉について考察されています。特に、パリサイ人たちが律法を誤解している点が指摘され、モーセに関する重要な教訓が伝えられています。モーセ五書におけるキリストの予告に焦点が当てられ、聖書が示す救い主としてのイエスの重要性が解説されています。また、律法の目的やパウロによる律法の解釈を通じて、信仰の本質や聖書の効果的な読み方についても考察されています。聖書を読む際のアプローチや心構えについても語られており、特に、イエスに関する教えや神の息吹を感じながら聖書を楽しむ重要性が強調されています。

新約聖書の理解
新約聖書、ヨハネ5章41-47をお読みします。
私は人からの栄誉は受けません。しかし私は知っています、あなた方のうちに神への愛がないことを。
私は私の父の名によってきたのに、あなた方は私を受け入れません。もし他の人がその人自身の名でくれば、あなた方はその人を受け入れます。
互いの間では、栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなた方が、どうして信じることができるでしょうか。
私が父の前にあなた方を訴えると思ってはなりません。あなた方を訴えるのは、あなた方が望みを置いているモーセです。
もしもあなた方がモーセを信じているのなら、私を信じたはずです。モーセが書いたのは私のことなのですから。
しかしモーセが書いたものをあなた方が信じていないのなら、どうして私の言葉を信じるでしょうか。
以上です。今日はこのところから、聖書の中のキリストと題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。ゴールデンウィークに入ったということですね。
昨日からいろいろニュースでも言われていますが、今日は春だし暖かな朝となりましたことを感謝しています。
早速本題に入りますけれども、今日の箇所は3つの点からお話しします。
まず、この箇所の背景を最初にお伝えします。その理由も後でお話ししますけれども。
2番目は、取り違えられた律法本来の意味ということをお話しします。
最後は、その中で私たちは、ここで言う、後でも出てきますが、
パリサイ人のような間違った聖書の読み方をしないために、どう聖書を読んだらいいかという一つの提案を3つ目にして、3つの点からお話をしたいと思います。
パリサイ人の誤解
まず最初の点なんですけれども、この箇所の背景ということを説明します。
今日の冒頭から入ったところですね、イエス様の言葉をまずお読みします。
5章43節44節
私は私の父の名によってきたのに、あなた方は私を受け入れません。
もし他の人がその人自身の名でくれば、あなた方はその人を受け入れます。
互いの間では、栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなた方が、どうして信じることができるでしょうか。
今日の箇所の問題は、パリサイ人とイエス様の間のやり取りの中でのイエス様の言葉です。
問題はですね、論語読みの論語知らずという言葉、ご存知だと思いますけど、
そのようにですね、律法の教師であるパリサイ人が聖書を読み違えているというところが、根本的な問題です。
しかしですね、私たちも今日の箇所をパッと読んだだけでは、その意味がわかりません。
聖書が難しい、特にヨハネの福音書が難しいとされる理由は、
読んだ瞬間になんとなく理解することができるような気がするんですけども、
よく考えてみると、その真意や具体的な意味をつかむのが難しいということがあると思うんですね。
今日出てくるミチチは神様だなとか、モーセだなとか、
そういう栄誉といっても、じゃあ互いの間で栄誉を受けても、神からの栄誉を受けないって、どんなことなんだろうかというのはわからないですね。
ですから、まず一番最初は、今まで知ってきましたように、この部分の背景を、
特に旧約聖書から見られる背景や時代の背景を説明します。
少し難しいかもしれませんが、お渡ししてあるレジュメを、またお家で読んで、
自分の聖書と比べながら、また内容に入っていただければと思います。
まず、ここの背景はどんなものがあったかというと、
今まで申したように、事の発端は5章1節から始まった、エルサレムのベテスタの池での癒しの出来事です。
38年間歩けなかった男の人にイエス様が、床を畳んで歩きなさいと言って、この男性が歩いて癒された。
そしてそれを見た人々がイエス様を迫害した。
実はイエス様がここで向けている言葉は、イエス様の迫害者たちへの言葉なんです。
どういう人たちかというと、エルサレムのユダヤ人の指導者たち。
前も話しましたが、サン・ヘドリンという最高議会のメンバーですね。70人ほどいて、
そして今で言う国会議員や最高裁判所の裁判官を兼ねていた。
そしてユダヤ教の教師も兼ねていたような人たちです。ユダヤ社会のリーダーでした。
彼らは、律法の教師、旧約聖書の教師でもあったわけです。
おそらくイエス様とやり取りしている人たちは、律法学者と言われている中でも旧神的なパリサイ派という人たちだったようです。
このパリサイ派の人たちは、なぜイエス様を批判したか。
それはイエス様が、彼らが律法と呼ぶところの規定に反して、安息日であるのにもかかわらず労働をしたということなんですね。
特にここでは、安息日を守るためにいろんな規定を、当時では律法学者たちが守ってきた。
その先祖伝来、そこから派生してきた細かい規定の中で、徳を取り上げてはいけないというのがあった。
それに違反したということで、イエス様が責められているわけなんですね。
彼らは、創世紀から始まる5つの書ですね。旧約聖書、なんて呼ばれているか知ってます?
なんとか五書って言うでしょ。誰の名前がついているかというと、モーセ五書です。
モーセが書いたとされている、そのモーセ五書を特に大事にして、そこから律法を守るための厳しい規定を先祖伝来作り、引き継いできた。
それを自分たち守って、人々にも教えていたという、そういう影響力があったわけですね。
ですから、このモーセ五書とモーセを大事にしているから、イエス様は今日の箇所でも、モーセという言葉を少なくとも3回使っているわけです。
そういう背景があるわけですね。
何が問題だったかというと、彼らはモーセ五書や律法の本来の意図を取り違えて適用していたというところが問題だったんです。
その、彼らがそこから作った、あるいは先祖が作って大事にしてきた細かい掟は、律法やモーセが書いたとされるモーセ五書の本来の教えからかけ離れていた。それが問題だったんですね。
どういう問題があったか。
彼らはですね、律法とそこから発生した細かい掟を守ること自体が目的であるかのように見ました。
ある学者はそれが悲劇だって言うんですね。
その中でイエス様の批判にこういう意味があったのではないかという分析をその学者はしてるんですね。
おそらくこんな状況だったんじゃないかというイメージがここにありますけれども。
学者がイエス様の批判の背景にあったものをこう解説してるんですね。
彼らイエス様を迫害している律法学者の行動の動機は、神に対する愛ではなくむしろ支持者から認められたいという願いである。
これこそパリサイ人たちが神からの信任を受けて、彼らのところに来たイエスを拒み、全くの自己信任によって教師となった人々に従った理由である。
イエス様は神様から使わされてきたということを受け入れなかった。
一方彼らはですね、神に使われていると言いながら、後でも出てきますけれども、自分たち自体を認めたり認め合って教師となっている。
そこが問題だったということなんですね。
もうちょっと難しいことかもしれません。後でもうちょっとわかってくると思います。
繰り返しますが、彼らは律法とそこから出てくる厳しい掟を守ること自体を重んじていたわけです。
その守ることだけが目的となってしまったわけですね。
そして、素人ではとても立ち打ちできない、100を超えるいろんな細かい規定があったわけです。
そういう知識を持っている、そしてそれを教えることができるというのは非常に大きな尊敬を受けますよね。
知識も深いし、そして彼らは守っていたと言われていますから、守っていたので人々から大いなる尊敬を得ていたわけです。
それがですね、人からの栄誉を求めたり受けるということでもあったんですね。
ですから、彼らは神からの栄誉とか、神の栄誉とか、あるいは神の皆を大事にするということよりも、結局は自分たちの名誉とかネームバリューを大事にしていた。
それが問題だとイエス様は指摘しているんですね。
そして実は先祖伝来ですね。
時代的背景もあって、それも仕方ないんですけど、今省きますけれども、先祖伝来からいろんな教師がいて、何々派と出てきたんですけれども、
そういう先祖伝来の教師たちを尊敬していましたけれども、同じ時代のお互いをですね、教師として尊敬し合っていた、認め合っていた。
でも神から来たとされるイエス様を認めなかった。これが問題だということをイエス様は指摘しているんですね。
モーセとの関連
で、そのことをイエス様は5章44節でこう指摘しているんですね。
ちょっと難しいんですけど、頑張って読んでみましょうか。
はい。
だから彼らは結局、神ではなくて人間同士しか見ていないから、神から使わされたと言っているイエス様を信じることができないとイエス様は指摘しているんですね。
お分かりになったと思いますけれども、今日の箇所で対比がなされています。
それは神様と人間の対比です。
つまりイエス様と父なる神様なる神様の言葉を聞くのか。
それともこの律法の教師たちの言葉を聞くのか。
イエス様を認め、神の栄誉を認めるのか。
それともイエス様を拒絶して、お互いの人間の栄誉だけしか認めないのか。
そういう対比が今日の箇所の背景にあるわけですね。
その中でモーセという人も一人の象徴として出てきているわけです。
そういう背景があったということを知っておくと、次からまたよくわかるかと思います。
では2番目。
彼らの問題をもう少し深く考えてみましょう。
それは取り違えられた律法本来の意味。
もう少し律法本来の意味を見ていきたいと思います。
5章45節でイエス様は続けてこう言っています。
もう一回読んでみましょうか。
私が父の前にあなた方を訴えると思ってはなりません。
あなた方を訴えるのは、あなた方が望みを置いているモーセです。
これは厳しい指摘ですね。
ではこれは一体どういうことか。
このイエス様の言葉を簡単に言い直すとこうなると思うんですね。
自分で書いておいて忘れてた。
実はモーセの律法の本来の意図をあなた方は取り違えているんですよ。
だから結局あなた方はモーセの言葉に従っていないんですよ。
その結果モーセの言葉によってあなた方は裁かれているんですよ。
あなた方が希望を置いているかもしれませんが。
そういう意味になるんですね。
モーセとキリストの関係
その時代、モーセ五書の中で、この後でも出てきますが、
モーセがイエス様を指し示しているとイエス様はよく言っています。
その代表的な言葉の一つが、モーセ五書の一つの申命記十八章十五節に出ているんですね。
モーセはこうやってイエス様、救い主の到来を自らの言葉で予告していたという一つの証拠です。
申命記十八章十五節、モーセの直接の言葉として記されています。
あなたの神、主はあなたの内から、あなたの道法の中から、私のような一人の預言者をあなた方のために起こされる。
あなた方はその人に聞き従わなければならない。
この私というのはモーセです。
私のような一人の預言者は誰かと言えば、それは救い主でありイエス様です。
知識として知っておくといいのは、
モーセがどうやってイエス様のことを予告しているのかと言われたら、申命記の十八章十五節に書いてありますよと言うと、
おーって言えますのでね。
いくつかの中で、これが代表的なモーセのキリスト到来、イエス様到来の予告の言葉だと思われています。
律法の目的とパウロの解釈
では、もう少し見ていきますが、
モーセ五書をはじめとする律法本来の目的は何だったのかということを見ていきましょう。
実はそれをある人が解説していますね。新約聖書で。
誰ですか。パリサイビトの中のパリサイビトと自分呼んでいる、あの有名な伝道者は誰ですか。
ですね。その立教大学がセントポールズユニバーシティと言われていますよね。
なぜかというと、キリスト教が解禁になった明治のすぐその時にですね、
アメリカから宣教師がやってきて、この学校からパウロのような宣教師が生まれるように願って築地に立てたのが立教大学なんですね。
だからセントポールズユニバーシティと英語で言います。これは余談です。
その律法学者、実はパウロ自身が自分は律法学者で、この厳格なパリサイビトだって言ってる。
彼がイエス様を信じて返しにして述べているから意味があるんですね。
彼はローマ書の中でこう言ってます。5章13節。
実に律法が与えられる以前にも罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。
律法は罪を示すために、罪を明らかにするために与えられた。
その上でガラテアの3章24節。
こう言ってますね。ちょっと難しいんですが頑張って読んでみましょうか。
こうして律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。
それは私たちが信仰によって義と認められるためです。
律法は養育係に過ぎなかった。
だからおかしいですよね。養育係に縋ってたら本当の親といいますか目的が果たせないわけですよね。
このように律法はですね、あるいはモーセは人間の罪を明らかにすることによって救い主である御子への道備えを人々にした。
それが律法やモーセが意図したことだったんですよとファウラも言っているわけです。
そして人々に罪の許しをもたらしたと言うんですね。
このようにイエス様を迫害する人々が本当にこのモーセを信じたのであれば、
つまり彼らが本当に律法を通して自分の罪の許しと永遠のいのちを求めたのであれば、
彼らは自然にイエス様を信じたはずだというのがこのイエス様の言葉ですね。
3番目に行きますけれども、ヨハネ5章46ですね。
こう言ってですねイエス様は。
あなた方が本当にモーセの律法を通して自分の罪が示されて永遠のいのちを求めたのであるならば、ということでヨハネ5章46です。
もしもあなた方がモーセを信じているのなら私を信じたはずです。
モーセが書いたのは私のことなのですからと言っているんですね。
そこで3番目。
聖書の効果的な読み方
ちょっと言い方、語弊があるかもしれませんが、律法学者たち、パリサイ人のような間違った聖書の読み方をしないためにとまで言えないですけど、
今の私たちはどうやって聖書を読んだらいいのかという一つの提案をですね、最後にお話しして終わりたいと思います。
これですね、誰の言葉か知っていますか。
これはですね、坂本龍馬の言葉ですね。
いろいろテレビでですね、戦国武将とかいろんな人の手紙が書簡が出てくる中でですね、坂本龍馬の手紙ってすごく人気があるんですね。
テレビの話ばっかりで恐縮なんですけど、以前ですね、NHKだったかな。
道行く人にですね、突然あなたの家にお宝ありますかって聞くんですよ。
ありますって言って、行って、それでそのお宝を判定するって番組があったんです。
これ100万だって言ったらですね、50円くらいだったり。
で、ある時、東京の葛飾が下町あたりで女性に話しかけたらですね、ありますよって言って、坂本龍馬の手紙がありますって言ったんですよ。
こんなことあるわけないじゃないかって言って、その人の家に行って、その手紙を見てですね。
その信憑性を高知の龍馬、多分博物館かなんかの人にですね、見てもらったら本物だったんです。
で、いくらだったと思います?オークションじゃないけど。1500万円。1500万円です。
まあそれぐらいですね、龍馬の手紙っていうのは人気があったり価値があって。
この手紙、日本を今一度選択致し申し候という、どうだったかな?
ここでは選択ではありますね。こういう手紙なんですけどね。
えへんの手紙って言って、バックの偉い人に認められたのを嬉しくつもりですね。
乙女姉やんってお姉さんに書いた時に、えへんえへんって書いたりですね。
龍馬の手紙が人気の理由の一つは人間味にあふれている。
そういうところで人気があるんじゃないか。
そこから考えていただきたいんですけども、聖書を読むときにどういう気持ちで読んでらっしゃるか、読むかってことなんですね。
で、よくあるのはですね、もしかしたら律法学者たちのように、神の掟を見つけるために読むという読み方とかですね。
あるいは、これは正確じゃないんですけども、なんとなく世間に言われている旧約聖書の神や裁きの神だという視点で読んだりする場合があるかもしれません。
で、ここでですね、なぜこんな龍馬の話をしたかというと、
人格的なこの触れ合いを神様とするので、この聖書を読むという読み方があるんじゃないかと思うんですね。
ここでですね、ちょっと注目したいある学者の方の意見を紹介したいんですが、名前言いませんが、日本で一番の旧約学者と言われているある方のですね、意見なんですけど、
例えば旧約聖書はどんな本ですかというと、一番の特徴は、見えない神への、唯一の神への信仰が旧約聖書のテーマだって言うんですね。
しかもそれに注目すべき点は、その見えない神への唯一神への信仰が、抽象的な言葉や哲学的な議論によってではなく、具体的な歴史的出来事を語る中で表しているって言うんです。
それを読むとわかると思うんですけど、そういうダビデですとか、モーセとか、いろんな聖書の中の人物が生き生きしてますよね。
罪を犯してしまったりとか、失敗してしまったり、でもそういう中で、あとイスラエの民が神に背いたり、そういう中ででも、具体的な出来事を通して神への信仰が貫かれている。
この中のテーマの一つが、罪の許しなんだって言うんです。
どんなことかというと、旧約聖書の中の大きなテーマの一つが、罪の許しであって、それは神様の憐れみによる罰からの救いと、神の約束に基づく罪の許しが繰り返し語られているっていうのが旧約聖書なんです。
そういう視点で読むと面白いと思うんですよね。
とても簡単にそれを私なりに言い換えてみると、こういうことだと思うんですよね。
この学者の方も言ってるんですけども、旧約時代の物語を通して、神様がその民を救ってくださった。
聖書の言葉の中でよく出てくるのは、今日聞きなさいって言葉なんです。旧約聖書でなぜ今日あなた方にいますって言われてるかっていうことで学者も言ってるんですけども、それは過去が現在に帰ってくるって意味なんです。
どういうことかというと、あの時代にイスラエルを救った神様は、今日今生きている私たちをも救ってくださるんですよって。
そういうメッセージを旧約聖書は語っているって言うんですね。
イスラエルの民をかつて救った神様が、今日生きている私たちを救ってくださる。今生きている私たちの罪を許してくださる。
そういう読み方ができる。私もそれだと思うんですね。
じゃあまあ、そのような過去の出来事が今の信仰の糧となって希望となるという読み方としての旧約聖書の読み方がありますよってことが一つです。
じゃあ、新約聖書はどのように読めるか?
一例を挙げますとね、もう皆さんご存知と思いますけど、福音書には何が書いてあるか。
本当のベテランの皆さんに申し訳ないですけど、福音書何が書いてあるか。何がわかるか。
福音書ね、それはイエス様の生涯が書いてありますよね。
その中で一番シンプルで読みやすいのは何か。ずっと私これ言ってきました。マルコの福音書を読んだ時。
マルコの福音書が一番シンプルで、このイエス様の生涯を手っ取り早く読めるし、私も宣教師にイエス様を信じるまで進められたんですけど、一番最初に入門として読むのに進めるのが、これマルコの福音書。
それからルカの福音書がありますよね。あれは一番詳しい。ルカの福音書の続きは何か知ってます?同じ人が書いた。
ルカの福音書の続き、同じ人が書いた。それは、使徒の働きですね。
ルカの福音書と使徒の働きは同じルカとされる人が書いた。それは続いて読むために書かれています。
イエス様の生涯、そして使徒の働きには教会の誕生の歴史、目に見えないけど復活したイエス様が教会の中に来ている。
ペテロやパウロを通してイエス様がご自身を表した。そういうテーマになっていますから、ルカと使徒は続けて読むと分かりやすいわけですね。
じゃあパウロの手紙はどうでしょう?パウロの手紙はどこからどこまででしたっけ?ローマ人の手紙からピレモン書までがパウロの手紙とされています。
いきなり最初のローマ書とかコリント人の手紙を読むと長いから、大変なので、ガラティア人の手紙は5章ですから、
聖書の読み方
ガラティア以降は短いですから、そういうところから読み始めると、このパウロの基本的な信仰が分かって、信仰義理ということが分かりますから、とても入りやすいわけですよね。
ちょっと全部じゃないですけれども、こんな旧約聖書、新約聖書があって、こうやって読めますよという一例を紹介しました。
大胆にちょっと提案したいんですけれども、何かを学び取ろうと思って構えて読まなくていいと思うんですよね。
私の学生時代とか20,30年前の流行った読み方は、今でもやっているのかな、
生殖文を何が書いてあるのか、そして簡単に言うと観察解釈適用ということなんですけど、何が書いてあるのか、どういう意味があるのか、私たちはそれに対してどう生きたらいいのかということをいちいち書くというのが流行ったんですね。
悪くないんですけれども、そういう読み方ができてもいいんだと思うんですが、私が最近読んでいるのは、何も考えずに本を読むようにサーッと読んでいいと思うんですよね。
いろんな習慣があると思いますけど、そういう中で心に響いてくる言葉を書き留めたりとか、手元に置くという読み方があるんじゃないかと思います。
そんなんで皆さんどうでしょうかね、月に何回くらい教会以外で聖書を開いているでしょうか。
週何回くらい教会以外開いているでしょうか。
構えずに本当にパッと読んでみると、私も最近、またこんなことが書いてあるんだという発見があります。
あと、脱線について言うと、旧約聖書ですね、レビキとか難しいですよね。
あそこね、サーッと流してもいいですし、あと烈王記の後に歴代史って同じことが書いてあるんですけども、あれもサーッと読む人もいいんじゃないかと思いますけどね。
とにかく流れを読んだり、そこに息づいている神様の息吹とかですね、神様を読むというような読み方もいいんじゃないかと思うわけです。
ちょっとすいません、脱線してしまいましたけれども、このようにですね、こういう貫かれているテーマがありますので、あまり気負わずにですね、聖書から神様を知るという意味で読んでみて、心に響くところをとどめていくということもよろしいんじゃないかと思うわけです。
イエスの教え
最後こんなになってしまいましたけど、ではイエス様のですね、この御言葉を最後引用して終わりにしたいと思います。
じゃあ今日のところでイエス様が言っている大事な言葉を最後に読みましょうか。
あなた方は聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べています。その聖書は私について証しているものです。
聖書の中に神様の息吹を感じて、イエス様と出会って楽しく喜びながらですね、御言葉に触れていくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。イエス様が誠の神であられましたけれども、その反対を受ける中で、聖書の中にあなたご自身が証しされ、
またその証しされているあなたを正しく読むこと、またそれが本当にいのちにつながるということを教えてくださりありがとうございます。
どうぞ私たちが御言葉に触れる中で、そこに息づいている神様、またその神様と人々とのやり取りを通して、あなたにある救いや希望を私たちも知ることができるようにどうか導いてください。
こうして御言葉を通して、あなたのいのちに触れ、まさに永遠のいのちに触れて生きるその喜びを味わうことができますようにどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは1分ほど、それぞれを黙祷する時間をとりましょう。
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