まず最初の点なんですけれども、この箇所の背景ということを説明します。
今日の冒頭から入ったところですね、イエス様の言葉をまずお読みします。
5章43節44節
私は私の父の名によってきたのに、あなた方は私を受け入れません。
もし他の人がその人自身の名でくれば、あなた方はその人を受け入れます。
互いの間では、栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなた方が、どうして信じることができるでしょうか。
今日の箇所の問題は、パリサイ人とイエス様の間のやり取りの中でのイエス様の言葉です。
問題はですね、論語読みの論語知らずという言葉、ご存知だと思いますけど、
そのようにですね、律法の教師であるパリサイ人が聖書を読み違えているというところが、根本的な問題です。
しかしですね、私たちも今日の箇所をパッと読んだだけでは、その意味がわかりません。
聖書が難しい、特にヨハネの福音書が難しいとされる理由は、
読んだ瞬間になんとなく理解することができるような気がするんですけども、
よく考えてみると、その真意や具体的な意味をつかむのが難しいということがあると思うんですね。
今日出てくるミチチは神様だなとか、モーセだなとか、
そういう栄誉といっても、じゃあ互いの間で栄誉を受けても、神からの栄誉を受けないって、どんなことなんだろうかというのはわからないですね。
ですから、まず一番最初は、今まで知ってきましたように、この部分の背景を、
特に旧約聖書から見られる背景や時代の背景を説明します。
少し難しいかもしれませんが、お渡ししてあるレジュメを、またお家で読んで、
自分の聖書と比べながら、また内容に入っていただければと思います。
まず、ここの背景はどんなものがあったかというと、
今まで申したように、事の発端は5章1節から始まった、エルサレムのベテスタの池での癒しの出来事です。
38年間歩けなかった男の人にイエス様が、床を畳んで歩きなさいと言って、この男性が歩いて癒された。
そしてそれを見た人々がイエス様を迫害した。
実はイエス様がここで向けている言葉は、イエス様の迫害者たちへの言葉なんです。
どういう人たちかというと、エルサレムのユダヤ人の指導者たち。
前も話しましたが、サン・ヘドリンという最高議会のメンバーですね。70人ほどいて、
そして今で言う国会議員や最高裁判所の裁判官を兼ねていた。
そしてユダヤ教の教師も兼ねていたような人たちです。ユダヤ社会のリーダーでした。
彼らは、律法の教師、旧約聖書の教師でもあったわけです。
おそらくイエス様とやり取りしている人たちは、律法学者と言われている中でも旧神的なパリサイ派という人たちだったようです。
このパリサイ派の人たちは、なぜイエス様を批判したか。
それはイエス様が、彼らが律法と呼ぶところの規定に反して、安息日であるのにもかかわらず労働をしたということなんですね。
特にここでは、安息日を守るためにいろんな規定を、当時では律法学者たちが守ってきた。
その先祖伝来、そこから派生してきた細かい規定の中で、徳を取り上げてはいけないというのがあった。
それに違反したということで、イエス様が責められているわけなんですね。
彼らは、創世紀から始まる5つの書ですね。旧約聖書、なんて呼ばれているか知ってます?
なんとか五書って言うでしょ。誰の名前がついているかというと、モーセ五書です。
モーセが書いたとされている、そのモーセ五書を特に大事にして、そこから律法を守るための厳しい規定を先祖伝来作り、引き継いできた。
それを自分たち守って、人々にも教えていたという、そういう影響力があったわけですね。
ですから、このモーセ五書とモーセを大事にしているから、イエス様は今日の箇所でも、モーセという言葉を少なくとも3回使っているわけです。
そういう背景があるわけですね。
何が問題だったかというと、彼らはモーセ五書や律法の本来の意図を取り違えて適用していたというところが問題だったんです。
その、彼らがそこから作った、あるいは先祖が作って大事にしてきた細かい掟は、律法やモーセが書いたとされるモーセ五書の本来の教えからかけ離れていた。それが問題だったんですね。
どういう問題があったか。
彼らはですね、律法とそこから発生した細かい掟を守ること自体が目的であるかのように見ました。
ある学者はそれが悲劇だって言うんですね。
その中でイエス様の批判にこういう意味があったのではないかという分析をその学者はしてるんですね。
おそらくこんな状況だったんじゃないかというイメージがここにありますけれども。
学者がイエス様の批判の背景にあったものをこう解説してるんですね。
彼らイエス様を迫害している律法学者の行動の動機は、神に対する愛ではなくむしろ支持者から認められたいという願いである。
これこそパリサイ人たちが神からの信任を受けて、彼らのところに来たイエスを拒み、全くの自己信任によって教師となった人々に従った理由である。
イエス様は神様から使わされてきたということを受け入れなかった。
一方彼らはですね、神に使われていると言いながら、後でも出てきますけれども、自分たち自体を認めたり認め合って教師となっている。
そこが問題だったということなんですね。
もうちょっと難しいことかもしれません。後でもうちょっとわかってくると思います。
繰り返しますが、彼らは律法とそこから出てくる厳しい掟を守ること自体を重んじていたわけです。
その守ることだけが目的となってしまったわけですね。
そして、素人ではとても立ち打ちできない、100を超えるいろんな細かい規定があったわけです。
そういう知識を持っている、そしてそれを教えることができるというのは非常に大きな尊敬を受けますよね。
知識も深いし、そして彼らは守っていたと言われていますから、守っていたので人々から大いなる尊敬を得ていたわけです。
それがですね、人からの栄誉を求めたり受けるということでもあったんですね。
ですから、彼らは神からの栄誉とか、神の栄誉とか、あるいは神の皆を大事にするということよりも、結局は自分たちの名誉とかネームバリューを大事にしていた。
それが問題だとイエス様は指摘しているんですね。
そして実は先祖伝来ですね。
時代的背景もあって、それも仕方ないんですけど、今省きますけれども、先祖伝来からいろんな教師がいて、何々派と出てきたんですけれども、
そういう先祖伝来の教師たちを尊敬していましたけれども、同じ時代のお互いをですね、教師として尊敬し合っていた、認め合っていた。
でも神から来たとされるイエス様を認めなかった。これが問題だということをイエス様は指摘しているんですね。
では、もう少し見ていきますが、
モーセ五書をはじめとする律法本来の目的は何だったのかということを見ていきましょう。
実はそれをある人が解説していますね。新約聖書で。
誰ですか。パリサイビトの中のパリサイビトと自分呼んでいる、あの有名な伝道者は誰ですか。
ですね。その立教大学がセントポールズユニバーシティと言われていますよね。
なぜかというと、キリスト教が解禁になった明治のすぐその時にですね、
アメリカから宣教師がやってきて、この学校からパウロのような宣教師が生まれるように願って築地に立てたのが立教大学なんですね。
だからセントポールズユニバーシティと英語で言います。これは余談です。
その律法学者、実はパウロ自身が自分は律法学者で、この厳格なパリサイビトだって言ってる。
彼がイエス様を信じて返しにして述べているから意味があるんですね。
彼はローマ書の中でこう言ってます。5章13節。
実に律法が与えられる以前にも罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。
律法は罪を示すために、罪を明らかにするために与えられた。
その上でガラテアの3章24節。
こう言ってますね。ちょっと難しいんですが頑張って読んでみましょうか。
こうして律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。
それは私たちが信仰によって義と認められるためです。
律法は養育係に過ぎなかった。
だからおかしいですよね。養育係に縋ってたら本当の親といいますか目的が果たせないわけですよね。
このように律法はですね、あるいはモーセは人間の罪を明らかにすることによって救い主である御子への道備えを人々にした。
それが律法やモーセが意図したことだったんですよとファウラも言っているわけです。
そして人々に罪の許しをもたらしたと言うんですね。
このようにイエス様を迫害する人々が本当にこのモーセを信じたのであれば、
つまり彼らが本当に律法を通して自分の罪の許しと永遠のいのちを求めたのであれば、
彼らは自然にイエス様を信じたはずだというのがこのイエス様の言葉ですね。
3番目に行きますけれども、ヨハネ5章46ですね。
こう言ってですねイエス様は。
あなた方が本当にモーセの律法を通して自分の罪が示されて永遠のいのちを求めたのであるならば、ということでヨハネ5章46です。
もしもあなた方がモーセを信じているのなら私を信じたはずです。
モーセが書いたのは私のことなのですからと言っているんですね。
そこで3番目。
ちょっと言い方、語弊があるかもしれませんが、律法学者たち、パリサイ人のような間違った聖書の読み方をしないためにとまで言えないですけど、
今の私たちはどうやって聖書を読んだらいいのかという一つの提案をですね、最後にお話しして終わりたいと思います。
これですね、誰の言葉か知っていますか。
これはですね、坂本龍馬の言葉ですね。
いろいろテレビでですね、戦国武将とかいろんな人の手紙が書簡が出てくる中でですね、坂本龍馬の手紙ってすごく人気があるんですね。
テレビの話ばっかりで恐縮なんですけど、以前ですね、NHKだったかな。
道行く人にですね、突然あなたの家にお宝ありますかって聞くんですよ。
ありますって言って、行って、それでそのお宝を判定するって番組があったんです。
これ100万だって言ったらですね、50円くらいだったり。
で、ある時、東京の葛飾が下町あたりで女性に話しかけたらですね、ありますよって言って、坂本龍馬の手紙がありますって言ったんですよ。
こんなことあるわけないじゃないかって言って、その人の家に行って、その手紙を見てですね。
その信憑性を高知の龍馬、多分博物館かなんかの人にですね、見てもらったら本物だったんです。
で、いくらだったと思います?オークションじゃないけど。1500万円。1500万円です。
まあそれぐらいですね、龍馬の手紙っていうのは人気があったり価値があって。
この手紙、日本を今一度選択致し申し候という、どうだったかな?
ここでは選択ではありますね。こういう手紙なんですけどね。
えへんの手紙って言って、バックの偉い人に認められたのを嬉しくつもりですね。
乙女姉やんってお姉さんに書いた時に、えへんえへんって書いたりですね。
龍馬の手紙が人気の理由の一つは人間味にあふれている。
そういうところで人気があるんじゃないか。
そこから考えていただきたいんですけども、聖書を読むときにどういう気持ちで読んでらっしゃるか、読むかってことなんですね。
で、よくあるのはですね、もしかしたら律法学者たちのように、神の掟を見つけるために読むという読み方とかですね。
あるいは、これは正確じゃないんですけども、なんとなく世間に言われている旧約聖書の神や裁きの神だという視点で読んだりする場合があるかもしれません。
で、ここでですね、なぜこんな龍馬の話をしたかというと、
人格的なこの触れ合いを神様とするので、この聖書を読むという読み方があるんじゃないかと思うんですね。
ここでですね、ちょっと注目したいある学者の方の意見を紹介したいんですが、名前言いませんが、日本で一番の旧約学者と言われているある方のですね、意見なんですけど、
例えば旧約聖書はどんな本ですかというと、一番の特徴は、見えない神への、唯一の神への信仰が旧約聖書のテーマだって言うんですね。
しかもそれに注目すべき点は、その見えない神への唯一神への信仰が、抽象的な言葉や哲学的な議論によってではなく、具体的な歴史的出来事を語る中で表しているって言うんです。
それを読むとわかると思うんですけど、そういうダビデですとか、モーセとか、いろんな聖書の中の人物が生き生きしてますよね。
罪を犯してしまったりとか、失敗してしまったり、でもそういう中で、あとイスラエの民が神に背いたり、そういう中ででも、具体的な出来事を通して神への信仰が貫かれている。
この中のテーマの一つが、罪の許しなんだって言うんです。
どんなことかというと、旧約聖書の中の大きなテーマの一つが、罪の許しであって、それは神様の憐れみによる罰からの救いと、神の約束に基づく罪の許しが繰り返し語られているっていうのが旧約聖書なんです。
そういう視点で読むと面白いと思うんですよね。
とても簡単にそれを私なりに言い換えてみると、こういうことだと思うんですよね。
この学者の方も言ってるんですけども、旧約時代の物語を通して、神様がその民を救ってくださった。
聖書の言葉の中でよく出てくるのは、今日聞きなさいって言葉なんです。旧約聖書でなぜ今日あなた方にいますって言われてるかっていうことで学者も言ってるんですけども、それは過去が現在に帰ってくるって意味なんです。
どういうことかというと、あの時代にイスラエルを救った神様は、今日今生きている私たちをも救ってくださるんですよって。
そういうメッセージを旧約聖書は語っているって言うんですね。
イスラエルの民をかつて救った神様が、今日生きている私たちを救ってくださる。今生きている私たちの罪を許してくださる。
そういう読み方ができる。私もそれだと思うんですね。
じゃあまあ、そのような過去の出来事が今の信仰の糧となって希望となるという読み方としての旧約聖書の読み方がありますよってことが一つです。
じゃあ、新約聖書はどのように読めるか?
一例を挙げますとね、もう皆さんご存知と思いますけど、福音書には何が書いてあるか。
本当のベテランの皆さんに申し訳ないですけど、福音書何が書いてあるか。何がわかるか。
福音書ね、それはイエス様の生涯が書いてありますよね。
その中で一番シンプルで読みやすいのは何か。ずっと私これ言ってきました。マルコの福音書を読んだ時。
マルコの福音書が一番シンプルで、このイエス様の生涯を手っ取り早く読めるし、私も宣教師にイエス様を信じるまで進められたんですけど、一番最初に入門として読むのに進めるのが、これマルコの福音書。
それからルカの福音書がありますよね。あれは一番詳しい。ルカの福音書の続きは何か知ってます?同じ人が書いた。
ルカの福音書の続き、同じ人が書いた。それは、使徒の働きですね。
ルカの福音書と使徒の働きは同じルカとされる人が書いた。それは続いて読むために書かれています。
イエス様の生涯、そして使徒の働きには教会の誕生の歴史、目に見えないけど復活したイエス様が教会の中に来ている。
ペテロやパウロを通してイエス様がご自身を表した。そういうテーマになっていますから、ルカと使徒は続けて読むと分かりやすいわけですね。
じゃあパウロの手紙はどうでしょう?パウロの手紙はどこからどこまででしたっけ?ローマ人の手紙からピレモン書までがパウロの手紙とされています。
いきなり最初のローマ書とかコリント人の手紙を読むと長いから、大変なので、ガラティア人の手紙は5章ですから、