イエスの選択
ヨハネの福音書7章1節から9節を読みします。
その後イエスはガリラヤを巡り続けられた。
ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。
時に仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
そこでイエスの兄弟たちがイエスに言った。
ここを去ってユダヤに行きなさい。
そうすれば弟子たちもあなた方がしている働きを見ることができます。
自分で親家の場に出ることを願いながら、隠れてことを行う人はいません。
このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。
兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
そこでイエスは彼らに言われた。
私の時はまだ来ていません。
しかし、あなた方の時はいつでも用意ができています。
世はあなた方を憎むことができないが、私のことは憎んでいます。
私が世についてその行いが悪いことを証ししているからです。
あなた方は祭りに登って行きなさい。
私はこの祭りに登って行きません。
私の時はまだ満ちていないのです。
こう言ってイエスはガリラヤに留まられた。
以上です。
時を待つことの意味
今日はこのところから、神の時を待ち信頼すると題してみことばを取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
今日はですね、私たちの教会ではですね、ヨハネの福音書から学んでいますが、
いつも前置きしてますけど、とにかく先週は暑かったですね。
もう先々週の火曜日ですか?
梅雨入りしたと思いましたら、もう真夏日になってですね。
よくぞここまで、今日まで生き延びられたという。
まさにサバイバルの1週間だったんではないでしょうか。
まあいろんな動きがありますけれども、今日もいつも通りですね、
7章の1節から9節、ヨハネの福音書から見ていきたいと思います。
で、ヨハネの福音書はですね、
今日の7章から1つの区切りに入ります。
それはイエス様への殺害の思いとか敵意がますます増してくるという、そういう段階です。
そして7章からしばらくイエス様は、いろんな敵対者の質問に答える形で、
読んでいる私たちにイエス様が本当の救い主であるということに関する疑問に答える、
そういう構成にもなっているんですね。
そんな中ですけれども、今日のこの単元のところからですね、1つ学んでいきましょう。
今日の7章の前半部分でありますけれども、1節のところではですね、
ユダヤ人の殺意、特に宗教的、政治的リーダーたちがですね、
イエス様を殺そうと探し回っていた、そういうこともあるので、
イエス様は当時、先週まで見ていたガリラ野古の周辺ですね、
イスラエルの今、日本で言えば東北地方にいたんですけれども、
首都のあるエルサレブのあるユダヤの方には、
自分が殺されるということはまだ時じゃないということで、
行かなかったということが今日の前提です。
そんな中で、今日の歌詞をですね、理解するためには、いつものように、
その聖書的な背景とかですね、言葉の背景を知る必要がありますので、
最初にその点を見ていきます。
少し難しいかもしれませんが、良い教養になるかと思います。
そして2番目、3番目はですね、言ってしまえば私たちの信仰生活と関わりがある、
この最初は待つことですね。
そして次に信頼するということを関連して見ていきたいと思います。
1番目はですね、聖書的背景とギリシャ語の時ということを見ていきます。
少し長いんですけれども、読んでみますね。
時にカリーノの祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
そこでイエスの兄弟たちがイエスに行った。
ここを去ってユダヤに行きなさい。
そうすれば弟子たちも、あなた方がしている働きを見ることができます。
自分で公の場に出ることを願いながら、隠れてことを行う人はいません。
このようなことを行うなら、自分を世に示しなさい。
2節からですね、4節のこれは引用です。
カリーノの祭りというのはですね、ちょっと絵をいくつかお見せしますけれども、
ユダヤの三大祭りの一つです。
先週までの舞台は過越の祭りですね。
だいたいイースターの直前に行われる。
そしてその後、約半年後、9月10月ぐらいに行われるのがこのカリーノの祭りです。
どちらも出土エジプトの救出劇に関係しています。
このカリーノの祭りはですね、テントの祭り、キャンプの祭りとも言われているように、
1週間外にこのようなカリーノですね、草吹きのものとか、今なんですけれども、
テント住まいをするんです。
なぜそれをするかというと、荒野の40年間の暴露の旅、彼らがこのいわゆるテント生活を送った、
そしてその間ずっと神様がともにいて私たちを守ってくださったということを思い出すための祭りなんです。
そういうことで、今でもこのような祭りが祝われているそうです。
実はイエス様の兄弟姉妹もおそらくですけれども、このカリーノの祭りの時期にこそエルサレムに行きなさいと言ったんですね。
それはあえて言い方は語弊があるかもしれませんが、仙台あたりにいる人に東京に行って一肌あげてこい、そういうような感じです。
昨日、あんまり見ない昔の教育テレビ、Eテレを見ていたんです。
そしたらある高校生の女の子が出てきました。
その子は毎年行われている甲子園、どんな甲子園かというとアプリ甲子園といってスマホのアプリを作る大会があるんです。
そこで2024年に優勝した女子高生の女の子が出てきたんですね。
その子は将来の夢は何か?社長になるというんです。起業したい。
それで大阪に住んでいるのにその夢を叶えるために、もう東京に住んでいるというんです。親の公認で。
なぜそうしているかというと、東京こそ情報の中心地だし、そして活躍の機会があると思う。
高校生の女の子です。そして実際NHKに出ているんですね。
そのことが象徴しているように、もしイエス様が救い主として名を挙げたいのであれば、
全国的に知らしめたいのであれば、エルサレムに来なさい。
その宗教の神殿が当時あった中心地ですし、そして仮庵の祭りというのは、
その当時最も多くのユダヤ人が当時の世界中から集まってきて、宗教的にも熱心ですから、
その時こそ奇跡を行って、私こそメシアだということを公言するのに抜群の時期だということで、
兄弟あるいは姉妹たちがイエス様に進めたというのがその背景です。
しかしイエス様はこう答えたんですね。ちょっと読める方抜粋ですけど読んでみましょうか。
私の時はまだ来ていません。私はこの祭りに登っていきません。
私の時はまだ満ちていないのです。
ここで時という言葉が出てきます。もう一個今日知っておいていただきたい背景は、時という言葉なんですね。
実はギリシャ語に時と表す言葉がいくつかあって、一つはクロノスという言葉なんです。
それは流れていく時間や続いている時間を、期間を表します。
よく英語でクロノグラフというのがあって、クロノタイマーというのはストップウォッチのこと言うんですね。
今から始まって10秒何ピクスで100メートル走ったというその時を綴る。
連続した時を綴るからクロノグラフ、クロノウォッチと言うんですけど、とにかくクロノスというのは期間。
一方この箇所で用いられている時、他にも出てくるんですけども、
ギリシャ語ではカイロスって言うんですね。それは決定的なある時点を表します。
おそらくわかりやすく言うと、例えば妊娠期間中はクロノスですよね。
だけど出産の時というのはカイロスというかもしれませんね。
あるいは入学準備期間をクロノス、そういう時の流れ、入学の時まで日を過ごす流れ。
しかし入学式のその日、正式にその学生になったっていうその日は決定的な時ですから、それをカイロスという。
そのような覚えで違いがあるんですけども、イエス様はまだ私のクロノスは来ていない。
私の時でないっていうのはそういう意味を言ってるんです。
どんな意味かと言いますと、イエス様にとって最も大事なことはこれまで見てきたように、
父なる神様、私を遣わした方の御心を行うことだっておっしゃってましたね。
それはどういうことかというと、実はイエス様がご自分が救い主であるということを公言する、宣言する時は、
父なる神様の時であって、父なる神様の方法でするべきであって、私が勝手にやることじゃない。
むしろ、兄弟姉妹に指図されるべきものでもないということをここで言ってるんですね。
もう少し言うと、イエス様は人となった神として、ご自分を使わせてくださった神様の時を待ち望んだって言うんです。
勝手に今だっていうね。前も言いましたけど、ある有名な予備校の先生が言うね。
今でしょっていうのは勝手に言わないで、神様の時を待ち望んでいたので、今まだ私の時は来ていません。
まだ時は、神の時は満ちていませんと言って、兄弟姉妹の離身出世の申し出を断ったということなんです。
信仰生活の教訓
しかも神様が意図したイエス様の時、救い主を指し示す時、それはどんな時かというと、まさに受難の時、十字架の時です。
そして今日の6章7節にもありますように、イエス様ね。
世はあなた方を憎むことができないが、私のことは憎んでいます。私が世についてその行いが悪いことを証しているからです。
というように、有名になったりヒーローになって祭りあげられるような救い主じゃない。
私はこの人々に嫌われて、そして十字架について受難のメシアとして自分を表す。
それが神の道であり、神の時だということをイエス様はここでおっしゃっておられるんですね。
一方ですね、兄弟たちに向かってイエス様は、この謎めいた言葉、あなた方の時はいつでも用意できています。
あなた方の時はいつでも用意できていますという言葉は、このイエス様の生き様から説くことができます。
それはイエス様の兄弟たちは、神様の御心に関して関心もなければ、それを待ち望むという考えもない。
だからあなた方は神の時と無関係に生きているんですよ。
そういうことが、あなた方の時はまだ来ていない。あなた方の時はいつでも用意されているということを、そこで示唆しているんですね。
あなた方はいつでも、イエス様と違って、神の御心に従おうともしないし、それを悟ろうともしないんですねということを、この言葉から知ることができるわけです。
そのような兄弟たちの態度に象徴されている多くの飯屋大坊に沸き立った人たちは、神様の御心を待つということもしない。
そしてその神様の御心を待って忍耐することもしないという問題がある。
手っ取り早く成果を得ることしか考えないという問題があるんですね。
つまり、神様の時を待ち望むという、そういう発想・信仰がなかったわけなんです。
ここから私たちが学べることがありますね。
私たちは、イエス様を信じた後も、私たちは人生のピンチの中で、いろんな時に救いを体験するし、救いを求めて祈りますよね。
そういう祈りや願いをする時に、このようなことを知っておく必要があるということなんですね。
神の時を待つこと
とにかく私たちは、もっと積極的に考えると、こう考えるべきだというんです。
私たちは、神様が神様の方法で、そして神様の時に救いの手を差し伸べてくださる。
神様がその方法で、神様の時にことを成してくださるという、それを信じて待ち望んでいくということが、私たちが必要だということなんです。
さらに大事なことは、6章のところでずっと学んできました。
私たちの信仰はどういうものですか、それは。神様からの授かりものだと学びましたね。
ですから実は私たちは、神様を待ち望む忍耐も神様から授けてもらう必要がある。
忍耐も神からの賜物だということを知っておくことが大事なんですね。
ちょっとそれと関連して、信仰について書いたヘブル人の手紙。
ヘブル人の手紙の10章36節をこの短言の檻に読んでみましょうか。
あなた方が神の御心を行って約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
まずそのことを知っていきましょう。
3番目ですね。
次に大事なことは、信仰すなわち神様に信頼するということを見ていきたいと思います。
兄弟たちもイエス様は死んでいなかったのであるとイエス様は言っています。
先ほどのポイントはですね。
2番目のポイントはですね。
イエス様は私の時はまだ来ていません。しかしあなた方の時はいつでも用意ができています。
先ほども言いましたけれども、このように神の定めた時、神の御心に沿った道があるということ。
それがこの第2のポイントです。
そのようにですね。神様の定めた時があって御心に沿った道があるということをイエス様が確信しているように私たちもその忍耐をもって神様の時を待ち望んでいく。
そのために神様から賜物として忍耐が与えられるように祈っていくということを2番目として挙げています。
信頼の重要性
3番目、さらにですね。必要なことは信仰です。
すなわち信頼するということが次に必要になっていきます。
7章5節ではこのように触れられていますね。
兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
先ほど申し上げたようにですね。
このイエス様がエルサレムに行ってメシアであることを世に示しなさいと言った。
その背景にはもう一つこの御言葉が示しているようにイエス様の兄弟たちの不信仰があったんですね。
このイエス様を信じていなかった。
メシアだと信じていなかったという問題があったわけです。
そして2番目と続くんですけれども。
私たちはですね。このイエス様の救いを待ち望むために忍耐と同時にですね。
信仰が必要だということです。
そして信仰とは一体何ですかって考えたときに。
それは信頼。イエス様や神様に対する信頼とも言い換えることができるんですね。
そのどのような信頼かというと先ほど言いましたけれども。
神様が神様の時に神様の方法で必ず救ってくださる。
そのように信頼する心が信仰であるということなんですね。
これも繰り返し申し上げましたとおり。
神様に信頼する心自体も実は神様の賜物であるということ。
その6章で見てきましたが。
誰も父が引き寄せない限り私の元に来ることができませんとイエス様は教えましたね。
そしてイエス様は預言書を引用しながら。
私の元に来る人は神が教えた人だと言っているわけです。
私たちも実は神に信頼することというのを神様に教えていただく必要がありますし。
神様を信頼するという実は信仰自体も神様の賜物である。
前も言っていますけれどもよく心学的で議論されているね。
神の選びが先なのか。
そして私たちが信じるという自由の意思が先なのか。
どっちに責任があるんだという議論がよくあるわけですね。
でも前も申し上げましたけれどもどっちも大事だと。
私たちは学者の方もいらっしゃいますけれども
その難しい議論は学者さんに任せておいてですね。
イエス様を信じて生きていく上にどのように信仰の糧として考えたらよいかというと
どちらも積極的な面を考えていく。
そうだ自分たちも意思を持って神様に信頼していく。
と同時に私たちは弱いものですから
私たちが信じるという信仰自体も神様が与えてくださるんだというところに信頼して
自分の弱さも受け入れていくということが必要だと申し上げました。
繰り返しになりましたけれどもこのように神に信頼する心自体も神様の賜物なんですね。
2番目の点と3番目の点で申し上げました通り
この忍耐、そして信仰、信頼を神様に授けてもらう。
実はその祈りをある信学者の方、牧師の方が紹介しているんですね。
この祈りも私たちの祈りにできるのではないかと思って今日紹介いたしますね。
イエスよ、あなたの方法であなたの時に行ってください。
待つための忍耐を、耐え抜くための勇気を、そしてあなたがすべてを正しく行われることを信じる信仰を私に与えてください。アーメン。
まさに神様により頼むこのような祈りをですね
今日の歌詞を参考に、あえて言いますけど
立派な学者さんとかですね、牧師のように応えられますよと紹介している。
この祈りが私たちの祈りになることも幸いなのではないかと思います。
最後にこの私たちの信仰に希望があるということを
イエス様弟子の一人ペテロが書いた御言葉を読んで終わりにしたいと思います。
第一ペテロの手紙1章の21節、少し長いんですが、
共に声を合わせて読める方は読んでみましょう。
あなた方はキリストを使者の中から呼びかえらせて、栄光を与えられた神をキリストによって信じるものです。
ですから、あなた方の信仰と希望は神にかかっています。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様は人としてこの地を歩まれ、
父なる神様のみ心を行いました。
神様の時を待ち望み、また神様の時を信頼して歩まれました。
どうぞ私たちも日々の生活の中で、
私たちの忍耐、あなたへの信頼が試されますけれども、
どうぞ私たちがあなたの救いを待ち望む、あなたの宮沢を待ち望むために、
私たちにあなたが忍耐を授け、また信仰を授けてくださり、
養ってくださいますよう、どうか導いてください。
そして本当にあなたの時に私たちが、
イエス様が私たちを救ってくださった、
助けてくださったとあなたに告白し、
あなたに栄光をお捧げすることができますように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。