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2025-05-18 30:54

2025/05/18:仲直りをしなさい

2025/05/18 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -26


サマリー

このエピソードでは、仲直りの重要性について語られている。イエスの教えを通じて、自己の正しさを過信せず、他者との関係を大切にする必要性が強調され、エゼキエール書の教えが引用されている。神様は互いに仲直りをし、独善から離れることを教えている。

神への賛美と仲間の大切さ
天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
あなたの御前に今日も、私たち一人一人を招いて下さり、あなたを仰ぐ礼拝をできますことを、ありがとうございます。
神様、あなたは、私たち一人一人を本当に尊い者として見つめて、愛して下さっています。
そして一人も滅びることがないようにと、御自身の御子をあの十字架へ捧げて下さり、
御子イエス様の流された十字架の父よ、それにより私たちの罪を許し、神のことし、永遠の命を与え、永遠なる死と切り離されない死をも超えてずっと共にいる、そのような命を私たちに与えて下さり、
あなたはもはや一人ではない、あなたは自分の足で立つのではない、私の恵みによって私と共に歩むのだと、そのような恵みの世界へと招き入れて下さったことを、ありがとうございます。
神様どうか、あなたが今日石橋さんを送るここへと導いて下さいました、ありがとうございます。
どうか姉妹の歩みの上にも、あなたが豊かな祝福を注ぎ、支えを与えて下さいますように、お願いいたします。
その他にも、今日は斉藤先生御夫妻は、幾多教会の礼拝のサポートに行かれています。
どうか先生方の御法師よ、主がお支え下さいますように、お願いいたします。
神様、全世界において様々な戦いが起きていますし、人間の心は荒んでいきます。
そしてそれは私たちのうちにもある罪の力です。
けれども主は勝利をして下さいました。
あなたは共にいて下さいます。
どうか神様、あなたを仰ぎます。
どうかこの礼拝のうちにも、御言葉を通し、私たちを耕し、あなたの身元へと引き寄せて下さい。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
どうか主が私たちに語って下さい。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
仲直りの教え
今朝の説教の結論は、説教題にそのまま書いてあります。
仲直りをしなさいということ、今日語りたいことはもうそれだけです。
仲直りをしなさい。
この言葉は私が言っているわけではありませんで、実は今朝の中心聖句に書かれている言葉です。
24節のイエス様のお言葉に、祭壇の上に捧げ物を捧げようとしている時に、
兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
捧げ物はそこに祭壇の前に置き、
言って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。
仲直りをしなさいと言われます。
何かがきっかけで仲互いをし、相手との関係がぎこちなくなるということは、
私たちの日常によくあることですね。
けれども、ご経験あると思いますし、私自身そう思いますが、
そのぎこちなさを解消する、いわば仲直りということがどれほどできているかなと思います。
どちらかというと、何かそのまま放置しているような気がします。
仲互いや喧嘩というのは始まるのは簡単です。これは戦争も一緒でしょう。
でも、終わらせることは実に難しい。
勇気がいるし、実に何倍ものエネルギーを要する。
でも、きっとイエス様は今朝そのことを私たちに語りかけられる。
仲直りをしなさいと呼ばれると、私たちは何か顔が浮かぶ誰かがいるんですよ。
その人と仲直りをしなさいと言われる。
では、この容易ではない仲直りについて、イエス様は何を語られるのか、
今朝の参上の説教の言葉に耳を傾けていきたいと思っております。
2つのポイントを挙げます。
1つは、私たちは仲直りのために、自分の独善性に向き合わなければならないということです。
参上の説教を学んでいます。
この箇所を学ぶときに、いつも私たちはイエス様であったり、
父なる神様がこの世界にどのような仰邪心を描いておられるかということを確認しなければならないと思います。
神様がこの世界にイエス様を通して実現しようとしている仰邪心、それは一言で言うならば、一つにするということです。
一つにするということです。
聖書ではエペスト書の1章10節に書いてあります。
世界は、イエス様はこの世界を一つにするために来られた。
一つというのは、隔てを超えた愛の交わりを築こうとされているということですね。
皆が全く同じ人間になることではありません。
皆それぞれ違います。文化も性別も背景も価値観も違います。
けれども、違うお互いが愛によって受け入れ合う世界というのが、一つと呼ばれる世界ですね。
塩谷生会で横田先生が同じことを話されて、その一つというのはまさにオーケストラのハーモニーが一致していくことに重なるんですよとお話しされました。
美しいハーモニーですね。
教会がそのような一致を持つことができるなら、この世界に神様の愛は力強く明かしされるんだよということをお話しくださったと思います。
その一つを築くべくイエス様は来られました。
イエス様が来られた世界は全く一つではなかったわけですね。
当時の話をしますと、ローマがユダヤを支配していました。ユダヤ人の中でもお金持ちは貧しい人から搾取をしていました。
そしてユダヤ人とサマリア人は民族間で大きな溝がありました。
全く一つではない。
しかしイエス様は、そのような一つになれないこと、もしくは一つから弾かれることによって悲しみ、傷んでいる一人一人を招いて、
いや、あなた方こそ私と一緒に一つとして働きを始めていくんだよと言われたのがこの三乗の説教です。
それはまさに、神はあなた方を新しい世界を築くものにされるんだ。
今やイエス様を通して見心が天だけではなく地でも実現するようになったんだ。
神様はあなたを神の前に心清く平和をつくるものに変えてくださる。
言い方を変えるならば、あなた方を地の死を世の光としてくださる。
あなた方一人一人は世界の腐敗を防ぎ、暗闇を照らし、世界を一つにする使命を得ているんだということを言われる。
これが今まで学んできたことです。
そしてそれは今も私たちに同じように与えられている使命だということを覚えてきました。
では、世界を一つにすると言われましても、
じゃあそれはどうすれば良いのでしょうか。何をすべきなのでしょうか。
実は今日読んでいただきましたこの21節から48節というのは、
まさに世界を一つにするために私たちが向き合うべきことをイエス様が旧約聖書の言葉から解き明かされている。
そのような箇所になります。
独善性と共感
一つとするというのは大きなことではなくて、実は日常的なこと、実に具体的なことが問われることなんですよということです。
今日の箇所に入っていきますが、21節、22節をお読みしますと、イエス様はこういうことを語られ始めました。
昔の人々に対しては、殺してはならないと人を殺す者は裁きを受けなければならないと言われていたのをあなた方は聞いています。
しかし私はあなた方に言います。兄弟に対して怒る者は誰でも裁きを受けなければなりません。
兄弟に馬鹿者というものは最高法院で裁かれます。愚か者というものは火の燃えるゲヘナに投げ込まれますというのです。
殺してはならないという言葉は、皆さんよくご存知でしょう。実回の第6回の言葉です。
この後イエス様は旧約聖書をいくつか引用されながら、旧約聖書で言われているこの言葉の本当の真意はこういうことなんだよというふうに語り直されるのがこの箇所です。
殺してはならないということも、これは旧約聖書の言葉で言えば、人を殺してはならないという具体的な殺人を禁止するのですが、
しかしこの言葉の神様が持っている本当の意図は、殺すということを禁じているだけじゃない。いいえ、愛せえ怒りをあらわにして馬鹿者だとか愚か者と罵って交わりを破壊する。
一つになることを阻んでいく。そのような態度こそ禁じている言葉なんだとイエス様は言われたのですね。
そして私たちはこの箇所をじっくり思いながら思うことは、人を殺しちゃいけません。確かにそうです。でも殺人に至らせるのは怒りだなということを気づきます。
人の命を奪うことに至らせるのは、相手が馬鹿だとか愚かだとか、そういう相手の価値を認められないところから始まります。
何が言いたいかというと、根本にある根っこは一つだということです。根本にある根っこは一つです。
じゃあ一体それは何なんでしょうか。少しここに書いてある言葉に注目するならば、例えば馬鹿者という言葉があります。
馬鹿者という言葉は、これはギリシャ語だと頭が空っぽと言われる字です。ラカという言葉ですが、頭が空っぽという意味です。
そして愚か者というのは、これはモーロスと言いますが、これは神との関係における愚かさです。
いわば神様の前に罪を犯して離れている人のことを愚かと言います。
いわばここで言っているのは、あいつは頭が悪い。もしくは、私は神様について知っているけれどもあいつらは知らない。
というような見下し。言い換えれば、これは独善性というものでしょう。
私は正しいことが分かっているけれども、あの人たちは分かってはいない。
しかし、これは別に特別な誰かが持つ感情ではありませんで、私たちみんなが持ち得るものです。
人が集まる場所にはそういう感情は必ず出てくると言っても過言ではないかもしれません。
特にパウロはよく聖三式で開きますが、ピリピ書の2章の1節から4節というところで、そのことを明確に注意をしますね。
聖三式で私よく読みますが、ピリピ書の2章の1節から4節、ちょっとお読みしますので聞いてくださればと思いますが、こういうことをパウロは言います。
ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐れみがあるなら、
あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へり下って互いに人を自分より優れたものと思いなさい。
自己中心的な態度の問題
それぞれ自分のことだけでなく、他の人のことも変えりみなさい。
パウロがピリピの教会に書き送った言葉ですが、これが書かれているということは、初代教会にそういう人がいたということですよ。
人を自分よりも優れているではなくて劣っているようにみなして、利己性や利己的な思いや虚栄心から、
あいつは分かっていない、私の方が真実が分かっているというような、そういう態度を取った人がいたということでしょう。
利己性や虚栄。私だけが必ず正しくて、相手はバカで愚かだから間違っている。
だから思い通りにならないと怒るんでしょうね。ただはっきり申し上げます。これは私自身にもあることです。
しかし私たちは気をつけなきゃならないのは、旧約聖書の伝道者の書の言葉でこういう言葉がありましたね。
あなたは正しすぎてはならない。伝道者の書の7章の16節にあります。あなたは正しすぎてはならない。
正しすぎてはならないという言葉は、自分の正しさを過信してはならないということです。自分の正しさを過信してはいけない。
自分が全部分かっていて、他の人が分かっていないわけがないんです。自分が全部正しくて、他の人が間違っているわけがない。
でも私たちは互いにそういうことを時に忘れるんですね。
それは他者との関係を破壊するということがありますが、ただもうちょっと悲惨なことになりそうです。
そのような自分の正しさや独善にとらわれて怒ってしまい、他人を罵る者は、イエス様の言葉に戻りますと
最高法院で裁かれ、ゲヘナに投げ込まれるということが言われるのです。これは明確に神様の裁きのことを指しているでしょう。
しかし、もしかしたらこれは将来のことだけではなくて、今すでに始まっていると言ってもいいかもしれません。
と言いますのも、ゲヘナと聞きますと、私たちは地獄の大釜を想像するわけですが、当時の人たちのゲヘナという言葉はそういうイメージではありません。
これはエルサレム郊外のゴミ捨て場で燃えている火のことです。エルサレム郊外のゴミ捨て場で燃えている火のことをゲヘナと言うんです。
ある時にゲヘナに投げ捨てられるということは何かというと、あなたがゴミになっています。あなたはゴミになってしまっていると言っているんですね。
いわば自分の正しさや独善性にとらわれ続ければ続けるほど、それはあなたをゴミのようにしてしまう。そういうことかもしれません。鋭い厳しい言葉です。
でもそうだと思います。私たちは注意しなければならないのは、怒りや独善性や人を罵る言葉というのは、相手を傷つける以上に自分自身を傷つけるんです。
憎しみの心は自分自身を損なわせ、自分自身を歪ませるんです。であるならば、それから私たちは離れなさいと言われることは実に筋が通っていることでしょう。
和解の必要性と重要性
イエス様はそんなことを私たちには望んでおられないのです。じゃあ私たちはどうすればよいのでしょうか。
二つ目のポイントは、立ち返って生きなければならないということです。立ち返って生きようという招きです。
イエス様はここで23節から26節で二つの例えでお話をされています。ただ共通するポイントがあります。それは早く和解しなさいということです。早く和解しなさいということです。
23節から24節を読みしますと、こういう言葉ですね。
ですから祭壇の上に捧げ物を捧げようとしている時に、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、捧げ物はそこに、祭壇の前に置き、行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻ってその捧げ物を捧げなさい。
祭壇に捧げ物をする、これは礼拝を意味します。しかし兄弟が自分を何か、あの人が自分のことを恨んでいるだろうなと思い返したら、ここちょっと過激ですね。礼拝を中座してでもすぐに仲直りしに行きなさいと言われる。
これは、いわゆるイエス様の誇張表現だとよく言われますから、そのまましなさいということではないとも言われます。
でも言わんとすることは何かと言いますと、神様を愛して礼拝するならば、隣人を傷つけている事実から目を背けずに放置してはならないということです。
神様を愛して礼拝するならば、隣人を傷つけている事実を忘れたりそのまま放置したりしてはいけないということですね。
私たちは第一ヨハネの、それこそ四章の二十節にそういうことが書いてますよね。
目に見える兄弟を愛せない者が、目に見えない神を愛せるだろうかと。
誰かを平気で傷つけ、平気で傷つける人はこの中にいないと思いますが、でも誰かを平気で傷つけ、神様を愛していますような、そもそも矛盾しているということです。矛盾をしている。
そしてもう一つですね。マタイの福音書の二十五節から二十六節にこういう言葉があります。
あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解をしなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
誠にあなたに言います、最後の一言乱答を支払うまで、そこから決して出ることはできません。
一緒に行く途中というのは、これは裁判所に一緒に行く途中の話です。裁判所に一緒に行く途中です。
裁判所に向かう二人に対してイエス様は、「いや、裁判所に着く前に仲直りをしなさい。」と言われます。
なぜなら裁判がいざ始まったら、白黒をつけるしかなくなるからです。もしかするならば、あなたが牢屋にとらわれて、賠償金を支払うまで出られなくなるかもしれません、と語られる。
別にこれは裁判が不要ですという話をしているわけではないです。裁判は必要な時はあるでしょう。
でも、どんな時でも私たちはこの人と争うという引き金を引くタイミングがあるんですよ。さあもうこの人とは喧嘩をするぞと腹を決める時があるんです。
でもイエス様は、「そうなる前に和解をしなさい。」と言われます。なぜなら、喧嘩を始めれば白黒をつけるしかないからです。そしてそれを終わらせるのは実に大変だからです。
ちゃんと和解をするというのは本当に大変だからですね。しかし、「早くそうしなさい。」とイエス様は勧められますが、仲直りは簡単ではありませんね。実に難しいです。蓄積した思いもあるでしょう。自分から謝罪する思いになれないことがあるかもしれません。
神の愛と許しのメッセージ
ただ、今朝の箇所に鍵というならば、やはりそれを阻んでいるのは、私たちの中にある自分の正しさを過信する思い、もしくは独善性。それが砕かれなければならないということではないでしょうか。
そのために鍵となりますのは、今日の箇所に鍵というならば、これは実は5章の38節から詳しく仲直りのことが書いてあるんですが、今日の箇所に鍵と取り扱わせていただくならば、この24節の仲直りをしなさいというその言葉そのものに意味があります。
仲直りをしなさいという、ギリシャ語はDear Lassoという言葉ですが、元の意味は交換するという意味です。交換する。仲直りをするというのは交換するという意味です。
いわばそれは、自分の心を敵対する思いから相手を許す思いに交換をするという、そういう意味の言葉なんですね。
実は聖書日課、いろんな世界で聖書日課というものが開かれますが、このマタイの福音書5章の21節からの言葉と合わせて読まれる旧約聖書の言葉、決まった言葉があります。
それはエゼキエール書の18章の25節から32節です。ちょっとこの箇所を少し読みたいと思います。エゼキエール書の18章の25節から32節。まさに心を入れ替えるということに重ねてこの箇所が読まれるのだと思います。
エゼキエール書の18章の25節から32節。先ほどイエス様は一緒に裁判所に向かっていくというお話をしましたが、18章というのはまさに預言者エゼキエルがイスラエルの民に対してまさに賢治のようにその罪を追求していくというお話です。
イスラエルはこういう罪を犯したということを言うわけですね。あらゆる罪をイスラエルは犯しました。ご存知の通り、そして神様の裁きによって滅びました。しかし18章の25節をご覧いただけるならば、イスラエルはこういうことを言うのですね。
あなた方は、エゼキエル書の18章の25節をお読みしますと、あなた方は主の道は公正ではないと言っている。さあ聞けイスラエルの家よ。私の道は公正ではないのか。
イスラエルの民の口応えと言いましょうか。彼らが言うのは、自分の罪を棚にあげて、主の道は公正ではない。神様、あなたの道が正しくないから私たちはこうなったんだと責任転換をするイスラエルの姿があります。俺は悪くない。悪いのはみんなだということを言うわけですね。
しかしそのようなイスラエルに対して27節にこういうことを語ります。しかし、悪しき者でも、自分がしている悪事から立ち返り、公正と義を行うなら、彼は自分の魂を生かす。神様は、そんな自分がどれほど悪人か分かっていない。でもイスラエルに対していつでも許しの準備はできている。
なぜそういうことを語られるのか、30節以降を読みますとこういう言葉です。
それゆえイスラエルの家よ、私はあなた方をそれぞれの生き方に従って裁く。神である主の言葉。
イスラエルの家よ、なぜあなた方は死のうとするのか。私は誰が死ぬのも喜ばない。神である主の言葉。だから立ち返って生きよと言われるんです。立ち返って生きよと。
神様は誰一人、それは自分の罪深さすら自覚できない、イスラエルの民に対しても誰一人死ぬことを喜ばれない。なぜかそれは、どのような人間であったとしても、神様はその存在を愛しておられて、神様に創造された大事な命であることは変わりないからです。
なぜ、自分だけが正しくて人を罵り怒ってはいけないのか。究極的に言えばそれは、あなた自身も、そしてあなたが見下して罵っている相手も、神様が愛しておられる尊い命だからです。大切な存在だからです。
仲直りの重要性
それは自分よりも事実、頭が良くなかろうとも、事実、霊的な事実は自分ほど分かっていなかろうとも、自分よりも何かが弱かろうとも、それは相手をけなしていい理由には一切なりません。一切ならない。
そしてそのために、31節、神様が言われることは、そのために、イスラエルよ、あなた方はなぜ死のうとするのかと言われるのは、神への背きであったり、独善が奪っていくのは、あなた自身の命だと言うんです。あなた自身の命を、それを失わせていくんだよと。
神様が言われる、まさにゲヘナに投げ込まれる前に、ちょっと過激なものの言い方をします。本当にゴミになってしまう前に、立ち返っていきなさいと私たちは互いに語られる。立ち返っていきなさい。
神様は誰も死ぬことを望まれていないのです。これは私自身もよくあることだとよく申し上げます。で、その通りだとも思います。独善、これは絶対俺の方が正しい。でも私たちは間違えるんですよ、互いに。互いに間違えるんです。失敗があり限界があるお互いなんです。でもそれを受け入れ合って一つになっていくことこそが、実は神様の目指す世界ですね。
神の前にひざまずきましょう。自分の現実を私たちはその時に認めなければなりません。ああ、私は自分の正しさを過信していた。でも主よ、どうか私の心に新しい心と新しい霊を注いでください。変えがたい私の心をあなたが作り変えてください。私たちはそのところに立たされるのではないでしょうか。
私たちは十字架に進まれたイエス様の姿を、この姿を見る時に思い出します。無知打たれ罵られてもイエス様は怒られませんでしたね。バカ者、愚か者とローマ兵に誰よりも叫んでよい存在であったかもしれません。しかし福音書を読むとイエス様は、怒っただの罵っただのという言葉は十字架の場面には出てきませんよ。
イエス様はよくわかっておられる。怒りも罵りもそこから引き金を引けば、そこから新たな隔てが生み出されていく。そこから言葉の応酬が始まっていく。憎しみの連鎖が始まっていく。それは断ち切ることがいかに難しいことか。だからそれに組みしない戦いをイエス様は十字架で戦い抜かれたのです。
そして今朝私たちはその戦いに一緒に招かれているということです。今朝イエス様は私たちに仲直りをしなさいとチャレンジを与えられます。仲直りをしなさい。私も独善的になり、怒り、バカ者、愚か者と皆さんに言いませんが心で思うことは正直あります。
でも相手と戦う前に、引き金を引く前に和解の術は本当にないのだろうか。弱音も愚痴も言っていいんです。殻が立ったら腹が立ったって私も友達に言います。でも固まってしまった私だけが正しいの世界から抜け出ることは本当に不可能なのか。神は新しい心と新しい霊を与えてくださると言っておられる。
主の御前に私たちは共に出たいと思います。主よどうか私の心を交換してください。あなたの新しい心と新しい霊を隔ててください。そして私たちを隔てではなく一つを築くものと作り変えてください。私たちはそのように共に祈りながらこの使命に立たせていただければと思います。一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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